血管の逆流
白枝搬送塔の第五検査層は、血の通わない臓器のようだった。
冷たい壁。
赤い警報灯。
整然と並ぶ黒い保管庫。
人間の名前を、分類と番号に変える場所。
その奥で、アステール・ラナの名前は記録されていた。
異世界線由来個体。
魔法体系保持者。
観令照合不能。
解体優先度、高。
久夜はその文字を見た瞬間、静かに息を吸った。
怒鳴りはしなかった。
だが、握ったダガーの柄が軋む。
「ラナを、材料にするつもりだったのか」
砕耀が端末を睨みつける。
「要の後継計画だ。万作が老いた後、総流社を守る新しい要を作る。そのために異世界の魔法と技術を使うつもりだった」
梟が記録を読み上げる。
「要を失った柱は、他の十柱による権益侵食の危険がある。外部由来能力を統合し、次世代要の創出を検討……」
鈴木が壁を殴った。
「ふざけやがって」
ラナは何も言わなかった。
ただ、自分の名前が記された記録媒体を見つめていた。
名前がある。
けれど、そこに人間として扱われた跡はない。
名前ですら、荷札の一部にされていた。
その時、奥の通路から杖の音がした。
こつん。
こつん。
赤い警報の中、枯野万作が現れた。
古い杖。
白い髪。
小さな工具箱。
深い皺の刻まれた顔。
総流社の要。
万具の翁。
久夜は振り返り、ダガーを構えた。
「来たか」
万作はラナの記録を一瞥し、静かに目を伏せた。
「見たか」
「ああ」
久夜の声は低かった。
「お前は、これを知ってたのか」
「一部はな」
「なら同罪だ」
「そうじゃな」
万作は否定しなかった。
その返事が、久夜の怒りに油を注いだ。
「何で止めなかった」
万作は答えない。
久夜は一歩前へ出る。
「要だったんだろ。総流社で一番強い切り札だったんだろ。何で止めなかった。何でこんなものを見逃した」
万作は杖を握る手に力を込めた。
「守るものがあった」
「それでラナを荷物にしたのか」
「違う、と言いたいところじゃが」
万作は自嘲するように笑った。
「結果は同じじゃな」
ラナが震える声で言った。
「私は、あなたを許さない」
「それでよい」
万作は彼女を見た。
「許されるために来たのではない」
久夜はダガーを低く構える。
「じゃあ何のために来た」
「確かめに来た」
「何を」
「お前さんらが、この荷を受け取るに値するか」
久夜の目が鋭くなる。
「試すってことか」
「そうじゃ」
「ラナを材料扱いした証拠を餌にして?」
「そうじゃ」
久夜は踏み込んだ。
速い。
赤い警報灯が瞬く間に、久夜の姿は万作の懐へ入っていた。
ダガーが走る。
万作は杖で受ける。
火花が散る。
老人の身体が後ろへ滑った。
だが倒れない。
床に撒かれていた小さな金属片が、万作の足元で重力をわずかに変える。
空衡社の重力固定具の欠片。
踏み込みを殺し、久夜の斬撃の軌道をほんの少しだけ外す。
久夜は即座に戻るダガーを投げた。
刃が万作の背後へ抜ける。
戻る軌道を狙う。
万作は動かなかった。
代わりに、床に落ちていた荷札を杖で弾く。
荷札は戻る刃の軌道へ入り、わずかに刃を逸らした。
それでも刃は万作の頬を裂いた。
血が一筋流れる。
「届いたぞ、爺さん」
久夜が言う。
「うむ」
万作は頷いた。
「前より、ずっとよい」
「褒められに来たんじゃねえ」
「知っとる」
万作は工具箱を開く。
中から、細い鎖と裁律社の拘束具を取り出した。
鎖が床を走る。
久夜は跳ぶ。
だが鎖は久夜ではなく、天井の配線へ絡みついた。
万作が引く。
配線が切れ、火花が落ちる。
久夜の視界が一瞬、白く染まる。
その隙に万作が踏み込んだ。
杖が久夜の手首を打つ。
ダガーを落とさせるほどではない。
だが握りが乱れる。
久夜は膝蹴りで返す。
万作は受ける。
老人の身体が軋む音がした。
久夜の攻撃は重くなっている。
万作はそれを感じていた。
「お前さんは、怒りで速くなる」
「悪いか」
「悪くはない」
万作は久夜の次の刃を避けながら言った。
「じゃが、怒りだけでは道を間違える」
「だったら何が道になる」
「守りたいものじゃ」
久夜の動きが一瞬止まる。
万作はその一瞬を逃さず、久夜の肩へ杖を打ち込んだ。
久夜は後ろへ飛ぶ。
壁を蹴り、すぐに戻る。
「守りたいものがあるからって、何をしてもいいのか」
「いいはずがない」
「じゃあ、何で総流社にいた」
久夜の刃が万作の袖を裂く。
「家族を守るためか」
次の刃が工具箱の留め具を切る。
「孫の学費のためか」
万作は飛び散る道具を見ながら、一本の針を指で挟む。
「そうじゃ」
針が久夜の足元へ落ちる。
久夜は踏まない。
前の戦いなら踏んでいた。
万作はその成長を見て、ほんの少し笑った。
「わしは、それを言い訳にした。家族を守るため。生活を守るため。未来を守るため。そう言って、見たくない荷に蓋をした」
久夜が低く言う。
「それで誰かの未来を潰した」
「そうじゃ」
万作は杖を構え直す。
「だから、お前さんが怒るのは正しい」
「なら、何でまだ戦う」
「お前さんが、ただ怒っているだけではないと確かめるためじゃ」
久夜が踏み込む。
今度は最短ではない。
右へ振ると見せて、左へ抜ける。
床の油を避け、赤い警報の影を使い、万作が置いた道具の隙間を通る。
万作の目が細くなる。
久夜の刃が、万作の胸元へ届く。
殺せる位置。
だが、久夜は首を狙わなかった。
胸も深くは斬らなかった。
万作の要権限札が入った懐を裂いた。
黒い札が宙へ舞う。
久夜はそれを掴む。
万作の杖が久夜の喉元で止まる。
久夜のダガーも、万作の肩口で止まっていた。
互いに動けば、どちらもただでは済まない。
久夜は息を荒げながら言った。
「ラナは荷物じゃない」
「うむ」
「砕耀は流れに詰まった石じゃない」
「うむ」
「俺は、天理家の失敗作じゃない」
万作は久夜を見た。
久夜の目は怒っていた。
だが、その奥にあったのは怒りだけではなかった。
自分の名前を取り戻す意思。
仲間の名前を守る意思。
誰かを分類で潰す世界を、壊そうとする意思。
万作はゆっくり杖を下ろした。
「認めよう」
久夜は警戒を解かない。
「何を」
「お前さんらは、荷を受け取るに値する」
万作は懐から、もう一つの黒い記録媒体を取り出した。
久夜が奪った要権限札より、さらに小さい。
古い荷札の形をしている。
「黒い保管庫の最深部にある記録の鍵じゃ。要後継計画の完全版。マッドファザーとの契約。上層部の承認印。十柱内覇権構想。わしへの脅迫記録。全部繋がる」
砕耀が一歩前へ出る。
「なぜ最初から渡さなかった」
「信じるには、遅すぎた」
万作は言った。
「だが、今なら分かる。わしが捨てた道を、お前さんらはまだ歩ける」
ラナは万作を睨んでいた。
万作は彼女へ向き直る。
「ラナ」
初めて、名前で呼んだ。
「お前さんを荷とした者たちの記録は、これで外へ出る」
「……許さない」
「それでよい」
万作は静かに頷いた。
「許される必要はない。届けるべき荷を、届けるだけじゃ」
砕耀が記録媒体を受け取る。
その瞬間、塔全体が揺れた。
外から轟音が響く。
梟が端末を見た。
「保安社の部隊が来た」
鈴木が顔をしかめる。
「どのくらいだ」
梟の声が硬くなる。
「大天使、二十以上。権天使、六。主天使、一」
空気が変わった。
保安社の上位天使たち。
総流社が金と権限を使い、緊急依頼で呼び寄せた制圧軍。
万作は静かに笑った。
「早いのう」
久夜がダガーを握る。
「やるぞ」
「いや」
万作は首を振った。
「お前さんらは行け」
「は?」
「その荷を流せ。外へ出せ。止めるな」
砕耀が言う。
「あんたはどうする」
「総流社本部へ行く」
「一人でか」
「要が要の座を降りる時は、自分の足で降りるものじゃ」
久夜は万作を睨んだ。
「死ぬ気か」
「死ぬのは嫌じゃ」
万作は少しだけ肩をすくめた。
「だから、死なんように本気を出す」
◇
総流社本部の上層管理棟。
世界中の物流網を映す巨大な会議室に、役員たちは集まっていた。
彼らは叫んでいた。
「流出を止めろ!」
「識網社へ削除依頼を出せ!」
「保安社の部隊はまだか!」
「枯野を拘束しろ!」
その時、扉が開いた。
枯野万作が入ってくる。
白髪は乱れ、肩には血が滲み、古い杖は途中で折れていた。
それでも、彼は歩いていた。
「枯野!」
役員の一人が叫ぶ。
「貴様、何をしている! 今すぐ要権限で流出を止めろ!」
万作は会議室中央の巨大投影を見上げた。
世界の血管。
長く守ってきたもの。
長く腐らせてきたもの。
「嫌じゃ」
役員たちは凍りついた。
その瞬間、会議室の天井が開く。
白い装甲が降りてくる。
大天使部隊。
さらに六体の権天使が左右へ展開する。
そして中央に、一体の主天使が降り立った。
他の天使とは違う、重厚な装甲。
背の翼は四枚。
顔は仮面で覆われ、手には長い光槍を持っている。
保安社の上位制圧軍。
総流社の緊急依頼によって派遣された天使たち。
「枯野万作」
主天使が告げる。
「総流社要権限の不正使用、重要情報漏洩、十柱間秩序妨害の疑いにより、拘束する」
万作は主天使を見上げた。
「主天使まで来るとは、総流社も大盤振る舞いじゃのう」
「抵抗すれば、制圧する」
「抵抗せねば?」
「拘束する」
「なら同じじゃ」
万作は工具箱を床に置いた。
蓋を開く。
中に入っているのは、武器と呼ぶにはあまりに雑多なものだった。
再命社の薬瓶。
空衡社の重力固定具。
識網社の中継チップ。
裁律社の拘束具。
星炉社の小型炉心バッテリー。
豊穣社の高濃度栄養剤。
総流社の荷札。
錆びた針金。
粉袋。
割れた鏡。
古い鍵。
万作は薬瓶を一本飲み干した。
手の震えが止まる。
背筋が伸びる。
目の奥の光が戻る。
老いた身体に、かつての職人の戦場勘が宿る。
「本気でやるのは、何年ぶりかのう」
大天使たちが一斉に動いた。
二十を超える白い影が、会議室を埋め尽くす。
万作は動かなかった。
ただ、足元の荷札を一枚踏んだ。
瞬間、会議室の床下を走る搬送レーンが開く。
正面から来た大天使の足場が消え、落下する。
だが落ちた先には緩衝網がない。
代わりに、裁律社の拘束帯が蜘蛛の巣のように張られていた。
一体、二体、三体。
絡め取られ、翼が畳まれる。
左右の大天使が光弾を撃つ。
万作は割れた鏡を投げた。
ただの鏡ではない。
識網社の古い反射コートが施された広告部材。
光弾の照準補助が乱れ、弾道がズレる。
光弾は別の大天使の盾に当たり、隊列を崩す。
権天使が六体、同時に動いた。
さすがに速い。
大天使とは違う。
一直線に来ない。
包囲し、退路を切り、万作の手元と工具箱を狙う。
万作は笑った。
「よい連携じゃ」
彼は星炉社の小型炉心バッテリーを床へ落とした。
同時に、粉袋を破る。
白い粉が空中へ舞う。
次の瞬間、炉心バッテリーが高熱を発し、粉塵が一瞬だけ燃えた。
爆発ではない。
爆風でもない。
視界とセンサーを焼く、短い閃光。
権天使の動きが半拍鈍る。
万作はその半拍で、一体目の膝に重力固定具を貼り、二体目の翼に針金を絡め、三体目の手首へ拘束具を巻き、四体目の槍を自分の肩で受けた。
血が飛ぶ。
だが万作は笑っていた。
「刺さった槍も、道具じゃ」
万作は肩に刺さった槍を支点に、権天使の関節へ体重をかける。
角度が完璧だった。
権天使の腕が外れる。
その槍を引き抜き、床下の高圧ケーブルへ突き刺す。
電流が走る。
権天使の装甲が硬直する。
五体目が背後から斬りかかる。
万作は振り返らず、倒れた大天使の盾を足で跳ね上げた。
盾は刃を受ける。
その盾の裏には、さっき万作が貼っていた接着剤がある。
刃が盾に貼り付き、抜けない。
六体目の権天使が上空から降下する。
万作は見上げ、豊穣社の高濃度栄養剤を自分の口に放り込んだ。
無理やり身体を動かす。
老いた筋肉が悲鳴を上げる。
それでも、彼は一歩ずれた。
権天使の槍は床を貫く。
万作はその背中に総流社の荷札を貼った。
荷札が読み込まれる。
会議室の自動搬送システムが、権天使を「大型荷」と誤認した。
天井から搬送アームが降り、権天使を掴んで壁へ叩きつける。
役員たちは声を失っていた。
大天使の隊列は崩れ、権天使は次々に拘束される。
だが、主天使だけは動いていなかった。
万作の手札を見ていた。
老い。
薬。
床。
搬送レーン。
荷札。
他社製品。
敵の武装。
自分の負傷。
すべてを道具にする老人。
主天使は光槍を構えた。
その一撃は、これまでの天使とは違った。
床も罠も、道具も無視するような圧力。
会議室の空気が震える。
万作はゆっくり息を吐いた。
「主天使か」
主天使が踏み込む。
速い。
重い。
正確。
万作は避けきれない。
光槍が脇腹を裂く。
血が床に落ちる。
だが万作は倒れなかった。
主天使が次の一撃を放つ。
万作は会議室中央の巨大投影装置を起動した。
世界の配送網が空間に広がる。
赤い線、青い線、白い線。
無数の血管が光となって主天使の視界を埋める。
主天使は惑わされない。
そのまま突っ込む。
だが、万作の狙いは目眩ましではなかった。
投影装置の熱で、床に撒かれた再命社薬剤の溶媒が蒸発する。
無臭の薄い膜が、主天使の装甲の関節に付着する。
そこへ空衡社の重力固定具が作動する。
膜が重くなる。
関節が鈍る。
主天使の一撃が、ほんのわずかに遅れた。
万作はその一瞬で、主天使の懐へ入った。
拳ではない。
刃でもない。
ただの古い鍵を、主天使の胸部装甲の隙間へ差し込んだ。
かちり。
音がした。
主天使の胸部装甲が開く。
万作は呟く。
「古い規格を残すからじゃ」
次の瞬間、星炉社の小型バッテリーを装甲内部へ押し込む。
過負荷。
主天使の装甲が火花を散らす。
膝が折れる。
光槍が消える。
主天使が床に沈んだ。
大天使、権天使、主天使。
軍を成して来た保安社の天使たちは、一人の老人の前に沈黙した。
会議室の中央に、万作だけが立っていた。
息は荒い。
血は流れている。
薬の副作用で、指先は震え始めている。
それでも、彼は倒れなかった。
役員の一人が震える声で言った。
「化け物……」
万作はその男を見た。
「違うのう」
彼は静かに答えた。
「わしはただの流通屋じゃ」
万作は中央端末へ歩く。
誰も止められない。
止めるために呼ばれた軍は、すべて床に伏している。
役員が叫んだ。
「やめろ、枯野! そんなことをすれば総流社は終わる!」
「終わらせに来た」
「貴様の家族はどうなる!」
万作の手が止まった。
役員はそれに縋った。
「孫の学費も、息子の職も、こちらで握っている! 今ならまだ間に合う。流出を止めろ。そうすれば——」
万作は、ゆっくり振り返った。
「それじゃ」
「何?」
「わしは、その言葉にずっと負けてきた」
会議室は静まり返った。
「家族を守るため。生活を守るため。孫の未来を守るため。そう言われるたびに、わしは腐った荷に蓋をした」
万作の手が、送信キーの上に置かれる。
「じゃがな」
彼の声は震えていた。
老いではなく、怒りで震えていた。
「わしの家族は、そんな荷で守られたいとは言わん」
送信キーが押された。
総流社本部の中枢記録が外部へ流れた。
ラナ回収命令。
要後継計画。
マッドファザーとの取引。
未登録倉庫一覧。
封荷衆の非公式任務。
十柱内覇権構想。
総流社役員による脅迫記録。
枯野万作の署名入り内部告発。
総流社の血管が、内側から裂けた。
◇
地上の街に、通知が広がっていく。
『総流社、異世界線由来個体の解体計画か』
『対象名、アステール・ラナ』
『万具の翁、内部記録を公開』
『総流社役員、孫の学費支援を盾に要を脅迫』
『保安社派遣部隊、総流社本部で制圧失敗』
『要後継計画とは何か』
『十柱同士は本当に協調関係なのか』
人々が画面を見る。
駅前で。
学校で。
薬局で。
配信部屋で。
冥下の酒場で。
天界の廊下で。
総流社はもう否定できなかった。
数字だけではない。
映像だけでもない。
総流社の要が、自ら署名して流した記録だった。
世界の血管を守ってきた老人が、その血管に詰まった毒を外へ流した。
◇
会議室で、役員たちは崩れ落ちていた。
万作は端末から手を離す。
肩と脇腹から血が流れている。
胸が痛い。
再命社の薬の副作用が、身体の内側を軋ませる。
それでも、彼は歩き出した。
「どこへ行く!」
役員の一人が叫ぶ。
万作は振り返らずに答えた。
「家じゃ」
倒れた主天使の横を通る。
権天使たちの間を抜ける。
大天使の白い翼を跨ぐ。
壊れたドローンを避け、血の跡を残しながら、老いた男は総流社本部を出ていった。
誰も止められなかった。
万具の翁は、最後の配送を終えた。
◇
夜。
枯野万作は家に帰った。
地上の外れにある、少し古い家。
大きな屋敷ではない。
けれど、玄関の明かりはついていた。
扉を開けると、息子がいた。
息子の嫁もいた。
奥から孫が顔を出す。
「じいちゃん?」
万作は玄関に立ったまま、困ったように笑った。
服は破れ、肩には血が滲み、顔色も悪い。
息子が駆け寄る。
「父さん、その怪我……!」
「大したことはない」
「大したことありますよ!」
嫁が慌てて救急箱を取りに行く。
孫は不安そうに万作の服の裾を掴んだ。
万作はその小さな手を見て、ゆっくり息を吐いた。
「すまんのう」
息子が顔を上げる。
「何がですか」
「クビになってしもうた」
家の中が静かになった。
「もう、前のようには支えられん。学費も、生活も、今まで通りにはいかんかもしれん」
万作は頭を下げた。
「すまん」
長い沈黙。
やがて息子が言った。
「父さん」
「うん」
「今まで、どれだけ支えてもらったと思ってるんですか」
万作は顔を上げる。
息子は少し怒ったような、泣きそうな顔をしていた。
「大丈夫ですよ。今まで父さんが支えてくれたぶん、今度は私たちが頑張ります」
嫁も頷いた。
「そうです。お義父さんは、少し休んでください」
孫が言う。
「じいちゃん、もうおしごと行かないの?」
万作は少し考えた。
「たぶん、行かんのう」
「じゃあ、明日あそべる?」
万作は目を瞬かせた。
それから、ゆっくり笑った。
「そうじゃな。少しなら」
手当てを受けたあと、万作は仏壇の前に座った。
そこには、亡き妻の写真があった。
優しく笑う女だった。
万作が若い頃、誰かを助けるために走り回っていた頃を知っている人だった。
万作は写真の前に、総流社の要権限札を置いた。
もう使えない、黒い札。
「帰ったぞ」
彼は小さく言った。
「遅くなって、すまんのう」
写真の中の妻は、何も答えない。
万作はしばらく黙っていた。
「わしは、ずいぶん遠くまで来てしもうた。お前に胸を張れるようなことばかりではなかった。いや、胸を張れんことの方が多かった」
声が少しだけ震える。
「守るためじゃと言い訳して、汚い荷も運んだ。見たくない荷にも蓋をした。お前が生きておったら、怒ったじゃろうな」
万作は写真を見つめた。
「でも今日、少しだけ戻れた気がする」
古い手が、膝の上で震えている。
「誰かを助けるために、道具を使っていた頃の自分にのう」
奥の部屋から、孫の声が聞こえた。
息子夫婦の話し声も聞こえる。
家の音だった。
総流社の警報でも、搬送レーンの音でも、役員たちの怒声でもない。
ただの家の音。
万作は目を閉じた。
「若いって、いいのう」
そう呟いてから、少し笑った。
「なあ。あいつら、眩しかったぞ」
久夜。
砕耀。
梟。
ラナ。
鈴木。
怒りながら、迷いながら、それでも前へ進もうとする若者たち。
「わしにはもう歩けんと思っていた道を、あいつらはまだ歩こうとしておった」
万作は妻の写真へ深く頭を下げた。
「だから、少しだけ手伝ってきた」
写真は何も答えない。
けれど万作には、妻が呆れたように笑っている気がした。
無茶をして、と。
遅すぎるわ、と。
それでも、おかえり、と。
万作は静かに目を開けた。
「ただいま」
その夜、総流社は崩れ始めた。
世界の血管は止まらない。
けれど、もう同じようには流れない。
腐った荷は外へ出た。
血は逆流し、毒は暴かれた。
そして、万具の翁と呼ばれた老人は、ようやくただの枯野万作として、亡き妻と家族のいる家に帰った。




