地底の狙撃手
金色の輝きを放つ太陽の煌めきが届かない“冥下”。
その空には、星すらもない。
どこまでも続く闇。
濁った雲。
腐敗した水と鉄錆の匂い。
そもそも、光害の影響で“天界”にいようと“地上”にいようと、星などまともに見えたことはない。
それでも冥下の空は、久夜にとってあまりにも重かった。
「……最悪の朝だな」
久夜は目を覚まし、ベッドから起き上がった。
窓の外を見る。
だが、今が朝なのか夜なのかさえ分からないほど、空はどんよりと濁っていた。
あまり良い目覚めではない。
砕耀から借りたベッドは異様に硬く、少し身体が軋む。
だが、三日間まともに眠れていなかった久夜にとっては、久々のちゃんとした寝床だった。
それだけでも、まだマシと言えた。
「ああ、起きたか。おはよう、久夜。今はちょうど七時になったところだ」
部屋の奥から、砕耀の声がした。
どうやら彼は、大きな紙を広げて何かを読んでいるようだった。
両面に文字がびっしりと書かれている。
「おはよう。……それより、それは何だ?」
「これか? 新聞っていうんだ。昨日のニュースを紙に書いて配ってくれる」
「新聞……」
三百年前の世界で使われていた、世の情報を人々に知らせるための媒体。
本で読んだことはある。
だが、実物を見るのは初めてだった。
「“天界”だと情報端末に自動で届くからな。馴染みがないのも無理はない」
「冥下じゃ、まだ紙を使うのか」
「紙の方が都合がいいこともある。端末は“観令”に見られる。紙は、燃やせば終わりだ」
砕耀はそう言って、新聞を畳んだ。
今まで天界にいたせいで、久夜はそこまで意識していなかった。
だが、天界と冥下では、想像を絶するほど文明に格差がある。
それは単なる貧富の差ではない。
見ることを許される情報。
持つことを許される道具。
生きるために与えられる選択肢。
そのすべてが違っていた。
「腹が減っただろ。飯を食いに行くぞ」
「飯って、外でも食べられるのか」
「当たり前だろ」
久夜は少し目を輝かせた。
「なら、漫画で読んだハンバーガーってのを食ってみたい」
「残念だが、冥下にハンバーガーショップはない」
「終わってるな、冥下」
「お前は昨日まで冥下以下の生活能力だっただろうが」
砕耀は呆れたように笑った。
「俺の行きつけの店に行く。とりあえずついて来い」
久夜は少しがっかりしたが、砕耀の行きつけの店ならば、美味いに違いない。
昨日食べたステーキを思い出すだけで、腹が鳴った。
久夜は上機嫌になり、ついついダガーを指先でくるくると回しながら歩く。
外へ出ると、冥下の空気が肌にまとわりついた。
朝だというのに薄暗い。
道はぬかるみ、建物の壁には錆びた配管が這っている。
それでも昨日よりは、少しだけこの街が見えていた。
ただの掃き溜めではない。
ここにも人がいる。
生きている者がいる。
そんなことを考えているうちに、砕耀が足を止めた。
「ここだ」
「近っ」
拠点から五十メートルも歩いていない。
見た目は汚く、外壁もところどころ剥がれている。
だが、扉の隙間からは、コーヒーの渋くて良い香りが漂っていた。
「おっし! 早速行こうぜ」
久夜がドアノブに手をかけたところで、砕耀が端末を取り出した。
「悪い、久夜。少し連絡が来た。先に入っていてくれ」
「了解。先に行ってる」
「ああ、それと」
砕耀は端末を耳に当てながら、軽く言った。
「ここの店のお嬢ちゃんは性格に難ありだから、喧嘩にならないようにな」
「何だよ、それ。俺が喧嘩っ早いみたいな言い方すんな」
「自覚がないのが一番厄介なんだよ」
砕耀はそれだけ言うと、店の外で通話を始めた。
久夜は肩をすくめ、古びた扉を開ける。
軋む蝶番の音。
小さなベルの音。
そして、鼻先をくすぐるコーヒーの香り。
店内は、外観から想像していたよりもずっと落ち着いていた。
古びた木の床。
壁際に並んだ本棚。
手入れされたカウンター。
天界の店のような、清潔すぎる冷たさはない。
だが、人が長く使い続けたものだけが持つ、奇妙な温かさがあった。
「へえ……悪くねえな」
久夜が一歩踏み込んだ、その瞬間だった。
乾いた破裂音が鳴る。
反射的に身体を捻った。
次の瞬間、久夜の右袖が背後の壁に縫いつけられていた。
弾丸。
いや、ただの弾丸ではない。
袖だけを正確に貫き、皮膚には傷一つつけず、壁に固定している。
「……あ?」
久夜の目つきが変わる。
店の奥。
カウンターの横。
そこに、車椅子に乗った少女がいた。
年齢は久夜と同じくらいだろう。
肩口で切り揃えられた黒髪。
鋭く、眠たげで、それでいて獲物を見逃さない目。
膝には薄い毛布がかけられている。
その手には、折り畳み式の狙撃銃が握られていた。
銃口は、真っ直ぐ久夜の額を向いている。
「天界の犬が、うちの店に何の用?」
少女は冷えた声で言った。
久夜は、壁に縫いつけられた袖を引き裂き、ゆっくりと振り返る。
「初対面で随分な挨拶だな。冥下じゃ客を撃つのが礼儀なのか?」
「客なら撃たない。天理家の紋をつけて入ってきた馬鹿は別」
少女の視線が、久夜のジャケットに入った家紋へ向く。
久夜は舌打ちした。
「またこれか。着替える暇がなかったんだよ」
「知らない。ここにいる人間は、その紋のせいで落とされた奴ばかりだ」
「へえ。じゃあ俺を撃てば気が済むのか?」
「当ててほしいなら、次は袖じゃなくて眼球にする」
空気が冷える。
久夜は笑った。
昨日の借金取りたちとは違う。
目の前の少女は、脅しで銃を向けているわけではない。
撃つ気がある。
そして、撃てる技術がある。
久夜は軽く膝を曲げた。
その瞬間、少女の指が引き金に触れる。
二発目。
久夜は、まだ動いていなかった。
弾丸は、久夜の足元――次に彼が踏み込もうとしていた床板を正確に撃ち抜いた。
「……」
久夜は動きを止めた。
避けられなかったわけではない。
だが、踏み込む前に進路を潰された。
速度を見て撃ったのではない。
動く前の癖を読まれた。
「お前……」
「速いだけなら、獣でもできる」
少女は銃口を下げない。
「足の置き方、肩の沈み方、視線の逃げ方。全部うるさい。動く場所くらい分かる」
久夜の口角が、わずかに上がった。
「面白いじゃねえか」
「こっちは全然面白くない。店が汚れる」
その時、店の奥から低い声が飛んだ。
「梟。朝っぱらから店に穴を増やすな」
カウンターの向こうで、店主らしき中年の男がため息をついていた。
少女――梟は、悪びれもせず答える。
「天理家の家紋をつけた奴が入ってきた」
「撃つ前に聞け」
「聞いたら撃てなくなる」
「撃つ前提で話すな」
久夜は思わず鼻で笑った。
「いい性格してんな、お嬢ちゃん」
梟の眉がぴくりと動く。
「その呼び方、次にしたら舌を撃つ」
「やれるもんならやってみろよ、車椅子の狙撃手」
言った瞬間、店内の空気が少しだけ変わった。
店主の表情が険しくなる。
だが、梟は怒鳴らなかった。
代わりに、薄く笑った。
「逃げる足がないから、外さない目と指を手に入れた。あんたこそ、足が速いだけで偉そうにしない方がいいよ」
「……」
久夜は、そこで初めて少し黙った。
強がりではない。
劣等感でもない。
目の前の少女は、自分の不自由を言い訳にしていない。
むしろ、それを武器に変えている。
「久夜」
背後から砕耀の声がした。
通話を終えた砕耀が、呆れた顔で店に入ってくる。
「喧嘩になるなって言ったよな」
「先に撃ってきたのはそっちだ」
「梟」
「天理家の紋をつけた奴を連れてくる方が悪い」
「一理あるな」
「おい」
久夜が不満げに睨むと、砕耀は笑った。
「紹介する。こいつは梟。俺の協力者で、この第5圏じゃ一番腕の立つ狙撃手だ」
「協力者じゃない。仕事仲間」
「同じだろ」
「違う。砕耀に仲間面されると腹が立つ」
梟は銃を畳み、車椅子の横に固定した。
その動きは慣れていて、無駄がなかった。
「で、そいつが昨日拾った天界の坊ちゃん?」
「ああ。天理久夜。昨日から俺と契約関係にある」
「契約ね。砕耀、また変なもの拾ったんだ」
「今回は当たりだと思ってる」
「外れだったら?」
「久夜が死ぬか、俺が責任を取る」
「じゃあ最初から砕耀が責任取って」
「お前ら、俺を挟んで勝手に話を進めるな」
久夜は不機嫌そうにカウンター席へ座った。
店主が静かに水を置く。
「朝飯でいいか?」
「肉はあるか?」
「朝から肉か」
「昨日食った肉が美味かった。冥下は飯だけは信用できる」
店主は少しだけ笑った。
「悪くない褒め言葉だ」
梟はじっと久夜を見ていた。
警戒は解いていない。
だが、先ほどのような殺気は少しだけ薄れている。
「天理久夜」
「あ?」
「あんた、なんで冥下にいるの」
「破門された。天理家に喧嘩売ったら追い出された」
「馬鹿なの?」
「よく言われる」
「自覚あるなら救いようがあるね」
「お前、口悪いな」
「あんたにだけは言われたくない」
砕耀は二人のやり取りを見て、どこか楽しげに笑った。
「相性は悪くなさそうだな」
「最悪だろ」
久夜と梟の声が重なった。
その一致が気に入らなかったのか、二人は同時に顔を逸らす。
店主が朝食を運んできた。
焼いたパン。
濃いスープ。
厚切りの肉。
天界の朝食とは比べ物にならないほど粗野だったが、湯気と匂いだけで腹が鳴る。
久夜が食べ始めると、砕耀はカウンターに一枚の紙を広げた。
そこには、第5圏の市場周辺を描いた手書きの地図があった。
「朝飯を食いながら聞け。今日、初任務だ」
久夜の手が止まる。
「いきなりか」
「昨日も言っただろ。俺たちの当面の目標は、天界を支える十柱を崩すことだ。だが、いきなり本体に手は出せない。まずは末端から探る」
砕耀は地図の一点を指差した。
「今回の相手は、十柱が一つ――“総流社”」
「総流社?」
「世界中の流通を握る化け物企業だ。食料、薬、燃料、端末、衣類、武器の部品。人が生きるために必要な物の多くは、総流社の倉庫か販売網を通る」
砕耀は続ける。
「現代で例えるなら、販売業者、物流会社、倉庫業、商社、配給機関。そのすべての頂点にいる存在だ。保安社が天界の刃なら、総流社は世界の血管だな」
「血管ねえ」
「血を止めれば、人は死ぬ。物を届かせなければ、街も死ぬ。総流社は、人を殺さずに殺せる」
店主が、無言でコーヒーを置いた。
梟が吐き捨てるように言う。
「冥下の物資不足の半分は、あいつらのせい。もう半分は、あいつらに媚びて横流しする馬鹿のせい」
「今回の任務は、その総流社の工作員の調査だ」
砕耀は地図の市場区画を指で叩いた。
「ここ数日、第5圏に妙な販売業者が出入りしている。表向きは医療品と保存食を売る行商人だ。だが、動きが普通じゃない。値段交渉より、住民の顔や名前を探っている」
「何を探してるんだ?」
「分からない。だが、総流社の差し金である可能性が高い」
砕耀は久夜を見た。
「俺たちの目的は、そいつらを捕まえて情報を吐かせること。殺すな。証拠と情報が欲しい」
「面倒だな。腕を一本落とすくらいは?」
「落とすな」
「指は?」
「落とすな」
「じゃあ何ならいいんだよ」
「黙らせるだけにしろ」
梟が冷たく言った。
「脳みそが筋肉でできてるの?」
「お前にだけは言われたくねえな。初対面で人を撃った女が」
「あれは確認射撃」
「便利な言葉だな」
砕耀が二人の間に手を挟む。
「梟は高所から援護。久夜は市場に入って直接接触。俺は外で退路と通信妨害を担当する」
「俺とこいつで組めってことか?」
「ああ」
久夜と梟は同時に顔をしかめた。
「無理」
「嫌だ」
また声が重なった。
砕耀は肩をすくめる。
「息ぴったりじゃないか」
「殺すぞ」
「撃つよ」
「冗談だ」
砕耀は笑いながら、紙を畳んだ。
「ただし油断するな。相手は総流社の末端だ。表向きは商人でも、裏では訓練された工作員の可能性が高い」
梟の表情が、わずかに引き締まった。
久夜もまた、笑みを消す。
「出発は?」
「食い終わったらすぐだ」
「早いな」
「天界は待ってくれない」
冥下の空は、相変わらず濁っている。
太陽も、星も見えない。
それでも、久夜は不思議と悪くない気分だった。
硬いベッドで目を覚まし、古びた店で朝飯を食い、性格の悪い狙撃手と組まされる。
天界にいた頃なら、考えもしなかった朝だ。
だが、決められた席に座り、決められた作法で飯を食うよりは、よほど生きている感じがした。
「梟」
「何」
「足を引っ張るなよ」
梟は冷たい目で久夜を見た。
「そっちこそ、私の射線に入らないで。邪魔なら撃つ」
「上等だ」
久夜は笑った。
その笑みに、梟は少しだけ目を細める。
◇
第5圏の市場は、冥下の中でも特に雑然としていた。
ぬかるんだ道の両脇に、布を張っただけの露店が並ぶ。
錆びた鉄板の上で焼かれる肉。
水に浸かった野菜。
どこから仕入れたのか分からない古い端末。
壊れかけの薬品箱。
売り声と怒鳴り声が入り混じり、そこに腐った沼の匂いが混ざる。
天界の市場ではありえない光景だった。
だが、そこには妙な活気があった。
きれいではない。
正しくもない。
けれど、生きるために必死な熱がある。
「こっち」
久夜の耳に、小さな通信機越しに梟の声が届いた。
梟は市場を見下ろせる廃ビルの三階に陣取っている。
車椅子では上がれないはずの場所だが、彼女は店の裏にある古い荷物用昇降機と、あらかじめ張ってある簡易レールを使って移動した。
第5圏には、彼女のための“止まり木”がいくつもあるらしい。
「右前方、青い布の屋台。薬箱を並べてる三人組。あれが候補」
久夜は視線だけを向けた。
青い布の下に、清潔すぎる服を着た男たちがいた。
冥下の市場には似合わない。
靴に泥がついていない。
爪が綺麗すぎる。
笑顔が、商人にしては浅い。
保存食と医療品を並べているが、買いに来た住民よりも、その周囲を歩く人間の顔を見ている。
「なるほどな」
久夜は口元を歪めた。
「分かりやすいくらい怪しい」
「だから久夜でも分かる」
「いちいち喧嘩売らねえと喋れないのか、お前」
「事実を言っただけ」
久夜は軽く舌打ちし、屋台へ歩いていった。
「お兄さん、薬かい? 保存食もあるよ。地上から流れてきた上物だ」
男の一人が、にこやかに声をかけてくる。
「へえ。総流社の品か?」
久夜が何気なく言うと、男の笑顔が一瞬だけ止まった。
「……何のことかな」
「いや、冥下にしては随分と綺麗な箱だったからな。どこから仕入れたのか気になっただけだ」
「詳しいことは知らないよ。こっちは売るだけだ」
「なら、何を探してる?」
男の目が細くなる。
「探す?」
「薬を売る目じゃねえよ。人を探してる目だ」
久夜がそう言った瞬間、男の手が箱の下へ伸びた。
そこに隠されていた小型拳銃を掴むより速く、久夜のダガーが男の手元を裂いた。
銃だけが、綺麗に二つに割れて地面に落ちる。
「おっと。砕耀から殺すなって言われてるんだ。大人しくしてくれよ」
男たちの表情が変わった。
商人の顔が剥がれ落ちる。
「対象、戦闘能力あり」
一人が低く呟いた。
その声を拾った通信機が、わずかに光る。
その瞬間、遠くの廃ビルから銃声が鳴った。
梟の弾丸が、男の耳元を通り過ぎ、通信機だけを撃ち抜いた。
「通信、潰した」
「ナイス」
「褒めなくていい。気持ち悪い」
「お前な」
残りの二人が同時に動く。
一人は煙幕弾を地面へ叩きつけ、もう一人は周囲の人混みに紛れようとした。
白い煙が市場に広がる。
住民たちが悲鳴を上げて逃げ始める。
久夜は笑った。
「煙で見えなくすれば逃げられると思ったか」
久夜の身体が、消えた。
いや、消えたように見えただけだった。
踏み込み。
加速。
泥を蹴る音が、遅れて響く。
煙の中を、久夜は一直線に駆け抜ける。
逃げようとしていた男の膝裏をダガーの柄で打ち、倒れ込む瞬間に首元へ刃を添えた。
「一人」
もう一人が背後から電撃棒を振るう。
だが、久夜は振り返る必要すらなかった。
銃声。
梟の弾丸が電撃棒の先端を撃ち抜き、火花ごと機能を停止させる。
「後ろ」
「分かってる」
「分かってないから撃った」
久夜は、背後の男の顎を掌底で打ち抜いた。
骨が砕けない程度に。
だが、意識だけは確実に刈り取る強さで。
「二人目」
最後の男は、煙に紛れて走っていた。
市場の奥。
下水路へ続く錆びた扉へ向かっている。
「一人逃げる」
梟の声。
「場所は?」
「正面奥、赤い屋根の下。右手に刃物。左手に小型端末」
「端末?」
「多分、記録用。顔を撮られたかも」
「最悪だな」
「最悪にしたのは、目立つ動きした久夜」
「お前も銃撃ってるだろ」
「私は目立たないように撃ってる」
久夜は市場の屋根を蹴った。
木箱。
布屋根。
鉄骨。
足場にできるものすべてを使い、逃げる男へ距離を詰める。
男が振り返った。
手には、小さな球体。
投げられた瞬間、梟の声が飛ぶ。
「閃光」
久夜は目を閉じた。
直後、白い光が市場の一角を焼く。
普通の人間なら視界を奪われる。
だが、久夜はすでに男の位置を記憶していた。
音。
泥を蹴る足音。
息の乱れ。
布が擦れる音。
久夜は目を閉じたまま踏み込む。
ダガーの柄が、男の手首を打つ。
端末が宙に浮いた。
それを久夜が掴もうとした瞬間。
「駄目、罠」
梟の弾丸が端末を撃ち抜いた。
端末は空中で弾け、黒い煙を噴きながら地面に落ちる。
「は?」
「接触型の焼却装置。触ってたら手ごと持っていかれてた」
「先に言えよ」
「撃った」
「説明が遅い」
「生きてるんだから文句言わない」
久夜は苦い顔をしたが、言い返せなかった。
逃げていた男は、その隙に下水路へ飛び込もうとしていた。
久夜が追う。
だが、男は最後の手段に出た。
胸元から細い注射器を取り出し、自分の首筋へ突き刺す。
「っ!」
男の身体が膨張した。
血管が黒く浮き、目が濁る。
ただの工作員ではない。
何かを投与している。
「久夜、離れて」
「嫌だね」
男が吠えた。
人間の声ではない。
膨れ上がった腕が、久夜へ振り下ろされる。
久夜は避ける。
拳が地面を砕き、泥と石を巻き上げた。
「薬で強化か。総流社ってのは薬屋も兼ねてるのか?」
「流通を握ってるなら、何でも運べる」
梟の声は冷静だった。
「でも、動きは雑。右膝、神経が遅れてる」
「どこだ」
「今」
銃声。
梟の弾丸が、男の右膝の関節部を撃ち抜いた。
男の巨体が崩れる。
久夜はその一瞬を逃さなかった。
視界が引き伸ばされる。
音が遅れる。
泥粒の一つ一つが、宙に止まって見えた。
久夜は駆ける。
音より速く。
だが、光には届かない速さで。
男の懐へ潜り込み、胸、肩、肘、手首、足首。
殺さず、動けなくするための点だけを、ダガーの柄と刃の背で正確に打ち抜いていく。
最後に首元へ刃を添えた時、男の身体は地面に崩れていた。
周囲の住民たちは、誰も声を出せなかった。
速すぎた。
男が怪物へ変わったと思った次の瞬間には、すでに久夜が制圧していた。
「三人目」
久夜は息一つ乱していなかった。
通信機から、梟の声が聞こえる。
「今の、少しだけ見えなかった」
「惚れたか?」
「撃つよ」
「もう撃ってるだろ」
久夜は笑いながら、倒れた男の襟を掴む。
「で、こいつから吐かせれば終わりか?」
「……違う」
梟の声が硬くなった。
「もう一人いる」
「は?」
「屋台の裏。小柄な奴。最初から商人のふりをしてなかった。観測役」
久夜が振り返る。
市場の隅。
布を被った小柄な影が、こちらを見ていた。
手には、古い写真機のような装置。
一瞬、視線が合う。
次の瞬間、影は走り出した。
「追う」
久夜が駆け出す。
だが、その時、周囲の人混みが一斉に動いた。
偶然ではない。
数人の住民が悲鳴を上げて転び、荷車が倒れ、道が塞がる。
「買収された囮か」
砕耀の声が通信に入る。
「久夜、深追いするな」
「もう遅い」
久夜は跳んだ。
倒れた荷車を越え、壁を蹴り、屋根へ上がる。
逃げる影もまた、細い路地へ飛び込んだ。
速い。
久夜ほどではないが、冥下の道を知り尽くしている。
「梟、撃てるか」
「人が多い。今撃つと別の誰かに当たる」
「なら俺が行く」
「左に曲がる。そこは行き止まりに見えるけど、足元に抜け穴がある」
「見えてんのかよ」
「見えてない。知ってる」
梟の声に従い、久夜は路地の壁を蹴って進路を変えた。
逃げる影は、確かに抜け穴へ飛び込もうとしていた。
久夜はダガーを投げる。
刃は影の足元を掠め、逃走経路の金具を破壊した。
抜け穴の蓋が落ち、道が塞がる。
「終わりだ」
久夜が言った。
影が振り返る。
布の下にあった顔は、まだ若い男だった。
だが、その目には恐怖よりも、奇妙な確信があった。
「……天理家の、ダガー使い」
男が呟いた。
久夜の眉が動く。
「何?」
「音より速い踏み込み。投擲武器。十八歳前後。天理家の家紋を確認済み」
男は笑った。
「見つけた」
久夜が踏み込む。
だが、それより早く、男は奥歯を噛んだ。
口の中に仕込んでいた何かが砕ける音。
「自殺か――」
違った。
男の身体が、煙のように揺らぐ。
足元に展開された薄い光の膜。
地面に仕込まれていた転送用の簡易装置。
「久夜、離れて!」
梟の叫び。
久夜は咄嗟に後退する。
次の瞬間、男の姿が掻き消えた。
残されたのは、焦げた布と、焼き切れた小型装置だけ。
「……逃げられた」
久夜は低く呟いた。
通信機の向こうで、梟が舌打ちする音が聞こえる。
「ごめん。狙えなかった。人質にできる位置に住民がいた」
「いや、判断は正しい」
砕耀の声が入った。
「久夜、梟。すぐに引き上げろ。市場にこれ以上留まるな。観令に拾われる」
「でも一人逃げたぞ」
「ああ。だからまずい」
砕耀の声は、いつになく硬かった。
「そいつは久夜を見た。特徴も確認した。総流社に報告が行けば、天界にも流れる。天理家まで届くのは時間の問題だ」
久夜は無言で、焦げた装置を見下ろした。
天理家のダガー使い。
音より速い踏み込み。
十八歳前後。
家紋。
それだけあれば、十分だった。
天理家にとって、該当する人間は一人しかいない。
「……面倒なことになったな」
「なったんじゃない。あんたがした」
梟の声が返ってくる。
「まあ、半分は私もだけど」
「お前が自分の非を認めるなんて、明日は槍でも降るのか?」
「撃つよ」
「そればっかだな」
久夜は倒した工作員たちを見下ろした。
完全な勝利。
戦闘だけで見れば、圧倒的だった。
久夜は速く、梟は正確だった。
だが、その強さが目立ちすぎた。
強いということは、隠れられないということでもある。
◇
砕耀の拠点に戻った頃には、市場の騒ぎはすでに冥下中に広まり始めていた。
総流社の行商人が襲われた。
天界の坊ちゃんが暴れた。
車椅子の狙撃手が屋根から撃った。
怪物みたいな男が薬で膨れた。
それを白い刃が一瞬で潰した。
噂は尾ひれをつけて走る。
情報とは、いつだって泥水のように濁るものだ。
砕耀は、捕らえた工作員の端末を机の上に並べていた。
久夜はソファーに座り、梟は車椅子のまま壁際にいる。
「で、何か分かったのか?」
久夜が問う。
「いくつかはな」
砕耀は端末を分解しながら答えた。
「こいつらは総流社の正規社員じゃない。外部委託の工作員だ。販売業者に偽装して第5圏に入り、特定人物の所在を探っていた」
「特定人物?」
「ああ」
砕耀は、端末から抜き出した記録を古い表示板に映した。
そこに表示されたのは、荒い画像だった。
白衣を着た人物。
顔はぼやけていて、性別すらはっきりしない。
だが、その人物が何かを抱えて逃げている様子だけは分かった。
「科学者か?」
「恐らくな。名前はまだ分からない」
梟が目を細める。
「探してるのは、その科学者?」
「そう見ていい。記録には“回収対象を奪取した研究者”とある」
「回収対象って何だよ」
久夜が聞く。
砕耀は少し間を置いた。
「総流社にとって重要な被検体らしい」
部屋の空気が少し重くなった。
「被検体?」
「詳しい情報は消されている。ただ、分かることもある」
砕耀は、別の断片データを映す。
そこには短い文字列だけが残っていた。
――登録外検体。
――搬送記録なし。
――観令照合不能。
――回収優先度、最上位。
久夜は眉をひそめた。
「総流社は物流の会社なんだろ。なんで被検体なんて持ってる」
「流通を握るということは、人も物も運べるということだ」
砕耀は低く言った。
「薬品、臓器、兵器部品、違法な検体。何でもな。表の帳簿には出ない荷物も、総流社なら運べる」
「じゃあ、その科学者は総流社の実験から被検体を盗み出したってことか」
「おそらくな」
梟が静かに言う。
「でも、変。総流社ほどの組織なら、保安社に依頼すればいい。禁忌研究者として処分させれば終わる」
「それができない理由があるんだろう」
砕耀は端末の残骸を指で叩いた。
「総流社自身の実験が、観令の規定に触れている可能性がある。少なくとも、表沙汰にはできない。だから正規部隊ではなく、販売業者に偽装した工作員を送った」
「つまり、総流社は表で動けない」
久夜は口元を歪めた。
「なら、そこが弱点だ」
「ああ」
砕耀は頷く。
「だが同時に、向こうもこちらを認識した。逃げた観測役が総流社へ報告すれば、久夜の情報は天界へ上がる。天理家に届くのも時間の問題だ」
久夜は黙った。
日煌の顔が、一瞬だけ頭をよぎる。
自分を破門した兄。
天理家の現当主。
かつて、数少ない理解者だった人間。
もし自分の居場所を知ったら、日煌はどう動くのか。
助けるのか。
捕らえるのか。
それとも、天理家の刺客を送るのか。
「怖い?」
梟が言った。
久夜は鼻で笑う。
「まさか。むしろ、やっと話が面白くなってきた」
「馬鹿だね」
「よく言われる」
「でも、嫌いじゃない」
梟はそう言ってから、少しだけ視線を逸らした。
久夜は意外そうに梟を見る。
「今、褒めたか?」
「気のせい」
「いや、絶対褒めただろ」
「撃つよ」
「照れてんのか?」
梟の銃口が、無言で久夜の膝へ向いた。
「分かった。黙る」
砕耀は二人を見て、小さく笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
総流社。
逃げた観測役。
所在不明の科学者。
盗み出された被検体。
そして、天理家へ届くであろう久夜の情報。
初任務としては、勝ちすぎた。
勝ちすぎたからこそ、敵に見つかった。
砕耀は表示板のデータを消し、静かに告げた。
「次に動くのは、総流社だけじゃない。天理家も来る」
久夜は笑った。
その笑みは、挑発でも虚勢でもない。
初めて、自分の道に敵が立ちはだかったことを歓迎するような笑みだった。
「来ればいい」
久夜は指先でダガーを回す。
「俺はもう、天理家の檻には戻らない」
◇
同時刻。
地上へ繋がる中継施設の一室で、一人の男が膝をついていた。
冥下第5圏の市場から逃げ延びた観測役だった。
顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいる。
だが、任務は果たした。
彼は震える手で、記録データを送信する。
映像は粗い。
煙の中を駆ける少年。
音を置き去りにする踏み込み。
無数のダガー。
天理家の家紋。
そして、冥下の屋根から放たれる正確無比な狙撃。
通信先の画面に、無機質な文字が並ぶ。
――特徴照合中。
――天理家記録と一致。
――対象候補、一名。
やがて、画面に名前が表示される。
天理久夜。
破門済。
所在不明。
危険度、再評価中。
さらに別の文字が浮かぶ。
――天理家へ通達。
男は安堵したように息を吐いた。
その瞬間、背後の扉が開く。
入ってきたのは、総流社の制服を着た女だった。
女は男を一瞥し、画面を見る。
「よく逃げましたね」
「は、はい……対象の情報は送信済みです。ですが、科学者の所在はまだ――」
「構いません」
女は静かに言った。
「天理久夜の発見は、予定外ですが有益です。天理家が動けば、冥下第5圏はさらに乱れる。その混乱の中で、研究者を探せばいい」
「枯野様は……」
男が恐る恐る尋ねる。
女の表情がわずかに硬くなった。
「万具の翁は動きません」
「総流社の要が、ですか」
「ええ。こちらの事情を見抜かれました」
女は忌々しげに画面を見つめる。
「枯野万作は、ただの老人ではありません。あの方を動かせば、総流社の隠した荷まで見られる。今回は使えない」
「では、回収対象は」
「別班を出します。表向きは販売業者の損害調査。実態は、科学者と検体の回収です」
男は喉を鳴らした。
「回収対象は……本当に第5圏に?」
「可能性は高いです」
女は画面に別の画像を表示した。
白衣の科学者。
その腕に抱えられた、小さな影。
顔は黒く塗り潰されている。
「総流社の重要検体を盗み出した愚かな科学者。禁忌に触れたのは、我々ではなく向こう側。そう処理されるべきです」
「しかし、あの実験は……」
男が言いかけた瞬間、女の目が冷たくなる。
「それ以上は不要です」
「……失礼しました」
「我々は、失われた商品を回収するだけです」
女は淡々と言った。
「それが人であろうと、物であろうと、総流社の流通から逃れることは許されません」
画面の中で、黒く塗り潰された小さな影が揺れていた。
その存在が何なのか、まだ誰も知らない。
少なくとも、久夜たちはまだ知らない。
ただ一つ確かなことがある。
総流社はまだ、本当の切り札を切っていない。
万具の翁、枯野万作。
彼が動かないという事実は、総流社にとって幸運ではなかった。
それは、総流社の内部にすら、この件が腐臭を放っていると気づいている者がいるという証だった。
泥の底で始まった小さな初任務は、すでに天界の秩序を揺らす糸へと繋がり始めていた。
そして、その糸の先には――天理家の刃が迫っていた。




