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白いカラス  作者: シンドゥー


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4/15

異世界の使者

同時刻。


 天界の商業区画、その中枢にそびえる総流社管理棟。


 世界中の物流を統括するその巨大施設では、今日も無数の物資が数字として流れていた。


 食料。

 薬品。

 衣類。

 燃料。

 医療機器。

 情報端末。

 そして、帳簿に載せられない荷物。


 総流社は、物を運ぶ会社ではない。


 世界の流れを決める会社だった。


 その一室で、複数の役員が一人の老人を囲んでいた。


 老人の名は、枯野万作(かれの・まんさく)


 八十をとうに過ぎた小柄な男だった。

 背は曲がり、頬には深い皺が刻まれている。

 見た目だけなら、近所の縁側で茶でも飲んでいそうな穏やかな老人にしか見えない。


 だが、その場にいる誰一人として、彼をただの老人だとは思っていなかった。


 総流社の“要”。


 付いた異名は、万具の翁(まんぐのおきな)


 特殊能力もない

 強靭な肉体もない。

 天理家のような血筋も、保安社のような武装もない。


 ただ、その手に触れたものすべてを道具とし、道具すべてを武器に変える。


 総流社という十柱を支える、最後の切り札だった。


「枯野様。冥下第5圏にて、当社の回収班が妨害を受けました」


 役員の一人が、硬い声で告げる。


「妨害者の一人は、天理家の破門者。天理久夜である可能性が高いとの報告です」


「ほう」


 万作は湯呑みを両手で包みながら、のんびりと頷いた。


「天理の坊ちゃんが、泥の底まで落ちてきたか。若いというのは元気でええのう」


「笑い事ではありません」


「笑っとらんよ。しみじみしとるだけじゃ」


 万作は穏やかに茶を啜った。


「それで、わしに何をせよと?」


「枯野様に、冥下第5圏へ出向いていただきたいのです」


 部屋の空気がわずかに張り詰める。


 万作は目を細めた。


「嫌じゃ」


 即答だった。


 役員たちは、一瞬だけ言葉を失った。


「……枯野様。これは社の重要案件です」


「じゃろうな」


「総流社の資産が奪取されました」


「資産、のう」


 万作は湯呑みを机に置く。


 その音は小さかった。


 だが、役員たちの背筋は自然と伸びた。


「人に荷札をつけた時点で、もうその仕事はろくなもんじゃない」


「回収対象の詳細は、機密です」


「機密にせねばならんような荷物を、総流社は動かしたわけじゃな」


「……」


「わしは流通の人間じゃ。物の流れなら見る。荷の重さも、箱の匂いも、帳簿の空白も見る。お前さんらが何を隠しているか、全部とは言わんが、おおよそ見当はついとる」


 役員の一人が声を低くする。


「それでも、総流社の要として――」


「要だからこそ、動かん」


 万作は静かに言った。


「わしを出せば、記録に残る。総流社の要が冥下第5圏へ動いたとなれば、保安社も他の十柱、天理家も、観令も、理由を探る。天理久夜が関わっているなら尚更じゃ」


 万作は柔らかく笑う。


「そうなれば、お前さんらが帳簿に載せなかった荷物も、ついでに見つかるかもしれんのう」


 役員たちは黙った。


「わしは孫の学費を稼ぎに来とる。会社の悪事の尻拭いに来とるわけじゃない」


「枯野様」


「それに、わしは人殺しが嫌いなんじゃ」


 万作は椅子からゆっくりと立ち上がる。


 机の上に置かれていたペンを、何気なく指で転がした。


 ただそれだけで、役員の一人が反射的に身を強張らせる。


 万作の手にかかれば、ペン一本でも人の喉を簡単に潰す道具になる。


「若い子を相手にするのは気が進まん。ましてや、天理家から落ちたばかりの子供と、どこから来たかも分からん検体じゃろう?」


「……では、我々はどうすれば」


「わしに聞くな。お前さんらが始めたことじゃ」


 万作は背を向ける。


「ただし、一つだけ忠告しておく」


 老人の声が、わずかに冷えた。


「流れを無理に戻そうとすれば、必ず詰まる。詰まった流れは腐る。腐ったものは、いずれ臭いで隠せなくなる」


 万作は扉の前で立ち止まった。


「その時になってから、わしを呼ばんでくれよ。老人は忙しいんじゃ。孫の入学祝いも選ばにゃならん」


 そう言い残し、万具の翁は部屋を去った。


 残された役員たちは、しばらく誰も口を開かなかった。


 やがて、一人が低く呟く。


「……別の回収班を出せ」


「しかし、枯野様なしでは」


「構わない。表向きは販売業者の損害調査として処理しろ。対象は科学者、及び回収対象。天理久夜は可能なら観測、不要なら排除」


 別の役員が問う。


「保安社には?」


「まだ通すな。あれは禁忌案件だ。観令に拾われる前に、こちらで回収する」


 画面に、黒く塗り潰された小さな影が映し出される。


 役員の目は、その影を人として見ていなかった。


「総流社の流通から逃れた荷物など、存在してはならない」






 総流社の工作員から抜き出した記録は、ひどく欠けていた。


 端末の大半は破壊され、残っていた情報も断片ばかり。

 だが、砕耀はそれを一つずつ拾い集め、繋ぎ合わせていった。


 冥下第5圏、旧医療区画。

 廃棄指定を受けた地下診療施設。

 登録外検体。

 観令照合不能。

 回収優先度、最上位。


 そして、何度も繰り返される言葉。


 ――マッドファザー。


「何だよ、そのふざけた名前」


 久夜は机の上に投げ出された紙片を見て、露骨に顔をしかめた。


 砕耀の拠点。

 窓のない地下室。


 昨夜からほとんど眠らずに端末の解析をしていた砕耀は、古びた椅子に深く腰掛け、目元を揉んでいた。


「本名じゃない。自称だ」


「自称でそれを名乗る奴、絶対まともじゃないだろ」


「まともな奴は、総流社から重要検体を盗み出して冥下に逃げたりしない」


 砕耀は紙を一枚取り上げる。


「こいつは総流社の外部研究員だったらしい。正規の社員ではないが、禁忌に近い実験に関わっていた。総流社が表に出せない荷物を扱うために、こういう狂人を飼っていたんだろうな」


「狂人って分かってて使ってたのかよ」


「天界や十柱にとって大事なのは、まともかどうかじゃない。使えるかどうかだ」


 壁際で腕を組んでいた梟が、冷めた声で言った。


「で、その使ってた狂人に逃げられた。間抜け」


「総流社に聞かせたい感想だな」


 砕耀は苦笑する。


 久夜はソファーに腰掛け、足を組みながらダガーを指先で回していた。


「で? そいつが盗み出した被検体ってのが、総流社が探してる奴なんだろ」


「ああ」


「人間か?」


「記録上は、そうなっている」


「記録上は?」


 砕耀は少しだけ沈黙した。


「観令照合不能。戸籍なし。生体情報一致なし。過去の移動履歴も購買履歴も医療記録も存在しない」


「冥下の人間なら、そういう奴もいるんじゃないのか?」


「違う」


 梟が即答した。


「冥下の人間は記録が雑なだけ。完全に存在しないわけじゃない。生まれた場所、通った店、治療を受けた跡、誰かの証言。何かしら残る」


「今回の検体には、それがない」


 砕耀が続けた。


「まるで、ある日突然この世界に現れたみたいにな」


 久夜の指先で回っていたダガーが止まる。


「……面白くなってきたな」


「そう言うと思った」


 梟がため息をついた。


「馬鹿は危ないものを見ると、だいたい面白がる」


「お前は何でも撃とうとするだろ」


「危ないものは撃った方が早い」


「性格終わってんな」


「あんたよりマシ」


 砕耀は二人のやり取りを聞き流し、地図を広げた。


「マッドファザーの潜伏先はここ。旧医療区画の地下診療施設だ。第5圏でも特に人が寄りつかない場所だな」


「なんで?」


「六年前の死蝕の星の支配下で、屍兵の材料置き場にされていた」


 部屋の空気が少しだけ沈む。


 久夜は昨日見たクレーターを思い出した。

 死そのものが棲みついていたような、あの冷たさ。


「最悪の場所だな」


「ああ。だから隠れるには向いている」


 砕耀は久夜を見る。


「今回の目的は二つ。マッドファザーの確保、もしくは情報の回収。そして、被検体の保護だ」


「殺すなって話か?」


「できるだけな。だが相手は狂人だ。何を仕込んでいるか分からない」


 梟が車椅子の横に固定していた狙撃銃を確認する。


「私は外から援護。地下なら射線が通らない場所も多い。無茶に突っ込むなら、あんたごと撃つ」


「味方を撃つな」


「邪魔なら撃つ」


「お前、俺を撃ちたいだけだろ」


「否定はしない」


 久夜は鼻で笑い、立ち上がった。


「まあいい。狂人科学者だか何だか知らないが、そいつに聞けば分かるんだろ」


「何をだ」


「総流社が何を隠してるのか。そいつが盗んだ被検体が何なのか」


 久夜はダガーを懐にしまう。


「それに、俺はまだ“魔法”ってやつを見たことがない」


 砕耀は眉を上げた。


「魔法?」


「マッドファザーって名前からして、何かそういう感じだろ」


「雑な推測だな」


「当たってたら褒めろよ」


「外れていたら?」


「笑え」


 梟が小さく呟く。


「もう笑ってる」


   ◇


 旧医療区画は、冥下第5圏の端にあった。


 そこは、街の中でも特に湿気が濃い場所だった。

 古い病棟がいくつも並び、窓ガラスは割れ、壁には黒い苔が張りついている。


 かつて人を救う場所だったはずの施設は、今では人が避ける場所になっていた。


 久夜たちは、錆びた門を越えて敷地内へ入る。


 砕耀は巨大な剣を肩に担ぎ、久夜は周囲を警戒しながら進む。

 梟は車椅子のまま、古い舗装路を器用に進んでいた。


「お前、その車椅子でよくこんな道来られるな」


「来られるように改造してる」


 梟は短く答える。


 車輪には通常より太い外輪がつき、泥道でも沈みにくくなっている。

 座席の下には小型の駆動装置。

 さらに側面には折り畳まれた脚部のようなものまで見えた。


「戦車かよ」


「車椅子」


「いや、それはもう車椅子っていうか――」


「車椅子」


 梟が銃口をわずかに向ける。


「はいはい、車椅子な」


 久夜は肩をすくめた。


 病棟の入口に着く。


 砕耀が古びた扉へ手をかけた瞬間、梟が声を上げた。


「待って」


 全員の動きが止まる。


「扉の上。細い線」


 久夜は視線を上げた。


 見えない。

 だが、目を凝らすと、扉の上部から壁の亀裂へ向かって、極細の金属線が伸びていた。


「罠か」


「開けたら多分、天井から何か落ちる」


「何かって?」


「知らない。落ちたら分かる」


「分かりたくねえな」


 久夜はダガーを一本取り出し、金属線だけを正確に切った。


 次の瞬間、扉の向こう側で何かが落ちる轟音が響く。


 床が震え、錆びた埃が舞った。


 扉を開けると、入口のすぐ内側に巨大な鉄塊が落ちていた。


 人間なら、確実に潰れている。


「随分と歓迎が雑だな」


「狂人の家に礼儀を期待しない方がいい」


 砕耀が先に入る。


 内部は薄暗かった。


 廊下の壁には古い医療ポスターが貼られ、床には壊れた器具が散らばっている。

 その奥から、かすかな機械音が聞こえた。


 そして、笑い声。


「ふひっ」


 久夜は足を止める。


「今、笑ったか?」


「笑ったね」


 梟が銃を構える。


 笑い声は、廊下の奥から響いていた。


「ふひ、ふひひっ……落ちない。落ちないなあ。おかしいなあ。人は落ちる。鉄は落ちる。信頼は落ちる。倫理も落ちる。なのに君たちは落ちない。素晴らしい!」


「……何だ、あれ」


 久夜は本気で嫌そうな顔をした。


 砕耀が小さく息を吐く。


「多分、あれがマッドファザーだ」


「帰っていいか?」


「まだ早い」


「会話する前から疲れるタイプだろ、絶対」


「同感」


 梟が頷いた。


 廊下の奥。

 手術室の扉が開いていた。


 中には、無数の機械とケーブルが張り巡らされている。

 旧式の医療機器。

 天界製らしき装置。

 用途不明のガラス管。

 そして、壁一面に貼られた紙。


 そこには数式とも、呪文とも、落書きともつかない文字がびっしりと書き込まれていた。


 その中央に、一人の男がいた。


 白衣。

 ぼさぼさの髪。

 片方だけ割れた眼鏡。

 頬はこけ、目だけが異様にぎらついている。


 手には古びた人形を抱いていた。


 年齢は読めない。

 若いようにも、老いているようにも見える。


 男は久夜たちを見ると、両手を広げた。


「ようこそ! 父の家へ!」


 久夜は眉をひそめる。


「お前がマッドファザーか」


「自称ではない! 思想だ! 概念だ! 役割だ! 私は父であり、狂気であり、愛であり、観測者であり、誘拐犯であり、救済者だ!」


「誘拐犯って自分で言ったぞ」


 梟が冷たく呟く。


「本名は?」


 砕耀が問う。


 男は首を傾げた。


「本名? 本名とは何かね。母が呼ぶ音か? 社会が管理する文字列か? 観令の端末に記録された識別情報か? それとも、自分で自分を縛る首輪か?」


「聞くだけ無駄そうだな」


 久夜が呟く。


「じゃあマッドファザーでいい。単刀直入に聞く。総流社から何を盗んだ」


 男は、ぴたりと動きを止めた。


 そして、にやりと笑う。


「盗んだ? 違う違う違う違う違う」


 首を振るたびに、白衣のポケットから紙片が落ちる。


「あれは発見だ。救出だ。招待だ。接続だ。世界の壁に小さな穴を開け、そこから落ちてきた星を受け止めた。盗んだなどという低俗な商業用語で語らないでくれたまえ」


「会話できてるようでできてねえ」


「砕耀、撃っていい?」


 梟が低く言う。


「まだ駄目だ」


「残念」


 マッドファザーは、くるくるとその場で回りながら言葉を続ける。


「総流社は馬鹿だ。愚かだ。物しか見えない。流通、価値、所有、回収、在庫。違う違う! 彼女は商品ではない。検体ではない。奇跡だ! 別世界線から落ちてきた、魔法という名の未発達科学だ!」


 久夜の目が細くなる。


「別世界線?」


 砕耀も表情を変えた。


「お前、本当に世界線干渉をやったのか」


「やった? 違うな。届いたのだよ。私の好奇心が! 私の愛が! 私の手が! この世界の壁を撫でて、爪を立てて、裂いて、覗いて、掴んだ!」


 男は両手を掲げる。


「科学が発展したこの世界。魔法が発展したあちらの世界。もしも人類が別の選択をしていたら? もしも祈りが数式より先に体系化されていたら? もしも落下する林檎を見た誰かが、重力ではなく魔力を発見していたら? 知りたいだろう! 知るべきだろう! 知るためなら、少しくらい誰かを攫っても仕方ないだろう!」


「仕方なくねえよ」


 久夜が言った。


 その声は、少し低かった。


 マッドファザーはきょとんとした顔をする。


「なぜ?」


「なぜって聞くのか」


「聞くとも。私は学者だからね。疑問は大事だ」


「人を攫うなって話だ」


「人?」


 マッドファザーは、不思議そうに瞬きをした。


「人。人か。なるほど、君たちは彼女を人と呼ぶのか。いいね。情緒的だ。非効率だ。だが嫌いではない」


 その時だった。


 部屋の奥から、かすかな物音がした。


 久夜が視線を向ける。


 手術台の向こう。

 半透明の幕に隠された空間。


 そこに、誰かがいた。


「……誰だ」


 久夜が一歩踏み出す。


 マッドファザーの顔が歪む。


「触るな」


 初めて、笑みが消えた。


「娘に触るな」


「娘?」


「そうだ。私の娘だ。私が世界の壁の向こうから迎えた、最初の魔法使い。観令の記録に存在せず、総流社の帳簿にも収まらず、この世界の法則に属さない奇跡」


 幕の向こうから、弱々しい声がした。


「……誰が娘よ」


 その声に、久夜たちは動きを止める。


 幕が、ゆっくりと開く。


 そこにいたのは、一人の少女だった。


 久夜と同じくらいの年頃。

 淡い金色の髪。

 異国の衣装のような、見慣れない服。

 細い手足。

 疲れ切った表情。


 だが、その瞳だけは妙に明るかった。


「私、あんたの娘になった覚えないんだけど」


 少女は手術台に腰掛けたまま、面倒くさそうに言った。


 マッドファザーは感激したように両手を胸に当てる。


「ああ、反抗期! 父は嬉しい! 異世界の王女にも反抗期はある!」


「王女?」


 梟が反応する。


 少女は気まずそうに視線を逸らした。


「あー……まあ、一応ね」


 久夜は少女を見る。


「お前、名前は?」


 少女は少しだけ考え、それから胸を張った。


「アステール・ラナ。ラナでいいよ。長いの嫌いだし」


 カタカナの名前。


 この世界の住人とは、明らかに違う響きだった。


「で、ラナ。お前はこいつに攫われたのか?」


「うん」


 ラナはあっさり頷いた。


「ある日、部屋で寝てたら床が変な感じに光って、気づいたらここにいた。最悪だったよ。寝起きで誘拐とか、ほんと迷惑」


「帰りたいのか?」


 久夜が問う。


 ラナは、きょとんとした。


「え、帰りたくないけど」


 今度は久夜たちが黙った。


「……帰りたくない?」


「うん。だって、向こう嫌いだし」


 ラナは足をぶらぶらさせながら言う。


「私、向こうだと王女の一人だったんだけどさ。魔法が下手でね。下手というか、使える魔法が一個しかないの」


「一個?」


「物を上から下に落とす魔法」


 久夜は眉を寄せた。


「それだけか?」


「それだけ」


 ラナは少しむっとする。


「悪い? 便利だよ。棚の上のもの取れるし、嫌いな奴のティーカップ落とせるし、授業中に先生の本を落として時間稼げるし」


「ろくな使い方してねえな」


「だって戦闘なんて無理だもん。剣も使えないし、すごい魔法も使えないし、詠唱も長いと眠くなるし」


 梟がじっとラナを見る。


「王女なのに?」


「王女だから余計に面倒だったの。周りはみんなすごい魔法を期待するし、私は落とすだけ。おかげで腫れ物扱い。陰口、嫌味、比較、説教。もううんざり」


 ラナはため息をついた。


「こっちの世界、魔法使わなくていいから楽」


「攫われたのにか?」


「攫った奴がまともなら、もう少し喜べたんだけどね」


 ラナはマッドファザーを指差す。


「こいつ、ずっと私の周りで笑ってるし、寝てる時も観察してくるし、何かあるたびに“父は感動している!”とか言うし、普通に気持ち悪い」


「娘の毒舌! 父はそれも愛そう!」


「黙って」


 ラナが手をひらりと振った。


 その瞬間、天井から吊るされていた小さな器具が、ぽとりと落ちた。


 マッドファザーの頭に直撃する。


「痛い! 素晴らしい! 痛覚を伴う魔法干渉! 父は今、歴史の上にいる!」


「……あれが魔法か?」


 久夜が呟く。


 ラナは少し得意げに顎を上げた。


「そう。物を落とす魔法」


「弱そうだな」


「弱いよ」


 即答だった。


 久夜は思わず笑った。


 ラナも笑った。


 妙にあっけらかんとした笑顔だった。


「でも、向こうじゃその弱さが最悪だった。王家に生まれて、魔法が弱いってだけで、毎日毎日うるさくてさ。努力しろ、恥を知れ、王家の名を汚すなって。うるさいの。ほんとに」


「だから帰りたくないのか」


「うん」


 ラナは軽い調子で答えた。


 だが、その声の奥には、少しだけ疲れが混じっていた。


「私を大事にしてくれた人もいたけどね。おばあちゃんとか、友達とか。でも、全体で見れば面倒くさい世界だったよ」


 久夜は何も言わなかった。


 天理家を思い出したからだ。


 生まれた場所。

 期待。

 血筋。

 役割。

 使えないものとして扱われる苦痛。


 ラナの世界は久夜の世界と違う。


 だが、少しだけ似ていた。


「よし」


 久夜はダガーを取り出した。


「とりあえず、この気持ち悪い父親もどきを黙らせるか」


「賛成」


 梟が銃を構える。


 マッドファザーは大きく目を見開いた。


「黙らせる? 私を? 父を? なぜ? まだ観察は終わっていない! 彼女の魔法は未熟だが尊い! 落下だぞ、落下! 重力への命令だ! 上から下へ。高きものを低きへ。天を地へ。これほどこの世界に相応しい魔法があるかね!」


 その言葉に、久夜の眉が動いた。


「天を地へ、ね」


「理解したかね、白い少年。彼女の力は弱い。だが弱い力ほど、概念に近い。単純であるほど、美しい。落ちる。すべては落ちる。権力も、信仰も、星も、天も!」


「気に入らねえな」


 久夜は一歩踏み込む。


「そういう言葉を、お前みたいな奴が楽しそうに使うのが」


 マッドファザーは笑った。


 手術室の床が開く。


 そこから、複数の機械人形が現れた。


 人間の骨格に似た金属の躯体。

 細い腕。

 先端に仕込まれた刃。

 旧式の医療器具を無理やり武器にしたような歪な兵器。


「助手たちよ! 来客を歓迎したまえ!」


「うわ、趣味悪い」


 梟が即座に発砲する。


 一体の頭部が吹き飛ぶ。


 だが、残りの機械人形が一斉に動いた。


 久夜は笑う。


「こういうのは分かりやすくていい」


 身体が沈む。

 踏み込み。

 加速。


 音が遅れる。


 久夜の姿がぶれた瞬間、三体の機械人形の脚が同時に切断された。


 刃を振るうのではない。

 ダガーを投げるのでもない。


 久夜は、相手が動く前に関節部へ刃を滑り込ませ、駆動を断っていた。


「遅い」


 背後から迫る一体。


 梟の弾丸が、その腕の関節を撃ち抜く。


「右」


「分かってる」


「分かってないから撃った」


「このやり取り毎回やるのかよ」


「毎回必要なら」


 久夜が残る一体の胴を蹴り飛ばす。


 機械人形は壁に叩きつけられ、火花を散らして停止した。


 砕耀はというと、入り口に近い位置でラナを守るように立っていた。


 巨大な剣を振るうまでもなく、近づいた機械人形を片手で掴み、壁へ叩きつける。


「ラナ、動けるか」


「動きたくない」


「正直だな」


「だって怖いし」


 ラナは手術台の上で丸くなりながら、両手で頭を抱えていた。


「私、戦えないって言ったじゃん!」


「なら伏せてろ」


「もう伏せてる!」


 マッドファザーは、壊れていく機械人形たちを見ても、まるで惜しむ様子がなかった。


 むしろ、楽しそうに笑っている。


「素晴らしい! 天理の速度! 冥下の狙撃! 宝珠の耐久! そして落下の魔法! 父の研究室に役者が揃った!」


「お前、逃げる気ないのか?」


 久夜が問う。


「逃げる?」


 マッドファザーは首を傾げる。


「なぜ逃げる? 観測対象が向こうから来てくれたのに?」


「完全にイカれてるな」


「褒め言葉として受け取ろう!」


 床の機械がうなりを上げる。


 部屋の中央に、円形の光が浮かび上がった。


 それは、ただの機械光ではなかった。


 空間そのものが薄く歪み、向こう側に別の景色がちらつく。


 青い空。

 白い塔。

 遠くに浮かぶ城。

 天界とは違う、どこか童話じみた世界。


 ラナの表情が変わった。


「……」


 久夜はそれに気づく。


「あれが、お前の世界か」


 ラナは小さく頷いた。


「多分ね」


「戻りたいか?」


「だから、戻りたくないってば」


 ラナは笑った。


 けれど、その声はさっきより少しだけ小さかった。


 マッドファザーは両手を広げる。


「接続は不安定だ! だが美しい! 世界は一つではない! 観令が見ているのは、たかが一枚の皿の上に乗った料理だけだ! 隣の皿を見たことがない神など、神とは呼べまい!」


「観令を馬鹿にするのは嫌いじゃないが、お前の言い方は腹が立つ」


 久夜がダガーを構える。


「その装置、止めるぞ」


「止める? 止めるだって? 駄目だ駄目だ駄目だ! 父の愛を止めるな! 知識の誕生を止めるな! 娘の可能性を――」


 梟の弾丸が、マッドファザーの足元を撃ち抜いた。


「黙って」


 マッドファザーは一瞬だけ黙った。


 そして、感動したように震える。


「ありがとう。今の沈黙は新鮮だった」


「本当に会話にならない」


 梟が心底嫌そうに言った。


 久夜は走った。


 マッドファザーが端末へ手を伸ばす。

 だが、久夜の方が速い。


 指先が端末に触れるより前に、久夜のダガーが機械の基部へ突き刺さった。


 火花が散る。


 だが、装置は止まらない。


「浅い!」


 マッドファザーが叫ぶ。


「この装置は世界線の縫い目に爪を立てている! 刃一本では止まらない!」


「なら何本なら止まる?」


 久夜が笑う。


 次の瞬間、無数のダガーが宙を走った。


 基部。

 配線。

 冷却管。

 制御盤。

 魔法陣にも似た金属刻印。


 あらゆる急所に刃が突き刺さる。


 装置が悲鳴のような音を上げた。


「梟!」


「見えてる」


 梟の弾丸が、久夜のダガーでは届かなかった奥の制御核を撃ち抜いた。


 光が揺れる。


 空間の裂け目が縮んでいく。


 その瞬間、マッドファザーは笑った。


「では、最後に父から贈り物だ」


 男は自分の胸元から、小さな結晶体を取り出した。


「記録を持ち帰ろう。君たちが止めても、知識は死なない。総流社も、天界も、私の愛も、止まらない」


「させるか」


 久夜が踏み込む。


 しかし、マッドファザーは結晶体を床へ叩きつけた。


 眩い光が広がる。


 爆発ではない。


 空間の歪みが、男の身体を包み込んだ。


「また会おう、娘よ! 父はいつでも君を――」


 言葉の途中で、ラナが手を振った。


 天井から、巨大な照明器具が落下する。


 それはマッドファザーの頭上へ真っ直ぐ落ち、歪みかけていた空間を無理やり押し潰した。


 鈍い音。


 光が弾ける。


 マッドファザーの姿は消えた。


 残されたのは、壊れた照明器具と、焼け焦げた白衣の切れ端だけだった。


「……死んだのか?」


 久夜が問う。


 砕耀は床を確認する。


「分からない。転移に失敗して消えた可能性もある。別の場所へ飛んだ可能性もある。少なくとも、ここにはもういない」


「逃げたってことか」


「あるいは、消えた」


 梟が冷たく言った。


「どっちでもいい。二度と会いたくない」


「同感」


 久夜はラナを見る。


 ラナは手術台の上で、少しだけ気まずそうにしていた。


「……今の、私がやったことになる?」


「なるな」


「じゃあ私、戦った?」


「多分な」


 ラナは少しだけ目を輝かせた。


「そっか」


 そして、すぐに疲れたように肩を落とす。


「じゃあもう今日は働かなくていい?」


「まだ何もしてねえだろ」


「したよ。落とした」


「一個だけだろ」


「私にしては大仕事」


 久夜は思わず笑った。


 梟も、小さく息を吐く。


「本当に使えなさそう」


「ひどい」


 ラナは頬を膨らませる。


「でも否定はできない」


「自覚あるのか」


「あるよ。私、弱いもん」


 あまりにもあっさりした言い方だった。


 久夜は少しだけ黙る。


 ラナは弱い。

 戦闘技術もない。

 魔法も、物を落とすだけ。


 だが、弱いと言いながらも、彼女はさっき確かに自分で動いた。


 気持ち悪い狂人の手から、自分を切り離すために。


「ラナ」


「何?」


「行くぞ」


「どこに?」


「俺たちの拠点」


 ラナは目を丸くした。


「連れてってくれるの?」


「ここに置いといたら、総流社が来る。マッドファザーが戻ってくる可能性もある。だったら、砕耀のところにいた方がマシだ」


「そっか」


 ラナは少し考えた。


「ご飯出る?」


「出る」


 砕耀が答える。


「寝るところは?」


「用意する」


「魔法の訓練しろとか言わない?」


「多分言わない」


「働けとは言うかもしれない」


 梟が付け足す。


 ラナは露骨に嫌そうな顔をした。


「働くの嫌い」


「でしょうね」


「じゃあ、たまに働く」


「最初から妥協案を出すな」


 久夜は呆れながらも、手を差し出した。


「来いよ。少なくとも、ここよりはマシだ」


 ラナはその手を見た。


 しばらく迷う。


 それから、ゆっくりと手を伸ばした。


「……じゃあ、ちょっとだけ」


 久夜はラナの手を引き、手術台から下ろす。


 ラナの足元がふらついた。


 梟がすぐに車椅子を寄せる。


「乗る?」


「え、いいの?」


「歩くの遅そうだから」


「優しいのか辛辣なのか分からないね」


「両方」


 ラナは素直に車椅子へ腰掛けた。


 梟は少し嫌そうに見えたが、拒みはしなかった。


「ちょっとだけね」


「うん。ありがとう、えっと……」


「梟」


「梟。鳥の名前?」


「そう」


「いいね。私の世界にも梟はいたよ。夜に鳴くやつ」


「この世界でも同じ」


「じゃあ、世界が違っても同じものってあるんだ」


 ラナはそう言って、少しだけ笑った。


 その笑顔は、さっきまでのお気楽なものとは違っていた。


 どこか寂しそうで、けれど少し嬉しそうだった。


   ◇


 施設を出る頃には、冥下の空は相変わらず濁っていた。


 だが、久夜にはほんの少しだけ空気が変わったように感じられた。


 魔法。

 異世界。

 総流社の禁忌実験。

 観令が照合できない存在。


 天理家を飛び出した時、久夜は世界を敵に回したつもりでいた。


 だが、どうやら世界というものは、彼が思っていたよりずっと広く、ずっと歪で、ずっと面倒らしい。


 ラナは梟の車椅子に座ったまま、空を見上げていた。


「星、見えないんだね」


「ああ。天界でも地上でも、まともには見えない」


「私の世界は見えたよ。夜になると、嫌になるくらい」


「嫌なのか」


「綺麗すぎるものって、毎日見せられると腹立つんだよね」


 ラナは軽く笑う。


「でも、見えないとちょっと寂しい」


 久夜は何も言わなかった。


 星のない空。

 落ちてきた魔法使い。

 総流社が探していた重要検体。


 砕耀が低く言う。


「急いで戻るぞ。総流社は必ず動く。マッドファザーが消えた以上、次はラナを直接回収しに来る」


「その前に、飯」


 ラナが言った。


 全員が彼女を見る。


「何? 異世界に来てからまともなもの食べてないんだけど」


 久夜は笑った。


「いいな。まず飯だ」


「久夜」


 梟が呆れた声を出す。


「何だよ。飯は大事だろ」


「否定はしない」


 砕耀も苦笑した。


「分かった。帰ったら何か作る」


「肉ある?」


 久夜が聞く。


「甘いものある?」


 ラナが聞く。


「コーヒーでいい?」


 梟が言う。


「お前ら、全員要求が多いな」


 砕耀はそう言いながらも、どこか楽しそうだった。


 久夜は、ラナを見る。


 弱い魔法使い。

 帰りたくない王女。

 異世界から落ちてきた少女。


 今の彼女が、この先どんな選択をするのかなど、久夜には分からない。


 ただ一つだけ、確かに思った。


 天界の作った秩序は、この少女の存在を許さない。


 総流社は彼女を商品か検体として扱う。


 観令は彼女を誤差として処理するかもしれない。


 ならば。


「ラナ」


「何?」


「お前は、好きに生きればいい」


 ラナは瞬きをした。


 それから、少しだけ笑った。


「それ、いいね」


 彼女の手が軽く動く。


 道端に落ちていた小石が、ころりと下へ転がった。


 ただ、それだけの魔法。


 この世界で最初に生まれた、小さな落下。


 誰もまだ知らない。


 この弱く、役に立たず、本人すら嫌っていた魔法が、いつか世界の命運に触れることを。


 そして彼女が、この世界における最初で最後の魔法使いとして名を刻むことを。


 始まりと終わりの魔女。


 その名が生まれるのは、まだ少し先の話である。

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