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白いカラス  作者: シンドゥー


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7/15

外伝 死蝕の星

 高井雫井たかい・だいは、十一歳の少年だった。


 痩せていて、声が小さくて、誰かと目を合わせるのが苦手だった。


 地上で暮らしていた頃、彼の家にはいつも金の話があった。


 いくら足りない。

 誰に返す。

 いつまでに払う。

 払えなければどうなる。


 父は毎晩、顔色を悪くして帰ってきた。母は泣くことも怒ることもやめ、家の中を幽霊のように歩いていた。


 雫井には、難しいことは分からなかった。


 ただ、家の中から温度が消えていくことだけは分かった。


 ある日、父は帰ってこなかった。


 大人たちは「鉄砲玉」という言葉を使った。


 意味は知らない。


 だが、その言葉が人間を人間として扱っていないことだけは、子どもの雫井にも分かった。


 母はその数日後に消えた。


 置き手紙もなかった。


 残ったのは、空っぽの部屋と、雫井一人だった。


 やがて、黒い服の男たちが家に来た。


「お前、行くところないだろ」


 男の一人が言った。


 雫井は何も答えなかった。


「なら、来い。飯くらいは食わせてやる」


 それが、組織との出会いだった。


 彼らは善人ではなかった。


 金を奪い、人を脅し、時には命を使い捨てる。雫井の父を死なせたのも、その組織だった。


 それでも彼らは、雫井を拾った。


 飯を食わせた。

 寝る場所を与えた。

 名前を呼んだ。


 雫井にとっては、それが初めての居場所だった。


 組織が彼を引き取った理由は、優しさだけではない。


 育てれば、将来使える。


 従順で、身寄りがなく、逃げ場のない子どもは、組織にとって都合がよかった。


 雫井も、それを何となく分かっていた。


 けれど、それでもよかった。


 誰もいない部屋で一人凍えるより、誰かの命令を聞いている方が、まだ息がしやすかった。


 そこで、彼女と出会った。


 彼女もまた、似たような境遇の子どもだった。


 親に捨てられたのか、売られたのか、逃げてきたのか。詳しいことは、雫井も知らない。


 最初に話しかけてきたのは彼女だった。


「雫井って書いて、だいって読むの?」


 雫井は頷いた。


「変だろ」


「ううん」


 彼女は首を振った。


「きれいな名前だと思う」


 その言葉を聞いた時、雫井はどう返せばいいか分からなかった。


 きれい。


 自分の名前に、そんな言葉が使われたことなど一度もなかった。


 それから、彼女はよく雫井の隣にいた。


 残ったパンを半分に割ってくれた。

 怪我をした時には、汚れた布で手当てしてくれた。

 怖い大人たちの怒鳴り声が聞こえる夜には、壁越しに小さく歌ってくれた。


 その歌は上手くなかった。


 でも、温かかった。


 雫井は初めて知った。


 誰かといると、寒くないことがあるのだと。


 その感情に名前をつけるには、彼はまだ幼すぎた。


 けれど、彼は思った。


 強くなりたい。


 この子が怖がらないように。


 この子が泣かなくてすむように。


 いつか、ここから一緒に出ていけるように。


 雫井は、強くなりたかった。


 誰かを傷つけるためではなく。


 守るために。


   ◇


 数年が過ぎた。


 組織は大きくなりすぎた。


 地上の裏側で動く金。

 武器。

 薬。

 人身売買。

 観令の記録に触れてはならない荷物。


 そのすべてが、ある日、天界の目に留まった。


 襲撃は夜明け前だった。


 白い外套が闇を裂いた。


 保安社の大天使部隊。


 彼らは静かで、正確で、迷いがなかった。


 組織の構成員たちは銃を取った。刃を取った。逃げようとした者もいた。


 だが、白い外套はそれらを許さなかった。


 雫井は彼女の手を引いて、廊下を走った。


 どこへ逃げればいいか分からなかった。出口がどこかも分からなかった。ただ、彼女の手だけは離してはいけないと思った。


 銃声。


 悲鳴。


 倒れる音。


 誰かが雫井の名前を呼んだ。


 誰かが助けを求めた。


 白い剣が、闇の中で振るわれる。


 雫井は転んだ。


 彼女の手が離れた。


「だい」


 彼女が呼んだ。


 その声だけは、ずっと覚えている。


 けれど、その後のことは、記憶の中で崩れている。


 白い外套。

 床に広がる赤。

 壊れた扉。

 動かない大人たち。

 小さな手。


 そして、彼女。


 雫井は叫んだはずだった。


 泣いたはずだった。


 誰かにすがったはずだった。


 だが、どれも遠い。


 気がついた時、雫井は死体の山の中にいた。


 唯一の生存者として。


   ◇


 後日、地上の報道はこう伝えた。


 反社会組織の拠点で五十七人が殺害された。


 犯人は、組織に育てられていた少年。


 名前は高井雫井。


 年齢は十代半ば。


 精神状態に異常が疑われるが、凶悪性は極めて高い。


 雫井は否定した。


 自分ではない。


 自分は誰も殺していない。


 みんなを殺したのは白い外套だ。


 彼女を殺したのは天界だ。


 だが、誰も聞かなかった。


 記録は整っていた。


 現場に残された証拠。

 組織の内部資料。

 雫井の手に付着した血。

 そして、保安社の報告。


 大天使部隊は、本来殺す予定ではなかった者たちまで殺してしまった。


 子ども。

 非戦闘員。

 逃げようとした者。

 武器を持っていなかった者。


 その失態を隠すため、雫井は犯人にされた。


 五十七人を殺した少年。


 そう記録された。


 観令の中で、一度そう定義されれば、世界はそれを事実として扱う。


 雫井は刑務所へ送られた。


   ◇


 刑務所の中で、雫井は怪物として扱われた。


 だが、実際の彼は弱かった。


 腕は細く、背も低く、声も震える。


 五十七人を殺した凶悪犯。


 その肩書きだけが一人歩きし、同じ房の者たちは彼を面白がった。


「おい、大量殺人犯」


 男が笑う。


「人殺しのくせに、そんな顔してんのか」


 雫井は何も言わない。


 言えば殴られる。


 言わなくても殴られる。


 食事を奪われた。


 眠りを邪魔された。


 名前を笑われた。


 それでも、雫井は生きた。


 天界への復讐心だけが、彼を生かしていた。


 白い外套。


 彼女を殺した者たち。


 雫井に罪を着せた者たち。


 あいつらを殺す。


 いつか必ず。


 その思いだけが、冷たい独房の中で燃えていた。


 だがある夜、いつものように嫌がらせをしてきた同居人の男が、彼女のことを笑った。


 名前も知らないくせに。


 顔も見たことがないくせに。


 ただ雫井を傷つけるためだけに、その存在を踏みにじった。


 気がつくと、雫井は男の首に手をかけていた。


 力などないはずだった。


 勝てるはずがなかった。


 だが、その時だけは違った。


 男が動かなくなった瞬間、何かが雫井の中へ流れ込んできた。


 記憶。


 技術。


 筋肉の使い方。

 殴り方。

 盗み方。

 人を脅す声の出し方。

 誰かを見下す時の感覚。


 男の人生が、濁った水のように雫井の中へ流れ込んだ。


 雫井は吐いた。


 頭の中に、自分ではない誰かの声が残っていた。


 だが同時に、分かってしまった。


 殺せば、奪える。


 殺せば、強くなれる。


 雫井は震えた。


 恐怖ではない。


 希望に似た、最悪の感情だった。


   ◇


 数日後、雫井の死刑が急遽決まった。


 理由は知らされなかった。


 ただ、処理を急げという命令だけが降りた。


 高井雫井は、死ぬことになった。


 雫井は独房の壁に背を預け、膝を抱えた。


 死ねない。


 まだ死ねない。


 彼女を殺した連中を殺していない。


 天界に復讐していない。


 何もできていない。


 死ねない。


 死ぬわけにはいかない。


 その夜、刑務所の明かりが落ちた。


 雫井は最初に看守を殺した。


 その記憶が流れ込む。


 鍵の位置。

 巡回経路。

 警備の癖。

 非常通路。


 次に囚人を殺した。


 暴力の記憶。

 盗みの記憶。

 逃走の記憶。

 喧嘩の技術。

 殺意。

 恐怖。

 後悔。


 次々と雫井の中に混ざっていく。


 彼は泣きながら殺した。


 泣いて、吐いて、震えながら、それでも止まらなかった。


 強くなるために。


 死なないために。


 復讐するために。


 やがて、死体が立ち上がった。


 雫井が望んだわけではない。


 ただ、殺した者たちの死が、彼の意志に引きずられるように動いた。


 屍兵。


 死者の体が、雫井の命令を待っていた。


 刑務所の中に、死者の軍勢が生まれた。


 夜明け前、刑務所は沈黙した。


 生きている者は、雫井だけだった。


 いや。


 もう、高井雫井ではなかった。


 彼は門の前に立ち、血に濡れた手で空を見上げた。


 空はまだ暗い。


 星は見えない。


「殺す」


 彼は呟いた。


「強くなる」


 その声は、雫井のものではなかった。


 彼は名前を捨てた。


 高井雫井では、弱すぎたから。


 けれど、新しい名前を自分で選んだわけではない。


 ただ、後に人々が彼をこう呼ぶ。


 惰偉だい、と。


   ◇


  大量殺人犯の少年が脱獄した。


 その報せは、地上を駆け巡った。


 高井雫井。


 反社会組織の拠点における五十七人殺害の犯人。

 死刑執行直前、刑務所内で暴動を起こし脱獄。

 看守、囚人を含む多数の死者を出した極めて危険な少年。


 地上の報道はそう伝えた。


 天界は記録を整えた。


 保安社は追跡を開始した。


 だが、冥下では違った。


 冥下では、それはニュースではなかった。


 災害の始まりだった。


   ◇


 雫井は冥下を歩いていた。


 いや、もうその名で呼ぶ者はいなかった。


 刑務所を出た時、彼はまだ人の形をしていた。


 痩せた身体。

 震える指。

 光のない目。

 そして、その背後に従う屍兵たち。


 死体が歩いている。


 それだけで、冥下の者たちは道を空けた。


 彼は初め、ただ逃げていた。


 天界から。

 保安社から。

 自分に押しつけられた罪から。

 そして、自分の中に流れ込んできた他人の記憶から。


 殺せば、奪える。


 刑務所で知ってしまったその事実は、呪いのように彼の中にこびりついていた。


 殺した看守の記憶で鍵を開けた。

 殺した囚人の記憶で殴り方を覚えた。

 殺した者たちの恐怖で、人の怯え方を知った。


 だが、奪えるものはそれだけではなかった。


 最初に気づいたのは、冥下の路地裏だった。


 雫井を狙った男がいた。


 異理者だった。


 男は自分の影を伸ばし、雫井の足を絡め取った。


 冥下には、天界に見つかることを恐れ、力を隠して生きる異理者がいる。


 地上で生きられなかった者。

 力のせいで居場所を失った者。

 誰にも知られず、ただ静かに暮らしたかった者。


 その男も、そうした者の一人だった。


 雫井は殺した。


 殺すしかなかった。


 男が倒れた瞬間、記憶が流れ込んできた。


 幼少期。

 力に怯えた家族。

 天界の検査を避けるための逃亡。

 冥下での暮らし。

 影を伸ばす感覚。

 足元から闇を這わせる感覚。


 雫井の足元で、影が揺れた。


 自分のものではない力が、彼の中で息をし始めた。


 異理すら、奪える。


 その理解は、雫井をさらに深い場所へ落とした。


 彼は震えた。


 恐怖ではない。


 また、あの感情だった。


 希望に似た、最悪の感情。


 殺せば、強くなれる。


 殺せば、天界に届く。


 殺せば、彼女を殺した白い外套を殺せる。


 殺せば。


 殺せば。


 殺せば。


 雫井は、異理者を狩り始めた。


   ◇


 最初に奪った異理は、影を伸ばす力だった。


 足元から伸びる黒い影は、逃げる者の足首を掴み、暗がりへ引きずり戻した。


 次に奪った異理は、骨を硬質化させる力だった。


 彼の腕の内側から白い骨刃が生え、屍兵たちの武器となった。


 次に奪った異理は、声を遠くへ届ける力だった。


 彼の声は冥下の夜を這い、壁の向こうで震える人々の耳元にまで届いた。


 逃げても無駄だ。


 隠れても無駄だ。


 死は、お前を覚えている。


 次に奪った異理は、重さを変える力だった。


 逃げる者の身体は急に重くなり、地面に膝をついた。

 屍兵は軽くなり、獣のように屋根から屋根へ跳んだ。


 次に奪った異理は、肉を硬化させる力だった。


 雫井の皮膚は刃を弾き、銃弾を浅く沈ませるだけになった。


 次に奪った異理は、痛みを鈍らせる力だった。


 彼は斬られても、焼かれても、動き続けた。


 だが、異理を奪うたび、彼の中にはその持ち主の記憶も流れ込んだ。


 影の男の孤独。

 骨の女の怒り。

 声の老人の後悔。

 重さを変える少年の恐怖。

 肉を硬くする亜人の諦め。


 それらが、彼の中で濁り合う。


 誰かの母の顔。

 誰かの恋人の名。

 誰かの故郷の匂い。

 誰かの死に際の祈り。


 そのすべてが雫井の中へ沈んでいく。


 殺せば強くなる。


 だが、殺すほどに、自分が薄くなる。


 彼女の声はまだ覚えていた。


 彼女の手の温度も覚えていた。


 けれど、名前だけが出てこない。


 何度も思い出そうとした。


 夜の路地で。

 屍兵の群れの中で。

 殺した者の記憶に呑まれそうになるたびに。


 彼は彼女の名前を探した。


 だが、浮かぶのは殺した者たちの名前ばかりだった。


 違う。


 違う。


 これじゃない。


 俺が呼びたい名前は、これじゃない。


 それでも思い出せなかった。


 だから彼は、もっと殺した。


 強くなれば、取り戻せる気がした。


 強くなれば、失ったものに手が届く気がした。


 そんなはずがないことに、もう気づけなかった。


   ◇


 雫井は亜人も狩った。


 冥下へ流れ着いた亜人たちは、身体そのものに力を持つ者が多かった。


 翼を持つ者。

 岩のような皮膚を持つ者。

 獣の筋肉を持つ者。

 長い腕を持つ者。

 複眼を持つ者。

 人ならざる骨格を持つ者。


 彼は彼らを殺し、身体を使った。


 皮膚を貼り替えた。

 翼を縫いつけた。

 胴を伸ばした。

 腕を増やした。

 骨格を組み替えた。


 それは手術ではなかった。


 進化でもなかった。


 死体と記憶で作られた、冒涜だった。


 雫井の身体は、少しずつ人間から離れていく。


 長く歪んだ胴体。

 不自然に増えた腕。

 背に広がる裂けた翼。

 継ぎ接ぎの皮膚。

 幾つもの異理を抱えた濁った肉体。


 人間ではない。


 亜人でもない。


 異理者でもない。


 ただ、おぞましいもの。


 冥下の者たちは、彼を遠くから見ただけで膝をついた。


 逃げても無駄だった。


 影が足を捕らえる。

 重さが身体を地面へ縫いつける。

 声が耳元で囁く。

 屍兵が道を塞ぐ。

 骨刃が扉を破る。


 倒れた者は、次の兵になる。

 殺された者は、記憶になる。

 異理者は、力になる。

 亜人は、肉体になる。


 やがて、雫井は冥下第5圏を掌握した。


 その頃にはもう、彼を高井雫井と呼ぶ者はいなかった。


 誰かが、彼を惰偉だいと呼んだ。


 その名が広がった。


 雫井という名は、沈んでいった。


 彼自身の中でさえ。


   ◇


 冥下第5圏は、死者の街になった。


 昼でも窓は閉ざされた。


 夜には誰も外へ出なかった。


 子どもたちは泣き声を殺し、大人たちは呼吸すら浅くした。


 泣けば、屍兵が来る。


 走れば、影が来る。


 隠れれば、声が来る。


 抵抗すれば、惰偉が来る。


 惰偉は、強さを誇示した。


 屍兵の軍勢を街路に並べ、空に向かって咆哮した。


 それは天界への挑発だったのかもしれない。


 だが、その頃には彼自身にも分かっていなかった。


 復讐。


 天界。


 白い外套。


 彼女。


 守る。


 そうした言葉は、殺した者たちの記憶の底に沈み、形を失っていた。


 ただ、強さだけが残った。


 もっと強く。


 もっと強く。


 もっと強く。


 強くなれば、何かを思い出せる。


 強くなれば、何かに届く。


 強くなれば、きっと。


 その「何か」が何だったのか、もう分からなかった。


   ◇


 天界は、惰偉を危険対象として認定した。


 通常の保安社部隊では対処不能。


 大天使部隊では損耗が大きすぎる。


 権天使による制圧も失敗の可能性が高い。


 最終的に、座天使が派遣された。


 最高粛清部隊、座天使。


 集団における戦闘能力は天界最高峰。


 異常個体、禁忌研究、都市規模災害に対して投入される最奥の刃。


 彼らは強かった。


 第5圏の外縁から侵入した座天使部隊は、屍兵を次々と破壊した。


 隊列は乱れない。


 火力は無駄がない。


 死者の軍勢を物として処理するように進んでいく。


 惰偉は、それを高所から見下ろしていた。


 白い外套。


 白い刃。


 白い光。


 記憶の底がざわつく。


 彼女の声が、遠くで揺れる。


 だい。


 だい。


 だい。


 惰偉の中で、何かが軋んだ。


 怒りだったのか。


 悲しみだったのか。


 復讐心だったのか。


 彼にはもう分からない。


 ただ、白いものが憎かった。


 座天使部隊が中央広場へ到達した瞬間、惰偉は動いた。


 影が広場全体へ広がる。


 足元から伸びた黒い手が、座天使たちの脚へ絡みつく。


 座天使の一人が光刃で影を断つ。


 だが、影は煙のように散り、別の場所からまた伸びた。


 別の座天使が重力異常に捕らえられ、膝をつく。


 その上から、骨槍が降った。


 屍兵が雪崩れ込む。


 座天使たちは即座に陣形を変えた。


 火線が屍兵を焼く。

 光刃が骨槍を砕く。

 防壁が影を遮断する。


 だが、惰偉はそのすべてを見ていた。


 殺した者たちの記憶が、戦い方を囁く。


 元囚人の暴力。

 亜人の身体感覚。

 異理者の発動経験。

 殺した保安社兵の戦術知識。


 惰偉は、それらを一つの肉体で無理やり使った。


 翼で空へ跳ぶ。


 影で敵を止める。


 重さを変えて落下速度を増す。


 硬化した腕で防御を砕く。


 骨刃で白い外套を裂く。


 声の異理で命令を乱す。


 屍兵で退路を塞ぐ。


 戦場全体が、惰偉の身体の延長になっていた。


 座天使は一人、また一人と削られた。


 彼らは惰偉を何度も傷つけた。


 腕を斬った。

 翼を落とした。

 胴を貫いた。

 皮膚を焼いた。

 異理の発動器官を破壊した。


 だが、倒れない。


 死なない。


 屍兵が肉を運ぶ。

 亜人の皮膚が傷口を塞ぐ。

 奪った異理が別の異理を補う。

 死者の記憶が新しい戦術を組み立てる。


 そして最悪なのは、座天使が倒れるたびに、その記憶と技術が惰偉へ流れ込むことだった。


 天界最高峰の戦闘経験。


 座天使の連携。


 呼吸。


 間合い。


 粛清術式。


 それすら、惰偉の中へ混ざっていく。


 長引けば長引くほど、敵が強くなる。


 座天使部隊は、撤退を選んだ。


 それは敗北ではない。


 そう記録された。


 戦術的撤退。


 被害拡大防止。


 再編成のための後退。


 だが、冥下第5圏の人々は知っていた。


 天界の最高粛清部隊は、死の怪物を殺せなかった。


 その日から、惰偉はただの怪物ではなくなった。


 死体を連れ歩く少年でもない。


 冥下の支配者でも足りない。


 彼は、星になった。


 希望ではない。


 祈りでもない。


 人々の心に恐怖として焼きついた星。


 見た目。

 無差別な殺戮。

 屍兵の軍勢。

 奪った異理。

 座天使すら撤退させた強さ。


 それらが、冥下の者たちの心にこびりついた。


 死を蝕む星。


 死を連れて歩く星。


 死そのものを地上に落とす星。


 死蝕の星。


 そう呼ばれるようになった。


   ◇


 それから半年、死蝕の星は第5圏に君臨した。


 誰も逆らえなかった。


 逆らえば殺される。


 殺されれば兵になる。


 異理者なら力になる。


 亜人なら肉体になる。


 普通の人間なら記憶になる。


 誰一人、無駄にはされない。


 それが何よりおぞましかった。


 死すらも、惰偉の材料にされる。


 第5圏の人々は、ただ息を潜めていた。


 ある日、一人の子どもが逃げ出した。


 痩せた、小さな子どもだった。


 何度も転び、膝を擦りむき、泥にまみれながら、それでも歩いた。


 目的地は、冥下の外れにある小さな事務所。


 便利屋。


 そこにいる女なら、助けてくれるかもしれない。


 そう聞いたから。


 子どもは扉を叩いた。


 一度。


 二度。


 三度。


 中から、低い声がした。


「誰だ」


 扉が開く。


 赤みがかった長い髪。


 背の高い女。


 鋭い目。


 燃えるような気配。


 腰には、一振りの刀。


 玲火。


 武術を極めた女。


 拳も、蹴りも、投げも、関節も扱える。


 だが、彼女が最も得意とするのは刀を用いた剣術だった。


 子どもは震えながら言った。


「たすけて」


 玲火は黙って見下ろした。


「誰を」


「ぼくを」


 子どもは唇を噛む。


「第5圏の人を」


 声が震える。


「あいつから、解放して」


 玲火は少しだけ目を細めた。


「依頼料は」


 子どもは俯いた。


「払えません」


「じゃあ後でいい」


 子どもが顔を上げる。


「後で……?」


「生きてから考えろ」


 玲火は事務所の奥へ歩き、刀を手に取った。


「死んだら払えねーだろ」


   ◇


 玲火が第5圏に入った時、屍兵たちはすぐに反応した。


 死者の群れが道を塞ぐ。


 腕のない兵。

 顔のない兵。

 繋ぎ合わされた兵。

 生前の技術だけを残した、死の操り人形。


 玲火は刀の柄に手をかけた。


「邪魔だ」


 一歩。


 踏み込む。


 抜刀。


 刃が走った。


 屍兵の首が落ちる前に、胴が裂ける。

 胴が裂ける前に、足が断たれる。

 足が断たれる前に、惰偉の支配と死者を繋ぐ何かが焼き切られていた。


 炎は刃に宿っていた。


 災いのように赤く、しかし不思議なほど静かな炎。


 屍兵たちは燃えながら崩れていく。


 叫び声はない。


 ただ、長く縛られていた死が、ようやく解けていくようだった。


 惰偉は遠くでそれを感じた。


 自分の軍勢が減っている。


 倒されているのではない。


 奪い返せない形で、終わらされている。


 死が斬られている。


 惰偉は初めて、興味を持った。


   ◇


 玲火は進んだ。


 屍兵の群れを斬り、焼き、断ちながら。


 街の奥へ。


 死蝕の星のいる場所へ。


 道の端で、人々が窓の隙間から見ていた。


 誰も声を出さない。


 希望を口に出すことすら怖かった。


 それでも、玲火の背中を見ていた。


 彼女は振り返らない。


 助けると叫ばない。


 安心しろとも言わない。


 ただ、前に進む。


 その姿だけで、誰かの呼吸が少しだけ戻った。


 広場に、惰偉はいた。


 巨大な影だった。


 人間の形は、もう残っていない。


 長く歪んだ胴。


 継ぎ接ぎの皮膚。


 複数の腕。


 裂けた翼。


 無数の記憶を宿した、濁った目。


 その周囲には、影が溜まり、骨が突き出し、屍兵が跪いていた。


 その姿を見た者は、まず恐怖する。


 次に、吐き気を覚える。


 最後に、理解する。


 これは死だ、と。


 惰偉は玲火を見下ろした。


「お前、強いな」


 声は一つではなかった。


 少年の声。

 老人の声。

 女の声。

 囚人の声。

 亜人の声。

 殺された異理者の声。

 座天使の声。


 それらが重なって、惰偉の口から出ていた。


 玲火は顔をしかめる。


「うるせえ声だな」


「殺せば、もっと強くなれる」


「興味ねえ」


「強くなれば、奪われない」


 惰偉の複数の腕が広がる。


「強くなれば、守れる」


 玲火の目が鋭くなった。


「守る?」


 低い声。


「テメーが?」


 惰偉の足元から影が広がった。


 黒い影が、地面を這う。


 玲火の足首へ絡みつこうとする。


 玲火は刀を振るった。


 影が裂ける。


 だが、斬られた影は煙のように散り、また別の場所から伸びる。


「異理か」


 玲火が低く言った。


 惰偉の口が歪む。


「殺した」


 声が重なる。


「奪った」


「継いだ」


「使える」


 惰偉の背中から、骨のような白い槍が無数に伸びた。


 それらは一斉に射出され、雨のように玲火へ降り注ぐ。


 玲火は走った。


 避ける。


 斬る。


 弾く。


 刀の炎が骨槍を焼き、灰に変える。


 だが、惰偉は止まらない。


 今度は空気が歪んだ。


 玲火の周囲の重さが狂う。


 身体が地面へ押し潰されそうになる。


 重力を変える異理。


 その一瞬を狙い、屍兵たちが四方から飛びかかる。


「小細工が多いな」


 玲火は歯を食いしばり、地面を踏み砕いた。


 膝が沈む。


 だが倒れない。


 刀を鞘へ納める。


 一拍。


 抜刀。


 炎の線が円を描いた。


 玲火を中心に、屍兵たちの胴が一斉に裂ける。


 遅れて、斬られた断面から赤い炎が咲いた。


 死者を操る糸が焼き切られ、屍兵たちが崩れる。


 惰偉が咆哮する。


 その声は衝撃波となって広場を揺らした。


 窓が割れる。

 壁が震える。

 息を潜めていた人々が耳を塞ぐ。


 玲火は一歩も退かなかった。


 炎を宿した刀を肩に担ぎ、まっすぐ惰偉を見る。


「どれだけ力を集めても、テメー自身が空っぽなら意味ねえよ」


 惰偉の無数の目が揺れる。


「空っぽ……?」


「そうだ」


 玲火は踏み込んだ。


「それは全部、テメーが殺した誰かの力だ」


 影が伸びる。


 骨槍が飛ぶ。


 重さが歪む。


 声が響く。


 屍兵が走る。


 硬化した腕が玲火の刃を受けようとする。


 それでも玲火は進む。


 刀が影を裂き、炎が骨を焼き、踏み込みが重さを破り、斬撃が声の波を断つ。


 硬化した腕ごと、刃が入る。


 惰偉の腕が落ちた。


 落ちた腕はすぐに再生しようと蠢いた。


 だが、断面に残った炎がそれを許さない。


 再生の芽が焼け落ちる。


 惰偉が後退した。


 死蝕の星が、後退した。


「俺は……強くなった」


 惰偉は呟く。


「殺した。奪った。継いだ。もっと、もっと、もっと」


 言葉が重なる。


 いくつもの人生が、彼の口で喋っていた。


「強くなれば、守れる」


 その言葉だけが、他の声と違っていた。


 古く、幼く、震えていた。


 玲火の刀が止まる。


「守る?」


 惰偉自身も、その言葉に戸惑っていた。


 守る。


 何を。


 誰を。


 なぜ。


 記憶の底で、小さな手が揺れた。


 半分に割ったパン。

 壁越しの下手な歌。

 怪我をした指に巻かれた汚れた布。

 寒い夜に、隣に誰かがいる温度。


 そして、声。


 ――雫井って書いて、だいって読むの?


 惰偉の巨体が震えた。


「違う」


 彼は頭を抱えた。


「俺は……違う……俺は、ただ……」


 殺したかったわけではない。


 強くなりたかった。


 強くなって、守りたかった。


 それだけだったはずなのに。


 いつから、何を殺しているのか分からなくなったのか。


 いつから、誰のために強くなっているのか分からなくなったのか。


 いつから、彼女の名前すら思い出せなくなったのか。


「名前……」


 惰偉は呟いた。


「名前、何だっけ……」


 頭の中で、無数の名前が浮かぶ。


 殺した者の名前。

 奪った者の名前。

 喰らった者の名前。

 兵にした者の名前。


 なのに、一番大切だった名前だけが出てこない。


「ごめん」


 惰偉の声が、小さくなった。


「ごめん。俺、君の名前……」


 玲火は刀を構え直した。


 その目に同情はあった。


 だが、迷いはなかった。


「あんたが殺した人間は戻らない」


 低い声だった。


「だから、許されることもない」


 惰偉は頷いた。


 怪物の顔で。


 少年のように。


「でも、これ以上あんたに殺させるわけにもいかない」


 玲火の刀に炎が集まる。


 惰偉は逃げなかった。


 逃げる理由も、もう分からなかった。


 ただ、最後にもう一度だけ思い出そうとした。


 彼女の名前を。


 自分に「きれいな名前だ」と言ってくれた、あの子の名前を。


 けれど、思い出せない。


 それが、何より苦しかった。


「眠れ、雫井」


 玲火の刃が振り下ろされた。


 炎が惰偉の身体を斬った。


 奪った腕を。


 縫いつけた皮膚を。


 裂けた翼を。


 伸びきった胴を。


 屍兵との繋がりを。


 殺した者たちの記憶を。


 奪った異理を。


 すべてを、一つずつ切り離していく。


 影が消える。


 骨の異理が消える。


 声の異理が消える。


 重さの異理が消える。


 硬化の異理が消える。


 痛みを鈍らせる異理が消える。


 座天使から奪った戦闘記憶が剥がれる。


 亜人から奪った肉体が灰になる。


 屍兵たちとの繋がりが焼き切られる。


 惰偉は崩れながら、ようやく軽くなっていくのを感じた。


 誰かの怒りが消える。


 誰かの恐怖が消える。


 誰かの記憶が消える。


 誰かの技術が消える。


 誰かの異理が消える。


 自分ではないものが、剥がれていく。


 最後に残ったのは、十一歳の少年のような心だった。


 高井雫井。


 弱くて、声が小さくて、誰かと目を合わせるのが苦手だった少年。


 彼は、暗闇の中で一人立っていた。


 向こう側に、誰かがいる気がした。


 顔は見えない。


 名前も分からない。


 けれど、温かかった。


 雫井は手を伸ばす。


「ごめん」


 届かない。


「守れなくて、ごめん」


 それでも、向こう側の誰かは笑った気がした。


 名前は思い出せなかった。


 最後まで。


 けれど、その温かさだけは思い出せた。


 死蝕の星は、灰になった。


 夜空に星は見えない。


 冥下の空は、いつも通り暗かった。


 それでも、その暗闇の底で、ひとつの星が落ちた。


 死を蝕み、人々の心に恐怖として焼きついた星。


 高井雫井という少年が、惰偉という怪物になり、死蝕の星と呼ばれた物語は、そこで終わった。


 彼が最後に取り戻せたのは、名前ではなかった。


 復讐でもなかった。


 強さでもなかった。


 奪った記憶でも、継いだ異理でもなかった。


 ただ、誰かの隣が寒くなかったという、遠い日の記憶だけだった。

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