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白いカラス  作者: シンドゥー


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14/15

血管の逆流

白枝搬送塔の第五検査層は、血の通わない臓器のようだった。


 冷たい壁。

 赤い警報灯。

 整然と並ぶ黒い保管庫。

 人間の名前を、分類と番号に変える場所。


 その奥で、アステール・ラナの名前は記録されていた。


 異世界線由来個体。

 魔法体系保持者。

 観令照合不能。

 解体優先度、高。


 久夜はその文字を見た瞬間、静かに息を吸った。


 怒鳴りはしなかった。


 だが、握ったダガーの柄が軋む。


「ラナを、材料にするつもりだったのか」


 砕耀が端末を睨みつける。


「要の後継計画だ。万作が老いた後、総流社を守る新しい要を作る。そのために異世界の魔法と技術を使うつもりだった」


 梟が記録を読み上げる。


「要を失った柱は、他の十柱による権益侵食の危険がある。外部由来能力を統合し、次世代要の創出を検討……」


 鈴木が壁を殴った。


「ふざけやがって」


 ラナは何も言わなかった。


 ただ、自分の名前が記された記録媒体を見つめていた。


 名前がある。


 けれど、そこに人間として扱われた跡はない。


 名前ですら、荷札の一部にされていた。


 その時、奥の通路から杖の音がした。


 こつん。


 こつん。


 赤い警報の中、枯野万作が現れた。


 古い杖。

 白い髪。

 小さな工具箱。

 深い皺の刻まれた顔。


 総流社の要。


 万具の翁。


 久夜は振り返り、ダガーを構えた。


「来たか」


 万作はラナの記録を一瞥し、静かに目を伏せた。


「見たか」


「ああ」


 久夜の声は低かった。


「お前は、これを知ってたのか」


「一部はな」


「なら同罪だ」


「そうじゃな」


 万作は否定しなかった。


 その返事が、久夜の怒りに油を注いだ。


「何で止めなかった」


 万作は答えない。


 久夜は一歩前へ出る。


「要だったんだろ。総流社で一番強い切り札だったんだろ。何で止めなかった。何でこんなものを見逃した」


 万作は杖を握る手に力を込めた。


「守るものがあった」


「それでラナを荷物にしたのか」


「違う、と言いたいところじゃが」


 万作は自嘲するように笑った。


「結果は同じじゃな」


 ラナが震える声で言った。


「私は、あなたを許さない」


「それでよい」


 万作は彼女を見た。


「許されるために来たのではない」


 久夜はダガーを低く構える。


「じゃあ何のために来た」


「確かめに来た」


「何を」


「お前さんらが、この荷を受け取るに値するか」


 久夜の目が鋭くなる。


「試すってことか」


「そうじゃ」


「ラナを材料扱いした証拠を餌にして?」


「そうじゃ」


 久夜は踏み込んだ。


 速い。


 赤い警報灯が瞬く間に、久夜の姿は万作の懐へ入っていた。


 ダガーが走る。


 万作は杖で受ける。


 火花が散る。


 老人の身体が後ろへ滑った。


 だが倒れない。


 床に撒かれていた小さな金属片が、万作の足元で重力をわずかに変える。


 空衡社の重力固定具の欠片。


 踏み込みを殺し、久夜の斬撃の軌道をほんの少しだけ外す。


 久夜は即座に戻るダガーを投げた。


 刃が万作の背後へ抜ける。


 戻る軌道を狙う。


 万作は動かなかった。


 代わりに、床に落ちていた荷札を杖で弾く。


 荷札は戻る刃の軌道へ入り、わずかに刃を逸らした。


 それでも刃は万作の頬を裂いた。


 血が一筋流れる。


「届いたぞ、爺さん」


 久夜が言う。


「うむ」


 万作は頷いた。


「前より、ずっとよい」


「褒められに来たんじゃねえ」


「知っとる」


 万作は工具箱を開く。


 中から、細い鎖と裁律社の拘束具を取り出した。


 鎖が床を走る。


 久夜は跳ぶ。


 だが鎖は久夜ではなく、天井の配線へ絡みついた。


 万作が引く。


 配線が切れ、火花が落ちる。


 久夜の視界が一瞬、白く染まる。


 その隙に万作が踏み込んだ。


 杖が久夜の手首を打つ。


 ダガーを落とさせるほどではない。


 だが握りが乱れる。


 久夜は膝蹴りで返す。


 万作は受ける。


 老人の身体が軋む音がした。


 久夜の攻撃は重くなっている。


 万作はそれを感じていた。


「お前さんは、怒りで速くなる」


「悪いか」


「悪くはない」


 万作は久夜の次の刃を避けながら言った。


「じゃが、怒りだけでは道を間違える」


「だったら何が道になる」


「守りたいものじゃ」


 久夜の動きが一瞬止まる。


 万作はその一瞬を逃さず、久夜の肩へ杖を打ち込んだ。


 久夜は後ろへ飛ぶ。


 壁を蹴り、すぐに戻る。


「守りたいものがあるからって、何をしてもいいのか」


「いいはずがない」


「じゃあ、何で総流社にいた」


 久夜の刃が万作の袖を裂く。


「家族を守るためか」


 次の刃が工具箱の留め具を切る。


「孫の学費のためか」


 万作は飛び散る道具を見ながら、一本の針を指で挟む。


「そうじゃ」


 針が久夜の足元へ落ちる。


 久夜は踏まない。


 前の戦いなら踏んでいた。


 万作はその成長を見て、ほんの少し笑った。


「わしは、それを言い訳にした。家族を守るため。生活を守るため。未来を守るため。そう言って、見たくない荷に蓋をした」


 久夜が低く言う。


「それで誰かの未来を潰した」


「そうじゃ」


 万作は杖を構え直す。


「だから、お前さんが怒るのは正しい」


「なら、何でまだ戦う」


「お前さんが、ただ怒っているだけではないと確かめるためじゃ」


 久夜が踏み込む。


 今度は最短ではない。


 右へ振ると見せて、左へ抜ける。


 床の油を避け、赤い警報の影を使い、万作が置いた道具の隙間を通る。


 万作の目が細くなる。


 久夜の刃が、万作の胸元へ届く。


 殺せる位置。


 だが、久夜は首を狙わなかった。


 胸も深くは斬らなかった。


 万作の要権限札が入った懐を裂いた。


 黒い札が宙へ舞う。


 久夜はそれを掴む。


 万作の杖が久夜の喉元で止まる。


 久夜のダガーも、万作の肩口で止まっていた。


 互いに動けば、どちらもただでは済まない。


 久夜は息を荒げながら言った。


「ラナは荷物じゃない」


「うむ」


「砕耀は流れに詰まった石じゃない」


「うむ」


「俺は、天理家の失敗作じゃない」


 万作は久夜を見た。


 久夜の目は怒っていた。


 だが、その奥にあったのは怒りだけではなかった。


 自分の名前を取り戻す意思。

 仲間の名前を守る意思。

 誰かを分類で潰す世界を、壊そうとする意思。


 万作はゆっくり杖を下ろした。


「認めよう」


 久夜は警戒を解かない。


「何を」


「お前さんらは、荷を受け取るに値する」


 万作は懐から、もう一つの黒い記録媒体を取り出した。


 久夜が奪った要権限札より、さらに小さい。


 古い荷札の形をしている。


「黒い保管庫の最深部にある記録の鍵じゃ。要後継計画の完全版。マッドファザーとの契約。上層部の承認印。十柱内覇権構想。わしへの脅迫記録。全部繋がる」


 砕耀が一歩前へ出る。


「なぜ最初から渡さなかった」


「信じるには、遅すぎた」


 万作は言った。


「だが、今なら分かる。わしが捨てた道を、お前さんらはまだ歩ける」


 ラナは万作を睨んでいた。


 万作は彼女へ向き直る。


「ラナ」


 初めて、名前で呼んだ。


「お前さんを荷とした者たちの記録は、これで外へ出る」


「……許さない」


「それでよい」


 万作は静かに頷いた。


「許される必要はない。届けるべき荷を、届けるだけじゃ」


 砕耀が記録媒体を受け取る。


 その瞬間、塔全体が揺れた。


 外から轟音が響く。


 梟が端末を見た。


「保安社の部隊が来た」


 鈴木が顔をしかめる。


「どのくらいだ」


 梟の声が硬くなる。


「大天使、二十以上。権天使、六。主天使、一」


 空気が変わった。


 保安社の上位天使たち。


 総流社が金と権限を使い、緊急依頼で呼び寄せた制圧軍。


 万作は静かに笑った。


「早いのう」


 久夜がダガーを握る。


「やるぞ」


「いや」


 万作は首を振った。


「お前さんらは行け」


「は?」


「その荷を流せ。外へ出せ。止めるな」


 砕耀が言う。


「あんたはどうする」


「総流社本部へ行く」


「一人でか」


「要が要の座を降りる時は、自分の足で降りるものじゃ」


 久夜は万作を睨んだ。


「死ぬ気か」


「死ぬのは嫌じゃ」


 万作は少しだけ肩をすくめた。


「だから、死なんように本気を出す」


   ◇


 総流社本部の上層管理棟。


 世界中の物流網を映す巨大な会議室に、役員たちは集まっていた。


 彼らは叫んでいた。


「流出を止めろ!」


「識網社へ削除依頼を出せ!」


「保安社の部隊はまだか!」


「枯野を拘束しろ!」


 その時、扉が開いた。


 枯野万作が入ってくる。


 白髪は乱れ、肩には血が滲み、古い杖は途中で折れていた。


 それでも、彼は歩いていた。


「枯野!」


 役員の一人が叫ぶ。


「貴様、何をしている! 今すぐ要権限で流出を止めろ!」


 万作は会議室中央の巨大投影を見上げた。


 世界の血管。


 長く守ってきたもの。


 長く腐らせてきたもの。


「嫌じゃ」


 役員たちは凍りついた。


 その瞬間、会議室の天井が開く。


 白い装甲が降りてくる。


 大天使部隊。


 さらに六体の権天使が左右へ展開する。


 そして中央に、一体の主天使が降り立った。


 他の天使とは違う、重厚な装甲。


 背の翼は四枚。


 顔は仮面で覆われ、手には長い光槍を持っている。


 保安社の上位制圧軍。


 総流社の緊急依頼によって派遣された天使たち。


「枯野万作」


 主天使が告げる。


「総流社要権限の不正使用、重要情報漏洩、十柱間秩序妨害の疑いにより、拘束する」


 万作は主天使を見上げた。


「主天使まで来るとは、総流社も大盤振る舞いじゃのう」


「抵抗すれば、制圧する」


「抵抗せねば?」


「拘束する」


「なら同じじゃ」


 万作は工具箱を床に置いた。


 蓋を開く。


 中に入っているのは、武器と呼ぶにはあまりに雑多なものだった。


 再命社の薬瓶。

 空衡社の重力固定具。

 識網社の中継チップ。

 裁律社の拘束具。

 星炉社の小型炉心バッテリー。

 豊穣社の高濃度栄養剤。

 総流社の荷札。

 錆びた針金。

 粉袋。

 割れた鏡。

 古い鍵。


 万作は薬瓶を一本飲み干した。


 手の震えが止まる。


 背筋が伸びる。


 目の奥の光が戻る。


 老いた身体に、かつての職人の戦場勘が宿る。


「本気でやるのは、何年ぶりかのう」


 大天使たちが一斉に動いた。


 二十を超える白い影が、会議室を埋め尽くす。


 万作は動かなかった。


 ただ、足元の荷札を一枚踏んだ。


 瞬間、会議室の床下を走る搬送レーンが開く。


 正面から来た大天使の足場が消え、落下する。


 だが落ちた先には緩衝網がない。


 代わりに、裁律社の拘束帯が蜘蛛の巣のように張られていた。


 一体、二体、三体。


 絡め取られ、翼が畳まれる。


 左右の大天使が光弾を撃つ。


 万作は割れた鏡を投げた。


 ただの鏡ではない。


 識網社の古い反射コートが施された広告部材。


 光弾の照準補助が乱れ、弾道がズレる。


 光弾は別の大天使の盾に当たり、隊列を崩す。


 権天使が六体、同時に動いた。


 さすがに速い。


 大天使とは違う。


 一直線に来ない。


 包囲し、退路を切り、万作の手元と工具箱を狙う。


 万作は笑った。


「よい連携じゃ」


 彼は星炉社の小型炉心バッテリーを床へ落とした。


 同時に、粉袋を破る。


 白い粉が空中へ舞う。


 次の瞬間、炉心バッテリーが高熱を発し、粉塵が一瞬だけ燃えた。


 爆発ではない。


 爆風でもない。


 視界とセンサーを焼く、短い閃光。


 権天使の動きが半拍鈍る。


 万作はその半拍で、一体目の膝に重力固定具を貼り、二体目の翼に針金を絡め、三体目の手首へ拘束具を巻き、四体目の槍を自分の肩で受けた。


 血が飛ぶ。


 だが万作は笑っていた。


「刺さった槍も、道具じゃ」


 万作は肩に刺さった槍を支点に、権天使の関節へ体重をかける。


 角度が完璧だった。


 権天使の腕が外れる。


 その槍を引き抜き、床下の高圧ケーブルへ突き刺す。


 電流が走る。


 権天使の装甲が硬直する。


 五体目が背後から斬りかかる。


 万作は振り返らず、倒れた大天使の盾を足で跳ね上げた。


 盾は刃を受ける。


 その盾の裏には、さっき万作が貼っていた接着剤がある。


 刃が盾に貼り付き、抜けない。


 六体目の権天使が上空から降下する。


 万作は見上げ、豊穣社の高濃度栄養剤を自分の口に放り込んだ。


 無理やり身体を動かす。


 老いた筋肉が悲鳴を上げる。


 それでも、彼は一歩ずれた。


 権天使の槍は床を貫く。


 万作はその背中に総流社の荷札を貼った。


 荷札が読み込まれる。


 会議室の自動搬送システムが、権天使を「大型荷」と誤認した。


 天井から搬送アームが降り、権天使を掴んで壁へ叩きつける。


 役員たちは声を失っていた。


 大天使の隊列は崩れ、権天使は次々に拘束される。


 だが、主天使だけは動いていなかった。


 万作の手札を見ていた。


 老い。

 薬。

 床。

 搬送レーン。

 荷札。

 他社製品。

 敵の武装。

 自分の負傷。


 すべてを道具にする老人。


 主天使は光槍を構えた。


 その一撃は、これまでの天使とは違った。


 床も罠も、道具も無視するような圧力。


 会議室の空気が震える。


 万作はゆっくり息を吐いた。


「主天使か」


 主天使が踏み込む。


 速い。


 重い。


 正確。


 万作は避けきれない。


 光槍が脇腹を裂く。


 血が床に落ちる。


 だが万作は倒れなかった。


 主天使が次の一撃を放つ。


 万作は会議室中央の巨大投影装置を起動した。


 世界の配送網が空間に広がる。


 赤い線、青い線、白い線。


 無数の血管が光となって主天使の視界を埋める。


 主天使は惑わされない。


 そのまま突っ込む。


 だが、万作の狙いは目眩ましではなかった。


 投影装置の熱で、床に撒かれた再命社薬剤の溶媒が蒸発する。


 無臭の薄い膜が、主天使の装甲の関節に付着する。


 そこへ空衡社の重力固定具が作動する。


 膜が重くなる。


 関節が鈍る。


 主天使の一撃が、ほんのわずかに遅れた。


 万作はその一瞬で、主天使の懐へ入った。


 拳ではない。


 刃でもない。


 ただの古い鍵を、主天使の胸部装甲の隙間へ差し込んだ。


 かちり。


 音がした。


 主天使の胸部装甲が開く。


 万作は呟く。


「古い規格を残すからじゃ」


 次の瞬間、星炉社の小型バッテリーを装甲内部へ押し込む。


 過負荷。


 主天使の装甲が火花を散らす。


 膝が折れる。


 光槍が消える。


 主天使が床に沈んだ。


 大天使、権天使、主天使。


 軍を成して来た保安社の天使たちは、一人の老人の前に沈黙した。


 会議室の中央に、万作だけが立っていた。


 息は荒い。


 血は流れている。


 薬の副作用で、指先は震え始めている。


 それでも、彼は倒れなかった。


 役員の一人が震える声で言った。


「化け物……」


 万作はその男を見た。


「違うのう」


 彼は静かに答えた。


「わしはただの流通屋じゃ」


 万作は中央端末へ歩く。


 誰も止められない。


 止めるために呼ばれた軍は、すべて床に伏している。


 役員が叫んだ。


「やめろ、枯野! そんなことをすれば総流社は終わる!」


「終わらせに来た」


「貴様の家族はどうなる!」


 万作の手が止まった。


 役員はそれに縋った。


「孫の学費も、息子の職も、こちらで握っている! 今ならまだ間に合う。流出を止めろ。そうすれば——」


 万作は、ゆっくり振り返った。


「それじゃ」


「何?」


「わしは、その言葉にずっと負けてきた」


 会議室は静まり返った。


「家族を守るため。生活を守るため。孫の未来を守るため。そう言われるたびに、わしは腐った荷に蓋をした」


 万作の手が、送信キーの上に置かれる。


「じゃがな」


 彼の声は震えていた。


 老いではなく、怒りで震えていた。


「わしの家族は、そんな荷で守られたいとは言わん」


 送信キーが押された。


 総流社本部の中枢記録が外部へ流れた。


 ラナ回収命令。

 要後継計画。

 マッドファザーとの取引。

 未登録倉庫一覧。

 封荷衆の非公式任務。

 十柱内覇権構想。

 総流社役員による脅迫記録。

 枯野万作の署名入り内部告発。


 総流社の血管が、内側から裂けた。


   ◇


 地上の街に、通知が広がっていく。


『総流社、異世界線由来個体の解体計画か』


『対象名、アステール・ラナ』


『万具の翁、内部記録を公開』


『総流社役員、孫の学費支援を盾に要を脅迫』


『保安社派遣部隊、総流社本部で制圧失敗』


『要後継計画とは何か』


『十柱同士は本当に協調関係なのか』


 人々が画面を見る。


 駅前で。

 学校で。

 薬局で。

 配信部屋で。

 冥下の酒場で。

 天界の廊下で。


 総流社はもう否定できなかった。


 数字だけではない。


 映像だけでもない。


 総流社の要が、自ら署名して流した記録だった。


 世界の血管を守ってきた老人が、その血管に詰まった毒を外へ流した。


   ◇


 会議室で、役員たちは崩れ落ちていた。


 万作は端末から手を離す。


 肩と脇腹から血が流れている。


 胸が痛い。


 再命社の薬の副作用が、身体の内側を軋ませる。


 それでも、彼は歩き出した。


「どこへ行く!」


 役員の一人が叫ぶ。


 万作は振り返らずに答えた。


「家じゃ」


 倒れた主天使の横を通る。


 権天使たちの間を抜ける。


 大天使の白い翼を跨ぐ。


 壊れたドローンを避け、血の跡を残しながら、老いた男は総流社本部を出ていった。


 誰も止められなかった。


 万具の翁は、最後の配送を終えた。


   ◇


 夜。


 枯野万作は家に帰った。


 地上の外れにある、少し古い家。


 大きな屋敷ではない。


 けれど、玄関の明かりはついていた。


 扉を開けると、息子がいた。


 息子の嫁もいた。


 奥から孫が顔を出す。


「じいちゃん?」


 万作は玄関に立ったまま、困ったように笑った。


 服は破れ、肩には血が滲み、顔色も悪い。


 息子が駆け寄る。


「父さん、その怪我……!」


「大したことはない」


「大したことありますよ!」


 嫁が慌てて救急箱を取りに行く。


 孫は不安そうに万作の服の裾を掴んだ。


 万作はその小さな手を見て、ゆっくり息を吐いた。


「すまんのう」


 息子が顔を上げる。


「何がですか」


「クビになってしもうた」


 家の中が静かになった。


「もう、前のようには支えられん。学費も、生活も、今まで通りにはいかんかもしれん」


 万作は頭を下げた。


「すまん」


 長い沈黙。


 やがて息子が言った。


「父さん」


「うん」


「今まで、どれだけ支えてもらったと思ってるんですか」


 万作は顔を上げる。


 息子は少し怒ったような、泣きそうな顔をしていた。


「大丈夫ですよ。今まで父さんが支えてくれたぶん、今度は私たちが頑張ります」


 嫁も頷いた。


「そうです。お義父さんは、少し休んでください」


 孫が言う。


「じいちゃん、もうおしごと行かないの?」


 万作は少し考えた。


「たぶん、行かんのう」


「じゃあ、明日あそべる?」


 万作は目を瞬かせた。


 それから、ゆっくり笑った。


「そうじゃな。少しなら」


 手当てを受けたあと、万作は仏壇の前に座った。


 そこには、亡き妻の写真があった。


 優しく笑う女だった。


 万作が若い頃、誰かを助けるために走り回っていた頃を知っている人だった。


 万作は写真の前に、総流社の要権限札を置いた。


 もう使えない、黒い札。


「帰ったぞ」


 彼は小さく言った。


「遅くなって、すまんのう」


 写真の中の妻は、何も答えない。


 万作はしばらく黙っていた。


「わしは、ずいぶん遠くまで来てしもうた。お前に胸を張れるようなことばかりではなかった。いや、胸を張れんことの方が多かった」


 声が少しだけ震える。


「守るためじゃと言い訳して、汚い荷も運んだ。見たくない荷にも蓋をした。お前が生きておったら、怒ったじゃろうな」


 万作は写真を見つめた。


「でも今日、少しだけ戻れた気がする」


 古い手が、膝の上で震えている。


「誰かを助けるために、道具を使っていた頃の自分にのう」


 奥の部屋から、孫の声が聞こえた。


 息子夫婦の話し声も聞こえる。


 家の音だった。


 総流社の警報でも、搬送レーンの音でも、役員たちの怒声でもない。


 ただの家の音。


 万作は目を閉じた。


「若いって、いいのう」


 そう呟いてから、少し笑った。


「なあ。あいつら、眩しかったぞ」


 久夜。

 砕耀。

 梟。

 ラナ。

 鈴木。


 怒りながら、迷いながら、それでも前へ進もうとする若者たち。


「わしにはもう歩けんと思っていた道を、あいつらはまだ歩こうとしておった」


 万作は妻の写真へ深く頭を下げた。


「だから、少しだけ手伝ってきた」


 写真は何も答えない。


 けれど万作には、妻が呆れたように笑っている気がした。


 無茶をして、と。


 遅すぎるわ、と。


 それでも、おかえり、と。


 万作は静かに目を開けた。


「ただいま」


 その夜、総流社は崩れ始めた。


 世界の血管は止まらない。


 けれど、もう同じようには流れない。


 腐った荷は外へ出た。


 血は逆流し、毒は暴かれた。


 そして、万具の翁と呼ばれた老人は、ようやくただの枯野万作として、亡き妻と家族のいる家に帰った。

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