女神の舞台
神代依愛は、白が好きだった。
白は清らかに見える。
白は正しく見える。
白は、そこに立つ者が何を考えていようと、見る者へ潔白を思わせる。
誰かが疑いを向けても、白を汚そうとする側の方が醜く見える。
だから依愛は、今日も白い衣を選んだ。
裁律社地上支庁の最上階。
壁一面を覆う大鏡の前で、依愛はゆっくりと両腕を広げる。
幾重にも重なる薄布が光を受け、翼のように揺れた。胸元と腰には金色の装飾が並び、背中には天秤を模した円環が取り付けられている。
美しい。
鏡の中の自分を見て、依愛はそう思った。
否。
そう思わなければならなかった。
愛される者は、美しくなければならない。
見上げられる者は、清らかでなければならない。
裁く者は、誰よりも正しく見えなければならない。
それが、人々に選ばれた者の責任なのだから。
依愛は鏡の中の自分へ微笑んだ。
慈愛に満ちた、柔らかな笑顔。
罪人さえも見捨てず、迷った者を正しき道へ導く女神の顔。
完璧だった。
「本日の再審公開裁定ですが、広場の収容区域を通常の三倍まで拡張しております」
背後に立つ裁律社職員が報告した。
「周辺区画の映像投影板もすべて解放済みです。支庁外周にも民衆が集まり始めています」
「そう」
依愛は満足げに頷く。
「良いことです。法は、見られなければ意味がありませんから」
「はい」
「前回、罪人たちは裁定を拒み、判決廷を壊し、逃亡しました」
依愛は鏡越しに職員を見る。
「そのせいで、人々は不安を感じています。法の力が及ばない者が存在するのではないかと、恐れている」
「……はい」
「だからこそ、私が見せてあげなければなりません」
依愛は自分の胸元に手を添えた。
「法は逃げない。法は迷わない。法は、いつも人々の上にある」
職員の返事が遅れた。
「はい」
ほんの僅かな間だった。
だが、依愛は気づいた。
鏡の中で、職員の目が自分ではない場所へ向いていたからだ。
依愛は振り返る。
「ところで」
職員の肩が小さく跳ねた。
「何を見ているのですか?」
「いえ、何も」
「端末を見せなさい」
職員の手元にある端末。その画面の隅に、小さな通知が表示されていた。
音は鳴っていない。
柔らかく笑う少女の顔と、その下に短い文字がある。
『チセラ新配信、まもなく開始』
職員は慌てて端末を伏せた。
「申し訳ありません。通知が勝手に表示されただけで」
「チセラ」
依愛はその名前を、舌の上で確かめるように繰り返した。
偶愛の星の名では呼ばない。
そんな呼び名を認める必要はない。
ただの名前だ。
人々が勝手に特別な存在へ仕立て上げた、ただの女の名前。
「見せなさい」
「神代様、これは」
「見せなさい」
声は穏やかだった。
職員は青ざめ、端末を差し出す。
依愛は画面を開いた。
短い予告映像が流れる。
画面の中のチセラは、笑いながら手を振っていた。
『もうすぐ始めるから、待っててね』
それだけだった。
法を語るわけでもない。
罪を裁くわけでもない。
人を正しき道へ導こうとするわけでもない。
ただ、笑っているだけ。
それなのに、映像の下には無数の反応が流れていた。
『今日もかわいい』
『ずっと待ってた』
『チセラちゃんを見るために一日頑張った』
『大好き』
『会えて嬉しい』
『チセラちゃんだけが癒し』
依愛の指が、端末の縁へ食い込んだ。
小さな音。
薄い外装に亀裂が走る。
職員が息を呑んだ。
「不思議ですね」
依愛は微笑んだまま言う。
「……何がでしょうか」
「ただ笑っているだけの者が、どうしてこれほど見られるのでしょう」
職員は答えられない。
依愛は画面の中の少女を見つめ続けた。
「法も世間も知らず、罪も裁けず、人を導くこともできない」
声音はどこまでも柔らかい。
だからこそ、職員は動けなかった。
「甘い声で笑い、可愛らしく振る舞い、人々の視線を集める。ただ、それだけの存在が」
端末の亀裂が広がった。
「人は、本当に愚かです」
依愛は壊れかけた端末を返す。
「正しいものより、心地よいものを選ぶ。秩序より、飾られた顔を選ぶ。法よりも、歌って笑うだけの少女を選ぶ」
「神代様、私は決して、法を軽んじたわけでは」
「安心して下さい。責めていませんよ」
依愛は職員へ優しく笑いかけた。
「人は弱い生き物です。だから、迷うこともあります」
職員は汗を浮かべながら頭を下げる。
「申し訳ありません」
「ただし、あなたは裁律社の人間です」
「はい」
「見るべきものを、間違えてはいけません」
依愛は鏡へ向き直った。
鏡の中の自分は、まだ美しい。
画面の中で笑っていた少女よりも。
正しく。
清らかだ。
人々の役に立っている。
自分こそが、見上げられるべき存在なのだ。
「本日の公開裁定」
依愛は言った。
「あなたは最前列で記録を担当しなさい」
「私が、ですか」
「ええ」
依愛は鏡越しに微笑む。
「私から目を逸らさず、すべて記録してください」
職員の喉が動く。
「……承知しました」
「瞬きも、少なくしてくださいね」
「はい」
扉の外から別の職員が声をかけた。
「神代様。民衆の入場が始まりました」
「そう」
依愛は鏡の中の自分へ、最後にもう一度微笑んだ。
完璧な女神が、そこにいた。
「では、行きましょう」
白い衣を揺らし、歩き出す。
自分を見るべき人々のもとへ。
◇
「右脚を動かそうとしないでください」
巫里の声に、月代落葉は視線を逸らした。
「動かしていません」
「今、毛布の下で動かしましたよ」
「姿勢を少し変えようとしただけです」
「それを動かしたと言います」
流星の工房。
治療用の寝台に横たわる落葉の肩と脇腹には、厚い包帯が巻かれている。
法の女神に破壊された補助具は取り外され、右脚は固定具によって動かないようにされていた。
落葉は天井を見上げた。
「今からでも、見学だけなら」
「できません」
「まだ最後まで言っていません」
「言われなくても分かります」
「映像越しでは、分からないこともあります」
「あなたは現地へ行けば、必ず立とうとします」
「立てませんよ」
「立てないのに行こうとしないでください」
巫里は薬品を整理しながら、一度も落葉を見ずに答えた。
落葉は反論を諦め、隣へ顔を向ける。
浮羽が椅子に座っていた。
膝の上には毛布がかけられている。反重力による空間接続の反動は残っているが、顔色は昨日よりもよくなっていた。
作業台の前では、流星が浮羽の周囲に複数の測定器を置いている。
「能力は使用しないこと」
「分かってる」
「反重力を起こそうと考えるだけでも数値が変化している」
「考えるのも駄目なの?」
「今は駄目だ」
浮羽が頬を膨らませる。
「何もしてないのに」
「見ろ、髪が浮いている」
浮羽の髪先が、風もないのにふわりと持ち上がっていた。
浮羽は慌てて両手で押さえる。
巫里が流星へ冷たい視線を向けた。
「測定は短時間にしてください」
「分かっている」
「流星さんの『分かっている』も、あまり信用できません」
「私はちゃんと指示に従っている」
「測定器が昨日より三つ増えていますよ」
「必要最低限の数だ」
「減らしてください」
壁際にいた砕耀が笑う。
「どっちも面倒くせえな」
巫里が振り返る。
「砕耀さんも、昨日の再生状態を確認します」
「だ、か、ら、俺はもう治ってる」
「治ったかどうかを決めるのは、あなたではありません」
「最悪だ、余計なこと言った」
工房の中央では、久夜たちが出発の準備を進めていた。
久夜は戻るダガーと予備の短剣を確認する。
上着の内側には、裁律社改革派から渡された座標標識が縫い込まれていた。
梟は狙撃銃を分解し、一つずつ部品を確かめている。
鈴木は手首へ保護帯を巻き、何度も拳を握っていた。
ラナは星嚢の中身を確認している。
記録端末。
投影板。
反射片。
予備の金属板。
裁律社の正式な裁定記録。
どれも、決められた位置へ落とせるように順番が付けられていた。
「作戦は覚えてる?」
梟が尋ねる。
「覚えてるよ」
ラナが答える。
「久夜の標識を使って、判決廷の中に記録端末を落とす。その後は反射片を落として、結界の文字を見えるようにする」
「順番を間違えないで」
「大丈夫」
「記録端末より先に金属板を落としたら壊れるからね」
「そこまで間違えないよ」
鈴木が拳を鳴らした。
「俺と砕耀は、結界を外から壊せばいいんだよな」
「結界の法典が乱れた後だ」
砕耀が答える。
「前みてえに最初から殴っても、力を逃がされる。内部の記録端末が繋がって、改革派が文字の流れを止めてから壊す」
「それまでは?」
「ひとまずは待機だ」
「俺たちに一番向いてない仕事だな」
「お前は知らねえが、俺は我慢強い」
梟が顔を上げた。
「躾のなってない大型犬みたいな人がよく言う」
「誰が犬だ」
久夜は二人の会話を聞きながら、最後のダガーを鞘へ収めた。
「久夜さん」
落葉に呼ばれ、振り返る。
「何だ」
「神代依愛は、最初から怒りを見せることはありません」
「分かってる」
「記録を突きつけられても、まずは笑って否定するでしょう。改竄された、事情を考慮した、民衆を守るためだった。法の言葉を使えば、どのようにでも隠せます」
「なら、言い逃れできないところまで追い込むまでだ」
落葉は静かに久夜を見る。
「彼女は、人に見られている間、自分を崩さないことに慣れています」
「前回は崩れた」
「民衆がいなかったからです」
落葉の指が、毛布の上で僅かに握られる。
「今回は、彼女が最も望んでいる場所です。多くの人に見られ、讃えられ、自分の正しさを証明できる舞台。その中では、簡単には本性を見せる事はありません」
「それでも、隠せないものはあるんだろ」
「はい」
落葉は頷いた。
「自分より愛される者への嫉妬。そして、自分が見られなくなることへの恐怖です」
ラナが首を傾げる。
「例えばチセラとか?」
「チセラさん相手なら何か反応があるかもしれません」
「あの人が勝手に嫌ってるだけでしょ」
「だからこそ、隠しにくいのです」
梟が裁律社から渡された記録媒体を持ち上げる。
「チセラを見た人の監視記録。広告の撤去申請。関連商品を持つ人の観察対象化。という記録がありました」
「どれも、彼女の私情だと思います」
落葉は言った。
「民衆の前で、その理由を本人へ説明させてください」
「説明できなかったら?」
久夜が尋ねる。
「怒るでしょう」
「簡単な脳みそな奴だ、助かるの本当に」
「いいえ」
落葉は首を横に振る。
「彼女は怒りさえも、正義へ言い換えます」
「なら、その言葉も全部暴いてやるよ」
「はい」
落葉は少しだけ目を細める。
「彼女に、自分が見る側ではなく、見られる側であることを教えてください」
久夜は頷いた。
「ああ」
浮羽が毛布を握った。
「お姉ちゃんの分も?」
「落葉の分も、浮羽の分もだ」
「絶対に帰ってきて」
「当たり前だ」
浮羽は久夜をじっと見た。
「今度は門、開けられないから」
「使う必要はない」
久夜は上着の内側にある座標標識へ触れた。
「今回は、逃げるために行くんじゃない」
砕耀が大剣を背負う。
「神様ごっこを終わらせに行くぞ」
◇
三日後。
裁律社地上支庁前の広場は、白に埋め尽くされていた。
白い階段。
白い柱。
白い裁定壇。
白い旗。
広場には、前回の数倍に及ぶ民衆が集まっていた。
入りきれなかった者たちは、周辺の街路や建物の窓から巨大な投影板を見上げている。
裁律社の発表では、今日は再審公開裁定が行われることになっていた。
過去の裁定に不備があった可能性を検討する。
同時に、前回の公開裁定から逃亡した重大な罪人たちを再び裁く。
それが表向きの名目だった。
だが、人々が求めているものは、裁定だけではない。
法の女神が勝つところ。
判決廷を破壊した反逆者が、今度こそ跪くところ。
白い女神が、自分たちの不安を取り除いてくれるところ。
それを見に来ていた。
広場の最前列では、裁律社の職員たちが記録端末を構えている。
その一部は、神代依愛ではなく改革派に属する者たちだった。
誰も互いに顔を見ない。
目を合わせれば、恐怖が伝わる。
今日は失敗できない。
公開回線の掌握。
過去記録の投影。
判決廷内部への記録端末接続。
どれか一つでも失敗すれば、全員が法への反逆者として処理される。
やがて、支庁の大扉が開いた。
神代依愛が姿を現す。
民衆から大歓声が上がった。
「法の女神様!」
「女神様!」
「こちらを見てください!」
依愛は階段の上で立ち止まり、優雅に手を振る。
白い衣。
金色の装飾。
慈愛に満ちた微笑み。
その背後には、天秤を模した光輪が浮かんでいる。
「皆さん」
彼女の声が、広場だけでなく、街中の投影板から響いた。
「今日、私たちは不安と向き合わなければなりません」
歓声が静まる。
依愛は一段ずつ階段を降りていく。
「法を破る者がいます。裁きを拒み、逃亡し、その過程でさらに罪を重ねた者がいます」
民衆の間から怒りの声が漏れる。
「しかし、恐れる必要はありません」
依愛は微笑んだ。
「法は逃げません」
一歩。
「法は迷いません」
さらに一歩。
「法は、正しく生きる皆さんのために、いつもここにあります」
拍手が起きた。
依愛の周囲へ、淡い金の光が集まる。
人々の信頼。
期待。
安心。
女神が必ず守ってくれるという願い。
それらが力となり、彼女の身体を満たしていく。
依愛は気持ちよさそうに目を細めた。
これだ。
自分はここにいるべきだ。
裁く側。
見上げられる側。
愛される側。
依愛は広場を見渡す。
その視線が、一人の若い女性で止まった。
肩掛け鞄に、小さな飾りが付いている。
桃色と金色。
笑顔の少女を模した装飾。
チセラのキーホルダーだった。
依愛の笑顔が、僅かに固まる。
ほんの一瞬。
だが、改革派の記録官は見逃さなかった。
記録端末が、その表情を正面から捉える。
依愛は裁定壇へ向かう途中で進路を変え、若い女性の前へ立った。
「可愛らしい飾りですね」
女性は驚き、嬉しそうに頭を下げる。
「あ、ありがとうございます。チセラちゃんの記念品なんです」
「チセラ」
依愛は微笑みを保つ。
「お好きなのですか?」
「はい。配信を見ると、元気が出るので」
「そう」
依愛の目の奥が、僅かに冷えた。
「ですが、今日は裁定の日です」
「え?」
「見るべきものを、間違えてはいけませんよ」
声は優しい。
それなのに、女性は反射的に背筋を伸ばした。
「す、すみません」
「謝る必要はありません」
依愛は女性の頬へ、指先で軽く触れた。
「人は弱いものです。甘いものに惹かれ、可愛らしいものに目を奪われる」
指を離す。
「だから、法が必要なのです」
女性は何も答えられなかった。
依愛は再び裁定壇へ向かう。
その足取りは、先ほどより僅かに硬かった。
民衆の多くは気づかない。
だが、広場の端に配置された久夜たちは見ていた。
裁律社職員の外套をまとった梟が、短い通信を入れる。
『今の、記録した』
「OK、ナイス」
久夜が小声で答える。
砕耀が口元を上げる。
「飾り一つで、随分分かりやすい顔するな。まるで福笑いだな」
ラナは星嚢を抱き締めた。
「チセラは何もしてないのに」
「ああ」
久夜は壇上へ立つ依愛を見る。
「あいつが一人で負けた気になってるだけだ」
◇
「再審公開裁定を開始します」
裁律社職員の声が響く。
前へ出たのは、表向きには依愛へ忠実な裁定官だった。
だが、彼も改革派の一人だった。
「本日の被告人を入廷させます」
広場の端にいた久夜たちが、外套を脱ぐ。
民衆がどよめいた。
「天理久夜」
「砕耀」
「アステール・ラナ」
「梟」
「鈴木」
名前が読み上げられるたび、空中へ白い文字が浮かぶ。
久夜たちは広場の中央へ進んだ。
逃げない。
武器を隠さない。
壇上の女を、正面から見上げる。
神代依愛は、嬉しそうに微笑んだ。
「来てくれたのですね」
「呼んだのはそっちだろ」
久夜が答える。
「ええ。再び正しい道を選ぶ機会を差し上げるために」
砕耀が肩をすくめた。
「ずっとその調子で喋んのか。疲れねえか?」
「罪人にも、最後に美しく裁かれる権利があります」
「フハハ、お前に裁かれるくらいなら、野良犬に噛まれた方がましだな」
民衆が騒然となる。
「無礼者!」
「女神様を侮辱するな!」
依愛は手を上げ、民衆を静める。
「皆さん、落ち着いてください」
慈悲深い笑み。
「粗野な言葉に、怒りで返してはなりません。法とは、感情ではなく正しさによって人を導くものです」
拍手が起きる。
依愛の周囲の光が増した。
白い杖が掲げられる。
「罪状を」
空中へ文字が並んだ。
『天理家への反逆』
『総流社施設襲撃』
『空衡社第一制御塔破壊』
『空衡社第二制御塔制御権奪取』
『保安社部隊への攻撃』
『観令照合不能個体の保護』
『重要記録の不正流布』
『裁律社判決廷破壊』
『公開裁定からの逃亡』
『法秩序への反抗』
『社会不安の扇動』
罪状が増えるたび、依愛の存在が大きくなる。
前回よりも強い。
広場の民衆だけではない。
街中の投影板を見ている人々の信頼まで、彼女へ流れ込んでいた。
「罪とは、積み重なるものです」
依愛は語る。
「逃げた罪。壊した罪。人々を疑わせた罪。不安を与えた罪」
杖の先が久夜へ向く。
「そして、法を見下した罪」
「見下されてる自覚はあるんだな」
砕耀が言った。
依愛の眉が僅かに動く。
だが、笑顔は崩さない。
久夜が一歩前へ出た。
「始める前に、一つ聞くぞ」
「何でしょう」
「法は誰のものだ」
依愛は迷わなかった。
「皆さんのものです」
綺麗な答えだった。
民衆の多くが頷く。
「法は、正しく生きるすべての者を守ります。特定の誰かが、勝手に所有するものではありません」
「なら」
久夜は依愛を見上げる。
「どうして、お前の好き嫌いで判決が変わる」
広場が静まった。
依愛の笑顔が、ほんの僅かに固まる。
「何を言っているのです?」
「お前を讃えた奴は軽くなる。お前を否定した奴は重くなる」
「そのような事実はありません」
「じゃあ、見てもらおうか」
久夜が右手を上げた。
合図。
ラナが星嚢を開く。
「落ちて!」
裁定壇の中央へ、黒い記録端末が落下した。
同時に、梟が銃を抜く。
銃声。
弾丸が依愛ではなく、広場上空の中継装置へ命中する。
装置の外装が弾け、内部の接続端子が露出した。
改革派の記録官たちが一斉に端末を操作する。
黒い記録端末から光の線が伸び、中継装置へ繋がった。
広場の投影板が揺れる。
裁律社の天秤。
依愛の姿。
罪状。
それらが一度消え、代わりに古い裁定記録が表示された。
依愛は、数秒だけ画面を見つめた。
それから微笑む。
「捏造ですね」
声に乱れはなかった。
「罪人は、自らの罪を隠すために嘘を作ります。皆さん、惑わされないでください」
民衆が不安そうに画面を見る。
だが、投影された記録には、裁律社の正式な認証印が付いていた。
記録番号。
裁定日時。
担当官。
法の女神による最終承認。
すべて本物だった。
映像が切り替わる。
公共配給物資を横流しした男。
『あなたほど美しく、正しい方はいません』
『最終判決・労役三年』
次の記録。
裁律社へ抗議文を配布した女。
『あなたの裁定は見世物です』
『最終判決・長期拘束十年』
さらに別の記録。
暴行を行った男が、依愛へ泣きながら許しを乞う。
『女神様のために生まれ変わります』
刑は、基準の半分以下。
その次。
記録の開示を求めた女性。
『あなたは法ではありません』
直後に追加された罪状。
『反省の欠如』
『裁定者への侮辱』
『法秩序への不敬』
判決は、十五年の拘束。
民衆のざわめきが広がる。
「同じくらいの罪じゃないのか?」
「こっちは、どうしてこんなに重いんだ」
「本当に裁律社の記録なのか?」
依愛は笑顔を維持していた。
「法の判断は、単純な比較ではありません」
声を広場へ響かせる。
「事情、反省、態度、更生の可能性、社会への影響。さまざまな要素を総合的に考慮した結果です」
「違うな、お前への態度だろ」
久夜が遮った。
「違います」
「お前を褒めれば更生できる。お前を否定したら反省してない。そうだろ!」
「違います」
「だったら、これを説明しろ」
投影板が切り替わった。
白い判決廷。
血を流し、膝をついた落葉。
彼女の前に立つ依愛。
広場全体へ、甘い声が流れた。
『あなたが私を愛し、私に従い、私の犬になるなら』
依愛が微笑む。
『許してあげてもいいですよ』
広場が凍りついた。
誰も声を出さない。
それは法の言葉ではなかった。
反省を促す言葉でもない。
自分へ服従させようとする、依愛自身の欲望だった。
依愛の笑顔が硬くなる。
「その言葉は、彼女の反省を促すための比喩です」
「犬って言った」
梟が冷たく告げる。
「法は、人を犬にするの?」
「言葉の一部だけを切り取り、意味を歪めるべきではありません」
「全部流れてる」
梟は肩に取り付けた記録装置を指す。
「切り取ってない」
投影板の映像が続く。
『私は、もう誰かの鍵にはなりません』
落葉の声。
『まして、あなたの犬にもなりません』
次の瞬間、依愛の顔から慈愛が消える。
『では、死になさい』
巨大な断頭台の刃。
落葉を殺そうとした瞬間。
民衆から、小さな悲鳴が上がった。
「反省を促すためじゃない」
「殺そうとしてる」
「あれが、女神様……?」
依愛の周囲の光が揺れた。
僅かに。
だが、確かに弱まった。
依愛はすぐに手を上げる。
「皆さん」
まだ、声は優しい。
「罪人の映像に惑わされないでください。あれは法の一部を、都合よく見せたものです」
「次も裁律社の記録だ」
久夜が言った。
「職員の皆さん何して…」
依愛が職員を見た。
職員は臆せず依愛を睨み返す。
「貴様ら!」
民衆に聞こえないくらい小さな声で呟いた。
依愛の笑顔が僅かに崩れる。
気づいたのだ。
この舞台は女神を讃えるものではなく、神を殺すための処刑台だと。
映像が切り替わる。
チセラ関連配信の閲覧記録。
裁律社管区内における広告撤去申請。
関連商品の所持者に対する観察命令。
配信を視聴していた裁律社職員への内部調査。
その理由欄。
『社会秩序を乱す偶像的影響の可能性』
民衆の中で、チセラのキーホルダーを持っていた女性が鞄を抱き締める。
ほかにも、表情を変えた者がいた。
チセラの配信を見ている者。
曲を聞いている者。
記念品を持っている者。
それだけで自分たちが監視されていた可能性を、初めて知った。
「これは何だ」
久夜が尋ねる。
「秩序維持のための調査です」
依愛は即答した。
何とか平静を装うとしている。
「チセラが何をした」
「大勢の人間へ過剰な影響を与えています」
「歌って、笑ってるだけだろ」
「それが問題なのです」
依愛の返答は、先ほどより僅かに早かった。
「人々は、本来見るべきものから目を逸らし、心地よいものへ逃げようとする」
「本来見るべきものだと?」
久夜が聞く。
依愛の口が止まる。
「法です」
「お前じゃなく?」
「同じことです」
民衆がざわめいた。
依愛は、自分が何を言ったのか理解するまで一瞬かかった。
すぐに言葉を続ける。
「私は裁律社の要として、法の意思を示しています。私を見ることは、法を見ることと同じです」
「だから、チセラを見る奴が気に入らないのか」
「違います」
「自分より愛されてるから」
「違う」
初めて、依愛の語尾から丁寧さが消えた。
広場が静まる。
久夜は依愛から目を逸らさない。
「ただの嫉妬だろ」
「違います」
「自分より見られてる。自分より愛されてる。だから、チセラを見てる奴まで監視した」
「違うと言っています!」
依愛の杖が石畳を強く打った。
白い光が広場へ走る。
民衆の一部が怯えて後退した。
依愛はそれを見た。
自分ではなく。
自分から離れるように下がった。
依愛の呼吸が僅かに乱れる。
「チセラなど」
小さな声だった。
だが、公開回線はその一言も逃さなかった。
街中の投影板から、依愛の声が響く。
「ただ笑っているだけでしょう」
誰も声を出さない。
「法も知らず、罪も裁けず、人を導くこともできない」
依愛の笑顔から、優しさが剝がれていく。
「甘い声で媚びて、可愛らしく振る舞って、人々の視線を奪うだけ」
キーホルダーを持った女性が、それを両手で隠した。
依愛は、その動きを見た。
女性は自分に従ったのではない。
大切なものを、依愛から守ろうとした。
「なぜですか」
依愛が民衆を見渡す。
「なぜ、あなたたちはそのような者を見るのですか」
誰も答えない。
「私は法です」
依愛の声が大きくなる。
「私は正しい。私はあなたたちを守っている。罪を裁き、秩序を保ち、不安を取り除いてあげている」
白い衣が、激しく揺れる。
「私は、あなたたちのために正しい場所へ立ち続けている」
視線が揺れている。
依愛だけを見ていない。
人々は投影板を見ている。
互いの顔を見ている。
久夜を見ている。
チセラの飾りを隠した女性を見ている。
依愛のために用意された舞台で、視線が依愛以外へ向けられている。
「なのに」
依愛の声が震える。
「なぜ、私を見ないのですか」
広場に沈黙が落ちた。
民衆の目が変わっていた。
敬愛ではない。
困惑。
疑念。
恐怖。
嫌悪。
失望。
今まで女神を見上げていた者たちが、初めて一人の女を見ている。
依愛は、その視線に耐えられなかった。
「……恩知らず」
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
だが、中継装置が拾った。
街の隅々まで、その言葉が流れた。
「皆さんは、本当に愚かです」
改革派の職員たちの顔が強張る。
依愛は杖を握り締めた。
「正しいものを示されても理解できない。守られていることにも気づかない。だから、法が必要なのです」
彼女の足元から白い文字が広がる。
だが、光は先ほどより弱い。
文字の輪郭が揺らいでいる。
民衆の信頼が割れ始めていた。
依愛は認めない。
認められるはずがない。
「裁定を続けます」
冷たい声だった。
「罪人、天理久夜。砕耀。アステール・ラナ。梟。鈴木」
背後に武器が現れる。
剣。
槍。
鎖。
断頭台の刃。
天秤を模した盾。
顔のない兵士たち。
依愛は、民衆へ目を向けた。
「加えて」
白い文字が、人々の頭上へ浮かび始める。
「法を疑った者」
民衆が凍りつく。
「私を疑った者」
「おい」
久夜の声が低くなる。
「正しき法へ疑念を向けることは、秩序への背信です」
依愛は微笑もうとした。
だが、口元は不自然に歪んでいた。
「皆さんにも、少し反省が必要ですね」
杖が掲げられる。
「判決廷」
白い光が広場を覆った。
地面から巨大な柱が立ち上がる。
法典の文字が空を走り、幾重もの天秤が重なり合う。
白い壁は久夜たちだけを囲まない。
広場にいる民衆。
裁律社職員。
改革派。
全員を逃がさないように閉じ込めていく。
悲鳴が上がった。
「神代様!」
「なぜ私たちまで!」
「ここから出してください!」
依愛は両手を広げた。
「大丈夫です」
優しい声。
だが、その優しさはすでに壊れていた。
「私が皆さんを、正しい場所へ戻してあげます」
砕耀が大剣を抜く。
「ついに民衆まで罪人扱いか」
鈴木が拳を構える。
「救いようがねえ、自己中野郎だ」
梟は中継装置を確認した。
「回線は生きてる。全部流れてるよ」
「絶対に止めるな」
久夜が言う。
「了解」
ラナが星嚢を開く。
「記録端末も中に入った。位置、分かるよ」
改革派の職員が端末を操作する。
判決廷を構成する文字列の一部が乱れた。
計画通り。
砕耀と鈴木が、結界の継ぎ目へ走る。
依愛は久夜を見た。
「また逃げますか?」
「いや、逃げない」
「私に勝てると思っているのですか?」
「違うな」
久夜はダガーを抜いた。
民衆が見ている。
女神を見ていた視線が、今は一人の人間へ向いている。
「お前を、神の席から引きずり下ろすだけだ」
依愛の顔が歪む。
「罪人が」
無数の武器が降り注いだ。
久夜は地面を蹴る。
最初の剣をダガーで弾く。
二本目を身体を沈めて避ける。
白い柱へ足をかけ、そのまま横へ走った。
槍が追う。
柱を蹴り、軌道を変える。
裁定壇の縁へ着地し、再び跳ぶ。
依愛の視線が久夜を追う。
だが、前回より遅い。
信頼が揺らいだ分だけ、彼女の力も落ちている。
砕耀が大剣を振り下ろす。
巨大な断頭台の刃が正面から砕けた。
鈴木が顔のない兵士の胸を殴り抜く。
梟の弾丸が天秤の盾の継ぎ目へ突き刺さる。
「ラナ!」
「落ちて!」
判決廷の上空から、無数の反射片が降り注いだ。
白い光が乱反射する。
普段は見えない法典の流れが、空中へ鮮明に浮かび上がる。
結界を支える文字の継ぎ目。
「見えた」
梟が撃つ。
一発目。
二発目。
三発目。
同じ場所へ弾丸が集中する。
白い文字が砕けた。
「今!」
鈴木が拳を叩き込む。
亀裂が走る。
砕耀の大剣が、その亀裂をさらに広げる。
「ここはお前の箱庭じゃねえぞ!」
壁の一部が爆発する。
民衆が破れた場所へ走り始めた。
依愛が振り返る。
「逃げないで!」
その一瞬。
久夜が投げたダガーが、依愛の横を通り過ぎた。
依愛は天秤の盾で弾こうとする。
だが、刃は盾へ向かっていない。
そのまま背後へ抜ける。
依愛が久夜を探す。
いない。
戻るダガーの軌道を利用し、久夜はすでに反対側へ回り込んでいた。
依愛の背後。
白い衣が揺れる距離。
依愛は振り返る。
前回なら間に合った。
民衆の信頼が力を与えていた時なら、久夜の動きを捉えられた。
今は遅い。
黒い刃が白い衣を裂いた。
肩から胸元へ、斜めに傷が走る。
赤い血が噴き出した。
白い布へ赤が広がる。
広場に残った民衆が、それを見た。
街中の投影板にも、大きく映し出される。
女神が血を流す姿。
依愛は自分の肩へ触れた。
指先が赤く濡れる。
「……血」
声が震えた。
久夜は少し離れた場所へ着地する。
砕耀が隣へ並ぶ。
梟は撮影を止めない。
ラナは震えながらも星嚢を閉じない。
鈴木は逃げる民衆と依愛の間へ立つ。
誰も歓声を上げなかった。
誰も女神を讃えなかった。
ただ、見ていた。
見られる側へ引きずり下ろされた神代依愛を。
依愛の唇が震える。
「見るな」
小さな声だった。
「そんな目で、私を見るな」
白い衣から、赤い血が石畳へ落ちた。
一滴。
続けて、もう一滴。
法を名乗った女の血は、誰の血とも変わらない色をしていた。




