泥濘の再起
久夜は、苛立ちとともに、ぬかるんだ道を踏みしめていた。
衝動的に家を飛び出し、一族に宣戦布告したまでは良かった。
だが、現実は甘くない。
監視カメラの眼が光り、“天界”に仕える“天使”が巡回する“地上”の街は、今の彼にとってあまりにも眩しすぎた。
逃げ込んだ先は、スラム街“冥下”第5圏。
山間に位置し、澱んだ沼に囲まれたその街は、腐敗した水と鉄錆の匂いが混じり合う、文字通りの掃き溜めだった。
「クソが……やっと着いたか」
空腹が胃を焼いていた。
三日前、生まれて初めて足を踏み入れた「コンビニ」という場所で、物珍しさに任せて散財したのが運の尽きだった。
一文無しの元貴族は、飲食店を探して街を彷徨う。
だが、“天理”家の別荘や“天界”の清潔な街並みしか知らない彼にとって、この街はあまりに異質だった。
どこが店で、どこがゴミ捨て場なのかさえ判別がつかない。
そんな彼の耳に、品性の欠片もない怒鳴り声が届いた。
「お〜い、お嬢ちゃん。借金の返済日は今日だって、お互い合意の上でしたよねぇ?」
ガラの悪い男たちが、赤ん坊を抱いた女性を路地の壁際へ追い詰めていた。
男たちの手には、無骨なショットガンが握られている。
(無視だ。関わるだけ時間の無駄だ)
久夜は踵を返そうとした。
だが、その足を止めたのは、女性の前に立ちはだかる小さな影だった。
「お前らが……お父さんを奴隷みたいに扱ったから……お父さんは死んだんだ!」
十歳にも満たない少年だった。
声は震えている。
足も震えている。
それでも少年は、男たちを睨みつけていた。
男の一人が鼻で笑い、少年の額に銃口を押し当てる。
「クソガキが。“地上”から落とされたカスがいくら喚いても、金は返らねえんだよ」
「お前らが……死ねよッ!」
少年が叫ぶ。
その直後、鈍い衝撃音が響いた。
男の蹴りが少年の腹を捉え、少年の身体は壁まで吹き飛ばされた。
「いいか、この女はまだ若い。売ればそれなりの金になる。ガキと赤ん坊? その辺に捨てとけ。金にならねえもんに興味はねえ」
男が女性の髪を掴み、引きずり回そうとする。
それでも少年は立ち上がった。
血の混じった唾を吐き捨て、再び男の脚にしがみつく。
(……むず痒いな)
久夜は、自分でも意外なほど冷静に、懐のダガーへ指をかけていた。
合理的に考えれば、ここは隠れ潜むべきだ。
今の自分は追われる立場であり、余計な騒ぎを起こすべきではない。
だが、運命に抗おうとする少年の姿が、どうしようもなく“天理”という呪縛を切り裂いた自分と重なった。
あるいは、ただ腹が減りすぎて、誰かをぶちのめしたかっただけなのかもしれない。
「おい、そこのお兄さんたち」
挑発を乗せた軽い口調で、久夜は路地へ踏み込んだ。
「子供相手にそんな汚ねえ言葉使って、恥ずかしくねえのか?」
男たちが一斉に振り返る。
「あ? 誰だテメェ。関係ねえなら引っ込んでろ」
男は銃口を久夜に向けた。
こんなもので自分を殺せると思っているらしい。
そのあまりの滑稽さに、久夜は思わず笑みをこぼした。
「何笑ってんだ? 殺――」
男の言葉が途中で止まる。
視線が、久夜の着ているジャケットへと向いた。
「……お前、“天界”のヤローだな。しかも高位のとこの奴だ」
久夜は男の視線を追い、自分のジャケットに天理家の家紋が入っていることに気づいた。
そういえば、着替える余裕すらなかった。
「ハハッ! 運が回ってきたぜ! こいつを殺して身ぐるみを剥げば、一生遊んで暮らせるぞ!」
男が引き金に指をかけた。
乾いた破裂音が路地に響く。
だが、その弾丸が久夜を捉えることはなかった。
「なるほど」
久夜は、すでに男の背後に立っていた。
「だから銃は“弱者の武器”だって言われるんだ」
驚愕に目を見開く男たちの横で、久夜は手遊びのようにダガーを回転させる。
「何驚いてんだ? こんなの、誰でも避けられるだろ」
天理家が誇る異常な身体能力。
その中でも、久夜の“神速”は一族の常識すら超えていた。
「テメェ、魔法でも使ったのか!?」
「何言ってんだ、お前」
「いいから撃て! 女ごと蜂の巣にしろッ!」
男たちが一斉に銃を構える。
だが、銃声が響くより速く、金属が砕ける甲高い音が空気を震わせた。
久夜が放ったダガー。
それは正確にショットガンの機関部を破壊し、男たちの手元で鉄屑へと変えていた。
「な、何が……!?」
「簡単な話だ。お前らが撃つより速く、俺が壊した。それだけだ」
「クソ! 応援を呼べ!」
男が通信機に手をかけた、その時だった。
「そいつは俺の客人だ。それ以上はやめてもらおうか」
地響きのような声が響いた。
路地の入口に、筋骨隆々の大男が立っていた。
オールバックの髪に、凛々しい風貌。
右手には、宝石のような輝きを放つ、身の丈ほどもある大剣を担いでいる。
「げっ……“宝玉の主人”! し、失礼しましたっ!」
男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
久夜は油断なく大男を見据える。
「助けてもらう必要なんてなかったんだけど。それとも、次の相手はあんたか?」
「お前、天理家の人間だな。ついて来い。嫌なら殺り合ってもいいが、意味がないことくらい分かるよな」
大男は高圧的に久夜を見下ろした。
暴れ足りない久夜としては、正直なところ戦ってみたくもあった。
だが、天界で様々な強者と組手をしてきたからこそ分かる。
目の前にいるこの大男は、自分より強い。
ここで簡単に死ぬわけにもいかない。
久夜は不満げに舌打ちしながらも、大人しく従うことにした。
「ああ、別に危害を加える気は一切ない。互いにとって利益になる話であることを約束する」
大男が歩き出す。
久夜もついていこうとしたが、ふと思い出して足を止めた。
「なあ、こいつらはどうすんだ?」
久夜は少年と女性に視線を移した。
「放っておけ。“冥下”に福祉なんて観念はない。なんなら、お前に命を助けてもらっただけでも値千金だ」
それを聞いて、久夜は一度歩き出そうとした。
だが、どうしても無視できなかった。
久夜は手元のダガーを一本取り、少年に差し出す。
「これでも売って、少しでも小銭の足しにしろ。……ただし、握るなよ。お前が持つには、まだ早い」
天理家や“天界”の連中のように、弱者を高みから見下ろすのではなく、手を差し伸べられる人物になりたかった。
かつて家庭教師の目を盗んで読んだ漫画のヒーローのように。
「……ありがとう。お兄さん、名前なんて言うの?」
「天理久夜だ。君は?」
「嘉路だよ」
「嘉路」
久夜は、少年に向けて微笑んだ。
「君の勇姿、最高にかっこよかったよ」
それは、久夜の人生で一番優しい笑顔だった。
もし自分に力がなかったら、少年のように立ち上がれただろうか。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
「悪い、待たせたな。さっさと行こうか」
「……」
大男は何も言わず、再び歩き出した。
久夜は投げたダガーを回収しながら、その後についていく。
しばらく歩いたところで、大男が口を開いた。
「確認だが、お前は天理家の人間だな?」
「ああ、そうだ。まあ、破門されたから、もう天理家の人間ではないがな」
別に隠す必要もない。
「なるほどな。そんで行く宛てもなく“冥下”まで来たわけか。久夜くんは」
「で、あんたは何者だ? 場合によっては、分かるよな」
「俺は砕耀。情報屋をやっている」
「さっきの少年もそうだったが、なぜ苗字を名乗らない?」
砕耀は不思議そうな顔をしたが、すぐに何かを察したように話を続けた。
「お前、箱入り息子か。なるほどな」
「誰が箱入りだ」
「生まれつき“冥下”に住む人間や、“地上”や“天界”から落ちた人間は苗字を失うんだ。逆に“冥下”から“地上”に上がる場合は苗字を授けられる。苗字ってのは、この世界じゃただの名前じゃない。身分証みたいなもんだ」
「……気に入らねえ仕組みだな」
「俺もそう思う」
砕耀は足を止めずに言った。
「さて、お互い隠し事は少ない方がいい。先に俺の目的を話しておく。俺は、この腐りきった世界を変えるつもりだ。そのために、久夜の力を借りたい」
何を言われるかと思えば、予想を超える返答だった。
久夜は思わず砕耀を見上げる。
自分と同じように、この世界そのものを敵に回そうとしている狂人が、目の前にいる。
「俺が世界を変える理由は主に二つだ。一つは、俺の両親が“天界”に粛清されたから。いわゆる敵討ちだな。もう一つは、“天界”のお偉いさん方が私腹を肥やし、高みの見物をしているのが、どうにも腹に据えかねる。まあ、結局のところは俺の私利私欲だ」
「ほう、なるほどな。……で? なんで俺なんだ?」
「最初は情報だけ抜いて終わる予定だったさ。だが気が変わった」
砕耀は、わずかに口元を緩めた。
「お前のような天理家や“天界”の人間は、弱者を食い物にし、踏み台にするだけの人種だと思い込んでいた。無論、今でも大半はそう思っている。だが……俺の勘が、お前には仲間になってほしいと感じた」
「勘かよ」
「情報屋にとって、勘は馬鹿にできない。それに、お前も困っているんだろ? “地上”の“天使”どもの目を欺いて、ここまで逃げてきた。俺なら、あの“観令”の目を欺く手段だって知っている」
久夜は驚いた。
“観令”。
この世界を監視するAI。
その存在を明確に知る者は少ない。
それだけでなく、“観令”という呼称は、天理家や“天界”の一部の権力者のみが使うものだ。
なぜ、この男がそれを知っている。
疑念は深まった。
だが同時に、この男の力を借りることが、自分にどれほどの利益をもたらすかも痛いほど分かった。
「いいぜ。あんたのことはまだ完全に信頼できない。だから、お互いに利用し、利用される関係なら手を組んでやる」
「契約成立だな。俺も最初から上手くいくとは思っていない。それぐらいが丁度いいさ」
砕耀は満足そうに頷く。
「早速だが、お前にいくつか聞きたいことがある」
「構わないが、仲良くしたいなら“お前”呼びはやめろや」
「ああ、すまん。……さて、早速だが久夜に聞きたい。天理家や“天界”が持つ戦力についてだ」
砕耀の声が少し低くなる。
「赫天が統一して以来、兵器は表向き消えた。だが、俺たちの文明レベルは三百年前とほとんど変わっていない。第二次世界大戦以降の百年で、人類は凄まじい進化を遂げたはずなのに、この三百年は不自然に停滞している。……“天界”が意図的に技術を独占し、文明を制御している。そうは思わないか?」
「あー……悪い。俺、そういうことは知らねえんだよな」
久夜は頭を掻いた。
「ただ、“天界”の武器が科学じゃ説明できないものばかりなのは事実だ。あと噂だが、二百五十年前の“亜神戦争”では核ミサイルが使われたって聞いたことがある。だから主戦場は今でも禁足地なんだろうしな」
「亜神戦争については、どこまで知っている?」
「赫天が世界を統一してから数年後、遺伝子の突然変異によって人ならざる力を持つ人間が生まれた。人ならざる筋力、翼、特殊な肉体構造。そういう奴らは“亜人”と呼ばれた」
久夜は、記憶の中の知識を手繰り寄せる。
「“地上”の人々は、最初こそ亜人を受け入れ、共生していた。だが、“天界”は未知の力を持つ亜人を警戒し、始末することを考えた。そこから亜神戦争が始まった」
砕耀は黙って聞いていた。
「“地上”の人々も、最初は“天界”を非難していた。けど、亜人に職を奪われる者が出た。能力差から価値観の違いが生まれ、衝突も増えた。最終的には、社会全体が亜人殲滅の風潮に傾いていった」
「結果は?」
「“天界”の勝利。亜人たちは社会での立場を失い、“冥下”に追いやられた。捕まって処刑された者も多いと聞いている」
「なるほどな」
砕耀は小さく息を吐いた。
「安心しろ。久夜が知らないというのも重要な情報だ。問題児だったにしても、将来的にそれなりの地位に就く可能性がある奴に何も教えないとは考えにくい。恐らく、この世界の真実を知る者は相当限られている」
「何が言いたい」
「もう一つ質問だ。赫天の持っていた能力について教えてくれ」
「赫天の能力? なんでそんなことを聞くんだ?」
「赫天は三百年前、世界を統一した。だが普通、一人の人間にそんなことができるわけがない。ただならぬ力……概念に干渉するような能力を持っていたと考えても、おかしくないだろ」
「概念に干渉だと……?」
久夜は眉をひそめた。
「確かにこの世界には非科学的なものが存在する。だが、本当にそんなものが実在するのか?」
「実在する」
砕耀は短く答えた。
「ちょうどいい。少し寄り道をしよう」
二人は路地の奥へと入っていった。
砕耀が足を止めたのは、街の奥にぽっかりと空いた巨大な穴の前だった。
クレーター。
そう呼ぶには、そこはあまりにも静かすぎた。
爆撃の跡なら、瓦礫がある。焦げ跡がある。熱がある。
だが、目の前の穴に残っているのは、熱ではなかった。
冷たさだ。
地面の底から、死んだはずの何かがまだこちらを見上げているような、粘ついた冷気。
腐敗した水の匂いも、鉄錆の臭気も、その場所の前では薄れていた。
「……なんだ、ここ」
久夜は無意識にダガーへ指をかけていた。
何かがいるわけではない。
敵意を向けられているわけでもない。
それでも、肌が理解していた。
ここは、かつて戦場だった場所ではない。
死そのものが棲みついていた場所だ。
「六年前まで、冥下第5圏はこの世で最も死に近い街だった」
砕耀は、穴の底を見下ろしたまま言った。
「支配していたのは、惰偉。通称、“死蝕の星”」
「星?」
「今は先に惰偉の話をする。あいつは五十三人を殺して投獄された殺人鬼だった。だが、ある日、収容施設の囚人と警備員を全員殺して脱獄した。そこから一年で、この街は生きた地獄になった」
「たった一人でか?」
「ああ。だが、あいつは一人であって一人じゃなかった」
砕耀の声が低くなる。
「惰偉の力は、殺した相手の記憶と技術を奪い、自分の肉体に積み上げるものだった。一人殺せば、一人分の経験を得る。百人殺せば、百人分の武術と知識を得る。殺すほど強くなる。殺すほど、惰偉という個人は膨れ上がる」
「……最悪だな」
「最悪なのはそこからだ。やつは殺した死体を繋ぎ合わせ、屍兵として使役した。痛みも恐怖も知らない。死んでいるから脅せない。壊しても、惰偉が命じればまた立つ。ここには一時、三千を超える屍兵が蠢いていた」
久夜はクレーターの底を見た。
何もないはずの穴の底に、無数の手が積み重なっている幻が見えた気がした。
「“天界”は何をしていた」
「動いたさ。保安社の最高位粛清部隊、“座天使”を送った」
座天使。
その名を聞いた瞬間、久夜の表情が変わった。
天界において、座天使は力の象徴だ。
武力で解決できない問題を解決するために存在する、天界最強格の実行部隊。
「なら、惰偉は死んだはずだろ」
「負けたんだよ。座天使が」
砕耀は淡々と言った。
久夜は、すぐには言葉を返せなかった。
「惰偉を殺す前に、座天使が一人でも死ねば、その力は惰偉に継承される。天界の切り札を投入すればするほど、敵を強くするだけだった。結局、天界は撤退した。冥下第5圏は見捨てられた」
風が吹いた。
腐った沼の匂いが、久夜の頬を撫でる。
「それで、誰が止めたんだ」
「玲火だ」
砕耀は、そこで初めて少しだけ声を変えた。
「後に、“災焔の星”と呼ばれる女だ」
「……そいつも、星なのか」
「ああ」
砕耀は空を見上げた。
冥下の空は濁っていて、星など一つも見えない。
「星ってのは、天界が与える称号じゃない。誰かが名乗る肩書きでもない。人々の記憶に焼き付いた怪物の名だ」
砕耀は続ける。
「ある者は希望として、ある者は災厄として、人々の心に昇る。見上げたくなくても、見えてしまう。忘れようとしても、消えてくれない。そういう存在を、冥下の人間はいつしか星と呼ぶようになった」
「死蝕の星は、死そのものだったってわけか」
「そうだ。惰偉は、この街の人間にとって死そのものだった。やつが手を上げれば命が消え、やつが望めば死者が動く。“死ねば終わる”という当たり前の理すら、あいつの前では通用しなかった」
砕耀はクレーターの底を指差した。
「そして、その死を焼いたのが玲火だ」
「焼いた?」
「あの女の炎は、ただの火じゃない。肉を焼く炎じゃない。魂にへばりついた怨念を、死者を縛る鎖を、惰偉が積み上げた継承そのものを焼き切る炎だ。三千の屍兵も、惰偉が奪った記憶も技術も、すべて灰になった」
「座天使でも倒せなかった相手を、一人で?」
「ああ」
砕耀は短く答えた。
「だから天界は玲火を恐れた。冥下の連中は彼女を希望だと思った。だが同時に、その炎がいつか世界そのものを焼くかもしれないとも思った。希望と災厄。その両方を背負ったから、彼女は災焔の星になった」
久夜は沈黙した。
音より速く動ける。
ダガーなら誰にも負けない。
天理家の型に縛られない自分こそが、闇を裂く刃になれる。
そう思っていた。
だが、このクレーターの前では、その自負があまりにも小さく思えた。
死を操る星。
死を焼き払う星。
座天使すら退ける怪物たち。
自分が知っていた世界の天井が、音を立てて崩れていく。
「そして今は、地上で、赤木玲火という名前を与えられて小学校の教員をやってるらしい」
「冗談だろ」
「冗談で済むなら、天界は情報統制なんてしないさ」
砕耀は久夜を見た。
「久夜。お前が敵に回した世界は、天理家だけじゃない。星を隠し、星を利用し、星を恐れる世界そのものだ」
久夜は砕耀を見上げた。
目の前で淡々と“化け物”たちの話を語るこの男は、一体何者なのか。
「……話は分かった。だが砕耀、あんたは何者だ」
久夜は、砕耀の肩に担がれた大剣を見た。
「死蝕の星だの、災焔の星だの、天界が隠した情報を当然みたいに話してる。おまけに、その剣。どう見てもただの武器じゃねえ。あんたもその星ってやつなのか?」
久夜の問いに、砕耀は自嘲気味な笑みをこぼした。
「俺か? 俺は星なんて高尚なもんじゃない。ただ、天界の禁忌に心臓を握られた人間だ」
砕耀は自分の胸を指した。
「宝珠の心。失われた未来技術で作られた人工心臓だ。こいつのおかげで、俺は死ににくい。斬られても、砕かれても、心臓が動く限り肉体は再生する」
「……人工心臓で、再生?」
「ああ。俺は生まれつき心臓が悪く、五歳まで生きられないと宣告されていた。研究者だった両親は、俺を生かすために天界の禁忌……失われた未来の技術を使った。心臓そのものが宝石のように輝く、禁断の臓器。それが宝珠の心だ」
砕耀は右肩に担いだ大剣を軽く揺らす。
「この大剣も、宝珠の心を応用して作らせた特製品だ。俺の心臓と共鳴し、何度砕けようとも再生する。そのたびに強度を増し、より鋭く進化する。いわば、俺の肉体の一部みたいなもんだな」
「……」
久夜は改めて、目の前の大男を凝視した。
再生する肉体と、進化し続ける剣。
天理家で磨いてきた技術とは全く別次元の、暴力的なまでの生存戦略。
「……天界の人間だった俺が憎くないのか? あんたの両親を殺したのは、俺の一族と言ってもいいんだぞ」
「憎くないわけがないさ」
砕耀は静かに言った。
「だがな、久夜。一時の感情で動くのは、俺の美学に反する。俺が求めているのは、効率的な変革だ。……それに、お前はいい奴だからな」
「は?」
「あのガキにダガーを渡した時の顔だ。あれは、天界の連中にはできねえツラだ。殺すには惜しいと、俺の直感が言っている」
久夜は鼻を鳴らし、視線を逸らした。
「ハッ……随分と甘い直感だな。だがいいだろう。その契約、乗ってやるよ」
久夜は胸を張る。
「俺は天理久夜。現当主天理日煌の弟だ。特殊能力なんて持ってねえが……俺の投げる刃は、どんな化け物の喉笛だろうが、必ず貫いてみせる」
意外にも、砕耀はそこで驚いた反応を見せた。
「ほう。久夜は赫天直属の血筋だったのか。俺はてっきり、どこかの権力者の御曹司なのかと思っていたよ」
「あ?」
「なら、尚更破門されたのは不思議だな。日煌が優秀な当主とはいえ、赫天の血を世に放つなんて、権力者たちが許すとは思えない」
久夜の脳裏に、成人の儀の光景が蘇る。
あの時、久夜に破門を宣言したのは日煌だった。
長老たちや他の権力者は何か言いたげだったが、当主である日煌が宣言したことで、黙認せざるを得ない状況になっていた。
今にして思えば、日煌が何もしなかったら、自分はどんな処罰を受けていたか分からない。
もしかして、日煌は自分の味方だったのか。
そんな考えが頭をよぎる。
『天に君臨する者として、時には趣味を隠し、他者に畏れられる存在でなければならない……』
久夜は奥歯を噛みしめた。
分かっている。
今の兄は、かつて自分の理解者だった兄ではない。
久夜は頭の中の疑問を振り払った。
「兄貴がいる限り、赫天の血筋は絶えない。だから俺みたいな“天界”の秩序を乱す奴を置いておくより、追い出す方が都合がいいんだろ」
「……そうか」
砕耀は、それ以上追及しなかった。
「いいタイミングだ。着いたぞ」
砕耀は、小さなビルの前で立ち止まった。
「ここが俺の家であり、拠点だ。久夜にはしばらくの間、ここを中心に活動してもらう」
失礼だとは思いつつも、久夜は思わず顔をしかめた。
生まれて初めて、ここまで汚れた建物に入ることへの嫌悪感があった。
「“天界”に反逆するのはいいんだが、具体的に何をするんだ?」
「まあ、立ち話もなんだ。中に入れよ。腹減ってるんだろ。何か作ってやる」
話に集中していて忘れていたが、久夜は空腹だった。
おそらく自分が知らないところで腹が鳴っており、それを聞かれていたに違いない。
「マジかよ。さっさと入ろうぜ。肉がいいな!」
久夜の反応が気に入ったのか、砕耀はニヤリと口角を上げ、建物の中へ入っていった。
外観に比べ、建物の中は少し埃っぽいものの、意外なほど整っていた。
内装のイメージは、小説に出てくる探偵事務所そのものだった。
「そこのソファーにでも座って待っていてくれ。あ、飲み物はコーヒーでいいか?」
久夜は横暴な態度でソファーにもたれかかる。
「いいぜ。砂糖は山ほど入れろよ」
砕耀は聞いているのかいないのか、淡々と作業を始めた。
冷蔵庫らしき機器から大きな肉を取り出し、手際よく味付けをしていく。
「どうやって“天界”に反逆するのかと聞いたな」
砕耀は肉に香辛料を振りながら言った。
「俺たちの当面の目標は、“天界”を支える十の巨大企業――“十柱”を叩き潰すことだ。奴らが天界の富と、監視AI“観令”を管理している可能性が高い。外堀を埋めて、最後に天理家を引き摺り下ろす」
砕耀は振り返る。
「……おい、聞いてるか?」
久夜は聞いていなかった。
味付けが終わり、いよいよ本番に入った肉から極上の匂いが漂っている。
久夜の意識は、完全にそちらへ持っていかれていた。
目の前にコーヒーと大量の砂糖が置かれていることにすら気づいていない。
「おい。まさか聞いてなかったのか?」
「肉が焼ける音の方が重要だった」
「……まあ、今後の計画については追々伝える。とりあえず、これでも食え」
久夜の前に、素晴らしい焼き加減で調理されたレアステーキが置かれた。
久夜はナイフとフォークを持ち、迷うことなくステーキを口に運ぶ。
「……おい」
久夜は思わず声を上げた。
「マジで美味いぞ」
天理家で出される料理は、どれも高級で、完璧な調理技術で作られていた。
だが、それらはどこか義務のように感じられた。
食べなければならないから食べる。
席につかなければならないから席につく。
味わうことさえ、作法の一部に組み込まれていた。
だが、この肉は違った。
三日間の空腹の果てに食う飯は、どんな高級料理よりも「生きている」実感を与えてくれた。
「砕耀、お前料理人になれるぞ。“天界”で食った飯のどれよりも美味い」
久夜は肉を頬張りながら言った。
「砕耀のことはまだ完全には信用できないが、料理の腕に関しては誰よりも信頼できる」
「ハハ。俺が毒を入れている可能性もあるかもしれないんだぜ」
「それで死んだら悔しいが、最後に美味いもん食って死ぬのも悪くないんじゃねえか」
「変な奴だな。まあ、久夜がいいならいいか」
一心不乱に肉を頬張る久夜を見て、砕耀は静かに笑った。
窓のない地下。
外には星も見えない。
だが久夜は、この暗闇の中にこそ、自分が求めていた自由と真実が眠っていることを確信していた。
天界で食べていた完璧な料理よりも、冥下の地下で食べる一枚の肉の方が、よほど生きている味がした。
泥濘に足を取られ、空腹に腹を焼かれ、見知らぬ男に利用されようとしている。
それでも久夜は、ようやく自分の足で立っている気がした。
天理久夜の再起は、光の下では始まらなかった。
星の見えない、泥の底から始まった。




