外伝 万具の翁
枯野万作の両親は、優しい人だった。
優しすぎる人だった。
人に頼まれれば断れなかった。
困っている者がいれば、自分たちの食事を削ってでも手を貸した。
金を貸して返ってこないこともあった。
嘘に騙されることもあった。
裏切られることも、笑われることもあった。
近所の者たちは言った。
愚かだと。
あれではいつか食い物にされると。
人を信じすぎるのは弱さだと。
優しさだけでは生きていけないと。
それでも、父も母も人に優しくした。
理由を聞いたことがある。
幼い万作は、縁側に座る母の隣で尋ねた。
「どうして、また助けるの。騙されたのに」
母は少し困ったように笑った。
「騙されたからって、優しくしたかった気持ちまで間違いになるわけじゃないよ」
「でも、損をした」
「そうだね」
「悔しくないの?」
「悔しいよ」
母はそう言って、万作の頭を撫でた。
「でもね、万作。人に優しくするのは、得をするためじゃないんだよ」
「じゃあ、何のためじゃ」
母は少しだけ空を見た。
貧しい家の小さな庭。
洗濯物が風に揺れている。
遠くで荷車の軋む音がした。
「ただ、愛したかったから」
母はそう言った。
「それだけ」
幼い万作には、その意味がよく分からなかった。
けれど、その言葉の響きだけは心に残った。
ただ、愛したかったから。
父も同じだった。
父はよく壊れた道具を直していた。
誰かの椅子。
誰かの鍋。
誰かの荷車。
誰かの子どもが壊した玩具。
代金を受け取らないことも多かった。
「父ちゃん、それじゃ暮らせんよ」
万作が言うと、父は笑った。
「暮らすための金はいる。でも、金のためだけに手を動かすと、手が寂しくなる」
「手が寂しい?」
「そうだ。手はな、誰かのために使うと温かい」
父は大きな手で、万作の小さな手を包んだ。
「お前の手も、そういう手になるといい」
万作は、そんな両親のもとに生まれたことを誇りに思っていた。
周りから見れば、愚かな人たちだったのかもしれない。
でも万作にとっては、誰よりも強い人たちだった。
人を疑う方が簡単だ。
怒る方が簡単だ。
奪う方が簡単だ。
壊す方が簡単だ。
それでも信じる。
それでも優しくする。
それは、きっと難しい。
難しいことには、やり甲斐がある。
だから万作は、優しくすることを覚えた。
◇
小さい頃の万作は、虫にすら優しかった。
雨上がりの道に、ひっくり返った甲虫がいれば戻してやった。
水たまりで溺れかけた小さな虫がいれば、葉に乗せて逃がした。
蜘蛛の巣を見つければ、壊さないよう遠回りした。
友人たちは笑った。
「虫なんて放っておけばいいだろ」
万作は首を振った。
「放っておけるものを、放っておかない方が難しい」
「何それ」
「難しい方が、面白いのさ」
万作はそういう子どもだった。
人の手伝いもよくした。
近所の老婆が米袋を運べずにいれば、背負った。
服が破れた子がいれば、母に教わった針仕事で縫った。
荷車の車輪が外れて困っている商人がいれば、父の道具を借りて直した。
屋根の雨漏りも直した。
棚も作った。
畑の道具も研いだ。
家畜小屋の扉も直した。
頼まれたからやったのではない。
困っている人を見つけると、身体が先に動いた。
そのたびに、万作は新しいことを覚えた。
針の通し方。
紐の結び方。
木材の組み方。
金属の曲げ方。
荷物の重心。
車輪の癖。
油の使い方。
古い機械の機嫌。
万作には天性の器用さがあった。
一度見れば、だいたい分かる。
二度やれば、かなりできる。
三度やれば、自分なりの工夫を足せる。
周囲は言った。
あの子は何でもできる、と。
万作は少し照れた。
だが、本当は何でもできるようになりたかったわけではない。
何かができれば、誰かを助けられる。
そのことが嬉しかった。
道具は、人を助けるためにある。
万作は、そう信じていた。
◇
万作が十五の頃、父が倒れた。
癌だった。
母もその二年後に同じ病で倒れた。
治療には金が必要だった。
枯野家には、その金がなかった。
父も母も、誰かのために金を使いすぎていた。
誰かに貸しすぎていた。
誰かの痛みを、自分たちの後回しにしすぎていた。
医者は言った。
もっと早ければ。
もっと設備のある場所へ行ければ。
もっと金があれば。
万作は、その言葉を一つも忘れなかった。
父は五十を少し過ぎて死んだ。
母も、ほとんど同じ歳で死んだ。
葬儀の日、近所の人たちは泣いた。
いい人たちだった。
助けてもらった。
優しい人だった。
惜しい人を亡くした。
万作は、黙って聞いていた。
悔しかった。
ならばなぜ、生きているうちに返してくれなかったのか。
ならばなぜ、助けてくれなかったのか。
ならばなぜ、優しさだけを受け取って、苦しみには気づかなかったのか。
そう思った。
そう思ってしまった自分が、嫌だった。
父と母なら、そんなふうには思わなかったかもしれない。
ただ愛したかったから。
それだけで、最後まで誰かに優しくしたのかもしれない。
万作は両親を誇りに思っていた。
けれど、その日、初めて知った。
優しさだけでは、守れないものがある。
◇
十八歳の夏、万作の地元では山賊が出るようになった。
正確には、山賊というより路上略奪集団だった。
荷狩り。
流賊。
街道荒らし。
呼び名はいくつもあった。
観令の指示により、天使が定期的に派遣された。
白い装甲をまとった天使たちは、空から降り、山賊の拠点を焼き、何人かを捕らえ、またどこかへ帰っていった。
それでも被害はゼロにならなかった。
天使が来る前に襲われる者がいた。
天使が去った後に襲われる者がいた。
通報が届かない道があった。
記録に残らない被害があった。
世界は、完全には守られていない。
万作はそのことを知っていた。
いや、本当はもっと昔から知っていたはずだった。
両親が騙された時から。
父と母が治療を受けられず死んだ時から。
それでも彼は、どこかで信じていた。
いつか皆が笑える世界になるのだと。
人に優しくし続ければ、いつか優しさが巡るのだと。
それが完全な夢だと知ったのは、高校の帰り道だった。
友人二人と帰っている途中、細い山道の先で悲鳴が聞こえた。
万作は走った。
考えるより先に足が出た。
道の先で、一人の女子生徒が山賊に腕を掴まれていた。
同じ学校の生徒だった。
名前は紗代。
いつも静かに本を読んでいる子だった。
山賊は三人いた。
友人が叫んだ。
「万作、待て! 天使を呼べ!」
だが、待てなかった。
天使が来るまでに、紗代は傷つけられる。
それだけは分かった。
万作は近くにあった壊れた荷車の車輪を拾った。
武器ではない。
ただの車輪だ。
けれど、万作の手の中では道具だった。
最初の一人の膝へ投げた。
膝が折れ、山賊が崩れる。
二人目が刃物を抜く。
万作は荷車の軸を掴み、棒のように振るった。
刃物が弾かれる。
手首に当たる。
嫌な音がした。
骨が折れる音だった。
三人目が紗代を盾にしようとした。
万作の視界が赤くなった。
足元の砂を蹴り上げる。
山賊の目が一瞬閉じる。
その隙に踏み込み、肩を掴み、地面に叩きつけた。
頭を打った山賊は動かなくなった。
死んではいなかった。
だが、ひどく傷ついていた。
万作の手は震えていた。
初めて人を傷つけた。
初めて、人が自分の手で壊れる感触を知った。
紗代は助かった。
友人たちが駆け寄ってきた。
「すげえよ、万作!」
「お前、あの子を助けたんだぞ!」
「正しいことをしたんだ!」
紗代も震えながら言った。
「ありがとう」
万作は嬉しかった。
助けられてよかった。
本当にそう思った。
でも、足元で呻く山賊を見た時、胸の奥が冷たくなった。
自分は一人の女の子を助けた。
そのために、一人の人間をひどく傷つけた。
きっと正しかったのだろう。
けれど、正しいという言葉だけでは、手の震えは止まらなかった。
その日の夜、万作は眠れなかった。
何度も手を洗った。
血はもうついていない。
それでも、指先に残っている気がした。
翌日、紗代が万作のところへ来た。
彼女は頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとう」
「ああ」
「でも」
紗代は少し迷ってから言った。
「あなたが平気じゃないことも、分かる」
万作は顔を上げた。
周囲の人は、万作を褒めた。
英雄だと言った。
正しいと言った。
凄いと言った。
けれど紗代だけは、万作の手の震えを見ていた。
「私は、あなたに助けられて嬉しかった」
紗代は言った。
「でも、あなたが傷ついたことまで、なかったことにしたくない」
万作は何も言えなかった。
その日から、紗代は万作にとって特別な人になった。
◇
それ以降も、万作は人を助けた。
各地に現れる山賊や荷狩りを倒し、襲われた荷車を助け、薬を運ぶ道を守った。
武器は選ばなかった。
棒。
紐。
針。
粉。
油。
荷車。
壊れた看板。
倒れた木。
割れた瓶。
濡れた布。
何でも使った。
けれど、彼は喧嘩が好きだったわけではない。
人を傷つけるのは嫌いだった。
ただ、誰かが傷つけられるのを見ている方が、もっと嫌だった。
その評判は広がった。
地上の外れに、やたらと器用な若者がいる。
どんな道具でも使える。
山賊相手でも怯まない。
人を助けるためなら危険な場所へ飛び込む。
ある日、一人の男が万作を訪ねてきた。
総流社の人間だった。
しかも、ただの社員ではない。
先代の要。
万作は最初、緊張した。
地上の人間にとって、十柱の者と話すことなど滅多にない。
さらに十柱に入ることなど、夢物語に近い。
先代の要は、万作をじっと見た。
「お前は、一人を救える」
男は言った。
「だが、総流社に来れば百人を救える」
万作は黙って聞いていた。
「地位も力も、使い方次第では人を救う道具になる。もっと上へ来い。もっと広い流れを見ろ」
「広い流れ……」
「お前の手が届く場所だけでは足りないだろう」
その言葉は、万作の胸に刺さった。
そうだ。
自分の目の前にいる人は救える。
自分の手が届く場所にいる人は守れる。
でも、目の届かない場所で泣いている人は救えない。
父と母も、そうだった。
必要なものが届いていれば、助かったかもしれない。
薬が。
金が。
情報が。
手が。
もっと広い流れを見ることができれば、もっと多くの人を助けられるのではないか。
万作は迷わなかった。
「行きます」
先代の要は笑った。
「即答か」
「より多くの人を助けられるなら、行きます」
こうして万作は、総流社に入った。
地上の人間が十柱に入る。
それは、普通ならあり得ないほど凄いことだった。
しかし万作にとって、それは出世ではなかった。
ただ、助けられる人を増やすための道だった。
◇
総流社での日々は、厳しかった。
先代の要は優しくなかった。
「道具を見るな」
最初にそう言われた。
「道具を見ずに、何を見るんですか」
「流れだ」
先代の要は、倉庫の真ん中に万作を立たせた。
周囲には無数の荷物。
搬送レーン。
昇降機。
作業員。
配送タグ。
壊れた機械。
油染み。
床の傾き。
「道具は単体で使うものではない。場所、人、時間、恐怖、油断、重さ、音、全部が道具になる」
万作は学んだ。
荷の重心。
人の歩き方。
機械の癖。
警備の死角。
情報の流れ。
噂の速さ。
金の動き。
恐怖の使い方。
強くなった。
日に日に、強くなった。
強くなれば、守れるものは増えた。
山賊に襲われる荷を守った。
薬を止めようとする者を退けた。
地上の貧しい地域へ、予定より早く物資を届けた。
壊れた橋を一晩で通れるようにした。
輸送路を塞ぐ連中を倒した。
万作は、総流社に来てよかったと思った。
地位と力は、人を救う道具になる。
先代の要の言葉は正しかった。
だが、強くなればなるほど、別のことも分かった。
自分の目の届く場所は守れる。
でも、目の届かない場所で苦しむ人は救えない。
自分が一つの荷を届けている間に、別の場所では薬が止まる。
自分が一人を助けている間に、別の場所では誰かが消える。
自分が一つの道を開いている間に、別の道が閉ざされる。
世界は広すぎた。
万作の手は、どれほど器用でも二本しかなかった。
◇
二十九歳の夏、先代の要が引退した。
そして、枯野万作が総流社の要となった。
地上出身の若者が十柱の要に就く。
異例だった。
称賛の声もあった。
妬みの声もあった。
警戒の視線もあった。
だが、万作にとって一番大切だったのは、紗代の言葉だった。
要就任の日、彼は家に帰った。
紗代はもう妻になっていた。
小さな家で、彼を待っていた。
「おめでとう」
彼女はそう言った。
万作は笑った。
「ありがとう」
「これで、もっとたくさんの人を助けられるね」
その言葉に、万作は少しだけ黙った。
紗代は気づいた。
「どうしたの」
「いや」
万作は首を振る。
「そうだな」
でも本当は、もう気づいていた。
全ての人を助けることはできない。
誰も見捨てたくない。
誰かを荷から落としたくない。
泣いている人を全員拾い上げたい。
だが、それはもう、今の万作には叶えられない理想論になっていた。
彼は強くなった。
地位も得た。
要にもなった。
それでも、全てを救うには足りなかった。
だから万作は、誓いを小さくした。
小さくせざるを得なかった。
紗代を守る。
両親はもういない。
彼にとって、その時、紗代は唯一の大切な人だった。
「紗代」
「うん?」
「お前だけは、必ず守る」
紗代は少し驚いた顔をした。
それから、困ったように笑った。
「私だけじゃなくていいよ」
万作は答えられなかった。
紗代は彼の手を握った。
「あなたは、誰かを助けたい人でしょう」
「……そうありたい」
「なら、私を守るために、あなたがあなたでなくなるのは嫌」
その言葉は、万作の胸に残った。
だが、残っただけだった。
要として働く日々の中で、彼は汚いものを見すぎた。
届くはずの薬が意図的に止められる。
地上の弱い地域への配送が切り捨てられる。
帳簿から人が消される。
荷札一つで命の価値が変わる。
十柱同士の利権争いで、無関係な人間が潰される。
観令に見えないよう処理される荷がある。
万作は怒った。
何度も怒った。
しかし、そのたびに総流社上層部は言った。
奥方の安全は保証できない。
君が暴れれば、彼女にも影響が出る。
君が従えば、彼女は守られる。
万作は、その言葉に負けた。
最初は一度だけだった。
これは仕方がない。
今回は見逃すしかない。
次は止める。
今は紗代を守るためだ。
そう言い聞かせた。
次は二度になった。
三度になった。
やがて数えることをやめた。
汚い荷にも蓋をした。
見たくない帳簿を閉じた。
助けられたはずの誰かを、目の届かない場所の人間だと言い聞かせた。
せめて、自分の大切な人だけはこんな目に遭わせない。
その思いは、祈りだった。
同時に、彼を戦場へ誘う言葉でもあった。
◇
紗代は、万作の変化に気づいていた。
ある夜、彼女は言った。
「最近、手が冷たいね」
万作は自分の手を見た。
人を助けると温かくなるはずだった手。
父がそう言っていた手。
今は、冷たかった。
「疲れているだけだ」
「違うと思う」
紗代は静かに言った。
「あなた、何かを我慢している」
万作は笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
「要とは、そういうものか」
「違うよ」
紗代は首を振った。
「あなたは、要になる前からあなたでしょう」
万作は何も言えなかった。
紗代は続けた。
「私は守られていると思う。あなたのおかげで、怖い思いをしなくて済んでる」
「なら」
「でもね、万作」
紗代は彼の手を握った。
「私を守るために、あなたが誰かを見捨てるたび、あなたが傷ついてる」
万作は目を伏せた。
「そんなことは」
「あるよ」
彼女の声は優しかった。
優しいからこそ、痛かった。
「あなたの優しさは、弱さじゃないよ」
万作の胸が詰まった。
「だから、捨てないで」
万作は頷けなかった。
頷けば、守れなくなる気がした。
紗代だけは守る。
そう誓ったはずだった。
けれど、その誓いはいつの間にか、彼自身を縛る鎖になっていた。
◇
紗代は、長くは生きなかった。
不治の病だった。
万作はあらゆるものを使った。
総流社の要としての地位。
再命社への伝手。
薬。
医師。
金。
特別な輸送路。
隠し在庫。
天界に近い治療設備。
両親の時には手に入らなかったものを、今の万作は持っていた。
それでも、紗代は助からなかった。
最後の日、紗代は万作に言った。
「そんな顔しないで」
万作は震える手で彼女の手を握っていた。
「俺は、守れなかった」
「守ってくれたよ」
「何も守れなかった」
「私は、あなたにたくさん守ってもらった」
「でも、生かせなかった」
紗代は少し笑った。
「それは、あなたのせいじゃない」
「俺は要だ」
「うん」
「何でも使える」
「うん」
「それでも、お前一人救えなかった」
紗代は弱く首を振った。
「万作」
「うん」
「あなたの手は、まだ温かいよ」
それが、彼女の最後の言葉だった。
紗代が死んだ後、万作は長い間、道具に触れられなかった。
父も母も救えなかった。
紗代も救えなかった。
全てを救えないどころか、たった一人すら救えなかった。
それでも、彼には息子がいた。
やがて孫もできた。
守るものが、また増えた。
万作は総流社を辞めなかった。
辞められなかった。
自分が総流社を出れば、家族が危険になる。
息子の生活も、孫の学費も、総流社に握られている。
だから万作は残った。
せめて、残った家族だけは守る。
その言葉を、彼はまた使った。
醜くても。
卑怯でも。
腐っていても。
守るものがある。
そう言い聞かせて、万具の翁は総流社の要であり続けた。
◇
そして、天理久夜たちが現れた。
最初に報告を受けた時、万作はただの反逆者だと思った。
天理家から落ちた若者。
冥下の情報屋。
車椅子の狙撃手。
異世界線由来の少女。
火を使う男。
総流社の荷を荒らし、隠し倉庫を暴き、情報を地上へ流す者たち。
若いのう。
万作はそう思った。
無謀だと思った。
危ういと思った。
それでも、どこか眩しかった。
怒れる。
まだ怒れるのか。
人を荷物にするなと叫べるのか。
分類で命を潰すなと、真っ直ぐに言えるのか。
その眩しさが、万作には痛かった。
かつての自分を見ているようだったからだ。
◇
白枝搬送塔の第五検査層。
久夜は万作に向かって叫んだ。
「何で止めなかった!」
その声を聞いた時、万作は一瞬、別の声を聞いた気がした。
十八歳の自分の声だった。
山賊を倒し、紗代を助け、それでも人を傷つけた手の震えを止められなかった若い自分。
どうすればよかった。
誰も傷つけずに助ける道はなかったのか。
正しいと言われても、なぜこんなに苦しいのか。
久夜の怒りは、若い日の万作の怒りに似ていた。
だから万作は戦った。
久夜を止めるためではない。
確かめるためだった。
その怒りが、ただ壊すためのものなのか。
それとも、誰かの名前を守るためのものなのか。
久夜の刃は速かった。
前に戦った時より、ずっと速い。
ただ一直線に進むだけではない。
万作が置いた道具を読み、避け、利用し、戻る刃の道すら変えてくる。
若い。
未熟。
だが、伸びる。
万作はその刃を受けながら、胸の奥で小さく笑った。
若いのう。
その言葉は、見下しではなかった。
羨望だった。
「怒りを失うな」
万作は久夜に言った。
だが本当は、若い自分へ言っていた。
父と母を失い、世界の不公平に怒った自分。
紗代を襲った山賊を傷つけ、正しさだけでは納得できなかった自分。
総流社に入り、もっと多くを救えると信じていた自分。
怒りを失うな。
あの時の怒りを、忘れるな。
「じゃが、怒りだけで走るな」
それもまた、若い自分への言葉だった。
怒りだけで走った先に、何があった。
守るものを理由に、どれだけの荷に蓋をした。
大切な人を守ると言いながら、どれだけ自分を見失った。
怒りは火種になる。
だが、道にはならない。
久夜は言った。
「ラナは荷物じゃない」
万作は頷いた。
その通りじゃ。
「砕耀は流れに詰まった石じゃない」
その通りじゃ。
「俺は、天理家の失敗作じゃない」
万作は、その言葉を聞いた時、胸の奥が少しだけ軽くなった。
名前を取り戻す者の声だった。
分類ではなく、役割ではなく、荷札ではなく、自分の名で立とうとする者の声。
万作は杖を下ろした。
「認めよう」
久夜が睨む。
「何を」
「お前さんらは、荷を受け取るに値する」
万作は黒い記録媒体を渡した。
要後継計画。
マッドファザーとの契約。
上層部の承認印。
十柱内覇権構想。
自分への脅迫記録。
総流社を壊すための荷。
そして、自分が長く蓋をしてきた毒。
「流せ」
万作は砕耀へ言った。
「止めるな。血管は切るだけでは足りん。毒を外へ出せ」
そして久夜へ向き直った。
「久夜」
初めて、彼を名前で呼んだ。
「お前さんは、わしになるな」
久夜は眉をひそめた。
「どういう意味だ」
万作は少しだけ笑った。
「いずれ分かる。分からんままなら、その方がよい」
それは久夜への助言だった。
同時に、もう届かない過去の自分への願いでもあった。
万作は思った。
若い頃の自分に、誰かがそう言ってくれていたら。
お前は、お前を失うなと。
守るものを理由に、優しさを捨てるなと。
汚い道具を使う日が来ても、使った自分を正当化するなと。
誰かが言ってくれていたら、自分は違う道を歩けただろうか。
分からない。
だが、久夜たちなら。
まだ、間に合うかもしれない。
◇
万作はその後、総流社本部へ向かった。
大天使。
権天使。
主天使。
総流社の依頼によって軍を成して現れた保安社の天使たちを、万作は一人で迎えた。
要としてではない。
総流社を守るためでもない。
もう一度、自分の信念のために。
道具は、人を助けるためにある。
その原点へ、最後に戻るために。
万作は本気で戦った。
床も、壁も、荷札も、壊れたドローンも、天使の槍も、自分の傷も、すべてを道具にした。
大天使を絡め取り、権天使の翼を畳ませ、主天使の装甲を古い鍵で開いた。
老いた身体は悲鳴を上げた。
薬の副作用で心臓は軋んだ。
それでも、彼は倒れなかった。
世界中の血管を見続けてきた老人は、最後にその血管へ詰まった毒を外へ流した。
送信者名。
枯野万作。
万具の翁。
総流社の要が、自ら総流社を壊した。
◇
夜。
万作は家に帰った。
息子がいた。
息子の嫁がいた。
孫がいた。
万作は謝った。
クビになってしまったこと。
もう前のようには支えられないこと。
学費も生活も、今まで通りにはいかないかもしれないこと。
息子は言った。
「大丈夫ですよ。今まで父さんが支えてくれたぶん、今度は私たちが頑張ります」
嫁も言った。
「お義父さんは、少し休んでください」
孫は聞いた。
「じいちゃん、明日あそべる?」
万作は笑った。
「そうじゃな。少しなら」
その後、万作は仏壇の前に座った。
紗代の写真がある。
若い頃と変わらない笑顔だった。
万作は、もう使えなくなった要権限札を写真の前に置いた。
「帰ったぞ」
小さく言った。
「遅くなって、すまんのう」
写真は何も答えない。
万作はしばらく黙っていた。
「わしは、ずいぶん遠くまで来てしもうた。お前に胸を張れることばかりではなかった。いや、胸を張れんことの方が多かった」
手が震える。
老いのせいか。
薬のせいか。
それとも、ようやく荷を下ろしたせいか。
万作には分からなかった。
「でも今日、少しだけ戻れた気がする」
彼は写真を見つめた。
「誰かを助けるために、道具を使っていた頃の自分にのう」
奥の部屋から孫の声が聞こえた。
息子夫婦の話し声も聞こえた。
家の音だった。
総流社の警報ではない。
搬送レーンの音でもない。
役員たちの怒声でもない。
ただの家の音。
「なあ、紗代」
万作は静かに言った。
「わしの手は、まだ温かいかのう」
写真は答えない。
けれど万作には、紗代が呆れたように笑っている気がした。
無茶をして。
遅すぎるわ。
でも、おかえり。
そんな声が聞こえた気がした。
万作は深く頭を下げた。
「ただいま」
その夜、万具の翁は終わった。
枯野万作だけが、家に残った。
世界の血管は止まらない。
けれど、もう同じようには流れない。
腐った荷は外へ出た。
毒は暴かれた。
そして、かつてただ愛したかった人々の子として生まれた老人は、最後にもう一度だけ、愛したかったもののために道具を使った。




