外伝 愛に飢え
神代依愛は、美しい子供だった。
それは誰か一人の感想ではない。
近所の大人たちも、学校の教師も、同級生も、初めて会った人間でさえ、彼女を見るとよく似た言葉を口にした。
可愛い。
綺麗。
将来が楽しみ。
まるでお人形みたい。
きっと大きくなったら、たくさんの人に愛される。
依愛は、その言葉が好きだった。
褒められることが好きだった。
見られることが好きだった。
誰かの視線が、自分の上で止まる瞬間が好きだった。
それは、彼女にとって愛だった。
誰かが自分を見る。
自分の名前を呼ぶ。
自分を特別だと言う。
そのすべてが、依愛には愛されている証に思えた。
幼い頃の依愛は、まだそれを疑わなかった。
愛とは、自分へ向けられるもの。
美しい自分に、自然と集まるもの。
努力して手に入れるものではなく、そこにあって当然のもの。
だから依愛は、自分が愛されることを怖がらなかった。
むしろ、足りないと思っていた。
一人に褒められれば、もっと多くの人に褒められたくなった。
教室で見られれば、学校中に見られたくなった。
学校で噂されれば、町中で噂されたくなった。
依愛は、いつも中心にいたかった。
年齢を重ねるにつれ、彼女はさらに美しくなった。
廊下を歩けば、男子生徒が振り返る。
下級生は遠くから彼女を見て囁く。
教師でさえ、他の生徒より少しだけ声を柔らかくする。
依愛は、それを当然のように受け取った。
告白もされた。
一度ではない。
何度も。
放課後の教室で。
人気のない階段で。
校舎裏で。
端末の文字で。
震える声で。
好きです。
付き合ってください。
ずっと見ていました。
あなたのことが、特別です。
依愛は、すべて断った。
嫌いだったわけではない。
むしろ、気分は頗る(すこぶる)良かった。
誰かが自分のために緊張し、言葉を選び、顔を赤くする。
その姿を見るのは心地よかった。
けれど、一人を選ぶ気にはなれなかった。
なぜなら依愛は、自分が一人に愛されるための人間だとは思っていなかったからだ。
自分は、もっと多くの人に愛されるべきだ。
教室の誰か一人ではない。
学校の誰か一人でもない。
もっと多く。
もっと遠く。
もっと大勢。
依愛はそう信じていた。
信じているというより、知っているつもりだった。
私は、愛される資質がある。
その思いは、依愛の中で小さな灯火のように燃えていた。
最初はただ明るかった。
けれど、灯火はいつしか熱を持ち、彼女の内側を焦がし始めた。
◇
依愛が最初に目指したのは、アイドルだった。
次に、女優だった。
正直どちらでもよかった。
大切なのは、舞台の中心に立つことだった。
自分が現れれば、人々が歓声を上げる。
自分が笑えば、人々が笑う。
自分が泣けば、人々が胸を痛める。
そんな場所に立ちたかった。
愛されるために。
より多くの人に、見てもらうために。
依愛は、自分ならなれると思っていた。
なぜなら自分は美しいから。
周りはずっと、そう言ってきた。
あなたは特別だと。
あなたは愛されると。
あなたは人の目を惹くと。
ならば、自分が舞台に立てないはずがない。
だが、現実は依愛に優しくなかった。
審査会場には、美しい人間がいくらでもいた。
依愛だけではなかった。
目を奪うほど整った顔の少女。
歌えば空気を変える少女。
泣き方一つで人の心を掴む少女。
不格好でも必死に踊り続ける少女。
何度落ちても、頭を下げ、練習し、笑顔を作り直す少女。
そこでは、美しいことは特別ではなかった。
最低条件だった。
依愛は、そこで初めて知った。
顔が良いだけでは足りない。
歌えなければならない。
踊れなければならない。
演じられなければならない。
人に好かれる振る舞いを学ばなければならない。
笑顔の角度も、声の出し方も、失敗した時の謝り方も、すべて磨かなければならない。
時には頭を下げる必要もあった。
媚びる必要もあった。
人脈を作る必要もあった。
気に入られる必要もあった。
泥臭く、何度も、何度も、自分より上手い誰かの隣に立ち続ける必要があった。
依愛には、それができなかった。
彼女は美人だった。
けれど、それだけだった。
演技は浅かった。
歌は並だった。
踊りは続かなかった。
努力は長く保たなかった。
何より、彼女は自分より評価される誰かを認めることができなかった。
あの子より、私の方が綺麗なのに。
なぜ、あの子が選ばれるの。
なぜ、あの子が笑われるの。
なぜ、あの子が応援されるの。
なぜ、私ではないの。
依愛は、そう思うたびに練習を嫌いになった。
努力とは、自分が足りないと認める行為だった。
依愛にとって、それは耐えがたい屈辱だった。
私は足りないのではない。
周りが分かっていないだけだ。
私は魅力がないのではない。
正しく見られていないだけだ。
私は愛されないのではない。
人々が、愛するべきものを間違えているだけだ。
そう言い聞かせているうちに、挑戦は終わった。
長くは続かなかった。
夢が壊れたというには、あまりに短かった。
けれど依愛にとっては、自分の世界が一度死んだようなものだった。
舞台には立てなかった。
歓声は自分に向かなかった。
誰かの視線は、自分ではない誰かへ流れていった。
残されたのは、美しいだけの女だった。
愛されることを当然だと思い、愛されない現実に耐えられない女だった。
愛に飢えた化け物が、一人取り残されていた。
◇
依愛は、それでも愛されたかった。
いや、実際にはただ愛されたいだけではなかった。
本当は、愛してみたかった。
誰かを大切に思うこと。
誰かのために何かをすること。
誰かが笑えば嬉しくなること。
誰かの痛みに胸が痛むこと。
そういうものを、自分も持ってみたかった。
けれど、分からなかった。
どうすればいいのか、分からなかった。
愛は、彼女にとって最初からあった。
褒められること。
見られること。
告白されること。
特別扱いされること。
それらは幼い頃から彼女の周りにあった。
当たり前のように。
だから依愛は、愛を学ばなかった。
愛されるために誰かを見ることを知らなかった。
愛するために自分を曲げることを知らなかった。
愛は奪うものではなく、差し出すものでもあると知らなかった。
依愛は、愛を軽視していた。
軽視している自覚もなかった。
空気のようにあるものだと思っていた。
自分の美しさに自然と集まるものだと思っていた。
当たり前とは、怖いものだ。
それは、本来なら感じられるはずの痛みを鈍らせる。
本来なら見えるはずの他者を、背景に変えてしまう。
本来なら大切にすべきものを、雑に扱わせる。
そして、その当たり前が失われた時。
それは毒となる。
足りない。
見られない。
選ばれない。
愛されない。
その毒はゆっくりと心を蝕む。
依愛は、愛が欲しかった。
依愛は、愛してみたかった。
けれど、愛を分かろうとするには、あまりにも自分を見すぎていた。
◇
異理が覚醒したのは、彼女が二十歳を過ぎた頃だった。
きっかけは、小さな争いだった。
路上で起きた、ありふれた口論。
誰が悪いのか。
誰が嘘をついているのか。
誰が謝るべきなのか。
周囲の人間は苛立ち、声を荒げ、互いに相手を責めていた。
依愛はその場にいた。
ただ通りかかっただけだった。
けれど、誰かが彼女を見た。
「あなたは、どう思いますか」
その一言で、依愛の内側に何かが開いた。
彼女は言葉を発した。
誰が悪いのか。
何が罪なのか。
どう謝るべきなのか。
それは法律の知識によるものではなかった。
だが、依愛が言うと、その場の空気が従った。
人々は黙った。
言い争っていた者たちは、彼女の言葉を聞いた。
誰もが依愛を見た。
見ていた。
依愛の言葉を待っていた。
その瞬間、彼女は震えた。
恐怖ではない。
歓喜だった。
ようやく世界が、自分を見るべき形で見た。
依愛はそう感じた。
自分の言葉が、場を支配する。
自分の判断が、人を黙らせる。
自分の声が、誰かの正しさを決める。
彼女の周囲に、白い文字が浮かんだ。
罪。
反省。
裁定。
許し。
それは、彼女の生まれ持った資質だった。
ただ、初めからあったわけではない。
愛されたいという飢え。
見られたいという渇き。
選ばれなかった怒り。
そして、自分こそが中心であるべきだという確信。
それらが混ざり合い、彼女の中で力として目を覚ました。
依愛は、その力を祝福だと思った。
世界は私を見捨てなかった。
世界は私を選んだ。
世界は、私を愛している。
だから私は、愛されるべき存在なのだ。
その解釈は、間違っていた。
けれど依愛にとっては、何よりも甘美な真実だった。
◇
裁律社と出会ったのは、それからしばらく後だった。
裁律社。
法を扱う巨大な柱。
人々の罪を記録し、裁定し、秩序を保つ場所。
依愛は、その建物に初めて足を踏み入れた時、舞台の匂いを感じた。
白い壁。
整列した職員。
静かな廊下。
重々しい扉。
裁定を待つ人々。
そこでは、誰もが裁く者の言葉を待っていた。
人々は静かに座り、息を潜め、上を見上げる。
裁定者が口を開けば、全員が耳を傾ける。
その一言で、誰かの人生が変わる。
依愛は思った。
ここだ。
ここなら、皆が私を見る。
ここなら、皆が私の声を聞く。
ここなら、私が中心になれる。
アイドルにはなれなかった。
女優にもなれなかった。
けれど、もっと大きな舞台があった。
法廷。
人々が逆らえず、見上げざるを得ない舞台。
そこで微笑めば、慈悲になる。
そこで涙を流せば、神聖になる。
そこで怒れば、正義になる。
依愛にとって、法は人を守るものではなかった。
自分を見せる舞台だった。
彼女は裁律社で力を示した。
最初は、誰も彼女を要とは認めなかった。
当然だった。
どれほど美しくても、どれほど不思議な力を持っていても、裁律社には積み上げられた手続きがあった。
判例があった。
経験があった。
先代の要がいた。
依愛は、それらが鬱陶しかった。
自分より上に立つ者がいること。
自分の言葉を疑う者がいること。
自分を試そうとする者がいること。
すべてが不快だった。
だから彼女は、力を使った。
裁定の場を支配した。
罪状を浮かべた。
異議を唱える者を沈黙させた。
疑う者を、秩序への背信者として示した。
裁律社は揺れた。
先代の要に何が起きたのか、確かな記録は残っていない。
ただ、ある時を境に、記録は途切れた。
そして次の記録には、こう記されている。
『神代依愛、要の座へ』
その前後の記録は、消えている。
焼けたのか。
破棄されたのか。
誰かが消したのか。
もう誰にも分からない。
あるいは、分からないようにされたか。
◇
最初の公開裁定の日。
依愛は白い衣をまとった。
鏡の前で、何度も微笑みを作った。
慈愛。
悲しみ。
厳しさ。
許し。
すべて、顔に乗せることができた。
演技力がないと言われたことがあった。
だがそれは、舞台が小さすぎただけだ。
依愛はそう思った。
自分に必要なのは、歌でも踊りでもなかった。
与えられた役を演じることでもなかった。
自分自身を、女神として見せることだった。
扉が開く。
広場に出る。
民衆が集まっている。
彼らは依愛を見た。
白い衣。
美しい顔。
優しい微笑み。
罪人を裁く力。
最初の歓声が上がった。
依愛の胸が震えた。
次に、祈るような声が聞こえた。
神代様。
法の女神。
どうか正しい裁きを。
それは、かつて審査会場で得られなかったものだった。
拍手。
注目。
期待。
畏怖。
敬意。
依愛は、そのすべてを愛だと思った。
違いなどよく分からなかった。
いや、分かろうとしなかった。
畏怖でもよかった。
敬意でもよかった。
服従でもよかった。
自分へ向けられる視線なら、すべて愛に見えた。
依愛は微笑んだ。
民衆が安心したように息を吐く。
その瞬間、彼女は確信した。
やっと、私の居場所を見つけた。
私は、愛されている。
私は、愛されるべき存在だった。
アイドルにはなれなかった。
女優にもなれなかった。
けれど、女神にはなれた。
◇
それから、長い時間が過ぎた。
依愛は裁き続けた。
自分を褒める者には、慈悲を与えた。
自分を疑う者には、厳罰を与えた。
自分へ泣いて縋る者には、許しを与えた。
自分を見上げない者には、罪を見つけた。
彼女はそれを私情だとは思わなかった。
自分を信じる者は、反省している。
自分を疑う者は、秩序を乱している。
自分を愛せない者は、法を理解していない。
そう解釈した。
解釈できてしまった。
それが能力だった。
それが毒だった。
彼女は愛されたかった。
本当は、愛してみたかった。
けれど、愛を当たり前だと思った少女は、愛を学ばないまま大人になった。
愛を学ばないまま、力を得た。
愛を学ばないまま、法を得た。
愛を学ばないまま、人々の上に立った。
そして、愛を支配と見間違えた。
誰かが自分を恐れれば、愛されたと思った。
誰かが自分に従えば、必要とされたと思った。
誰かが自分を見上げれば、心を向けられたと思った。
もう一度言おう。
当たり前とは、怖いものだ。
本来なら感じるべきものを、鈍らせる。
本来なら見えるはずのものを、歪ませる。
本来なら大切にすべきものを、踏みつけても気づけなくする。
それが失われた時、毒になる。
依愛の中で、愛は毒になった。
愛されたいという願いは、裁きに変わった。
見られたいという渇きは、権威に変わった。
愛してみたかったという小さな祈りは、いつしか誰にも届かない場所へ沈んだ。
気づいた時には、すべてが手遅れだった。
神代依愛のように。
鏡の中で、白い女神が微笑んでいる。
その笑顔は美しかった。
だが、そこにはもう、誰かを愛そうとする少女はいなかった。
ただ、愛されるべきだと信じ続ける化け物だけがそこにいた。




