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白いカラス  作者: シンドゥー


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28/31

法の外に落ちる

 白い広場は、法廷であり、戦場だった。


 民衆はすでにいない。


 残っているのは、砕けた石畳と、空中に浮かぶ罪状の文字。そして、判決の名を借りた武器の群れだった。


 法の女神の背後に、無数の剣が浮かぶ。


 槍、鎖、断頭台の刃、天秤を模した盾、顔のない兵士たち。


 それらはすべて、白い光で形作られた幻影だった。


 だが、痛みは本物だ。


 月代落葉の肩から血が落ちていた。


 補助具は半ば砕け、右脚は体重を受けるたびに震えている。白い鎖に締め上げられた跡が、腕と腰に赤黒く残っていた。


 久夜は落葉を支えながら、法の女神を睨んだ。


 砕耀は二人を庇うように前へ立つ。


 胸の奥で宝珠の心が低く鳴り、大剣の断面が脈打つように淡い光を放っていた。


 梟は銃口を女神へ向け、ラナは開いた星嚢を胸元に抱えている。鈴木も拳を構え、顔のない兵士たちの動きを警戒していた。


 法の女神は、割られた判決廷の残骸を見ていた。


 白い壁には巨大な亀裂が走り、法典の文字が砂のように崩れ落ちている。


「……判決中ですよ」


 彼女の声は震えていた。


 怒りで。


「外野が口を挟むなど、法への侮辱です」


 久夜は落葉を背後へ下がらせる。


「人を守らない法なら、そんなの要らないだろ」


 法の女神は、ゆっくりと笑った。


 先ほどまで民衆へ見せていた、優しい女神の笑みではない。


 口元だけが美しく整い、その目の奥には、どす黒い感情が沈んでいる。


「やはり、天理の反逆者は言葉が乱暴ですね」


 彼女が杖を振る。


 空中の罪状が増えた。


『判決廷破壊』


『裁定者への攻撃』


『被告逃亡補助』


『法秩序への反抗』


『裁律社執行妨害』


 文字が一つ増えるたび、法の女神を覆う光が強まっていく。


 民衆の視線はもうない。


 それでも、裁律社が正式に記録した罪状そのものが、彼女へ権威を与えていた。


 砕耀が舌打ちする。


「殴れば殴るほど強くなるってか。面倒くせえな」


「罪を重ねるほど、判決は重くなります」


 法の女神は楽しそうに言った。


「当然でしょう?」


「都合がいい異理だな、惚れ惚れするよ」


 砕耀が大剣を構える。


 次の瞬間、法の女神の背後から白い剣の雨が降った。


 梟が撃つ。


 一発目が剣の根元に浮かんだ法典を砕く。


 二発目が、落葉へ伸びる鎖の節を撃ち抜いた。


「ラナ!」


「分かってる!」


 ラナが星嚢を開く。


「落ちて!」


 虚空から分厚い金属板が落下した。


 金属板が剣の雨へ激突し、白い刃の一部を押し潰す。弾かれた剣同士が空中でぶつかり、砕けた光が広場へ降り注いだ。


 久夜はその隙間を走った。


 ダガーを投げる。


 黒い刃は光の兵士の間を縫い、法の女神の喉元へ向かう。


 天秤を模した盾が現れた。


 ダガーが弾かれる。


 久夜は指を動かした。


 盾を通り過ぎた刃が向きを変え、法の女神の背後から戻っていく。


 女神は振り返らない。


 背後に浮かんだ小さな法典が開き、黒い刃を受け止めた。


「速いですね」


 法の女神は微笑む。


「けれど、罪人の刃は法には届きません」


「そこにいるのはお前だ」


 久夜は止まらない。


 光の兵士が剣を振る。


 身体を沈めて刃の下を抜け、兵士の脇腹へダガーを走らせる。


 白い甲冑が崩れた。


 久夜は光の残骸を突き抜け、法の女神へ斬り込む。


 その足元に文字が浮かんだ。


『反逆』


 たった二文字。


 それだけで、久夜の身体へ重圧がのしかかる。


 足が石畳へ沈んだ。


「っ……!」


 一瞬の停止。


 光の槍が久夜の胸を狙う。


 砕耀が横から割り込んだ。


 大剣が槍を受け止める。


 分厚い刃が半ばまで砕け、白い穂先が砕耀の肩口へ食い込んだ。


 だが、大剣は砕けた断面からすぐに再生を始める。先ほどより分厚く、荒々しい形で槍を押し返した。


「このままだとジリ貧だ」


「分かってる」


「撤退するぞ!」


 砕耀が槍を弾き飛ばす。


「落葉を連れて帰るまでは退かない」


 法の女神は、その会話を聞いて楽しそうに目を細めた。


「逃げる算段ですか」


 彼女が杖を掲げる。


「よろしいですよ。罪人は逃げるほど罪を重ねます。次の判決は、もっと美しくなる」


「逃がす気はねえくせによく言うな」


「判決を最後まで受けることは、罪人の義務ですから」


 杖が振り下ろされる。


 無数の鎖が地面から伸びた。


 落葉だけを縛るためではない。


 久夜たち全員を、この広場に繋ぎ止めるための鎖だった。


 梟が撃つ。


 一発。


 二発。


 三発。


 鎖の節が撃ち抜かれ、白い光となって弾ける。


 別の鎖が梟の足元へ迫った。


 鈴木が踏み込み、拳を振り下ろす。


 拳と石畳の間で鎖が砕けた。


 その背後から顔のない兵士が剣を構えて迫る。


「邪魔だ!」


 鈴木の拳が甲冑の胸へ突き刺さった。


 白い兵士は後方へ吹き飛び、別の兵士を巻き込んで崩れる。


 ラナが星嚢から鉄杭を落とした。


 巨大な杭が鎖を貫き、石畳へ縫い付ける。


 だが、足りない。


 砕いても。


 撃ち抜いても。


 落としても。


 法の女神の背後から、新たな武器が生まれ続ける。


 空中の罪状が光を放っていた。


 久夜の罪。


 砕耀の罪。


 落葉の罪。


 ラナの罪。


 梟の罪。


 鈴木の罪。


 裁律社が罪と定めた記録が、そのまま法の女神の力へ変わっている。


 倒すために攻撃すれば、裁定者への攻撃が加わる。


 退けば、逃亡が加わる。


 仲間を守れば、被告逃亡補助が加わる。


 戦えば戦うほど、女神にとって都合のよい罪が積み重なっていく。


「久夜」


 梟が銃弾を装填しながら言った。


「終わらない」


「分かってる」


「このままやり合っても駄目だ」


 久夜は歯を食いしばった。


 今ここで勝とうとすれば、誰かが死ぬ。


 落葉はもう立っていることさえ難しい。


 砕耀の再生にも限度がある。


 梟の弾丸も、ラナが落とせる物にも終わりはある。


 法の女神だけが、罪状を増やしながら強くなっていく。


「ラナ、落葉を支えろ!」


「うん!」


 ラナが落葉へ駆け寄り、腕を肩へ回した。


 落葉は自分で立とうとしたが、右膝が崩れる。


「申し訳、ありません」


「謝らなくていいよ!」


 ラナは人を浮かせられない。


 彼女の魔法は、落とす魔法だ。


「落ちて!」


 星嚢から柔らかい布束が落ちた。


 続けて二本の支柱が落下し、布を挟むように石畳へ立つ。


 ラナは落葉の身体を布へ預ける。


 完全な担架ではない。


 だが、脚へかかる負担は減らせる。


「これで少しだけ」


「ありがとうございます」


 法の女神は、その姿を見て笑った。


「美しいですね」


 ラナが女神を見る。


「あ?」


「罪人同士の庇い合いです」


 女神の背後に、巨大な処刑槍が形成される。


 その矛先は、落葉ではなかった。


 ラナへ向いている。


「次は、あなたを裁きましょうか」


 ラナの表情が強張った。


 白い文字が頭上へ浮かび始める。


『異世界線由来個体』


『観令照合不能』


『身元不明』


『王家の責務放棄』


『逃亡』


『保護対象偽装』


 ラナの呼吸が乱れる。


「私……」


 法の女神は、子供を慰めるような声で続けた。


「あなたは、自分の世界を捨てたのでしょう?」


 ラナの手が震えた。


「違う」


「何が違うのです?」


「私は……」


「王家に生まれながら、その責務から逃げた。自分の国を置き去りにして、他の世界へ逃げ込んだ」


「違う!」


「憐れで可哀想」


 法の女神が微笑む。


「けれど、罪は罪です」


 久夜が動こうとする。


 足元へ新たな文字が浮かび、先ほど以上の重圧が全身を押さえつけた。


「ラナ!」


 巨大な処刑槍が放たれる。


 砕耀の胸で、宝珠の心が大きく鳴った。


「ふざけやがって」


 大剣が熱を帯びる。


「そういうのはな」


 砕耀が石畳を踏み砕く。


 圧力を力任せに振り切り、ラナの前へ飛び出した。


「俺に言え!」


 大剣が振り下ろされる。


 処刑槍と正面から衝突した。


 白い光が爆発する。


 砕耀の両腕が裂けた。


 肉が飛び、骨が露出する。


 大剣の刃も半分まで砕ける。


 それでも、砕耀は一歩も退かなかった。


 裂けた腕へ新しい肉が走り、砕けた骨が繋がっていく。


 再生した両腕で大剣を握り直し、処刑槍を横へ弾き飛ばす。


 女神が目を細めた。


「あなた、本当に不快ですね」


「お前を不快にできるなら本望だ」


「裁き甲斐があります」


「もっと楽しませてくれよ」


 砕耀は笑った。


 だが、その笑みは長く続かなかった。


 法の女神の背後にある武器庫が、さらに大きく広がっていた。


 剣の数が増える。


 槍が増える。


 断頭台の刃が幾つも並ぶ。


 顔のない兵士たちは、最初よりも分厚い甲冑をまとっている。


 今ここで勝とうとすれば、全員が死ぬ。


 久夜がそう悟った、その時だった。


 空気が、落ちた。


 上でもない。


 下でもない。


 横でもない。


 空間そのものが、奥へ落ちるように歪んだ。


 白い広場の端。


 何もなかった場所が、静かにたわむ。


 周囲の光が一点へ吸い寄せられ、法典の文字が細長く引き伸ばされる。


 音さえも、その一点へ沈み込んでいく。


 ラナが顔を上げた。


「なに……?」


 梟が歪みへ銃口を向ける。


「敵?」


 違った。


 歪んだ空間の向こうから、小さな声が聞こえる。


「お姉ちゃん」


 落葉の目が見開かれた。


「浮羽……?」


「こっち」


 空間が開いた。


 門というには不安定だった。


 穴というには、あまりにも美しかった。


 黒い縁を淡い月光のような輪郭が囲み、その中心に別の場所が映っている。


 流星の工房。


 その光景の中に、浮羽がいた。


 椅子に座り、両手を前へ伸ばしている。


 小さな腕は震え、髪は無重力の水中にいるようにふわりと広がっていた。


 浮羽の周囲では、工具や紙片がゆっくりと宙を漂っている。


 隣に立つ巫里が、浮羽の肩を支えていた。


「長くは保ちません!」


 巫里の声が門を越えて届く。


「全員、すぐに入ってください!」


 久夜は、門の縁で反重力が渦巻いているのを見る。


 空間の重さそのものを歪め、離れた二つの場所を強引に重ねている。


 流星が落葉の補助具へ組み込んでいた位置識別信号を、浮羽が門の目印として利用したのだ。


 だが、安定してはいない。


 黒い縁は激しく震え、工房の景色が何度も歪んでいる。


 いつ閉じてもおかしくなかった。


 法の女神の顔から笑みが消えた。


「何ですか、それは」


 声に、明確な苛立ちが混じる。


「判決から逃げるための門ですか」


 久夜は即座に叫んだ。


「行くぞ!」


 砕耀が法の女神へ大剣を叩きつける。


 天秤の盾が受け止める。


 砕耀は押し返そうとする盾ごと、女神を後方へ押し込んだ。


「落葉を先に運べ!」


 梟がラナと入れ替わり、落葉の腕を支える。


 ラナは星嚢を開いた。


「落ちて!」


 布と数本の細い支柱が落下する。


 鈴木がそれらを組み合わせ、即席の担架へ変える。


「悪い。ちょっと雑に運ぶぞ」


「構いません」


 落葉は苦しげに答えた。


 鈴木とラナが担架を持ち上げ、門へ向かう。


 法の女神が杖を振った。


 無数の鎖が門へ伸びる。


「判決から逃れることは許しませんよ」


 梟が撃つ。


 鎖の先端を一つ撃ち抜く。


 ラナが鉄杭を落とし、二本目の鎖を石畳へ縫い付ける。


 鈴木は迫る光の兵士を蹴り飛ばし、そのまま落葉を担いで門をくぐった。


 ラナが続く。


 梟は門の前で立ち止まり、最後の弾丸を放った。


 白い鎖が砕ける。


「久夜」


「先に行け」


「死なないで」


「分かってる」


 梟も門へ飛び込んだ。


 法の女神の背後から、剣の群れが放たれる。


 砕耀が大剣を横へ振り抜き、白い剣をまとめて薙ぎ払う。


「久夜、行け!」


 久夜は門へ走る。


 直前で足を止め、振り返った。


 法の女神は、武器の群れの中央に立っていた。


 慈愛の仮面は剝がれ、怒りに濁った目が久夜を捉えている。


「逃げるのですか、天理久夜」


「戦略的撤退ってやつだ」


「逃亡は罪を重くします」


「勝手に重くしろ」


「次に会う時は、より重い判決を与えます」


 久夜はダガーを握ったまま女神を睨んだ。


「次は、お前の法廷を民衆の前で壊してやる」


 法の女神の瞳が細くなる。


「民衆?」


「ああ」


 久夜は言った。


「法は、お前の私物じゃないんだ」


 その言葉を残し、門へ飛び込んだ。


 砕耀が最後に大剣を振る。


 門へ伸びた鎖をまとめて叩き潰した。


「じゃあな、女神様」


 砕耀は笑った。


「次はもっと面白くしてやるよ」


 砕耀も後ろ向きに門へ飛び込む。


 反重力の門が閉じた。


 空間の歪みが一点へ収束し、消える。


 白い広場に、静寂が戻った。


 法の女神は、門が消えた場所を見つめていた。


 顔から慈愛は完全に消えている。


 そこにあるのは、屈辱だった。


 判決廷を破られた。


 被告人を逃がした。


 自分の裁定よりも、幼い少女が開いた門を選ばれた。


 周囲に残っていた裁律社職員たちは、誰も声を出せなかった。


 法の女神は、ゆっくりと笑みを作った。


「逃げたのですね」


 声は、再び甘くなっていた。


「よろしい。罪人は逃げるほど、罪を重ねます」


 彼女は広場へ残った落葉の血を見下ろす。


「次の判決は、もっと美しくなります」


 だが、その笑みを見ていた裁律社職員の一人は、初めてはっきりと思った。


 法へ背いた者に怒っているのではない。


 自分から逃げられたことに怒っている。


 これは、法ではない。


   ◇


 門を抜けた瞬間、世界が横へ崩れた。


 久夜は工房の床へ投げ出された。


 空間を通ったというより、全く別の方向へ落とされたような感覚だった。


 胃がひっくり返り、耳鳴りが続く。


 目を開けると、流星の工房の天井が見えた。


「っ……」


 隣で砕耀が床へ片膝をついている。


「気持ち悪りい……何だ、今の」


 梟はすぐに体勢を立て直し、銃を構えたまま周囲を確認していた。


 ラナは床へ座り込み、星嚢を抱えている。


「みんな、いる?」


「いる」


 鈴木が答えた。


「落葉は?」


 落葉は工房の中央に寝かされていた。


 巫里がすぐに膝をつく。


「動かさないでください」


 鋭い声だった。


 いつもの説明はない。


 それだけで、落葉の状態がよくないと分かった。


 肩の傷から血が流れている。


 砕けた補助具の破片が、右脚の衣服へ食い込んでいた。


 巫里は傷口を確認し、布を強く押し当てる。


「落葉さん、意識はありますか」


「はい」


「今いる場所は分かりますか」


「工房です」


「手足の感覚は?」


「右脚が、ほとんどありません」


「分かりました。これ以上は喋らないでください」


「ですが」


「喋らないでください」


 落葉は口を閉じた。


 巫里は久夜へ顔を向ける。


「落葉さんの肩を支えてください。動かさないように」


「ああ」


「砕耀さんは、こちらを押さえてください。強く押しすぎないでください」


「分かった」


 砕耀が傷口へ布を押し当てる。


 腕の傷はすでに塞がり始めていたが、全身を血で汚していた。


 少し離れた場所では、浮羽が椅子の上でぐったりとしている。


 髪はまだ僅かに浮かび、周囲の紙片もゆっくりと宙を漂っていた。


 巫里は落葉の処置を続けながら、浮羽へ尋ねる。


「浮羽さん、意識は保てていますか」


「はい……」


「吐き気は?」


「少し」


「呼吸は苦しくありませんか」


「大丈夫」


「視界は?」


「少し、揺れてる」


「分かりました。もう異理を使わないでください」


 浮羽が小さく頷く。


 空中に僅かに残っていた歪みが消えた。


 その瞬間、浮羽の身体が前へ崩れる。


 ラナが慌てて支えた。


「浮羽!」


「だいじょうぶ……」


「大丈夫じゃない顔してる!」


「反動です」


 巫里が言う。


「意識も呼吸も保たれています。ただし、しばらく異理の使用は禁止します」


 落葉が薄く目を開いた。


「浮羽……」


「喋らないでください」


 それでも落葉は、浮羽を見た。


「助けてくれたのですね」


 浮羽も落葉を見る。


「うん」


 声は弱い。


 だが、少しだけ誇らしそうだった。


「今度は、私がお姉ちゃんを浮かせた」


 落葉の瞳が揺れる。


「ありがとう」


 浮羽は小さく笑った。


 その笑顔を見て、落葉も泣きそうな顔になる。


 だが、痛みが走ったのか、すぐに眉を寄せた。


「会話は治療が終わってからです」


「すみません」


「謝罪も後です」


 作業台の奥から流星が近づいてきた。


 手には工具。


 作業途中だったのか、袖には細かな金属粉がついている。


 彼は工房の光景を見た。


 血を流した落葉。


 消耗した浮羽。


 床に座り込むラナ。


 煤けた久夜たち。


 そして、空間の余韻。


 流星の目が、細くなった。


 「さて、どういう状況だ」


 流星は装置へ表示された数値を見る。


「今のは私が起こした空間干渉ではないな」


 巫里は落葉の処置を続けながら答える。


「浮羽さんです」


 流星は、ゆっくり浮羽を見た。


 浮羽は少し怯えたように肩を縮める。


「私、勝手にやった」


 巫里が訂正する。


「いえ、私が頼みました」


 流星は巫里を見る。


「私に黙ってか」


「はい」


「かなり危険行為だ」


「承知しています」


「質量制限の測定も、連続使用時の反動も、空間の戻り方も、まだ検証不足だ」


「承知しています」


「失敗していれば、全員が中途半端に空間へ挟まれていた可能性がある」


「承知しています」


 流星は黙った。


 工房の空気が重くなる。


 浮羽が小さく言う。


「怒ってる?」


 流星は答えない。


 数秒後、彼は浮羽の前に膝をついた。


「ここは怒るべきだ」


 浮羽が目を伏せる。


「うん」


「君にも、巫里にも、然るべき対処をするべきなのだろう」


「うん」


「だが」


 流星は、浮羽の周囲に残る微細な空間歪曲を見た。


 そして、ほんのわずかに目を輝かせた。


「成功したのか、しかも1度目にして」


 巫里が顔を上げた。


「そこは喜ぶところではありません」


「ああ分かっている。怒るところだ」


「では怒ってください」


「説教は後でする予定だ」


「今です」


「待て、今は記録を取らせてほしい」


「流星さん」


 巫里の声が低くなる。


 流星は咳払いをした。


「……まず治療が優先だ」


 砕耀が巫里へ尋ねる。


「命に別状はありません」


 工房にいた全員が、僅かに息を吐いた。


「ですが、右脚の神経と筋肉を再び損傷しています。補助具も完全に作り直す必要があります」


 落葉が目を伏せる。


「歩行訓練は、しばらく禁止です」


「どれくらいでしょうか」


「具体的な期間は、処置を終えてから判断します」


「次の戦いには」


「参加できません」


 巫里は即答した。


「まだ何も」


「参加できません」


「ですが」


「参加できません」


 落葉が黙る。


 巫里は傷口へ新しい布を当てた。


「これ以上無茶をすれば、次は歩けなくなるかもしれませんよ」


「……承知しました」


「本当に?」


「はい」


 砕耀が小さく笑う。


「流石に、間がなかったな」


「それだけ痛えってことだろ」


 鈴木が言った。


 巫里は落葉を治療室へ運ぶよう指示する。


 鈴木と久夜が寝台を持ち上げた。


 浮羽もラナに支えられながら、隣の部屋へ向かう。


 落葉の姿が治療室へ消えた後、工房には重い沈黙が残った。


 久夜は血のついた自分の手を見る。


 法の女神。


 あれは強い。


 単純な戦闘能力だけではない。


 あの女は、罪状を自分の力へ変える。


 法の名で人を縛り、判決の名で感情を押し通す。


 攻撃すれば罪。


 逃げても罪。


 誰かを守っても罪。


 戦いが続くほど、あの女だけが有利になる。


 梟が静かに言った。


「次は、準備が必要になる」


「ああ」


 久夜は頷いた。


「今のままじゃ勝てない」


「民衆がいなくなっても、ほとんど弱くならなかった」


「裁律社そのものへの信頼が残ってるんだろうな」


 砕耀が壁へ背を預ける。


「目の前の観客を追い出した程度じゃ足りねえ。あの女が法だって認識そのものを壊さねえと、力は落ちきらない」


「でも」


 ラナが治療室の扉の前で振り返る。


「みんながいなくなったら、あの人は笑わなくなった」


 梟が頷く。


「見せてる顔が違うの」


「それを民衆に見せられればいい」


 久夜は拳を握った。


「奴の本性を、今の法の在り方が間違ってることを民衆の前で暴いてやる」


   ◇


 その夜。


 落葉と浮羽が治療を受け、工房が静かになった頃。


 砕耀の通信端末に、一件の暗号通信が届いた。


 見慣れない発信番号。


 だが、通信形式には裁律社の天秤を示す識別記号が含まれている。


「裁律社の内部通信だ」


 砕耀が言った。


 久夜、梟、ラナ、鈴木が端末を囲む。


「罠?」


 梟が尋ねる。


「十中八九そうだろうな」


 砕耀が通信を開いた。


 画面に文字が表示される。


『砕耀殿』


『本日の公開裁定を確認しました』


『裁律社はあなた方へ、協力を要請します』


「早速、怪しいな」


 砕耀が呟く。


 文章は続く。


『我々は裁律社内部に属する者です』


『現在の裁律社は、法の女神、本名を神代依愛。彼女によって私物化されています』


『本日の戦闘において、彼女の裁定が法ではなく、個人の感情に基づくものであることを確認しました』


 久夜は、白い広場に残っていた裁律社職員たちを思い出す。


 民衆がいなくなった後。


 法の女神が慈愛の笑みを捨てた時。


 落葉へ犬になれと言い、拒絶されると殺そうとした時。


 その場にいた誰かが、すべてを見ていた。


『我々は、法を彼女の所有物から取り戻したい』


『法を、人を従わせるための力ではなく、人を守るための秩序へ戻したい』


 ラナが文字を読む。


「裁律社の中にも、あの人を変だと思ってる人がいるんだ」


「思っていても、今までは動けなかったんだろうな」


 砕耀が返答を入力する。


『知ったことか、自分たちでやれ』


 すぐに返信が届いた。


『砕耀殿は無知ではない。我々の手で可能であれば、すでに実行している事は理解できているでしょう』


『彼女は裁律社の権威そのものを力へ変えます』


『内部から彼女へ異議を唱えれば、法への反逆として処理されます』


 ラナの表情が曇る。


「公開裁定にいた女の人と同じ」


「逆らえば、それ自体を罪にされる」


 久夜が言った。


「内部の人間も例外じゃないってことか」


 砕耀が次の文章を送る。


『俺たちを利用したいだけだろ』


 返答は早かった。


『はい』


 梟が目を細める。


「清々しいくらい素直ね」


『我々は、あなた方の力を利用したい』


『そして、あなた方も我々の情報を利用してください』


『我々が求めるのは、神代依愛の失墜』


『あなた方が求めるのは、観令に関する情報』


『利害は一致しています』


「信用できない」


 梟が言う。


「だが、話を聞く価値はあるんじゃねえか」


 久夜は画面を見つめた。


 通信へ、新たな文章が表示される。


『報酬として、観令に関する裁律社内部の記録を提示します』


 工房の空気が変わった。


「観令……」


 ラナが呟く。


 総流社。


 保安社。


 空衡社。


 どの組織にも名だけが残り、その正体が見えないもの。


 法の女神も、久夜たちがその情報を探していることを知っていた。


 裁律社には、何かがある。


「会ってみよう」


 久夜が言った。


 梟が見る。


「罠よ」


「罠でもだ」


 砕耀が通信へ打ち込む。


『いいだろう。場所を指定しろ』


 返答。


『明日、深夜零時』


『裁律社第七記録庫』


『南側搬入口から入り、地下二階へ』


『前金として裁定記録と観令に関する情報の一部を提示します』


『その後、彼女を失墜させるための作戦を協議したいと考えております』


 砕耀は画面を閉じた。


「どう見ても罠だな」


「それでも行くしかないだろ」


 久夜は変わらず答えた。


「まあ、そうだな」


 砕耀が立ち上がる。


「罠ごと食い破ってやろう」


◇


 同じ頃。


 裁律社支庁の奥。


 白い廊下を、一人の裁律社職員が歩いていた。


 年齢は三十代半ば。

 表情は硬く、足取りは乱れていない。


 だが、手の中の端末を握る指だけが、わずかに震えていた。


 通信は送った。


 あとは、彼らが来るかどうか。


 背後から声がした。


「何をしているのですか」


 職員は足を止める。


 振り返ると、白い衣の女が立っていた。


 法の女神。


 慈愛に満ちた笑みを浮かべている。


 職員は頭を下げた。


「本日の裁定記録を整理しておりました」


「そう」


 法の女神は近づく。


「今日の罪人たち、逃げてしまいましたね」


「はい」


「残念です」


 彼女は微笑む。


「でも、逃げた罪人は、より重い罪人になります。次は、もっと綺麗に裁ける」


 職員は頭を下げたまま答えた。


「仰る通りです」


 法の女神は職員の顔を覗き込む。


「あなたは、私を信じていますか」


 空気が止まる。


 職員は、息を乱さずに答えた。


「もちろんです」


「私を、愛していますか」


 白い廊下の光が、やけに冷たく感じられた。


 職員はわずかに目を伏せる。


「裁律社の要として、深く敬愛しております」


 法の女神は満足そうに笑った。


「よろしい」


 彼女は職員の頬に軽く触れた。


「正しく生きる者を、私は守ります」


「光栄です」


 法の女神は去っていった。


 白い衣が廊下の角へ消える。


 足音が遠ざかるまで、職員は動かなかった。


 やがて、ゆっくり顔を上げる。


 頬に触れられた感触が残っている。


 吐き気がした。


「……法は」


 職員は小さく呟く。


「あなたのものではない」


 その声は、廊下の白い壁に吸い込まれて消えた。

   



   ◇


 翌日の深夜。


 裁律社第七記録庫は、地上支庁から少し離れた街の外れにあった。


 裁律社の建物らしく白い石で作られているが、公開裁定を行った支庁ほど華美ではない。


 窓は少なく、正面の扉も閉ざされている。


 久夜たちは指定された南側へ回った。


 同行したのは、久夜、砕耀、梟、ラナ、鈴木の五人。


 落葉と浮羽は、工房で巫里の治療を受けている。


 南側搬入口には、一人の男が立っていた。


 白い裁律社の制服。


 三十代半ばほどに見える。


 装飾は少なく、胸元には記録管理部門を示す細い銀色の線が入っている。


 男は久夜たちを見ると、周囲を確認してから扉を開いた。


「まずはお越しいただきありがとございます。中へどうぞ」


「お前、名前は?」


 久夜が尋ねる。


「大変申し訳ございません。今は名乗れません」


「名前すら名乗れないのに信用しろって?」


「信用していただく必要はありません」


 男は淡々と答える。


「互いに、裏切れば殺される距離にいれば十分です」


 砕耀が口元を上げる。


「恐ろしくらいに素直な奴だな、気に入った」


「光栄です」


 男は久夜たちを建物内へ通した。


 細い階段を下りる。


 地下二階。


 幾重もの扉を抜けた先に、巨大な保管室があった。


 左右へ並ぶ記録棚。


 古い法典。


 封印された端末。


 壁一面に刻まれた裁定番号。


 その中央に、長い机が置かれている。


 机の上には、複数の記録端末と透明な板状の媒体が並べられていた。


「罠にしては、随分と本物を用意したな」


 砕耀が端末の一つを見る。


「触れないでください。閲覧権限を解除するまでは警報が作動します」


 男は端末へ自分の認証を通した。


 画面が開く。


 最初に表示されたのは、公開裁定で久夜たちが見た中年男性の記録だった。


『管理物資不正持ち出し』


『配給記録改竄』


『虚偽申告』


『通常量刑目安・労役七年から十二年』


『最終判決・労役三年』


 ラナが画面を覗き込む。


「やっぱり、すごく軽かったんだ」


「次です」


 男が別の記録を開く。


 若い女性。


『裁定局無断侵入』


『職員への暴言』


『業務妨害』


『通常量刑目安・拘束三か月から一年』


『最終判決・長期拘束十五年』


 梟の目が冷たくなる。


「差がありすぎる」


「この二件だけではありません」


 男が端末を操作する。


 記録が次々に並んだ。


 法の女神を讃えた被告。


 罪状に比べて軽い判決。


 法の女神を批判した被告。


 突然追加される『反省の欠如』『裁定者への侮辱』『法秩序への不敬』。


 重くなる判決。


 再教育。


 長期拘束。


 記録抹消。


「過去五年間で、同じ傾向を示す裁定は二百四十一件」


 男が言った。


「これらを統計した結果。彼女に好意を示した者は、基準より平均して四割ほど刑が軽い。異議を唱えた者は、基準の三倍以上になる場合があります」


「こんなにあるのに、どうして今まで表に出なかった」


 久夜が尋ねる。


「最終的な判決には、要の裁定権が適用されます。通常基準との不一致は、個別事情を考慮した結果として処理されていました」


「個別事情?」


 ラナが眉を寄せる。


「好きか嫌いかが?」


「実際には、そうです」


 男の表情が僅かに歪む。


「ですが記録上は、反省、態度、更生可能性、社会的影響。そのような言葉へ置き換えられます」


 砕耀が鼻で笑った。


「法の言葉であの女の感情を隠してるわけだ」


「はい、その認識で間違いありません」


 男は否定しなかった。


 久夜は記録端末を見る。


「これを民衆に見せれば、あの女の力を落とせるか」


「恐らくは、これだけでは足りません」


「どうして」


「人々は、彼女を信じて、いや盲信してます」


 男は机の奥から別の媒体を取り出した。


「数字や記録を提示しても、反逆者が改竄したと主張されれば終わりです」


「裁律社の正式な記録でも?」


「彼女は裁律社の要です。記録官一人の証言と、要の言葉。民衆がどちらを信じるかは明らかでしょう」


「じゃあ、どうする」


 久夜が尋ねる。


 男は壁に埋め込まれた地図を起動した。


 地上支庁。


 公開裁定広場。


 記録棟。


 裁定棟。


 そして、街中へ張り巡らされた複数の通信経路。


「彼女自身に、民衆の前で本性を見せてもらいます」


 梟が地図を見る。


「どうやって?」


「再審公開裁定を行います」


「再審?」


 ラナが聞く。


「過去の判決に重大な不備が見つかった場合、裁律社には再び公開の場で審理する制度があります」


「法の女神が応じると思うか?」


 砕耀が尋ねる。


「通常であれば拒否します」


 男は画面の一部を拡大する。


「ですが、要自身が裁定した案件に不備があると正式に申請され、一定数の上級記録官と監査官が承認した場合、要には公開の場で説明する義務が生じます」


「協力者は何人いる」


 久夜が尋ねる。


「現時点で、記録官六名、監査官三名、執行官二名」


「足りる?」


「再審を開くには足ります」


「倒すとなった場合?」


「足りません」


 男は即答した。


「そのため、あなた方を呼びました」


 砕耀が腕を組む。


「俺たちを罪人として舞台に上げる気か」


「彼女は必ず、あなた方を裁定対象に加えます」


「餌ってことだな」


「はい」


 男は躊躇せず認めた。


「特に天理久夜。神代依愛はあなたを民衆の前で屈服させれば、自らの正しさを完全に証明できると考えています」


「なんだそれ本人から聞いたのか?」


「はい。今日の会議で、そう発言していました」


 久夜の表情は変わらない。


「なら、利用してやろう」


「久夜」


 梟が横を見る。


「また判決廷に入れられる」


「ああ」


「今度は出られる保証がない」


「だから、先に仕掛けを作る」


 男が地図へ三つの印を表示した。


「公開裁定広場には、映像と音声を街中へ送る中継装置があります。通常は、神代依愛を美しく見せるために調整されています」


「美しく?」


 鈴木が聞き返す。


「不都合な音声を削り、被告人の姿を小さくし、法の女神を常に中央へ映します」


 ラナが嫌そうな顔をする。


「本当に舞台なんだ」


「はい」


 男は地図の印を指す。


「我々が内部から制御を奪います。映像を切らず、判決廷の内側も含めてすべて街へ流します」


「結界の中も映せるの?」


「通常は不可能です。神代依愛からは判決廷内部のあらゆる情報遮断するよう伝えられております。しかし結界内部に端末を入れることができれば映せるはずです」


 久夜がラナを見る。


「端末を中へ入れられるか」


 ラナは少し考える。


「星嚢に入れておけば、指定した場所に落とせる」


「判決廷が閉じた後でも?」


「中の位置が分かれば」


 男が机の上へ小さな円盤状の装置を置いた。


「これが判決廷の内外を繋ぐ座標標識です。事前に被告人の衣服へ付けておけば、内部の位置を特定できます」


「誰につける」


 砕耀が尋ねる。


「俺でいい」


 久夜が即答した。


「自分から閉じ込められに行くのか」


「一度見た。壊し方も分かってる。何も問題ない」


「今日より危険かもしれないぞ」


「それでもやるんだ」


 男は次の印を示す。


「ラナさんが判決廷の内部へ記録端末を落とす。梟さんは外部から公開設備を守り、裁律社側の妨害者を止める」


「撃っていい?」


「殺害は避けてください」


「善処する」


「そこは断言していただきたいのですが」


「相手次第」


 男は一瞬黙ったが、話を続けた。


「砕耀さんと鈴木さんは、判決廷を外側から破壊する役目です」


「結局また壁を壊すのか」


「今回は、法典の流れを内部から止めます。前回ほどは硬くならないはずです」


「前回ほどは、ね」


 砕耀が笑う。


「壊せるなら何でもいい」


「久夜さんは、判決廷の中で彼女に言葉を続けさせてください」


「言葉?」


「彼女は、自分が正しいと証明しようとすると口が多くなります」


 男は冷たい表情で言った。


「被告人が自分を拒絶するほど、法と自分が同じであると主張する。民衆へ、その言葉を聞かせる必要があります」


「怒らせろってことか」


「はい」


 ラナが不安そうに久夜を見る。


「また、殺そうとしてくるよ」


「分かってる」


「落葉みたいに」


「だから、殺される前に皆が壊すんだろ」


 梟が地図を見たまま尋ねる。


「記録はいつ出す?」


「彼女が裁定を始めた後です」


 男が答える。


「最初から出せば、改竄と主張され、公開設備を止められます。彼女自身の言動と過去の記録を、同時に流す必要があります」


「今の判決と過去の判決を並べる」


「はい」


「法の女神が感情で罪状を追加した瞬間に」


「通常の量刑基準と、追加前の罪状を表示します」


「民衆が疑えば、あの女は弱くなる」


 砕耀が言った。


「その可能性は高い」


 男が頷く。


「彼女の力は、判決が正しいと認識されるほど増します。逆に、正当性が揺らげば出力も低下する」


「低下しなかったら?」


 鈴木が尋ねた。


「その時は」


 男は久夜たちを順番に見た。


「あなた方に倒していただきます」


「結局そこは丸投げか」


 砕耀が言う。


「我々に彼女と戦える力はありません」


「インプラントでも入れて戦えるようにしろ」


「我々も精一杯助力いたしますので勘弁して下さい」


 久夜は地図を見つめた。


 公開裁定。


 法の女神が自分の正しさを示すために作った舞台。


 そこへ久夜たちが罪人として立つ。


 内部の裁律社職員が、隠されていた記録を公開する。


 ラナが判決廷へ記録端末を落とす。


 梟が映像を守る。


 砕耀と鈴木が壁を壊す。


 民衆の前で、法の女神が法ではないと証明する。


 あの女が最も好む舞台を、そのまま彼女を引きずり下ろす場所へ変える。


「観令の情報は?」


 久夜が尋ねた。


 男は机の一番奥に置かれた黒い記録媒体を示した。


「作戦が成功すれば、すべてお渡しします」


「先に一部見せる約束だったはずだ」


 砕耀が言う。


「確認してください」


 男は媒体を起動した。


 短い文章が表示される。


『観令指定対象に対する裁律社独自裁定を禁ずる』


『観令指定は、現行法令に優先する』


『異議申立権限・該当なし』


『発行元・照合不能』


 久夜の目が細くなる。


「現行法より上にあるのか」


「はい」


 男が答える。


「裁律社は観令を管理していません」


「従ってるだけか」


「法の女神でさえ、観令の指定を覆すことはできない」


「じゃあ観令は何だ」


「それは我々も知りません」


 男は黒い媒体を閉じた。


「ですが、裁律社が法を名乗りながら、法の外にある何かへ従っている。それだけは確かです」


 室内が静まり返った。


 法の女神を倒して終わりではない。


 その先に、さらに大きな何かがある。


 だが、まずは目の前の女を神の席から降ろさなければならない。


「再審公開裁定は、いつ開ける」


 久夜が尋ねる。


「三日後です」


「準備は間に合うか」


 男は端末へ手を置いた。


「裁律社側の準備は間に合わせます」


 梟が銃を確認する。


「映像は絶対に止めさせない」


 ラナが円盤状の座標標識と記録端末を見る。


「中に落とす練習をする」


 鈴木が拳を握る。


「壁を壊せばいいんだな」


「今回は、壊した後も働いてもらうぞ」


 砕耀が言った。


「まだ殴る相手が残ってるからな」


 久夜は公開裁定広場の地図へ目を落とした。


 法の女神は、民衆の視線を力に変える。


 ならば、その視線から逃げられない場所で、本当の姿を見せればいい。


「作戦は決まった」


 久夜が言う。


「あの女の舞台を奪うんじゃない」


 全員の視線が集まる。


「その舞台で、法の女神を一人の人間に戻す」


 裁律社の記録官が、静かに頷いた。


 三日後。


 神を讃えるために作られた広場で、法の女神を引きずり下ろすための公開裁定が始まる。

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