街は道具箱
街には、血管がある。
道路。
歩道。
駅。
配送車。
受取ロッカー。
地下搬送路。
信号。
階段。
エレベーター。
広告。
人の流れ。
地上の人々は、それを生活と呼んでいる。
だが総流社から見れば、それらはすべて流通網だった。
どこから荷が入り、どこへ運ばれ、どこで止まり、誰の手に届くのか。
世界の血管。
その一本一本を、総流社は握っている。
そして、その血管の扱いにおいて、枯野万作より長く現場を見てきた者はいなかった。
◇
旧総流支所で第三断片を奪われた翌朝、砕耀たちは地上の外れにある安宿の一室に集まっていた。
窓の外には街が見える。
通勤する人々。
総流社の配送車。
空に浮かぶ小型配送ドローン。
識網社の広告端末。
空衡社が調整した、人工的に澄んだ青空。
そのどれもが、平和に見えた。
だが、久夜にはもう違って見える。
道路は道ではない。
配送車は車ではない。
広告は広告ではない。
万具の翁が現れれば、そのすべてが武器になる。
「第三断片はまだ総流社本部に戻っていない」
砕耀が端末を見ながら言った。
「どうして分かる?」
鈴木が尋ねる。
「工馬が仕込んでた微弱信号が残ってる。万作に見つからないよう、本体じゃなく記録片の外装材に混ぜたやつだ」
梟が少しだけ眉を動かす。
「それ、万作に読まれてる可能性は?」
「ある」
砕耀は即答した。
「じゃあ罠じゃねえか」
鈴木が言う。
「罠だろうな」
「何でそんな冷静なんだよ」
「罠だと分かってる罠は、まだ使える」
久夜は壁にもたれて聞いていた。
「場所は?」
「地上第三区、白枝街」
ラナが顔を上げる。
「白枝街?」
「地上でもかなり人が多い区域だ。駅、商業施設、総流社の中継ロッカー、薬局、食品倉庫、識網社の広告塔、空衡社の気候制御塔が全部近い」
梟が低く言う。
「万作向きの場所」
「ああ。街そのものが道具箱だ」
その時、砕耀の端末が短く震えた。
発信者はない。
文面だけが表示される。
『荷を追うな。流れを追え。最短経路を選ぶ者から道具にされる』
久夜は画面を見て顔をしかめた。
「また慧悟か」
「だろうな」
「いちいちムカつく言い方しやがる」
「今回は正しい」
砕耀は端末を閉じた。
「万作は俺たちを追わせるつもりだ。荷を見せて、走らせて、街の流れにぶつける」
久夜はダガーを確かめた。
「だったら、流れごと斬ればいい」
「街ごとか?」
梟が言った。
久夜は黙った。
それはできない。
地上の街には、生活している人間がいる。
総流社の兵だけではない。
会社員、学生、親子、老人、店員、配達員、通行人。
ここで暴れれば、巻き込む。
万作はそれを分かっている。
だから街を選んだ。
久夜は舌打ちした。
「腹立つ爺さんだな」
「同感だ」
砕耀は立ち上がる。
「だが、取られたままにはしねえ。第三断片を取り返す。無理なら、次の流れを掴む」
◇
白枝街は、総流社の広告で溢れていた。
配送ロッカーの壁面。
駅前の大型ビジョン。
商業施設の床面案内。
街灯に吊るされた小型端末。
その中に、偶愛の星チセラの広告も混じっている。
新曲の告知。
ゲーム配信の切り抜き。
飲料とのコラボ。
総流社の即日配送キャンペーン。
ラナは一瞬だけ足を止めた。
画面の中のチセラは、こちらへ笑っている。
『今日も、ちゃんとここにいるね』
そんな声が聞こえた気がした。
ラナは目を閉じる。
違う。
今、聞くべき声はそこじゃない。
目を開けると、久夜が少し前で立ち止まっていた。
「大丈夫か」
「うん」
ラナは頷いた。
「今日は見るだけにする」
「見ないんじゃないのか」
「見ないようにすると、余計見ちゃうから」
久夜は少しだけ笑った。
「それでいいんじゃねえの」
その時、梟の端末が震えた。
「信号を拾った。第三断片、駅前の総流ロッカー群に近い」
砕耀が周囲を見る。
駅前には無数のロッカーが並んでいた。
一般客が荷物を受け取る。
配達員が荷物を補充する。
企業便が自動搬出される。
小型ドローンが上空から降りてくる。
どれも総流社の流れだ。
「久夜、走るな」
砕耀が言う。
「分かってる」
久夜は返した。
しかし、次の瞬間、ロッカー群の一つが開いた。
中から黒い小箱が搬送レーンへ滑り出す。
工馬の微弱信号と一致。
第三断片。
久夜の身体が反射的に動きかけた。
だが、足を止めた。
最短経路。
その言葉が頭に浮かんだ。
箱へ一直線に走れば、人混みを突っ切ることになる。
通行人にぶつかる。
転倒が起きる。
警備が反応する。
総流社の監視に拾われる。
久夜は一呼吸置いて、横へ動いた。
最短ではない。
だが、人の流れに逆らわない経路。
梟が車椅子を滑らせる。
「上は取らない。反射で追う」
駅前のガラス壁、広告板、配送車のサイドミラー。
梟はそれらに映る箱の動きを見て、ルートを読む。
ラナは天井を見ない。
落とせるものを探すのではなく、落ちそうなものを探す。
鈴木は拳を握りながらも、通行人の間に入って盾になる位置を取った。
砕耀は端末を操作しながら低く言った。
「少しは学んだな」
「うるせえ」
久夜は走りながら答える。
黒い小箱は、搬送レーンから自動配送カートへ移された。
カートは駅構内を抜け、商業施設側へ向かう。
その直後、信号が変わった。
横断歩道に人が溢れる。
カートは人の流れに紛れた。
「見失う!」
鈴木が叫ぶ。
「左だ」
梟が即答した。
「見えてんのか?」
「ガラスに映った」
久夜は左へ曲がる。
その先に、杖の音が聞こえた。
こつん。
こつん。
商業施設の入口付近。
人混みの中に、枯野万作が立っていた。
古い杖。
小さな工具箱。
穏やかな顔。
まるで買い物に来た老人のように。
「来たのう」
万作は言った。
「街は倉庫より難しいぞ。ここには荷だけでなく、人がある」
久夜はダガーに手をかけた。
だが抜かない。
人が多すぎる。
万作はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「よい判断じゃ」
「褒められに来たんじゃねえ」
「知っとる」
万作は杖で床を軽く叩いた。
その瞬間、商業施設の床面案内が切り替わった。
識網社の広告端末と総流社の配送案内が一瞬だけ同期する。
人の流れが変わった。
エレベーターが片側だけ止まり、階段へ人が集中する。
セール広告が流れ、若者の群れが右へ動く。
配送カートは、その流れに押されるように奥へ進んだ。
久夜たちは追いたい。
だが、人が壁になる。
「識網社の広告網まで使うのか」
砕耀が低く言う。
「総流社は流通屋じゃ。情報もまた、人を運ぶ」
万作は静かに答えた。
梟が銃を抜く。
だが構えた瞬間、前方の大型ビジョンにチセラの新曲広告が流れた。
人々が一斉に足を止める。
梟の射線が塞がる。
鈴木が苛立つ。
「こいつ……偶愛の星の広告まで道具にしやがった!」
万作は首を振る。
「広告を流したのはわしではない。街は勝手に動く。わしは、動く時間を知っていただけじゃ」
久夜は万作へ向かって踏み込む。
人と人の隙間を抜ける。
速い。
だが、万作は逃げない。
杖の先で、近くの清掃ロボットの蓋を軽く叩く。
清掃ロボットが誤作動し、水を噴いた。
床が滑る。
久夜は滑る直前に足首を捻り、壁を蹴って軌道を変えた。
前回のようには転ばない。
万作の目がわずかに動いた。
「ほう」
久夜の刃が万作の袖を裂く。
だが万作はすでに半歩下がっていた。
「学ぶのが早い」
「まだ終わってねえぞ」
「終わらせる気もない」
万作は背を向けた。
配送カートが商業施設の奥へ消える。
久夜は追おうとする。
だがその時、上階の看板が傾いた。
固定金具が外れている。
下には子どもがいた。
ラナが真っ先に気づいた。
「危ない!」
落ちる。
だが、人に向けて落ちる。
ラナは手を伸ばす。
いつもなら、落とす。
上から下へ。
それしかできない。
けれど今、落ちるものをただ落とせば、子どもに当たる。
ラナは歯を食いしばった。
「そっちじゃない……!」
看板が落下する。
完全に止めることはできない。
でも、落ちる途中で、ほんの少しだけ重心をずらす。
看板は子どもの真横に落ち、床を砕いた。
母親が悲鳴を上げ、子どもを抱き寄せる。
ラナは息を荒げていた。
指先が震える。
梟が短く言った。
「よくやった」
ラナは返事ができなかった。
久夜は一瞬だけラナを見る。
そして、万作の方へ視線を戻す。
万作はその様子を見ていた。
目を細める。
「落とすだけではなく、ずらしたか」
ラナは万作を睨んだ。
「あなたがやったの?」
「金具を緩めたのは、わしではない」
「でも知ってた」
「知っておった」
万作は認めた。
「街には、落ちるものが多い」
ラナの表情が険しくなる。
「最低」
「そうじゃな」
万作は否定しなかった。
「じゃが、気づけたなら次から救える」
その言葉に、ラナは何も返せなかった。
◇
第三断片を乗せた配送カートは、商業施設の地下搬送口へ向かっていた。
地下へ入れば、総流社の専用搬送路に乗る。
そうなれば追跡は難しくなる。
「地下へ落とされたら終わりだ」
砕耀が言う。
「止める」
久夜が走る。
今度は最短ではない。
人の流れを読み、壁を蹴り、手すりを使い、エスカレーターの横を抜ける。
万作が仕掛けた小さな障害が次々に現れる。
床の水。
配送員のカート。
突然開く非常扉。
警備ロボットの進路。
広告に反応して立ち止まる群衆。
だが、久夜は全部を斬るのではなく、避ける。
止まるところは止まる。
遠回りするところは遠回りする。
それでも速度は落ちない。
久夜の速さは、一直線だけではない。
曲がっても速い。
万作はその後ろ姿を見て、初めて少し楽しそうに笑った。
「若いのう」
砕耀は別ルートへ走った。
地下搬送口の手前に回り込む。
鈴木は警備ロボットを力で止める。
ただ破壊はしない。
壊せば警報が大きくなるからだ。
梟は低い位置から、配送カートの車輪だけを狙う。
銃声。
弾丸は車輪を掠めた。
だが直撃しない。
直前で小型ドローンが降下し、弾道に入った。
ドローンが落ちる。
梟が舌打ちする。
「射線にドローンを入れてきた」
「見えてるのか、あの爺さん!」
鈴木が叫ぶ。
「見えてるんじゃない」
梟は次弾を装填する。
「流れを作ってる」
ラナは息を整えながら、商業施設の天井を見た。
落とせるものは多い。
けれど、落とせば人が危ない。
なら、落とすものを変える。
「落ちて」
ラナは配送カートの上ではなく、その前方に吊るされた案内用の軽い布を落とした。
布がふわりと落ち、カートのセンサーを覆う。
カートが一瞬停止した。
「止まった!」
鈴木が叫ぶ。
久夜がその隙に距離を詰める。
手が届く。
カートの蓋へ指をかける。
その瞬間、カートの側面が開き、中から別の小箱が弾き出された。
黒い小箱。
同じ外装。
同じ信号。
「分裂!?」
久夜が叫ぶ。
小箱は三つ。
一つは地下搬送口へ。
一つは商業施設の外へ。
一つは上階の配送ドローン発着場へ。
梟が即座に言う。
「信号が全部同じ」
砕耀が歯を食いしばる。
「デコイか」
万作の声が、館内放送に混じって聞こえた。
『荷は一つとは限らん。流れは枝分かれするものじゃ』
久夜は一瞬迷った。
どれを追う。
最短なら地下。
見失えば終わりそうなのは空。
外へ出た荷は街に紛れる。
砕耀が叫ぶ。
「久夜、上だ!」
「何でだ!」
「地下は見せ札だ! 外は鈴木とラナ! 梟、地下を撃て!」
久夜は考えない。
砕耀を信じて、上へ走った。
梟が地下へ向かう小箱の車輪を撃つ。
小箱は止まり、中身が割れた。
空だった。
「地下は外れ!」
鈴木とラナは外へ出た小箱を追う。
ラナが落とした軽い旗が、道路上のセンサーを誤作動させる。
小箱の乗った配送カートが一時停止する。
鈴木が飛びついて蓋を開ける。
中には、古い荷札だけ。
「こっちも外れ!」
久夜は上階へ駆け上がる。
配送ドローン発着場。
屋上に近い開けた場所。
空衡社の気流制御で、上空には安定した風が流れている。
黒い小箱が、ドローンへ積み込まれようとしていた。
久夜はダガーを投げる。
刃がドローンの固定具を切る。
小箱が落ちる。
久夜は走る。
手を伸ばす。
届く。
その時、空から別のドローンが降りてきた。
総流社の配送ドローンではない。
識網社の広告投影ドローン。
空中に巨大なチセラのホログラムが映る。
人々が屋上広場の方へ振り向く。
視線が集まる。
久夜の姿が映り込む。
「ちっ……!」
ここで暴れれば顔が残る。
天理久夜の顔が、地上に流れる。
久夜は一瞬だけ動きを変えた。
顔を隠す。
その半拍。
万作はそこにいた。
老人とは思えないほど静かに、ドローンの影から現れる。
久夜の前で、小箱を杖の先に引っかける。
「半拍」
万作が言う。
「地上では、その半拍が命取りじゃ」
久夜のダガーが戻る。
万作は小箱を抱え、背を低くする。
戻る刃は万作の腕を浅く裂いた。
血が散る。
だが小箱は落ちない。
久夜は踏み込む。
万作はドローン発着場の端へ下がった。
そこから先は空。
落ちれば危険だ。
しかし万作は迷わず後ろへ倒れた。
「なっ……!」
久夜が手を伸ばす。
万作の身体は落ちる。
だが、下から空衡社の気流が吹き上がった。
落下を緩める上昇気流。
天界の空中都市を維持する技術の末端。
万作はそれを読んでいた。
下階の配送用足場へ、老人の身体が軽く着地する。
小箱を抱えたまま。
久夜は屋上の端で歯を食いしばる。
万作が下から見上げた。
「街には、落ちる場所にも道具がある」
久夜はすぐに追おうとした。
だが、背後で警報が鳴る。
広告ドローンが久夜の輪郭を拾いかけている。
梟の通信が入る。
『久夜、引け。顔が残る』
「あと少しだ!」
『引け』
砕耀の声だった。
『今は第三断片より、お前の顔が流れる方がまずい』
久夜は拳を握る。
目の前で、万作がまた歩き出す。
こつん。
こつん。
届きそうで、届かない。
「くそっ!」
久夜はダガーを戻し、身を翻した。
◇
白枝街の追跡は、万作の勝ちだった。
第三断片は奪い返せなかった。
だが、何も得られなかったわけではない。
安宿へ戻った砕耀は、端末を机に置いた。
「上の箱が本物だった」
「見りゃ分かる」
久夜は苛立ったまま言った。
「違う。問題は、万作が本物を最後に空へ逃がしたことだ」
梟が顔を上げる。
「空の配送路?」
「ああ。総流社の通常配送じゃない。空衡社の気流制御と識網社の広告ドローンを挟んでいた。つまり、総流社単独の保管じゃない」
鈴木が腕を組む。
「他の十柱の網に乗せたってことか」
「そうだ。万作は第三断片を総流社本部に直接戻してない。複数社の流れに混ぜた」
ラナが言う。
「それって悪いことじゃないの?」
「悪い。だが、同時に手掛かりでもある」
砕耀は端末に、今日の追跡ルートを表示した。
駅前ロッカー。
商業施設。
地下搬送口。
広告ドローン。
空衡社の気流制御点。
そして、最後に万作が消えた足場。
それらを線で結ぶ。
線は、ある一点へ向かっていた。
地上と天界を繋ぐ大型搬送塔。
総流社の重要中継点。
「次の目的地が見えた」
砕耀が言った。
「白枝搬送塔。総流社の血管の太い一本だ」
久夜の目が鋭くなる。
「そこに第三断片が行くのか」
「可能性が高い」
「なら次はそこだな」
「ただの奪還じゃ終わらせない」
砕耀の声が低くなる。
「万作は街を道具にした。なら、俺たちはあいつの流れを逆に使う」
梟が静かに尋ねる。
「どうやって」
砕耀は少し笑った。
「総流社の荷は、流れる。止めるより、流れ先を変えた方が早い」
久夜はその言葉を聞いて、旧総流支所での万作を思い出した。
道具は奪われても道具。
流れは止めるより変える。
それは、万作の戦い方に近かった。
久夜は不機嫌そうに言う。
「爺さんの真似か」
「勝つためなら使う」
砕耀は即答した。
「道具に善悪はない。使い方があるだけだ」
その言葉に、久夜は少しだけ黙った。
万作の台詞に似ている。
だが、砕耀の声には腐った諦めではなく、まだ熱があった。
◇
その頃、白枝街の外れ。
枯野万作は古いベンチに腰を下ろしていた。
腕の傷に布を巻く。
久夜の戻る刃で裂かれた傷だ。
浅い。
だが、確かに届いていた。
万作は小箱を膝の上に置いた。
第三断片。
総流社の役員たちは、これを守れば火が消えると思っている。
馬鹿な話だ。
火はもう別の場所にも移っている。
これはもはや、荷ではなく餌だ。
久夜たちを動かす餌。
そして、総流社の血管のどこが腐っているかを照らす火でもある。
万作は白枝搬送塔の方角を見た。
「さて」
老人は小さく呟く。
「次は、血管の太いところじゃ」
彼は立ち上がる。
胸が少し痛む。
再命社の薬の残りが身体に響いている。
それでも、歩く。
こつん。
こつん。
若者たちは追ってくる。
怒り、迷い、学びながら。
万作はそれを、少しだけ羨ましいと思った。
そして、少しだけ楽しみにしていた。
「街はまだ、道具箱の底を見せとらんぞ」
古い杖の音が、夜の街へ消えていった。




