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白いカラス  作者: シンドゥー


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12/15

器用な老人

 総流社の血管に、熱が生まれていた。


 最初は、たった一つの言葉だった。


 未分類人型荷物。


 それは地上の片隅に落ちた小さな火種にすぎなかった。誰かが怒り、誰かが笑い、誰かが捏造だと断じ、誰かが保存した。


 そして、次に流れたのは数字だった。


 配送遅延ログ。

 薬品供給記録。

 地域別欠損率。

 代替配送の偏り。

 未登録倉庫と欠番荷物の奇妙な一致。


 数字は感情よりも遅く燃える。


 だが、燃え始めると消しにくい。


 総流社を信じる者ほど、否定するために調べた。

 否定するために計算し、比較し、過去の記録を掘り返した。


 その結果、否定したかった者たちの手で、違和感は拡散していった。


 総流社は削除した。

 削除したことで、疑惑は増えた。


 総流社は声明を出した。

 声明には、数字への具体的な反論がなかった。


 火種は煙になった。

 煙は、街に入り込んだ。


   ◇


 冥下と地上の境目にある旧総流支所は、もう使われていないことになっていた。


 表向きは廃棄済みの配送拠点。


 壊れた看板。

 錆びたシャッター。

 割れた窓。

 積み上げられた古いコンテナ。


 だが、総流社の建物は死んでも死なない。


 床下にはまだ配線が残り、古い仕分け機の内部には微弱な電流が流れ、壁の荷札読み取り装置は時折、存在しない荷物を読もうとして赤く瞬いた。


 切り捨てられた血管。


 だが、まだ血の匂いがする。


「第三断片は奥の制御室だ」


 砕耀が低く言った。


 久夜、梟、ラナ、鈴木が続く。


 第三断片。


 総流社の薬品供給記録と未登録倉庫番号を結びつける、次の情報公開の核になる記録だった。


 慧悟は短い警告を寄越していた。


『移動しろ。旧総流支所に置き続けるな。万具の翁が動く』


 万具の翁。


 総流社の要。


 枯野万作。


「ただの老人なんだろ」


 久夜が言った。


「その言い方をする奴から死ぬ」


 梟が即答した。


「死なねえよ」


「死なないまでも、転ぶ」


 鈴木が倉庫内を見回しながら顔をしかめる。


「嫌な場所だな。どこ触っても何か出てきそうだ」


「出てくるだろうな」


 砕耀は周囲を見ながら言った。


「総流社の要が出るなら、ここはもう倉庫じゃない。あの爺さんの道具箱だ」


 ラナは天井を見上げた。


 落とせそうなものは多い。


 古い照明。

 吊り下げ式の案内板。

 空のコンテナ。

 錆びた金具。


 けれど、前の倉庫戦とは違う。


 落とせるものが多すぎる。


 それが、逆に怖かった。


「梟、上は?」


 砕耀が聞く。


「取れる」


 梟は二階の作業通路を見上げた。


 高所。

 遮蔽物。

 広い射線。

 狙撃手にとっては理想的な位置だった。


 理想的すぎた。


「でも取らない」


「罠か」


「たぶん」


 梟は車椅子を止めたまま、銃を膝の上に置いた。


「上を取らせたい場所に見える」


 砕耀は小さく頷いた。


「いい判断だ」


 その時だった。


 こつん。


 倉庫の奥から、杖の音が響いた。


 こつん。


 こつん。


 古い仕分け機の影から、一人の老人が姿を現した。


 白い髪。

 深い皺。

 古い杖。

 腰には小さな工具箱。


 背は高くない。

 身体も大きくない。

 歩き方もゆっくりしている。


 ただの老人に見えた。


 だが、その瞬間、久夜は直感した。


 この倉庫の中で、何一つ無関係なものはない。


 床も、壁も、荷札も、油染みも、古い機械も、積まれた箱も、空気の流れさえも。


 すべてが、あの老人の手に握られている。


「枯野万作」


 砕耀が言った。


 老人は穏やかに笑った。


「砕耀。お前さんを見るのは、ずいぶん久しぶりじゃな」


「知り合いみたいに言うな」


「知っとるよ。総流社は流れを見る。誰がどこで生まれ、どこで怒り、どこで詰まり、どこへ流れていくか。お前さんは昔から、流れに逆らう石のような子じゃった」


 砕耀の目が細くなる。


「俺を観察してたってわけか」


「総流社が観察しておった。わしは、その記録を見たことがあるだけじゃ」


 久夜が一歩前へ出た。


「第三断片を取りに来たのか」


「そうじゃ」


「渡すと思うか」


「思わん」


 万作は杖をついた。


「だから、運びに来た」


 空気が変わった。


 久夜がダガーを抜く。


 梟が銃を構える。


 鈴木が拳を鳴らす。


 ラナが天井を見た。


 砕耀が半歩前へ出る。


 万作はそれを見て、懐かしむように目を細めた。


「若いのう」


「年寄り扱いしてほしいなら帰れ」


 久夜が低く言う。


「いや、羨ましいのじゃ」


 万作は静かに言った。


「助けたいもののために、迷わず走れる。そういう時期は、短い」


 その言葉の意味を考える前に、久夜は動いた。


 速い。


 床を蹴り、一直線に万作へ迫る。


 しかし三歩目で、床の感触が変わった。


 滑る。


 久夜は反射的に身体を捻り、転倒を避けた。


 足元には、薄く透明な油が塗られていた。


 久夜が体勢を戻すより早く、頭上の空箱が崩れる。


 視界が塞がる。


 久夜は箱を斬った。


 箱の中から白い粉が舞う。


 久夜は即座に息を止める。


「毒じゃない」


 万作の声が粉塵の向こうから聞こえた。


「小麦粉じゃ。見えにくくなるだけでのう」


 久夜は粉を裂いて飛び出す。


 その先に、万作はいない。


 老人は数歩横へずれていた。


 速いわけではない。


 久夜が見失うように、最初から粉の流れと箱の落下位置を置いていただけだ。


 梟が銃を上げる。


 だが引き金を引く寸前、車椅子の駆動が重くなった。


「磁気板……!」


 床に薄い磁気板が仕込まれている。


 一瞬だけ、車輪の反応が遅れる。


 梟は即座に補正し、撃った。


 弾丸は万作の肩を狙う。


 万作は杖を軽く上げた。


 弾は杖に当たり、火花を散らす。


 杖が弾かれる。


 久夜がその隙を逃さず踏み込む。


 だが、弾かれた杖の内部から細い鎖が伸び、久夜の足首を掠めた。


 完全には絡まない。


 久夜は空中で足を捻って鎖を避ける。


 それでも、半歩遅れた。


「杖は手に持っている間だけが杖ではない」


 万作は言った。


「置いてからも道具じゃ」


 鈴木が横から回り込む。


「なら、考える暇ごとぶっ飛ばす!」


 鈴木が拳を振るう。


 万作は避けようとしなかった。


 近くにあった古い台車を、足で軽く押す。


 台車が鈴木の拳を受け、金属音を立ててひしゃげた。


「ぐっ……!」


 台車の骨組みが歪み、逆に鈴木の腕を挟み込む。


 壊れた道具が、そのまま拘束具になった。


「壊れてからが本番の道具もある」


 万作が言う。


「ふざけんな!」


 鈴木は力ずくで台車を引き裂く。


 その間に、万作はもう制御室へ近づいていた。


 ラナが天井の照明へ手を向ける。


「落ちて!」


 古い照明器具が外れる。


 万作の頭上へ落下する。


 直撃する、と思った。


 だが照明は途中でワイヤーに引っかかり、横へ大きく揺れた。


 そのまま古い棚へぶつかる。


 棚が崩れ、中から煙幕が噴き出した。


「えっ……?」


 ラナの顔が青くなる。


 自分が落とした。


 でも、結果は万作の都合のいい煙幕になった。


 万作の声が煙の中から届く。


「落ちるものには、落ちた後の仕事も持たせる。倉庫では基本じゃ」


 砕耀が煙の中へ突っ込む。


 万作の位置を読んで、拳を振るった。


 砕耀の拳は重い。


 当たれば老人の身体など耐えられない。


 だが拳が届く直前、砕耀の足が床に沈んだ。


 重力固定具。


 空衡社の古い部品だ。


 床下に仕込まれていたそれが、一瞬だけ砕耀の踏み込みを殺した。


 拳の軌道が落ちる。


 万作はその下をくぐり、砕耀の腕に針を刺した。


 砕耀はすぐに針を抜く。


「毒か」


「再命社の神経抑制剤。薄めてある」


「この程度で俺が止まるか」


「止める必要はない」


 万作は煙の向こうで言った。


「半拍遅れれば、十分じゃ」


 直後、天井から水袋が落ちた。


 砕耀の背に当たり、破裂する。


 床に水が広がる。


 水は油と混じり、床をさらに滑らせた。


 久夜がダガーを投げる。


 刃が煙を裂いて万作へ向かう。


 万作は避ける。


 久夜は指先で戻るタイミングを測る。


 戻る刃が、背後から万作を狙う。


 だが、その軌道上に細いワイヤーがあった。


 刃はワイヤーに触れ、わずかに角度を変えられる。


 万作の肩を裂くはずだった刃は、白髪を数本散らしただけで久夜の手元へ戻った。


「戻る刃には、戻る道がある」


 万作が言う。


「道があるなら、荷を置ける」


 久夜は歯を食いしばった。


 速さでは負けていない。


 剣技でも負けていない。


 それなのに、届かない。


 相手は超人的な反射神経で避けているわけではない。

 異理でねじ伏せているわけでもない。

 ただ、先に置いている。


 道具を。

 状況を。

 久夜たちの動きの先に。


   ◇


 枯野万作は、昔から道具が好きだった。


 壊れた椅子を直すのが好きだった。


 錆びた包丁を研ぐのが好きだった。


 穴の開いた靴に布を当て、また歩けるようにするのが好きだった。


 若い頃の万作は、冥下に近い地上の外れで暮らしていた。


 総流社に入る前、彼はただの器用な青年だった。


 喧嘩も強かった。


 だが、喧嘩が好きだったわけではない。


 困っている誰かのために、身体を張るのが好きだった。


 荷を奪われた老人を助けた。

 暴力で脅された店主の前に立った。

 崩れた橋を、拾った鉄材で一晩かけて直した。

 薬が届かない子どものために、危険な道を走った。


 その頃の彼は、まだ何も持っていなかった。


 だから、何でも差し出せた。


 やがて恋人ができた。


 家族ができた。


 守りたいものが増えた。


 増えれば増えるほど、彼は綺麗な道だけを選べなくなった。


 総流社に入った。


 最初は、流通を正すためだった。


 必要な場所へ、必要な荷を届けるためだった。


 だが上に行くほど、見たくないものが見えた。


 届くべき薬が止められる。

 届けなくていい兵器が運ばれる。

 人間が荷物として扱われる。

 帳簿の上で命が消える。


 声を上げれば、家族に危険が及ぶ。


 逆らえば、守るべき者の生活が折れる。


 見逃せば、自分の心が腐る。


 それでも、彼は選んだ。


 醜くても。

 卑怯でも。

 汚くても。

 やらねば守れないものがある。


 そう言い聞かせて、道具を増やした。


 杖。

 薬。

 毒。

 ワイヤー。

 荷札。

 拘束具。

 重力固定具。

 古い通信部品。

 他社から流れてきた規格外の廃材。

 人の癖。

 組織の弱点。

 自分の老い。


 全部を道具にした。


 そしていつしか、彼は万具の翁と呼ばれるようになった。


 名誉ではなかった。


 称号でもなかった。


 ただ、引き返せなくなった老人につけられた名前だった。


   ◇


 煙が薄れる。


 万作は制御室の扉の前にいた。


 砕耀が飛び込む。


 宝珠の心が脈打ち、身体の内側から熱が上がる。


 拳が重くなる。


 先ほどより速い。


 先ほどより強い。


 万作はそれを見て、ほんの少し目を細めた。


「その心臓、厄介じゃな」


「なら止めてみろ」


「止めん」


 万作は扉の横に手を伸ばした。


 壁に残っていた古い配送タグを引く。


 床下の搬送レーンが唸り、砕耀の足元だけが横へ流れた。


 踏ん張る。


 だが床そのものが動く。


 砕耀の拳は万作の頬を掠め、壁を砕いた。


 衝撃で制御室の扉が歪む。


 万作の頬に血が滲んだ。


 初めて、久夜たちの攻撃が届いた。


 万作は頬の血を指で拭い、少しだけ笑った。


「よい拳じゃ」


 砕耀はもう一撃を放つ。


 今度は万作も完全には避けられない。


 杖で受ける。


 杖が折れる。


 老人の身体が後ろへ飛ぶ。


 だが、飛ばされた先に積まれていた緩衝材の袋があった。


 衝撃を吸収する。


 万作は転がりながらも、制御室の扉の前へ戻っていた。


 久夜はその動きに気づく。


 吹き飛ばされたのではない。


 吹き飛ばされる位置まで、最初から計算していた。


「こいつ……!」


 久夜が駆ける。


 梟が今度こそ射線を作る。


 上を取らず、地面すれすれからタイヤの隙間を通すように撃つ。


 弾丸が万作の工具箱の留め具を撃ち抜いた。


 工具箱が開き、中身が床に散らばる。


 薬瓶。

 針。

 金具。

 小型端末。

 細い刃。


 万作の動きが一瞬止まる。


「今!」


 ラナが叫ぶ。


 天井ではなく、床に転がった工具の一つへ手を向ける。


「落ちて!」


 それは本来、落ちるものではなかった。


 だが、床に置かれた小さな金属片が、わずかな段差から下へ滑り落ちた。


 金属片は搬送レーンの隙間へ入り込み、ギアに噛んだ。


 レーンが止まる。


 砕耀の足元の流れが消える。


 砕耀は笑った。


「やるじゃねえか、ラナ!」


 久夜が踏み込む。


 今度は滑らない。


 油の位置も、粉の流れも、ワイヤーの高さも、もう見えている。


 ダガーを振るう。


 万作は避ける。


 だが完全には避けきれない。


 袖が裂け、老人の腕に浅い傷が走る。


 梟の次弾が、万作の足元の薬瓶を撃ち抜く。


 薬液が床に広がる。


 万作は足を止めた。


 鈴木が横から飛び込み、歪んだ台車を蹴り飛ばす。


 台車は万作と制御室の扉の間へ滑り込む。


 退路を塞ぐ。


 一瞬。


 万作の動きが止まった。


 久夜の刃が、老人の首元へ届く距離に入る。


 殺せる。


 そう思った。


 だが久夜は首を狙わない。


 肩を狙う。


 武器を落とさせるために。


 その選択を、万作は読んでいた。


 老人は自分から一歩踏み込み、久夜の刃の内側へ入る。


 肩ではなく、浅く胸を裂かせる。


 血が飛ぶ。


 久夜が目を見開く。


 万作はその一瞬の動揺を使い、久夜の手首を押さえた。


「甘い、とは言わん」


 万作が近くで囁いた。


「だが、優しい刃は読まれやすい」


 老人の膝が久夜の腹に入る。


 久夜は後ろへ飛ばされるが、空中で体勢を戻す。


 その間に万作は制御室へ入り、隠し箱を開けていた。


 第三断片。


 黒い記録片を手に取る。


 砕耀が低く吠える。


「万作!」


 万作は記録片を懐に入れた。


「今日は、これは運ばせてもらう」


「逃がすと思うか」


「逃げるのではない」


 万作は折れた杖を拾う。


「荷を運ぶのじゃ」


 その瞬間、倉庫全体のスプリンクラーが作動した。


 水が降る。


 粉が溶ける。

 油が流れる。

 煙幕の粒子が落ちる。


 視界は晴れる。


 だが床は最悪になった。


 滑る。

 沈む。

 足音が乱れる。


 万作はその中を、最短ではなく最も安全な足場だけを選んで歩いていく。


 追える。


 だが追えば崩れる。


 久夜はそれを理解してしまった。


 万作は出口で振り返る。


「昔はのう」


 老人は静かに言った。


「わしも、お前さんらのように走れた。助けたい者のためだけに、真っ直ぐ走れた」


 雨のように水が降る。


 老人の白髪が濡れる。


「じゃが、守るものが増えると、人は道具を選べんようになる。汚い道具でも、使わねば守れん日が来る」


 砕耀は拳を握る。


「それで総流社の犬になったのか」


「そうじゃな」


 万作は否定しなかった。


「犬にも、守りたい家はある」


 久夜は老人を睨む。


「言い訳だろ」


「そうじゃ」


 その返事はあまりに早かった。


 久夜は言葉を失う。


 万作は笑っていなかった。


「言い訳じゃ。醜くて、古くて、腐った言い訳じゃ。だが、それでも今日までわしを歩かせた」


 彼は久夜と砕耀を見た。


「お前さんらが羨ましい。まだ、怒れる。まだ、選べる。まだ、汚れた道具を持たずに済むと思っておる」


 静かな声だった。


「そのまま行けるなら行け。わしには、もうできんかった道じゃ」


 万作は背を向ける。


「次は街で会おう。倉庫より道具が多い」


 杖の音が遠ざかる。


 こつん。


 こつん。


 誰も追えなかった。


 追えるだけの力はある。


 だが、追うための場を奪われていた。


   ◇


 旧総流支所に残されたのは、濡れた床と、散らばった道具と、敗北の感触だった。


 久夜はダガーを握ったまま立っていた。


 手が震えている。


 恐怖ではない。


 怒りでもない。


 もっと嫌なものだった。


 届いた。


 確かに届いた。


 それでも、取られた。


 梟は車椅子の駆動系を確認していた。


「完全に壊されてはいない。けど、次から磁気板対策が要る」


 鈴木は歪んだ台車を蹴った。


「なんなんだよ、あの爺さん。こっちは本気だったぞ」


「だから負けたんだろ」


 砕耀が言った。


 鈴木が振り返る。


「どういう意味だよ」


「本気の俺たちを、あいつは準備で上回った。そういうことだ」


 砕耀の声には苛立ちがあった。


 だが、それ以上に重い納得があった。


「力で負けたわけじゃねえ。経験で負けた。場所で負けた。流れで負けた」


 ラナは床に落ちていた小さな金属片を拾った。


 自分が落として、搬送レーンを止めたものだ。


「でも、少しは届いたよね」


「ああ」


 砕耀は頷いた。


「届いた。だからあの爺さんも傷を負った」


 久夜はようやく口を開いた。


「次は勝つ」


「勝つだけじゃ駄目だ」


 砕耀が言う。


「第三断片を取り返す。次の情報公開を通す。街を巻き込ませない。あの爺さんの流れを読む」


「やること多いな」


 梟が言った。


「相手が総流社の要だからな」


 砕耀は旧総流支所の出口を見る。


 万作の姿はもうない。


 だが、古い杖の音だけが、まだ耳に残っている。


 こつん。


 こつん。


「街で会う、か」


 久夜は呟いた。


「上等だ」


   ◇


 その夜、総流社上層管理棟。


 枯野万作は役員たちの前に第三断片を置いた。


 役員たちの顔に安堵が広がる。


「さすがです、翁」


「これで次の流出は止まる」


「やはり要が出れば、冥下の連中など」


「止まらんよ」


 万作の一言で、会議室は静まり返った。


 役員の一人が眉をひそめる。


「どういう意味です」


「これは一部じゃ。複製もあるじゃろう。あの砕耀が、核を一つだけにしておくはずがない」


「では、なぜ奪ったのです」


「流れを乱すためじゃ」


 万作は椅子に腰を下ろした。


 胸が痛む。


 再命社の薬の副作用が来ている。


 手の震えも戻り始めていた。


 だが、表情には出さない。


「連中は本気じゃった」


「本気?」


「そうじゃ。殺しに来たわけではない。だが手を抜いてもおらん。勝つために動いておった」


 役員が鼻で笑う。


「ならば、なおさら未熟ですな」


「未熟じゃよ」


 万作は認めた。


「じゃが、未熟な火ほど広がる時は早い。余計なことを知らぬぶん、真っ直ぐ燃える」


「始末すべきでは?」


 万作はその役員を見た。


「始末。簡単な言葉じゃな」


「敵です」


「敵にも種類がある。殺せば終わる敵。殺すと燃える敵。殺しても別の火に移る敵」


 万作は第三断片に触れる。


「あやつらは、最後の類じゃ」


 役員たちは不満げだった。


 万作はそれを見て、静かに息を吐く。


 この者たちは、まだ火を見ていない。


 煙だけを嫌がっている。


 煙の奥で何が燃えているのかを見ようとしない。


「次は街で会う」


 万作は立ち上がった。


「総流社の本当の流れを、あやつらに見せてやる」


「必ず止めてください」


「止めるかどうかは、見てから決める」


「翁」


 役員の声が冷える。


「お孫様の件を、我々は忘れていません」


 会議室の空気が止まった。


 万作はゆっくり振り返る。


 老人の目に、怒りはなかった。


 ただ、底の見えない疲れがあった。


「そうか」


 それだけ言う。


 そして、静かに続けた。


「脅しは道具じゃ。使いどころを間違えるな」


 役員の喉が鳴る。


 万作は工具箱に手を置いた。


「わしは古い道具じゃ。壊れても惜しくない。じゃが、古い道具ほど、壊れる時に周りを傷つける」


 誰も言い返せなかった。


 万作は会議室を出た。


 廊下は静かだった。


 こつん。


 こつん。


 杖の音が響く。


 胸の痛みが増す。


 それでも、万作は歩く。


 恋人。

 家族。

 孫。

 総流社。

 腐った荷。

 若者たちの火。


 守るものが増えるたび、人は軽く歩けなくなる。


 万作はそれを知っている。


 だからこそ、まだ軽やかに走ろうとする久夜たちが眩しかった。


「若いのう」


 彼は小さく呟いた。


 羨望と、嫉妬と、ほんの少しの願いを込めて。


 血管はまだ止まらない。


 けれど、その奥で流れる血は、確かに熱を帯び始めていた。

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