星海の旅人
投げた刃は、戻ってこない。
そんな当たり前のことを、冥下に落ちてから久夜はようやく理解した。
刃は投げれば飛ぶ。
敵を裂き、壁に刺さり、泥に落ちる。
もう一度使いたければ、自分で拾いに行くしかない。
天界にいた頃は、それを不便だと思ったことがなかった。
訓練場で投げたダガーは、いつの間にか従者が回収していた。
刃は磨かれ、欠ければ直され、翌朝には当然のように腰の鞘へ戻っている。
だが、冥下には従者などいない。
泥に落ちた刃は、自分で拾う。
血を吸った刃は、自分で拭う。
壊れた刃は、自分で捨てる。
「……一本足りねえ」
砕耀の拠点。
地下の作業台の前で、久夜は顔をしかめていた。
机の上には、昨日の戦闘で使ったダガーが並べられている。
総流社の工作員。
マッドファザーの機械人形。
旧医療区画での戦闘。
この数日で久夜は相当な数の刃を投げた。
回収できたものもある。
壊れたものもある。
泥や瓦礫の中に消えたものもある。
そして今、一本が見つからない。
「地味だね」
ソファーの上でだらしなく寝転がっていたラナが、あくび混じりに言った。
「天理家のすごい刃使いって聞いたから、もっとこう、投げたら勝手に戻ってくるのかと思ってた」
「戻ってくるわけねえだろ」
「魔法なら戻せるかもよ」
「お前の魔法、物を落とすだけだろ」
「落ちたダガーをもっと下に落とせる」
「最悪じゃねえか」
ラナは悪びれもせず笑った。
「私、戦闘向きじゃないし」
「知ってる」
壁際で狙撃銃の整備をしていた梟が、淡々と口を挟む。
「というか、久夜の戦い方は効率が悪い」
「あ?」
「投げる。拾う。投げる。拾う。犬の遊びでももう少し賢い」
「喧嘩売ってんのか」
「事実を言っただけ」
梟は銃身を布で拭きながら続けた。
「あんた自身は速い。でも、武器が遅い。一回投げたら回収するまで次に使えない。相手が一人ならいい。でも複数相手だと、回収の一瞬が隙になる」
久夜は言い返そうとして、少し黙った。
癪だが、梟の言う通りだった。
久夜の強みは、速度と投擲。
だが、刃の数には限りがある。
敵が増えれば増えるほど、戦場が広がれば広がるほど、回収の手間は重くなる。
総流社の刺客。
いずれ来るであろう天理家の追手。
それらを考えれば、今のままでいいとは言い切れなかった。
「……じゃあ、どうしろってんだよ」
「私に聞かないで。私は狙撃手」
「言い出したのはお前だろ」
「問題点を指摘しただけ。解決策は専門家へ」
梟が砕耀を見る。
砕耀は作業台の上に置かれたダガーを一本手に取り、重心を確かめていた。
「確かに、久夜の武器は古い」
「古い?」
「悪い意味だけじゃない。単純な武器ほど信頼できる。壊れにくく、扱いやすく、久夜の技術をそのまま反映できる」
砕耀はダガーを机に置いた。
「だが、今の戦い方を続けるなら改良は必要だ。投げた刃を回収できる仕組みがあるだけで、戦闘の幅はかなり変わる」
「そんな都合のいい武器があるのか?」
「作れる奴なら知っている」
ラナが顔を上げた。
「鍛冶屋?」
「科学者だ」
「まとも?」
梟が問う。
砕耀は少しだけ考えた。
「マッドファザーよりはまともだ」
「比較対象が低すぎる」
ラナが真顔で言った。
砕耀は苦笑する。
「性格は面倒だが、腕は確かだ。梟の車椅子と狙撃銃を作ったのもそいつだ」
久夜は梟を見る。
「それ、砕耀の知り合いが作ったのか」
「そう」
梟は車椅子の肘掛けを軽く叩いた。
「この車椅子も、この銃も、私の身体と戦い方に合わせて作られてる。普通の技術者じゃ無理」
久夜は改めて梟の車椅子を見た。
太い車輪。
小型駆動装置。
折り畳まれた脚部。
狙撃姿勢を固定するための支持具。
銃を収納し、展開する機構。
ただの移動道具ではない。
梟の足であり、盾であり、狙撃台でもある。
「そいつ、何者だ?」
久夜が問う。
砕耀は少し間を置いて、答えた。
「航海流星」
その名を聞いた瞬間、梟の表情がわずかに変わった。
ラナは首を傾げる。
「航海? 海の人?」
「本人は、そう考えているらしい」
砕耀は言った。
「あいつにとって、時空間の旅は道標のない海を進む航海なんだとさ」
「時空間?」
久夜の目が細くなる。
「詳しく聞いても、多分はぐらかされる」
「何だよ、それ」
「そういう奴だ。中立を気取って、必要以上には踏み込まない。金か物か、対価を払えば手は貸す。だが、よほどの理由がなければ直接戦いには出ない」
砕耀の声には、わずかな敬意のようなものがあった。
「あいつは、この世界の人間じゃない」
ラナの肩が小さく跳ねた。
「私と同じ?」
「近いかもしれない」
砕耀は断言しなかった。
「ただし、ラナと違って、あいつは自分の意思で世界を渡っている」
久夜は笑った。
「面白そうじゃねえか」
「そう言うと思った」
梟がため息をつく。
「でも、あの人に喧嘩売るのはやめた方がいい」
「強いのか?」
「強い。けど、それ以上に遠い」
「遠い?」
梟は言葉を探すように、少しだけ黙った。
「目の前にいるのに、ずっと遠くのものを見てる。そういう人」
◇
航海流星の工房は、第5圏の外れにあった。
廃倉庫を改造したような建物だった。
外壁は錆び、看板はなく、扉も歪んでいる。
だが、中に入った瞬間、久夜は足を止めた。
空気が違う。
冥下特有の湿った腐臭がない。
代わりに、金属と油、熱を帯びた機械、そして見知らぬ薬品の匂いが混じっていた。
壁には、この世界のものとは思えない工具が並んでいる。
透明な歯車。
針のない時計。
青白く光る細い金属線。
空中でゆっくり回転する小さな立方体。
刃にも羽にも見える薄い金属片。
そのすべてが、久夜の知っている科学から少しだけ外れていた。
部屋の奥では、一人の男が作業台に向かっていた。
がっしりした体格。
砕耀ほど筋骨隆々ではない。
だが、ただの学者という言葉では片づけられない重さがある。
髪は無造作にまとめられ、片目にはモノクルをかけていた。
そのモノクルは普通の眼鏡ではない。
薄い金属の輪の内側で、細かな光が幾何学模様のように流れている。
もう片方の目は、白く濁っていた。
久夜は、その背中を見た瞬間、息を止めた。
強い。
それは分かる。
だが、砕耀のような肉体の圧ではない。
梟のような研ぎ澄まされた殺気でもない。
天理家の武人が持つ、血と型の威圧でもない。
もっと遠い。
目の前の男は、ここではないどこかで、何度も何度も何かを終わらせてきたように見えた。
世界を救ったのか。
世界を見捨てたのか。
誰かの希望になったのか。
誰かの絶望になったのか。
久夜には分からない。
だが、分かってしまった。
名前も知らない。
何を成したのかも知らない。
この世界で何かをしたわけでもない。
それでも、目の前の男は、人の心に焼き付く側の存在だった。
星。
その言葉が、久夜の脳裏に浮かんだ。
星とは、称号ではない。
説明ではない。
出会った瞬間に、理屈より先に分かるもの。
人々の心に刻まれた存在だけが持つ、どうしようもない重み。
男は振り返らずに言った。
「来たか」
「遅かったね、砕耀」
「約束の時間ぴったりだ」
「この工房では、私の時計が標準だ。つまり遅い」
「相変わらず面倒だな」
「褒め言葉として受け取っておく」
男は工具を置き、ようやく振り返った。
その視線が、久夜、梟、ラナの順に動く。
梟を見ると、少しだけ頷き、車椅子へ視線を落とした。
「脚部の調子は?」
「悪くない。右の固定具が少し緩い」
「あとで見る」
「銃の冷却も」
「弾代は?」
「砕耀につけて」
「おい」
砕耀が眉をひそめる。
男は淡々とメモを取った。
「では、砕耀につけておく」
「勝手に決めるな」
久夜は男を見据えた。
「お前が航海流星か」
その瞬間、男の目がわずかに細くなった。
怒ったわけではない。
だが、空気が一枚だけ冷えた。
「流星でいい」
「あ?」
「航海とは呼ばないでくれ」
静かな声だった。
久夜は眉を上げる。
「苗字で呼ばれるのが嫌いなのか?」
「好きではない」
「理由は?」
「話すほど親しくない」
流星はそれだけ言って、久夜の腰のダガーへ視線を落とした。
砕耀が横から言う。
「久夜。そいつを苗字で呼ぶな。面倒になる」
「面倒なのは最初から分かってる」
久夜は笑った。
「じゃあ流星。これでいいか?」
「それでいい」
流星はほんの少しだけ表情を緩めた。
「君が天理久夜だね」
「ああ」
「その刃を見せて」
「断ったら?」
「困るのは君だ」
「気に入った」
久夜はダガーを一本抜き、流星へ向かって投げた。
刃はまっすぐ流星の顔へ向かう。
梟が眉をひそめる。
ラナが「うわ」と小さく声を漏らす。
だが、流星は避けなかった。
モノクルの奥の光が一瞬だけ揺れる。
次の瞬間、ダガーは流星の指先に収まっていた。
掴んだ、というより、最初からそこにあったような自然さだった。
「いい投擲だ」
流星は刃を眺めながら言う。
「だが、試す相手は選んだ方がいい」
「選んだ上で投げたんだよ」
「なお悪い」
流星は刃の重心、厚み、柄の長さを確かめていく。
「いい武器だ。古いが、悪くない。単純で、素直で、君の癖に合っている」
「だろ」
「ただし、運用が原始的すぎる」
「おい」
「投げたら落ちる。刺さったら終わる。回収するまで次に使えない。君の速度に、武器が追いついていない」
久夜は舌打ちした。
梟に続いて、流星にも同じことを言われた。
「じゃあどうする」
「戻せばいい」
「戻す?」
「投げた刃を、君が意図したタイミングで手元へ戻す。往路で斬り、復路でも斬る。投擲と回収の二段階攻撃にすれば、刃の数はそのままでも手数は増える」
久夜の目が変わった。
「できるのか?」
「できるから言っている」
流星は作業台へ向かい、引き出しから青白い糸のようなものを取り出した。
糸というには、あまりにも細い。
だが、目を凝らすと、そこには確かに光が流れていた。
「これは?」
「空間糸。正確には、空間上の座標を仮固定するための媒介だ。この世界の技術ではない」
「別世界線の技術か」
流星は答えなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「君は分かりやすく踏み込むね」
「隠す気があるなら、そんなもの見せるなよ」
「隠してはいない。説明する義務がないだけだ」
梟が小さく言う。
「いつもこんな感じ」
「面倒だな」
「だから言った」
ラナは、興味深そうに空間糸を覗き込んでいた。
「それ、魔法?」
「魔法ではない。だが、君の世界では魔法に見えるかもしれない」
流星がラナを見る。
その視線は、久夜たちを見る時よりも少しだけ深かった。
「アステール・ラナ」
ラナの表情が変わる。
「私、名前言ったっけ?」
「言われなくても分かることはある」
「怖」
「安心していい。君を元の世界へ送り返すつもりはない」
「ほんと?」
「ああ。少なくとも、今は」
「今は、って余計な一言だよね」
流星はそれ以上答えず、久夜のダガーを作業台に固定した。
「久夜。君の戦い方を大きく変える必要はない。変えるべきは、刃の帰り道だ」
「帰り道?」
「投げた刃が、君の意思を受けて戻る。だが、自動ではない。自動回収にすると、君の速度と判断の邪魔になる。君が戻れと思った瞬間だけ、刃は戻る」
「戻る時にも斬れるのか?」
「斬れる。むしろ、復路の方が読まれにくい。敵は投げられた刃を警戒するが、通り過ぎた刃が背後から戻るとは考えにくい」
久夜は口元を歪めた。
「最高じゃねえか」
「ただし、欠点もある」
「何だ」
「距離が離れすぎると戻らない。空間糸を断たれると制御不能になる。強い時空干渉や異理に巻き込まれると、刃の帰還先がずれる可能性がある」
「ずれるとどうなる?」
「君の手ではなく、君の顔に戻るかもしれない」
「最悪だな」
「だから訓練が必要だ」
流星は淡々と言った。
「武器が便利になるほど、使い手の責任は増える」
その言葉に、久夜は少しだけ黙った。
流星の声は平坦だった。
だが、そこには妙な重さがあった。
便利な力。
強い力。
世界を渡る力。
それらが何をもたらすのかを、流星は知っているように見えた。
「どれくらいで作れる」
砕耀が問う。
「試作なら数時間。実戦投入するなら今日中」
「早いな」
「元のダガーが素直だからね。余計な機構を入れず、空間糸の固定と帰還感応だけに絞ればいい」
流星は久夜を見る。
「対価は?」
「金なら砕耀が払う」
「おい」
砕耀が低く言う。
「では金は砕耀に。加えて、ラナに質問を一つ」
ラナが露骨に嫌そうな顔をした。
「質問って何? マッドファザーみたいなことしない?」
「あれと同じ扱いにされるのは、さすがに心外だ」
流星は首を振る。
「答えたくなければ答えなくていい」
「ならいいけど」
「君は、元の世界に帰りたいか?」
空気が少しだけ止まった。
ラナはすぐに笑った。
「帰りたくない」
「そうか」
「何? それだけ?」
「それだけだ」
流星は作業へ戻った。
「なら、対価は成立した」
久夜は流星を見る。
「今の質問に何の意味がある」
「今はない」
「今は?」
「いつか意味を持つかもしれない」
「またそれか」
久夜は舌打ちする。
「お前、何でも知ってるみたいな顔するな」
「何でもは知らない。むしろ、知らないことの方が多い」
流星は手を止めずに言った。
「海は広いからね」
「海?」
ラナが聞き返す。
流星は少しだけ視線を上げた。
「人は皆、世界という海を流れる星だ。人生という海を、灯台も地図もないまま流れていく」
工房の機械音が、静かに響く。
「誰かにとっては近くの光でも、別の誰かにとっては光年の彼方の星かもしれない。届いているようで届かない。届かないようで、いつか光だけは届く」
流星は、青白い空間糸をダガーの柄へ通した。
「私の名前は、そこから来ている」
「航海流星」
ラナが呟く。
流星は少しだけ苦い顔をした。
「流星でいい」
「あ、ごめん」
「謝らなくていい。ただ、その呼び方は好きではない」
久夜はその横顔を見る。
なぜ嫌うのか。
おそらく理由はある。
だが、流星は話さない。
話す気がない。
それ以上踏み込むには、まだ距離が遠すぎた。
◇
数時間後。
久夜の前には、改良されたダガーが並んでいた。
見た目は大きく変わっていない。
白銀の刃。
黒い柄。
久夜の手に馴染む重さ。
だが、柄の根元には細い刻印が入っていた。
光の角度によって、青白い線が脈打つように見える。
「試してみろ」
流星が言った。
久夜は一本を手に取る。
重さはほとんど変わらない。
だが、手にした瞬間、刃と自分の間に細い糸が結ばれたような感覚があった。
久夜は工房の奥に置かれた鉄板へ向け、ダガーを投げる。
刃が飛ぶ。
鉄板を貫き、奥の壁に突き刺さった。
「戻れ」
久夜が思った瞬間、柄の刻印が光る。
壁に刺さったダガーが震えた。
次の瞬間、刃は壁から抜け、空中を逆走するように久夜の手元へ戻ってきた。
その軌道上に置かれていた別の薄い鉄板が、真っ二つに裂ける。
久夜は戻ってきたダガーを掴んだ。
そして、笑った。
「いい」
その笑みは、獲物を見つけた獣のようだった。
「めちゃくちゃいい」
「気に入ったなら何より」
流星は淡々と言う。
「名前は?」
「武器に名前なんているか?」
「いる時もある。人は名をつけることで、道具との距離を測る」
久夜は少し考えた。
「まだいい。こいつに名前をつけるのは、もっと使ってからだ」
「賢明だ」
流星は頷いた。
「刃に名前をつけるなら、刃の癖を知ってからにした方がいい」
梟が自分の狙撃銃を調整しながら言う。
「流星さん。こっちも終わった?」
「終わった。冷却効率を上げた。三連射後のブレが減る」
「ありがとう」
「弾代は砕耀に」
「だから勝手につけるな」
砕耀が眉間を押さえる。
ラナは工房の隅で、流星が置いた小さな立方体をつついていた。
「これ何?」
「触らない方がいい」
「危ないの?」
「落ちる」
「落ちる?」
ラナが首を傾げた瞬間、立方体が机から消えた。
次の瞬間、床へ落ちる。
「わ、私じゃないよ」
「知っている。重力記録装置だ」
「名前が難しい」
「君の魔法と少し似ている」
ラナは目を丸くした。
「私の魔法と?」
「物が落ちるという現象を、どう記録するか。君の世界とこの世界では、解釈が違う。だが、落ちるという結果は同じだ」
ラナは少しだけ嬉しそうな顔をした。
「私の魔法、研究する価値ある?」
「ある」
流星は即答した。
「弱いことと、価値がないことは違う」
ラナの表情が、一瞬だけ止まった。
それは、おそらく彼女が元の世界であまり言われなかった言葉だった。
「……そっか」
ラナは小さく笑う。
「じゃあ、ちょっとだけ好きになってもいいかも。私の魔法」
久夜はその横顔を見て、何も言わなかった。
その時だった。
工房の明かりが、一瞬だけ揺れた。
梟の目が鋭くなる。
「外」
砕耀が剣へ手を伸ばす。
流星は、作業台の上に置かれたモノクル用の小さな調整具を片づけながら、ため息をついた。
「客が多い日だ」
「総流社か?」
久夜が問う。
「おそらく」
梟は車椅子の側面から狙撃銃を展開する。
「数は?」
「八。いや、十」
流星のモノクルに光が走る。
「正面に四、屋根に二、裏口に三。もう一人は少し離れている。観測役だね」
「またか」
久夜は改良ダガーを握る。
「ちょうどいい。試し斬りだ」
「殺すな」
砕耀が言った。
「情報がいる」
「分かってる」
「本当に分かってる?」
梟が問う。
「分かってるって言ってんだろ」
「不安」
流星は扉へ向かう久夜に声をかける。
「久夜」
「あ?」
「戻る刃は便利だが、便利な武器ほど自分を傷つける。最初は三本までにしろ」
「五本はいける」
「三本だ」
流星の声が少しだけ強くなった。
久夜は不満げに顔をしかめたが、最終的には頷いた。
「分かったよ。三本で遊んでやる」
「遊びではない」
「俺にとっては似たようなもんだ」
工房の扉が吹き飛んだ。
黒い防護服を着た刺客たちが突入してくる。
総流社の正規兵ではない。
だが、装備は前回の工作員より明らかに上だった。
顔を隠す仮面。
手首に仕込まれた刃。
電撃銃。
背中には小型の回収装置。
彼らの視線は、ラナへ向いていた。
「回収対象を確認」
「対象を生体維持状態で確保」
「妨害者は排除」
久夜の口元が歪む。
「人を荷物みたいに呼ぶなよ」
次の瞬間、久夜が動いた。
投げられた一本目のダガーが、刺客の手首の武器を破壊する。
二本目が足元の床を裂き、踏み込みを崩す。
三本目が仮面の横を掠め、通信装置だけを切り落とした。
「戻れ」
三本の刃が、同時に反転する。
刺客たちは前方からの攻撃を避けたつもりだった。
だが、背後から戻る刃には反応が遅れた。
一人の肩当てが裂ける。
一人の膝裏の装甲が切断される。
一人の電撃銃が、背中側から真っ二つに割れる。
投げた時と、戻る時。
二段階の攻撃。
久夜は戻ってきた刃を掴み、笑った。
「これはいい」
刺客の一人が、横からラナへ向かう。
梟の銃声。
弾丸が刺客の足元を撃ち抜き、床材を跳ね上げる。
刺客は姿勢を崩し、その隙に梟が二発目を撃つ。
銃弾は仮面の接合部を正確に抜き、視界センサーを破壊した。
「ラナ、伏せて」
「もう伏せてる!」
ラナは作業台の下で頭を抱えていた。
「何で私いつも狙われるの?」
「回収対象だから」
「その呼び方嫌い!」
ラナが手を振る。
天井近くに積まれていた工具箱が落下し、刺客の頭上へ降る。
直撃はしなかった。
だが、一瞬だけ刺客の動きが鈍る。
「今!」
「言われなくても」
久夜のダガーが刺客の足首の装甲を裂く。
戻る刃が、今度は背中の回収装置を破壊する。
刺客が膝をついた。
「弱い魔法も、使い所次第だな」
久夜が言う。
ラナは作業台の下から少しだけ顔を出した。
「今の褒めた?」
「気のせいだ」
「絶対褒めた」
「黙って隠れてろ」
工房の奥で、砕耀が二人の刺客を抑えていた。
巨大な剣は抜いていない。
片手で一人の腕を掴み、もう一人の突撃を肩で受け止め、そのまま床へ叩きつける。
「総流社にしては、ずいぶん派手だな」
砕耀が低く言う。
刺客は答えない。
代わりに、背中の装置から細い針が射出された。
砕耀の首元を狙う針。
だが、それは届かなかった。
空間が、裂けた。
音はなかった。
ただ、針の通るはずだった場所に、細い切れ目が走る。
針はその切れ目に触れた瞬間、先端から消えた。
「工房で毒針はやめてほしい」
流星が静かに言った。
彼は作業台のそばからほとんど動いていなかった。
手には、細い工具のような刃。
いや、刃ではない。
空間そのものが、彼の指先に沿って薄く裂けていた。
久夜はその光景を見た。
「今、何を斬った?」
「距離」
「は?」
「説明すると長い」
流星は軽く手を振る。
裂け目は消えた。
「私は基本的に戦わない。だが、工房を壊されるのは困る」
「今のは十分戦ってるだろ」
「防衛だ」
「便利な言い訳だな」
「中立にも生活はある」
その時、屋根の上から重い音が響いた。
梟が上を向く。
「上、二人」
天井が破られる。
刺客が二人、ワイヤーを使って降下してきた。
狙いはラナ。
久夜が踏み込もうとする。
だが、流星の声が飛んだ。
「三本まで」
「分かってる!」
久夜は舌打ちしながら、すでに投げた三本を戻す。
刃が戻る軌道で、一人の刺客のワイヤーを切断する。
落下した刺客の着地点へ、ラナが手を振った。
天井から古い照明が落ちる。
刺客は咄嗟に避けた。
だが、その動きは梟に読まれていた。
銃声。
弾丸が刺客の肩の関節部を撃ち抜く。
「一人」
もう一人は空中で姿勢を変え、ラナへ向かって腕を伸ばす。
久夜が笑った。
手元に戻ってきたダガーを、今度は真上へ投げる。
刃は刺客を通り過ぎた。
刺客は避けたつもりだった。
だが、久夜が指先を軽く曲げる。
「戻れ」
刃が反転する。
背後から戻った刃は、刺客の腕の装甲を裂き、掴もうとしていた手を弾いた。
そのまま久夜は跳び、刺客の腹部へ膝を叩き込む。
刺客は吹き飛び、床に転がった。
「二人目」
梟が最後の一人へ銃口を向ける。
だが、その刺客は戦わなかった。
工房の外、少し離れた位置にいた観測役が撤退信号を出したのだ。
「引く気だ」
梟が言う。
「逃がすかよ」
久夜が駆け出す。
外へ飛び出すと、観測役はすでに屋根の上を走っていた。
前回の観測役とは違う。
装備も逃走経路も洗練されている。
久夜はダガーを投げる。
刃は観測役の足元を裂いた。
戻る刃で背中の装置を狙う。
だが、観測役は振り返りもせず、細い円盤を投げた。
円盤が空中で展開し、久夜のダガーの軌道をわずかにずらす。
刃は戻ってきたが、観測役の装置には届かなかった。
「対策されてる」
梟の声が通信機から響く。
「早すぎるだろ」
「前回の戦闘記録がある。総流社は学習してる」
観測役が通信端末を掲げる。
ラナの映像。
久夜の新武器。
流星の工房。
梟の銃。
すべて送られようとしている。
久夜がさらに踏み込もうとした瞬間、流星の声が後ろから聞こえた。
「追わなくていい」
「何でだよ」
「あれは餌だ。追えば、君の新しい刃の情報をもっと取られる」
「じゃあ逃がすのか」
「逃がす」
流星は静かに言った。
「全部を止めようとすれば、全部を失う時がある」
久夜は奥歯を噛む。
観測役の姿が、路地の奥へ消える。
完全な勝利ではない。
刺客は倒した。
ラナは守った。
新しい武器も試せた。
だが、総流社はまた情報を得た。
久夜は低く舌打ちした。
「気に入らねえ」
「気に入らないことに慣れた方がいい」
流星は工房の入口に立っていた。
「世界は、だいたい気に入らない形で進む」
◇
刺客たちを縛り上げた後、砕耀は奪った装置の解析を始めた。
梟は破損した床を見て、ため息をついている。
ラナは甘い飲み物を要求し、久夜は新しいダガーを何度も手の中で回していた。
流星は壊れた工具棚を直しながら、特に怒った様子もなかった。
「お前、もう少し怒れよ。工房壊されたんだぞ」
「怒っても棚は直らない」
「冷めてんな」
「熱くなりすぎて失ったものがあるからね」
流星の声は、何でもないことのようだった。
だが、久夜はそれ以上聞かなかった。
聞いても、たぶん答えない。
この男は、聞かれたことすべてに答えるタイプではない。
砕耀が、刺客の端末から顔を上げた。
「やはり目的はラナの回収だ。総流社は、マッドファザーが消えた後もラナを追っている」
「私、人気者だね」
ラナが力なく笑う。
「人気者っていうか、荷物扱いだけどな」
「それ言わないでよ」
ラナは頬を膨らませる。
流星が静かに言った。
「ラナは、この世界の法則に登録されていない。観令にとっても、総流社にとっても、扱いづらい存在だろう」
「だから捕まえるのか」
「そうだ。未知は、多くの場合、研究対象か排除対象になる」
久夜はダガーを握る。
「なら、どっちにもさせねえ」
流星は久夜を見る。
その目は、どこか眩しいものを見るようだった。
「君は迷わないね」
「迷う理由がない」
「それは若さだ」
「馬鹿にしてんのか?」
「少し羨ましいだけだよ」
流星はモノクルを外し、布で拭いた。
その下の片目は、傷で白く濁っていた。
ラナがそれに気づき、少しだけ息を呑む。
「目……」
「昔、置いてきた」
「置いてきた?」
「ある海でね」
流星はそれ以上説明しなかった。
砕耀が久夜に目配せする。
それ以上は聞くな、という合図だった。
久夜は肩をすくめる。
「そういや、砕耀」
「あ?」
「こいつ、星だろ」
部屋の空気が少しだけ止まった。
ラナが首を傾げる。
「星? 玲火とか、死蝕の星とかの?」
「ああ」
砕耀は少しだけ目を細めた。
「気づいたか」
「見りゃ分かる」
久夜は流星を見る。
「こいつは普通じゃない。強いとか、そういう話じゃねえ。人の心に焼き付く側の存在だ」
流星は困ったように笑った。
「買いかぶりだよ」
「違うな」
砕耀が言った。
「星は、天界が認定する称号じゃない。人々の心に焼き付いた存在が、勝手にそう呼ばれる現象だ」
「それは聞いた」
「なら、その“人々”がこの世界の人間だけだと、誰が決めた?」
久夜は黙った。
ラナも、梟も、流星を見る。
砕耀は続ける。
「流星は、この世界ではまだ何も成していない。だが、別の世界では違う。いくつもの世界を渡り、いくつもの滅びに立ち会い、いくつもの人々を救った」
「英雄みたいだね」
ラナがぽつりと言う。
流星は静かに首を振った。
「英雄なんて、助かった側が勝手につける荷札だ」
「異名は?」
梟が問う。
砕耀が答えた。
「光年の星」
光年。
光が一年かけて進む距離。
遠すぎる隔たり。
届かないはずの場所。
それでも、確かにこちらへ届く星の光。
久夜はその異名を聞いて、妙に納得した。
目の前の男は、近くにいるのに遠い。
触れられる距離にいるのに、決して届かない場所を見ている。
「大げさな名前だ」
流星は静かに言った。
「私はただ、航路の途中で拾えるものを拾っただけだ」
「その結果、誰かの希望になったんだろ」
久夜が言う。
流星は答えなかった。
ただ、白く濁った片目の奥に、ほんの一瞬だけ痛みのようなものが揺れた。
◇
工房を出る頃、冥下の空は相変わらず暗かった。
星など見えない。
太陽の光も届かない。
だが、久夜は腰の新しい刃を指先で確かめながら、妙な高揚を感じていた。
投げる。
斬る。
戻す。
戻る刃で、もう一度斬る。
刃は一方通行ではなくなった。
久夜の戦いに、帰り道が生まれた。
ラナは隣で、眠そうにあくびをしている。
「疲れた。私、今日けっこう働いたよね」
「工具箱落としただけだろ」
「それが大事だったじゃん」
「まあ、少しはな」
「褒めた?」
「気のせいだ」
梟は車椅子を進めながら、静かに言う。
「久夜」
「あ?」
「新しいダガー、私の射線に戻さないで」
「善処する」
「善処じゃなくて確約して」
「無理だな」
「撃つよ」
「やっぱりそれか」
砕耀は二人のやり取りを聞きながら、前を歩いている。
その少し後ろで、流星の工房の明かりが静かに消えた。
光年の星。
この世界では、まだ何も成していない星。
だが、別の世界の空では、確かに人々の心に焼き付いた光。
久夜は振り返らなかった。
だが、何となく分かっていた。
航海流星という男は、いずれ再び自分たちの前に現れる。
その時、彼が敵なのか、味方なのか、それともただの観測者なのかは分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
世界は、久夜が思っていたよりもずっと広い。
そして、その広さの果てから来た星が、今この冥下の底にいる。
泥の底で拾った刃は、もう一度手元へ戻る。
ならば、自分も同じだ。
一度地へ落ちたとしても、戻る場所は自分で決める。
久夜は、新たなダガーの柄を握った。
総流社。
天理家。
観令。
そして、世界線の向こう側。
敵は増えた。
謎も増えた。
だが、それでいい。
「面白くなってきた」
久夜は笑う。
その笑みは、暗い冥下の底で、白い刃のように鋭く浮かんでいた。




