神を気取るもの
月代落葉が踏み出した瞬間、右脚の補助具が低い警告音を発した。
膝が崩れるより先に、そばにいた巫里が落葉の腕を支える。
「今日はここまでです」
「まだ少し歩いていません」
「いいえ、今ので丁度1キロは歩きました」
巫里は反論を許さず、落葉を椅子へ座らせた。
腰から両脚へ伸びる細い支柱が、落葉の体重を受けて小さく軋む。傷ついた筋肉と神経を支えるための補助具だが、失われたものを完全に補えるわけではない。
落葉は乱れた呼吸を整えながら、自分の右脚を見下ろした。
「昨日よりは動いています。問題ないです」
「回復していることと、無理をしてよいことは別です」
「無理はしていません」
「警告音が鳴りました」
「装置の基準が厳しいのではないですか」
「違います。あなたの基準が緩すぎるんです」
巫里が補助具の接続部を確かめる。
作業台の前にいた流星が、工具を片手にこちらへ歩いてきた。落葉の右脚へ接続された端末を確認し、補助出力を一段階下げる。
「何をしたんですか」
「右脚の出力を少し制限した」
「歩きにくくなります」
「体が無理をできないようにした」
「戻してください」
「君の将来を考えて戻さない。」
そう言うと、流星は作業台へ戻った。
落葉は不満そうに端末を見たが、巫里が目の前に薬を差し出したため、何も言わずに受け取った。
「苦いですね」
「毎日同じ感想を言わなくて結構です」
「味は改善されませんか」
「治療薬に美味しさを求めないでください」
「飲み続けるものほど、味は重要だと思います」
「では注射に変えますか」
落葉は黙って薬を飲み込んだ。
工房の中央には、大きな投影板が浮かんでいた。
久夜、砕耀、梟、ラナ、が、その周囲に集まっている。
映し出されているのは、裁律社の支庁とその周辺の地図だった。
中央にそびえる白い塔を囲むように、裁定棟、記録棟、拘束棟、執行局が配置されている。
『観令に関する記録があるとすれば、裁定記録の中だ』
慧悟が記録棟を指した。
『総流社、保安社、空衡社のいずれも、観令から指示を受け行動していた。しかし、どの社にも観令そのものを決定した記録がない』
「じゃあ裁律社もあんま関係ないんじゃねえか」
久夜が尋ねる。
『いや。少なくとも、裁律社が観令の発行元だと示す資料は見つかっていない』
「なら、裁律社へ行っても何も分からないかもしれないよ」
ラナが言った。
『観令そのものは分からなくても、それを根拠に誰が裁かれ、何をされたのかは残っている可能性がある』
慧悟は裁定棟と記録棟を結ぶ通路を拡大した。
『裁律社は、自分たちの裁定を正当なものとして残す。表に出したくない裁定であっても、内部の手続きまで完全に消すことは少ない』
「自分たちは間違えない、と思ってる連中だからな」
砕耀が椅子の背もたれへ腕を乗せる。
「記録を消すより、見せない方が選ぶ。裁定自体を無かったことにすれば、自分たちが法を破ったと認めることになるからだ」
「面倒な人たち」
梟が呟いた。
「権力持ってる奴が、自分を疑わなくなったら大体面倒だ」
砕耀は投影板の上部にある天秤の紋章を見る。
「裁律社の要は、その中でも特にひどいって話だ」
「法の女神」
落葉が椅子から言った。
全員の視線が向く。
「知っているのか」
久夜が尋ねる。
「何度か、空衡社と裁律社の共同任務で姿を見ました。直接会話をしたことは、ほとんどありません」
「どんな奴?」
ラナが聞いた。
落葉は少し考えた。
「民衆から強く支持されています」
「性格を聞いてる」
「…よく笑う方でした」
砕耀が眉を上げる。
「随分と曖昧だな」
「人が見ている時は、常に笑っていました」
その言葉に、短い沈黙が生まれた。
「見ていない時は?」
久夜が尋ねる。
「分かりません。彼女はいつも大勢に囲まれていましたから」
砕耀が背もたれから身体を起こす。
「法の女神が行う公開裁定は、見世物みたいに人が集まる。慈悲深い裁定者だの、弱者の味方だの、随分と評判がいい」
「悪い話もあるんだろ」
「自分を讃える奴には甘く、異議を唱える奴には重い刑を出すという噂がある。だが、それを証明できる記録は表に出てない」
「どうして?」
ラナが首を傾げる。
『重い刑を受けた奴は、裁定に逆らった罪人として扱われる』
慧悟が答える。
『訴えれば訴えるほど、反省していないと判断される。裁定を疑う行為そのものが、新たな罪へ変えられる』
「それじゃ、間違っていても直せない」
『ああ』
慧悟の表情がわずかに曇る。
『人々を守るための仕組みが、法を扱う者を守るために使われている』
久夜は記録棟を見つめた。
「まずは公開裁定を見に行く」
「素直に入れてくれるとは思えねえがな」
「裁律社の公開裁定は原則誰も入れる。身分の確認などはされない」
「観察か、また戦いになるんじゃねえか」
砕耀が言う。
「本当に戦うつもりはない」
「お前がそう思ってても、向こうが始めるんだよ」
「全然あり得る話だが、少なからずこちらから武器を抜く気はない。まあその時はその時だ」
「結局戦うんじゃねえか」
「私も同行します」
落葉が言った。
巫里が即座に振り返る。
「いけません」
「空衡社に関する裁定記録があるなら、私にしか分からない分類が含まれている可能性があります」
「あなたは、少し歩くだけで補助具の警告が鳴る状態です」
「移動車を使えば、支庁まで歩く距離は短くできます」
「支庁の中では?」
「ゆっくり歩きます」
「問題は速度ではありません」
落葉は巫里を見た。
「古い認証が残っていれば、通常の閲覧者には見えない記録へ入れるかもしれません」
「認証が残っていなければ?」
「私は元要です。少なからず皆さんのご助力できることはあります」
「それを理由に、治りかけの身体を壊すつもりですか」
「壊すつもりはありません」
「壊すつもりで怪我をする人はいません」
落葉は答えなかった。
久夜が落葉の前へ歩み寄る。
「自分で逃げられるか」
「補助具が正常なら」
「止まったら?」
「難しいと思います」
「なら、戦闘になったら俺たちが運ぶ」
巫里が久夜を見る。
「同行を認めるのですか」
「落葉は必要な情報を持ってる」
「必要だからといって、怪我人を連れ回していい理由にはなりません」
「残ったら後悔するかもしれないぞ」
久夜は落葉を見る。
「多分、無理に止めても別の方法で来る」
巫里も落葉を見る。
落葉は視線を逸らさなかった。
しばらく睨み合った後、巫里が深く息を吐く。
「補助具の制限は解除しません」
「承知しました」
「異常を感じたら、すぐに座ってください」
「はい」
「戦闘になった場合は、最優先で退避してください」
「はい」
「自分の判断で異理を使わないでください」
落葉の返答が僅かに遅れた。
「はい」
「今、間がありましたね」
「気のせいです」
「絶対に使わないでください」
「必要がなければ」
「必要があってもです」
「それは難しいかもしれません」
「落葉さん」
「できる限り使いません」
巫里の目がさらに険しくなる。
作業台の奥から流星が何か持って来て落葉に渡した。
「万が一だ。もし戦闘になったらこれを使うといい」
流星が渡したのは小さな薬だった。
「これは?」
「体内のアドレナリンを増幅させる薬だ。短時間だが動かない体を稼働させられる」
「流星さん、」
巫里は納得いかない様子。
砕耀が横から口を挟んだ。
「その辺で諦めろ。こいつは素直そうな顔で言うこと聞かねえぞ」
「あなたも同類です」
「俺は素直そうな顔してねえだろ」
「自覚があるなら直してください」
砕耀は何も返さず、椅子から立ち上がった。
「よし準備できたら出るぞ」
◇
裁律社の地上支庁が建つ街は、白かった。
建物の壁。
街路を区切る標柱。
職員たちの制服。
道の脇に並ぶ旗。
視界へ入るものの多くに、同じ白と天秤の紋章が使われている。
『法はすべての者を等しく見る』
『正しき裁定が秩序を守る』
『法を恐れる必要があるのは、罪を犯した者だけである』
建物の壁や柱には、同じ言葉が何度も刻まれていた。
「たくさん書いてある」
ラナが移動車の窓から外を見る。
「忘れられるのが怖いんでしょ」
梟が言った。
「何を?」
「自分たちが正しいってこと」
移動車が支庁前で止まる。
大きな白い塔の前には、すでに多くの民衆が集まっていた。
花を持った者。
子供を肩車した者。
祈るように手を組んでいる者。
その大半が、支庁の入り口ではなく、広場中央に作られた高い壇を見ている。
久夜たちが車を降りる。
落葉も補助具に支えられながら、慎重に地面へ足を下ろした。
久夜は何も言わず、落葉の歩幅に合わせて進む。
その様子に気づいた砕耀が、僅かに口元を緩めた。
「何してる」
「別に」
砕耀は久夜の隣を歩く。
「無意識ってのは便利だなと思ってな」
「意味が分からん」
「分からなくていい話だ」
支庁へ続く道の手前で、白い制服を着た職員が立っていた。
「記録閲覧をご希望の方は、右側の受付へお進みください。公開裁定をご覧になる方は、広場内でお待ちください」
「今日は公開裁定なのか」
久夜が尋ねる。
「はい。間もなく開始されます」
「法の女神が出るの?」
ラナが聞く。
職員は誇らしそうに頷いた。
「本日は、女神様が自ら裁定を執り行われます」
周囲にいた民衆が、その呼び名へ反応した。
「女神様を見に来たのかい?」
花束を抱えた年配の女性が、ラナへ笑いかける。
「違うよ。記録を見に来た」
「あら、そうなの。でも、せっかくだから見ていくといいわ。とてもお優しい方なのよ」
「どんな人?」
「罪を犯した人にも、やり直す機会をくださるの。罰するだけではなく、どうすれば正しい道へ戻れるかを考えてくださる」
隣にいた男も会話へ加わった。
「女神様のおかげで、この街は安全なんだ。悪人は裁かれ、正しい者は守られる」
「間違えたことはないの?」
ラナが尋ねる。
男は不思議そうな顔をする。
「女神様が?」
「うん」
「あるはずがないだろう」
「どうして?」
「法を一番深く理解している方だからだ」
「理解していたら、絶対に間違えないの?」
男の表情が少し険しくなる。
「子供には難しい話だ」
「分からないから聞いてる」
梟がラナの肩を軽く引いた。
「もういい」
「でも」
「答えがない」
男は不満そうに梟を見たが、それ以上は何も言わなかった。
やがて、支庁の大扉が開いた。
広場を満たしていた話し声が、一斉に歓声へ変わる。
「法の女神様!」
「女神様!」
「こちらを見てください!」
白い衣をまとった一人の女が、階段の上へ現れた。
長い髪。
金色の装飾。
天秤を模した細い杖。
衣の裾は翼のように広がり、階段を下りるたびに柔らかく揺れている。
女が片手を上げる。
それだけで、広場の歓声は少しずつ静まった。
「皆さん」
穏やかな声が、広場の端まで届いた。
「本日も、法の下へ集まってくださったことを嬉しく思います」
大喝采だった。
民衆が
拍手する。
声援を上げる。
女は広場を見渡した。
右から左へ。
ゆっくりと、すべての者へ視線を配る。
しかし久夜には、人々の顔を見ているようには思えなかった。
誰が笑っているか。
誰が頭を下げているか。
誰が自分へ手を伸ばしているか。
女の目が確かめているのは、人ではなく、自分へ向けられた反応だった。
「法は、人を縛るためだけにあるものではありません」
女は杖を胸元へ寄せる。
「弱き者を守り、過ちを犯した者を正しき道へ戻すためにあります。罪を犯したからといって、人としての価値まで失われるわけではないのです」
「慈悲深いお言葉だ」
「さすが女神様」
周囲から声が上がる。
その瞬間、久夜は空気が僅かに重くなったのを感じた。
何かに押さえつけられるほどではない。
だが、階段の上に立つ女の存在が、先ほどよりも大きく感じられる。
砕耀も気づいたのか、目を細めた。
「久夜」
「ああ」
「今、増したな」
「何が?」
ラナが二人を見る。
「圧だ」
砕耀は民衆と女を交互に見る。
「拍手が起きた瞬間に、あいつの力が強くなった」
落葉が女を見上げる。
「法の権威を力へ変えているのだと思います」
「法の権威?」
「裁定が正しいと信じられるほど、その力が強くなる。以前に見た時も、人が多い場所ほど強い圧力を感じました」
「じゃあ、ここはあの人が一番強くなれる場所?」
ラナが広場を見回す。
「おそらくは」
久夜は壇を囲む民衆を見た。
公開裁定。
大勢の観客。
女を讃える声。
最初から、彼女へ力を集めるために作られたような場所だった。
「最初の被告人を」
女が告げる。
裁律社の職員に連れられ、一人の男が壇の前へ進んだ。
痩せた中年の男だった。
両手には白い枷が嵌められている。
空中へ罪状が浮かび上がった。
『管理物資の不正持ち出し』
『配給記録の改竄』
『虚偽申告』
民衆がざわめく。
「配給を盗んだのか」
「ひどい奴だ」
男は震えながら膝をついた。
「顔を上げてください」
女は悲しげな表情を浮かべる。
「ここは、あなたを辱めるための場所ではありません」
男が恐る恐る顔を上げる。
「なぜ、管理物資を持ち出したのですか」
「娘が病気でした」
男の声が震える。
「薬が必要だったんです。配給を待っていたら間に合わないと言われて……」
「それで、他の方へ渡るはずだった物資を?」
「はい」
「娘さんは助かったのですか」
「助かりました」
女は胸元へ手を当て、安堵したように微笑んだ。
「それは本当によかった」
広場からも、小さな安堵の声が上がる。
「ですが、娘さんを助けたいという思いが、他の者から奪うことを正当化するわけではありません」
「分かっています」
「あなたが持ち出した分だけ、救われなかった方がいたかもしれない」
「はい。すべて、私の罪です」
男は深く頭を下げる。
「どのような罰でも受けます。法の女神様の裁定に従います」
女の口元が僅かに緩んだ。
「自らの過ちを認めることは、決して容易ではありません」
空中へ判決が表示される。
『労役三年』
『不正取得物の返還』
『更生審査』
「三年間の労役を命じます」
男が驚いたように顔を上げる。
「罪と向き合い、再び社会へ戻るための時間です」
「ありがとうございます!」
男は地面へ額をつけた。
「女神様、本当にありがとうございます!」
民衆から大きな拍手が起きた。
女は男ではなく、拍手する人々を見ていた。
再び、空気が重くなる。
「今の判決は軽いのか?」
久夜が小声で尋ねる。
「記録の改竄まで含めれば、かなり軽い方だ」
砕耀が答えた。
「理由が娘の治療だったことを考慮する余地はある。だが、通常なら三年だけでは済まない。」
「自分を讃えたから?」
ラナが言う。
「まだ決めつけるの速い」
砕耀は女を見たまま答えた。
「次を見れば分かる」
男が連れられていき、代わりに若い女が壇の前へ立たされた。
年齢は久夜と大きく変わらないように見える。
両手を拘束されているが、頭は下げていなかった。
空中へ罪状が表示される。
『裁定局への無断侵入』
『職員への暴言』
『業務妨害』
『非公開記録の開示要求』
「罪を認めますか」
女が尋ねる。
「父がどこにいるか教えてください」
若い女は質問へ答えず、壇上を見上げた。
「今は、あなたの裁定です」
「父が何の罪で連れていかれたのかも、どこにいるのかも教えてもらえないから、裁定局へ入りました」
「許可なく侵入したことは認めるのですね」
「何度頼んでも追い返されたからです」
「職員へ暴言を吐いたことは?」
「怒鳴りました」
「物を投げたとも記録されています」
「誰も受け取らなかった書類を、机に置いただけです」
「投げたのでは?」
「そんなことより、父のことを教えてください」
女は困ったように眉を下げた。
「非公開とされた記録には、公開できない理由があります」
「家族にも?」
「秩序を守るために必要な場合があります」
「父は突然呼び出されて、そのまま帰ってこなかったんです」
若い女の声が大きくなる。
「生きているのかも分からない。何をしたのかも分からない。それでも黙っていろっていうんですか」
民衆がざわめく。
「何か理由があるんだろう」
「裁律社が、何の理由もなく連れていくはずがない」
若い女は周囲を見る。
「私は、その理由を聞きたいだけです」
「まずは、自らの罪と向き合いなさい」
女は優しく諭すように言う。
「今もなお、あなたは自分の行いを正当化しようとしている」
「正当化していません」
「では、法へ逆らったことを認めるのですね」
「あなたたちが何も答えなかったからでしょう!」
若い女が声を荒らげた。
白い枷が強く光り、その身体を地面へ押さえつける。
「静粛に」
女が杖を床へ触れさせた。
「裁定の場で感情に任せて叫ぶことは、あなた自身の立場を悪くするだけです」
「最初から私の話を聞くつもりなんてないくせに」
「そのようなことはありません」
「なら、父の居場所を教えて」
「今はあなたの罪について話しています」
「またそれ」
若い女は女を睨んだ。
「あなたは、何でも法って言えば許されると思っているんですか」
広場が静まり返った。
女の笑顔は崩れない。
だが、杖を握る指だけが僅かに強くなる。
「言葉を慎みなさい」
「父を返して」
「反省しなさい」
「質問に答えて」
「あなたには、まず法を信じる心が必要です」
「法じゃない」
若い女は震えながら、それでも女から目を逸らさなかった。
「私が信じろと言われているのは、あなたでしょう」
女の目が細くなった。
空中へ新たな罪状が浮かび上がる。
『法秩序への反抗』
『裁定者への侮辱』
『反省の欠如』
「あ、増えた」
ラナが言う。
最初に表示されていた罪状にはなかった。
女は何事もなかったように判決を告げる。
「長期拘束十五年」
民衆の間から驚きの声が漏れた。
若い女の顔から血の気が引く。
「十五年?」
「法秩序への反抗、裁定者への侮辱、そして反省の欠如を考慮した結果です」
「父のことを聞いただけで?」
「あなたは、自らの行為を軽く考えています」
「人を殺してもいない。物も盗んでいない!」
「罪の重さは、行為だけで決まるものではありません」
女は若い女へ手を差し伸べた。
「今からでも遅くありません。自らの過ちを認め、法へ謝罪しなさい」
「法へ?」
若い女は差し出された手を見る。
「それとも、あなたへ?」
「同じことです」
女は静かに答えた。
久夜の目つきが変わる。
若い女は首を横に振った。
「違います」
「謝罪しなさい」
「嫌です」
「もう一度だけ機会を与えます」
「謝りません」
女の笑顔が、一瞬だけ消えた。
「そうですか、連れていきなさい」
職員たちが若い女の両腕を掴む。
「待って!」
女が抵抗する。
「父がどこにいるか、それだけ教えて!」
女神はすでに民衆へ向き直っていた。
「罪は、人の心を曇らせます」
若い女の叫びへ重ねるように、優しい声を広場へ響かせる。
「正しき手を差し伸べられても、それを拒絶してしまうことがある」
「誰か、父のことを調べて!」
「私たちは、そのような者を見捨ててはなりません」
若い女の姿が広場の外へ消える。
民衆の多くは、最後まで彼女を見なかった。
「おかしい」
ラナが言った。
近くにいた男がラナを見る。
「何がおかしい」
「最初の人より、悪いことしてない」
「我々には見えない事情まで、女神様は見ている」
「どうやって?」
「法の女神様だからだ」
「それ、理由になってないよね」
男の表情が険しくなる。
「子供が口を挟むことではない」
「子供にも分かるくらい変だよ」
「ラナ」
砕耀が間へ入る。
「今はやめろ」
「でも」
「お前の言ってることは間違ってねえ。だがここで言い合っても、あいつの力になるだけだ」
ラナは不満そうに口を閉じた。
久夜は壇上の女を見る。
先ほどよりも、女の周囲を覆う圧力が強くなっている。
若い女を罪人と信じる声。
判決を正しいと受け入れる視線。
それらが集まるほど、女は大きく見えた。
「罪を見てるんじゃない」
梟が呟く。
「ああ」
砕耀が答える。
「自分に頭を下げるかどうかを見てる」
落葉は女から目を離さない。
「以前も、同じでした」
「何が?」
久夜が尋ねる。
「あの方を讃える者は、罪状に比べて軽い判決を受ける。異議を唱える者は、反省の欠如を理由に刑を重くされる」
「知っていて、何もしなかったのか」
久夜の言葉に、落葉は僅かに目を伏せた。
「はい」
「どうして」
「当時の私は、裁定の正しさを考えませんでした」
補助具の上に置かれた落葉の手が、僅かに握られる。
「裁律社が罪人と判断した者を、指定された場所へ運ぶ。それが任務でした」
「さっきの女みたいな人も?」
「いたのかもしれません」
「覚えてない?」
「罪状も、名前も確認しませんでした」
落葉は若い女が連れていかれた道を見る。
「人として見ていなかったのだと思います」
久夜は何も言わなかった。
落葉が自分の過去を許していないことは、その声だけで分かった。
「記録を探す」
久夜は支庁の入り口へ向き直る。
「観令だけじゃない。今の女の父親についても、何か分かるなら調べる」
「記録へ入れればな」
砕耀が言う。
「できるかじゃねえ、入るんだろ」
久夜たちは広場の端を通り、記録棟へ向かおうとした。
「そちらの方々」
法の女神の声が響く。
久夜たちの足が止まった。
広場中の視線が一斉に向けられる。
女は壇上から、柔らかな笑みを浮かべて久夜たちを見ていた。
「せっかく裁定をご覧になったのです。そのまま立ち去られるのですか?」
「記録を見に来ただけだ」
久夜が答える。
「記録」
女は嬉しそうに、その言葉を繰り返した。
「世界の秘密に関する記録でしょうか」
久夜の目が鋭くなる。
砕耀が大剣の柄へ手を伸ばす。
梟は周囲の職員を見る。
先ほどまで民衆を整理していた職員たちが、いつの間にか久夜たちを囲むように位置を変えている。
「どうして知ってる」
久夜が尋ねる。
「裁律社は、秩序を守るために必要な情報を管理しています」
「監視してたってことか」
「見守っていたのですよ」
女は慈愛に満ちた声で答える。
「天理家に背き、総流社を襲い、保安社の執行を妨げ、空衡社の制御塔を破壊した方々を」
空中に白い文字が現れる。
『天理家への反逆』
『総流社施設襲撃』
『保安社執行妨害』
『空衡社制御塔侵入』
『裁定対象者の逃亡幇助』
民衆がどよめいた。
「あれが天理久夜?」
「反逆者だ」
「女神様を狙っているのか」
「捕まえろ!」
久夜たちへ敵意が集中する。
その声とともに、女の周囲へ白い光が集まっていく。
空気が急激に重くなった。
ラナが星嚢を抱く。
落葉の補助具が圧力に耐えるように軋む。
砕耀は民衆を見回した後、壇上の女へ視線を戻した。
「成る程な、俺たちを罪人だと思わせるほど、お前は強くなるわけか」
「法は、信じる者によって支えられます」
女が杖を掲げる。
「法の正しさが認められるほど、その権威は強くなる。当然のことでしょう」
「何が権威だ」
砕耀が言う。
「法を私物化してる奴がよ」
「私は、法の意思を示しているだけです」
「じゃあさっきの判決もか?」
久夜が尋ねた。
女の視線が久夜へ向く。
「何か問題がありましたか」
「物資を盗んだ男は、自分を讃えたから軽くした」
「彼は自らの罪を認めました」
「父親の居場所を聞いた女は、お前を否定したから十五年」
「彼女は法を侮辱し、反省を拒みました」
「お前への侮辱を、法への侮辱に変えただけだろ」
民衆から怒声が上がる。
「女神様を侮辱するな!」
「罪人のくせに!」
「裁きを受けろ!」
そのたびに、女の周囲の光が濃くなる。
女は民衆を静めるように手を上げた。
「皆さん、落ち着いてください」
歓声と怒号が少しずつ弱まる。
女は悲しそうに久夜を見る。
「天理久夜。あなたは法を誤解しています」
「お前を法だと思ってないだけだが」
女の笑顔が止まった。
ほんの一瞬。
すぐに、優しい表情へ戻る。
「残念です」
「何が」
「あなたも、先ほどの罪人と同じなのですね」
「勝手に同じにするな」
「自分が理解できないものを不正と決めつけ、自らの行いを省みようとしない」
「別に俺は、自分の行いを正しいとは思ってない」
久夜は女を見上げる。
「でも、お前よりは自分が間違う可能性を考えてる」
女の目に冷たい光が宿った。
落葉が一歩前へ出る。
「法の女神」
補助具が低い音を立てる。
「あなたは、被告人を見ていません」
「月代落葉」
女は初めて、落葉をはっきり見た。
「生きていたのですね」
「はい」
「空衡社を裏切り、秩序を破壊したあなたが、私へ法を語るのですか」
「私は、人を道具として扱いました」
落葉は否定しなかった。
「命令された対象を、理由も聞かずに運びました。自分の行いを正しいと信じ、疑おうともしなかった」
「自ら罪を認めるのですね」
「過ちを認めているだけです」
「同じことです」
「違います」
落葉は静かに首を横に振った。
「過ちを認めることと、あなたへ従うことは違う」
女の笑みが薄くなる。
「あなたは先ほどの二人を見ていなかった」
「何を言っているのです」
「最初の男性が、なぜ盗んだのか。次の女性が、なぜ怒ったのか。あなたは、それを裁定の材料として使っただけです」
「事情を考慮することは、正しい裁定に必要です」
「あなたが見ていたのは、事情ではありません」
落葉の声は変わらない。
「自分へ頭を下げたかどうかです」
広場の空気が凍りついた。
女の周囲に集まっていた光が激しく揺れる。
「慎みなさい」
「あなたを讃えた者には慈悲を与え、あなたを疑った者には罪を加える」
「いいえ、違います」
「あなたは法を使って人を裁いているのではない」
「黙りなさい」
「人を使って、自分が正しいと確かめている」
女の笑顔が消えた。
それでも声だけは、穏やかさを保とうとしていた。
「あなたは長く命令へ従ってきたため、自分で正しさを判断することに慣れていないのでしょう」
「確かにそうかもしれません」
「ならば、私が教えて差し上げます」
女が杖を床へ打ちつけた。
「正しき法を」
白い文字が、久夜たちの足元へ広がる。
『公開裁定』
地面から白い柱が立ち上がり、広場を囲む。
民衆が歓声を上げた。
「女神様の裁定だ!」
「反逆者を裁け!」
「法の正しさを示してください!」
声が重なるほど、女の存在が膨れ上がっていく。
久夜たちの周囲に、巨大な円形の空間が形成された。
白い床。
高い柱。
幾重にも並ぶ傍聴席。
壇の中央には、他の誰よりも高い場所に立つ女。
奇妙な構造だった。
罪人を閉じ込めるための牢獄には見えない。
被告人や証人を見やすくする法廷でもない。
すべての席が、中央に立つ女だけを見つめるように作られていた。
女は両手を広げる。
歓声を受ける役者のように。
「皆さん、ご覧ください」
広場の民衆へ向けて、女が告げる。
「法は、いかなる者も見捨てません」
久夜たちの頭上へ、罪状が並んでいく。
「反逆者であろうと、罪を認め、正しき道を選ぶのであれば、救われる機会は与えられます」
「誰が認めるかよ」
砕耀が大剣を抜いた。
民衆から悲鳴が上がる。
その悲鳴すら、女の力へ変わっていく。
「武器を下ろしなさい」
女は砕耀へ微笑みかける。
「抵抗しなければ、傷つく必要はありません」
「さっきも似たようなこと言ってたな」
「何がです?」
「お前へ従えば救ってやるって」
「法へ従うのです」
「お前は法じゃあねえだろ?」
女は答えなかった。
代わりに、杖を静かに持ち上げる。
その背後に、白い剣が現れた。
一振り。
二振り。
十を超え、さらに数を増していく。
剣の隣には槍。
鎖。
巨大な斧。
顔のない白い兵士。
裁定の内容も、罪状も関係なく、異なる武器が次々に生み出される。
ラナが目を見開く。
「法って、こんなに武器が必要なの?」
「必要なわけねえだろ」
砕耀が低く答える。
「ありゃ法の力じゃねえ。あの女が使いたいものを出してるだけだ」
「無礼な」
女の視線が砕耀へ向く。
「これらは、法の執行者です」
「どの罪にどの武器を使うか、決まりはあるのか?」
「罪人が抵抗すれば、相応の力で制圧します」
「じゃあお前の気分次第ってことだ」
白い剣の切っ先が、一斉に砕耀へ向く。
「訂正しなさい」
「嫌だね」
砕耀は笑った。
「分かりやすくて助かる。法を侮辱されたから怒ったんじゃない。お前自身を馬鹿にされたから、俺を斬りたくなっただけだ」
「黙りなさい」
女の声から、初めて完全に優しさが消えた。
次の瞬間には、再び慈悲深い笑みが作られる。
「最後の機会を与えます」
女は久夜たちを見下ろした。
「武器を捨て、罪を認め、法へ従いなさい」
久夜は腰の鞘へ手を伸ばした。
「断る」
「なぜですか」
「お前が法じゃないからだ」
ダガーが鞘から抜かれる。
梟も銃を構える。
ラナが星嚢を開く。
落葉が剣の柄へ触れようとし、久夜が片手で制した。
「落葉は下がってろ」
「ですが」
「ここまで歩いただけでも無理してる」
「戦えないほどでは」
「戦うなって言われてただろ」
落葉は反論しようとしたが、久夜の表情を見て手を下ろした。
砕耀が久夜の前へ出る。
「どうする」
「まず、あの女を法の上から引きずり下ろす」
「簡単に言うな」
「難しくてもやるんだよ」
女の周囲で、無数の武器が音を立てる。
広場を埋める歓声。
罪人を裁けと叫ぶ声。
自分だけを見つめる無数の視線。
そのすべてを受け、女は満足そうに微笑んだ。
「裁定を開始します」
白い剣が放たれる。
久夜は地面を蹴り、最初の一振りへダガーを叩きつけた。
白い光と黒い刃が激突する。
広場に、甲高い音が響いた。




