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白いカラス  作者: シンドゥー


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30/31

人のための法

 白い女神は、血を流していた。


 肩から落ちた赤が、白い衣を汚していく。


 民衆は誰も声を上げなかった。


 悲鳴もない。

 歓声もない。

 祈りもない。


 ただ、見ていた。


 神代依愛を。


 法の女神としてではなく、血を流す一人の女として。


「見るな」


 依愛は呟いた。


 声は震えていた。


「そんな目で、私を見るな」


 久夜はダガーを握ったまま、静かに構える。


 依愛の力はまだ消えていない。

 判決廷は広場を囲み、白い文字が空中を這っている。


 だが、先ほどまでの圧倒的な重さはない。


 民衆の視線が変わった。


 信仰が疑念へ変わった。

 敬愛が恐怖へ変わった。

 祈りが沈黙へ変わった。


 それだけで、法の女神の足元に亀裂が入っていた。


「神代様……」


 裁律社の職員の一人が、震える声を漏らした。


 依愛はその声へ顔を向ける。


 笑っていた。


 だが、それはもう慈愛の微笑みではなかった。


「何ですか」


 職員は言葉を失う。


 依愛は一歩、裁定壇の前へ出た。


 肩の血を押さえることもなく、民衆を見下ろす。


「皆さんは、何をそんなに怯えているのですか?」


 誰も答えない。


「私はここにいます」


 依愛は胸に手を当てた。


「法はここにあります」


 沈黙。


「私は、皆さんのために裁いてきました」


 沈黙。


「罪を正し、秩序を守り、不安を取り除いてきました」


 沈黙。


 依愛の笑顔が、少しずつ歪む。


「なのに」


 白い文字が揺れた。


「なのに、どうしてそんな目で私を見るのですか」


 民衆の中で、誰かが一歩下がった。


 その小さな動きに、依愛の目が鋭く反応する。


「下がらないでください」


 声が冷える。


「私はまだ、話しています」


 その場にいた人々の身体が硬直した。


 判決廷の文字が足元を這い、民衆の逃げ道を塞いでいく。


「私を疑った者」


 依愛の声が広場全体へ響いた。


「法の裁定を不当に拒絶した者」


 民衆がざわめく。


「秩序の維持に対し、不安と混乱を広げた者」


 久夜の目が細くなる。


「おい、いい加減にしろ」


「黙りなさい」


 依愛は久夜を見ずに言った。


 その視線は民衆へ向いている。


「あなたたちにも、反省が必要です」


 悲鳴が上がった。


「私たちは何もしていない!」


「ただ見に来ただけだ!」


「に、逃げろ!」


 依愛は優しく微笑んだ。


「大丈夫です」


 光の鎖が、民衆の足元から伸びる。


「痛みは、必要な分だけです」


 砕耀が大剣を構えた。


「民衆まで裁くか」


「彼らは私を疑いました」


 依愛は当然のように答える。


「私を疑うことは、法を疑うことです」


「全く違う」


 久夜は言った。


「違いません」


「お前は法じゃない」


 依愛の表情が止まる。


 久夜は一歩前へ出た。


「さっき、自分で言っただろ。私を疑った者って」


「それが何ですか」


「法を疑った者じゃない。お前を疑った者だ」


 依愛の目が揺れた。


 民衆も、それを聞いていた。


 久夜は続ける。


「お前は最初から、人のために裁いてなんかいない」


「黙りなさい」


「自分を信じない奴が許せないだけだ、そうだろ」


「黙れ」


「自分を好きにならない奴が、憎いだけだ」


「黙れ!」


 白い武器が久夜へ降り注ぐ。


 処刑槍。

 断頭台の刃。

 光の縄。


 久夜は床を蹴った。


 横へ飛ぶ。


 砕けた投影板の破片を蹴る。

 折れた柱の側面を蹴る。

 空中に浮かぶ法典文字の縁を踏み抜き、軌道を変える。


 依愛の攻撃は速い。


 だが、乱れている。


 怒りで狙いが荒くなっている。


 久夜はその間を抜けた。


 砕耀の大剣が、久夜を追う刃を砕く。


 梟の弾丸が、光の鎖の結び目を撃ち抜く。


 兵士、槍、剣、光の縄。


 依愛にとって強さであり、力の象徴が次々と打ち砕かれていく。


「やめなさい」


 依愛は怒鳴った。


「私の法を、壊すな!」


「法じゃねえよ」


 砕耀が低く言う。


「檻だ」


 依愛の背後に、無数の幻影兵が現れた。


 白い甲冑をまとった兵士たち。

 顔はない。

 ただ、裁くためだけに作られた影。


 鈴木が前に出る。


「民衆の方は任せろ!」


 幻影兵が民衆へ向かう。


 鈴木は拳を振り抜き、最前列の兵士を吹き飛ばした。


 衝撃で白い甲冑が砕ける。


「こっち来んな!」


 梟は記録装置を肩に固定したまま撃つ。


「全部、映ってるよ」


 依愛は梟を睨んだ。


「記録を止めなさい」


「嫌」


「止めなさい!」


「あなたが見られたくないなら、なおさら止めない」


 梟の弾丸が再び走る。


 依愛の周囲に天秤盾が展開され、弾丸を弾いた。


 その瞬間、久夜が盾の影から出る。


 戻るダガーが依愛の背後から迫る。


 依愛は全く反応できていなかった。


 杖を振るうも、当たらない。


 依愛の力は力は減衰し続け、久夜を視認することは愚か反応すらできなくなっていた。

 

「速い……!」


 完全に翻弄されていた。


 久夜を探し四方見回す。

 

 その隙に背後を取った久夜本体が懐へ入った。


 依愛は目を見開く。


 刃が走る。


 今度は腕を裂いた。


 血が白い床に落ちる。


 依愛は後退した。


 民衆の前で、また血を流した。


「違う」


 依愛は呟く。


「違う、違う、違う……」


 彼女は民衆を見た。


「皆さん、信じなさい」


 誰も答えない。


「私は法です」


 誰も頷かない。


「私は、あなたたちを守ってきたでしょう?」


 民衆は怯えていた。


 その中に、先ほどの若い女性がいた。


 肩掛け鞄のチセラのキーホルダーを、両手で握っている。


 依愛の視線が、そのキーホルダーに吸い寄せられる。


「あなた」


 若い女性の肩が震えた。


 依愛はゆっくりと近づこうとする。


 久夜が動こうとしたが、依愛は手で制した。


「大丈夫です」


 笑顔だった。


 壊れた笑顔だった。


「私は、その子を責めているわけではありません」


 若い女性は一歩下がる。


 しかし、白い文字が足元を塞いでいる。


 逃げられないようにしている。


 依愛は彼女の前で立ち止まった。


「その飾り」


 女性は震えながら、キーホルダーを握りしめる。


「チセラが、好きなのですか?」


 女性は声を出せない。


「答えなさい」


 優しい声で命じる。


 女性は震えながら頷いた。


「……好きです」


 依愛の頬が、わずかに引きつる。


「どうして?」


「え?」


「どうして、好きなのですか」


 女性は泣きそうな顔で言った。


「配信を見ると、元気が出るからです」


「元気」


 依愛はその言葉を繰り返した。


「ただ笑っているだけなのに?」


「……はい」


「ただ歌って、ただ手を振って、ただ可愛らしくしているだけなのに?」


 女性は震えながら、それでもキーホルダーを離さなかった。


「それでも、元気が出ます」


 依愛の目が冷たくなる。


「私は?」


 女性は固まった。


「私は、あなたたちを守ってきました」


 依愛は自分の胸に手を当てる。


「罪を裁き、秩序を守り、法を示してきました」


 声が震え始める。


「私は、あなたたちのために、ずっと正しくあろうとした」


 久夜は黙って見ていた。


 その言葉には嘘が混じっている。


 だが、全部が嘘ではないようにも聞こえた。


 少なくとも依愛自身は、そう信じている。


 自分は愛されるべきだと。


 自分は見上げられるべきだと。


 自分は、誰よりも価値があると。


「なのに」


 依愛は女性のキーホルダーを見た。


「なぜ、あんな子が…」


 女性の目から涙が落ちた。


「分かりません」


 小さな声だった。


「でも、チセラちゃんを見ると、少しだけ明日も頑張ろうって思えるんです」


 依愛は唇を噛んだ。


「私は?」


 女性は依愛を見る。


 今度は、目を逸らさなかった。


 怯えている。


 それでも見た。


「あなたは」


 広場全体が静まる。


「あなたは、怖いです」


 その一言が、依愛の胸を貫いた。


 剣よりも深く。


 槍よりも鋭く。


 彼女の表情から、最後の笑みが消えた。


「……怖い?」


 女性は泣きながら頷く。


「あなたを見ると、間違えたら裁かれるって思ってしまう」


「それは、あなたが罪を恐れているからです」


「違います」


 女性は首を横に振った。


「あなたが、私たちを見ていないからです」


 依愛の目が見開かれる。


「私たちを守っているんじゃなくて、私たちに見られたいだけに見えます」


 依愛は動かなかった。


 民衆も動かなかった。


 久夜は、その言葉を聞いていた。


 見られたいだけ。


 愛されたいだけ。


 敬われたいだけ。


 それは、天理家で教えられた畏怖と似ていた。


 相手の心を見るのではなく、相手の視線を支配する。

 相手の自由な敬意ではなく、逆らえない恐れを求める。


 敬愛より畏怖を。


 幼い頃から、そう教えられてきた。


 人は恐れるから従う。

 人は恐れるから裏切らない。

 人は恐れるから世界は秩序を保つ。


 だが、目の前の女性は違った。


 彼女はチセラを恐れていない。

 チセラに支配されていない。

 それでも好きだと言った。


 元気が出ると言った。


 明日も頑張ろうと思えると言った。


 久夜には、それがまだ分からない。


 愛も、好きも、救われる視線も。


 けれど、そこには畏怖とは違う何かがあった。


 依愛が欲しがって、最後まで壊し続けた何かが。


「……黙れ」


 依愛の声が、低く落ちた。


 女性が震える。


「黙りなさい」


 白い鎖が女性へ伸びる。


 久夜が動いた。


 床を蹴る。


 砕けた投影板を蹴る。


 鎖が女性に届く寸前、久夜のダガーがそれを断ち切った。


 依愛が叫ぶ。


「罪人が邪魔をするな!」


 久夜は女性の前に立った。


「もう十分だ」


「何が十分なのですか!」


「お前が法じゃないことは、もう全員が見た」


 依愛は肩で息をしていた。


 髪は乱れ、白い衣は血で染め上げられている。


 それでも彼女は、まだ自分を女神だと思っているようだった。


 いや。


 思い込もうとしていた。


「私は法です」


「違う」


「私は正しい」


「違う」


「私は、愛されるべきです」


 久夜はその言葉で止まった。


 依愛も止まる。


 その瞬間だけ、広場から戦闘の音が遠ざかったように感じた。


 久夜は聞いた。


「愛されることは、そんなに大事か」


 依愛は久夜を見た。


 怒りではなく、初めて軽蔑に近い哀れみを浮かべた。


「あなたには分からないでしょうけど」


 声は掠れていた。


「私にとっては、何よりも大事です」


 久夜は黙った。


 依愛は続ける。


「見られたい。選ばれたい。讃えられたい。必要とされたい。私がいなければならないと、誰かに思ってほしい」


 白い文字が、彼女の周囲で揺れている。


「それの何が悪いのですか」


 久夜はすぐには答えられなかった。


 愛について、久夜は知らない。


 天理家で教えられたのは畏怖だった。

 従わせること。

 恐れさせること。

 背かせないこと。


 愛されることの価値など、誰も教えなかった。


 だが、女性の言葉が残っている。


 チセラを見ると元気が出る。

 少しだけ明日も頑張ろうと思える。


 あれはきっと、奪うものではない。


 押しつけるものでもない。


 裁いて得るものではない。


 久夜はダガーを構えた。


「俺は、愛については分からない」


 依愛が笑う。


「でしょうね」


「でも」


 久夜は一歩踏み込む。


「大事なら尚更、その価値を見失っちゃダメだろ」


 依愛の表情が固まった。


「価値?」


「お前は、愛されたいと言いながら、人を怖がらせた」


 久夜の声は静かだった。


「見てほしいと言いながら、人を見なかった」


 一歩。


「必要とされたいと言いながら、人を支配した」


 さらに一歩。


「お前が欲しがったものは、そうやって手に入れるものじゃなかったんだろ」


「黙れ」


 依愛の目が赤くなる。


「黙れ、黙れ、黙れ!」


 彼女の背後に、最大の判決廷が立ち上がる。


 白い柱が天へ伸びる。

 巨大な天秤が空中に現れる。

 断頭台の刃が幾重にも重なり、光の兵士が広場を埋め尽くす。


「全員、有罪です!」


 依愛は叫んだ。


「私を疑った者も、私を恐れた者も、私を愛さなかった者も!」


 天秤が傾く。


「全員、私が正してあげます!」


 白い光が爆発した。


 民衆が悲鳴を上げる。


 だが、裁律社の裁定官が前へ出た。


 震えていた。


 それでも、前へ出た。


「裁律社、第三裁定局所属」


 彼は記録端末を掲げた。


「神代依愛に対する臨時記録を開始する」


 依愛の目が彼を射抜く。


「//!!」


 裁定官は声を震わせながらも読み上げる。


「裁律社要の座の不正奪取疑惑」


「やめなさい」


「先代要記録消失への関与疑惑」


「やめろ」


「判決の私情利用」


「やめろと言ってるだろ!」


「被告人への人格支配発言」


 依愛の光の槍が裁定官へ飛ぶ。


 砕耀が割って入り、大剣で槍を砕いた。


「続けろ」


 裁定官は息を吸う。


「民衆への不当拘束」


 梟が幻影兵を撃ち抜く。


「裁律社記録の隠蔽および改ざん疑惑」


 ラナが星嚢から追加の記録媒体を落とす。


「チセラ関連閲覧者への不当監視」


 民衆がざわめく。


「裁律社権限の私物化」


 裁定官は顔を上げた。


「以上により、裁律社改革派は、神代依愛による私情裁定を停止する」


 依愛は呆然とした。


 それから、笑った。


「私を裁く?」


 笑い声は乾いていた。


「あなたたちが?」


 裁定官は震えながら答えた。


「いいえ」


 広場が静まる。


「我々に、あなたを裁く資格があるとは言いません」


 久夜は裁定官を見る。


 裁定官は続けた。


「ですが、あなたを法の席に置き続ける資格も、我々にはありません」


 依愛の顔が歪む。


「裏切り者共が!」


「法は」


 裁定官は言った。


「あなたのものではありません」


 その言葉に、判決廷の光が大きく揺らいだ。


 裁律社が、神代依愛から離れた。


 民衆が、神代依愛を疑った。


 改革派が、神代依愛の記録を暴いた。


 彼女の法は、もう彼女だけの叫びになっていた。


 それでも要は要だった。


 神代依愛は強かった。


 揺らいだ判決廷の中から、無数の武器が放たれる。


 大砲のように光が撃ち出され、処刑槍が雨のように降る。


 久夜は走る。


 砕耀が道を開く。


 梟が継ぎ目を撃つ。


 ラナが反射片で法典文字を照らす。


 鈴木が民衆の前に立ち、飛んでくる破片を殴り落とす。


 久夜は踏み込む。


 足場は多い。


 砕けた柱。

 折れた旗。

 落ちた投影板。

 割れた判決廷の壁。

 空中に残った法の文字。


 蹴る。


 蹴る。


 蹴る。


 久夜の身体が白い広場を縫う。


 依愛は追おうとする。


 だが、追いつけない。


 怒りで遅い。

 恐怖で鈍い。

 そして何より、民衆の視線が彼女を支えていない。


「なぜ!」


 依愛が叫ぶ。


「なぜ、私を見ない!」


 久夜は依愛の背後に出た。


 依愛は振り返る。


 天秤盾が展開される。


 砕耀の大剣が横から叩きつけた。


 盾が砕ける。


 梟の弾丸が杖を弾く。


 ラナが落とした反射片に、依愛の怯えた顔が映る。


 久夜はそれを見た。


 白い女神ではない。


 愛されたいと叫びながら、誰も愛せなかった女。


 久夜はダガーを握り直した。


「終わりだ」


 依愛は後退する。


「嫌」


 初めて、彼女は逃げた。


「嫌!」


 民衆へ目を向ける。


「皆さん」


 声が震えている。


「私を見て」


 誰も動かない。


「私は女神でしょう?」


 誰も頷かない。


「私は、あなたたちを守ってきたでしょう?」


 沈黙。


「誰か」


 依愛の声が細くなる。


「誰か、私を信じなさい!」


 若い女性が、チセラのキーホルダーを握ったまま、依愛を見ていた。


 依愛は彼女を見る。


 祈るように。


 縋るように。


 だが女性は、静かに首を横に振った。


 依愛の顔から、血の気が引いた。


「どうして」


 久夜が前へ出る。


「お前が、壊したからだ」


「私は」


 依愛は口を開く。


「私は、愛されるべきだったのに」


「そうかもしれない。だが…」


 久夜は言った。


 依愛が目を見開く。


 久夜は続ける。


「お前は愛の価値を誰より分かってたのに、それを軽視した」


 ダガーを構える。


「だから、もう終わりだ」


 依愛は最後の力で光の刃を生み出した。


 久夜は踏み込む。


 白い刃が頬をかすめる。


 血が飛ぶ。


 だが止まらない。


 久夜のダガーが、依愛の胸を貫いた。


 依愛の身体が大きく震える。


 白い判決廷の文字が止まった。


 空中の天秤が砕ける。


 断頭台の刃が光になって消える。


 依愛は久夜の肩に手を伸ばした。


 力はない。


「私は……」


 声がかすれる。


「愛されるべき、だったのに」


 久夜は何も言わなかった。


 依愛の手が落ちる。


 白い女神は、膝から崩れた。


 床に広がる血が、白い衣を赤く染めていく。


 判決廷が砕けた。


 白い壁が割れ、空が戻る。


 民衆の上に、風が流れた。


 誰も歓声を上げなかった。


 誰も拍手しなかった。


 ただ、終わったのだと理解した。


 法の女神は死んだ。


   ◇


 裁律社支庁前広場は、混乱の中にあった。


 民衆は互いに肩を支え合い、裁律社職員の一部は倒れた依愛を呆然と見つめていた。


 裁定官が前へ出る。


 彼は久夜たちの前で深く頭を下げた。


「天理久夜一行への敵対裁定を、停止します」


 砕耀が大剣を肩に担ぐ。


「無罪にしてくれるってか?」


「いいえ」


 裁定官は首を横に振った。


「あなた方を無罪とは認められません」


 砕耀が笑う。


「だろうな」


「ですが」


 裁定官は続けた。


「今の我々に、あなた方を裁く資格もありません」


 久夜は黙って聞いていた。


「裁律社は、神代依愛による裁定記録を全面的に再審査します。現行の敵対裁定は凍結。要の空席化に伴い、裁律社は一時的に中立へ移行します」


 梟が記録装置を下ろす。


「言葉だけ?」


「裁律社の全てを持って記録致します」


 裁定官は端末を掲げた。


「改竄不可能な形で今ここに残します」


 砕耀が鼻を鳴らした。


「最低限は覚えてたか」


「あなたに言われたことですので」


 裁定官は苦く笑った。


 久夜は言う。


「人のための法を作れ」


 裁定官は顔を上げる。


「はい」


「神のためじゃない。裁律社のためでもない」


 久夜は倒れた依愛を見た。


「人を見下ろすための法なんて、もういらない」


 裁定官は深く頭を下げた。


「必ず」


 砕耀が言う。


「約束は嫌いだ」


「記録致します」


「ならいい」


 裁定官は懐から黒い記録媒体を取り出した。


「約束の報酬です」


 久夜が受け取る。


「観令について、我々が知る全てを入れています」


 久夜は記録媒体を見つめた。


 小さな黒い板。


 だが、その中には法の外にあるものへの手がかりが入っている。


 観令。


 法ではないのに、法より上に置かれたもの。


 天理家と接続された、機械かどうかすら分からないもの。


 依愛は死んだ。


 だが、世界を見下ろす目はまだ残っている。


   ◇


 広場を離れる前、久夜は一度だけ振り返った。


 チセラのキーホルダーを持った女性が、民衆の中で友人らしき者に支えられていた。


 彼女は久夜に気づき、小さく頭を下げた。


 久夜は何も言わなかった。


 ただ、少しだけ視線を返した。


 愛されることは、そんなに大事か。


 その問いの答えを、久夜はまだ知らない。


 だが、畏怖では救えないものがある。


 支配では届かない心がある。


 それだけは、少しだけ分かった気がした。


 白い広場に、風が吹く。


 法の女神は死んだ。


 だが、法の外にあるものは、まだ世界の上で目を開けている。

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