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白いカラス  作者: シンドゥー


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26/31

神を気取るもの

 月代落葉が踏み出した瞬間、右脚の補助具が低い警告音を発した。


 膝が崩れるより先に、そばにいた巫里が落葉の腕を支える。


「今日はここまでです」


「まだ少し歩いていません」


「いいえ、今ので丁度1キロは歩きました」


 巫里は反論を許さず、落葉を椅子へ座らせた。


 腰から両脚へ伸びる細い支柱が、落葉の体重を受けて小さく軋む。傷ついた筋肉と神経を支えるための補助具だが、失われたものを完全に補えるわけではない。


 落葉は乱れた呼吸を整えながら、自分の右脚を見下ろした。


「昨日よりは動いています。問題ないです」


「回復していることと、無理をしてよいことは別です」


「無理はしていません」


「警告音が鳴りました」


「装置の基準が厳しいのではないですか」


「違います。あなたの基準が緩すぎるんです」


 巫里が補助具の接続部を確かめる。


 作業台の前にいた流星が、工具を片手にこちらへ歩いてきた。落葉の右脚へ接続された端末を確認し、補助出力を一段階下げる。


「何をしたんですか」


「右脚の出力を少し制限した」


「歩きにくくなります」


「体が無理をできないようにした」


「戻してください」


「君の将来を考えて戻さない。」


 そう言うと、流星は作業台へ戻った。


 落葉は不満そうに端末を見たが、巫里が目の前に薬を差し出したため、何も言わずに受け取った。


「苦いですね」


「毎日同じ感想を言わなくて結構です」


「味は改善されませんか」


「治療薬に美味しさを求めないでください」


「飲み続けるものほど、味は重要だと思います」


「では注射に変えますか」


 落葉は黙って薬を飲み込んだ。


 工房の中央には、大きな投影板が浮かんでいた。


 久夜、砕耀、梟、ラナ、が、その周囲に集まっている。


 映し出されているのは、裁律社の支庁とその周辺の地図だった。


 中央にそびえる白い塔を囲むように、裁定棟、記録棟、拘束棟、執行局が配置されている。


『観令に関する記録があるとすれば、裁定記録の中だ』


 慧悟が記録棟を指した。


『総流社、保安社、空衡社のいずれも、観令から指示を受け行動していた。しかし、どの社にも観令そのものを決定した記録がない』


「じゃあ裁律社もあんま関係ないんじゃねえか」


 久夜が尋ねる。


『いや。少なくとも、裁律社が観令の発行元だと示す資料は見つかっていない』


「なら、裁律社へ行っても何も分からないかもしれないよ」


 ラナが言った。


『観令そのものは分からなくても、それを根拠に誰が裁かれ、何をされたのかは残っている可能性がある』


 慧悟は裁定棟と記録棟を結ぶ通路を拡大した。


『裁律社は、自分たちの裁定を正当なものとして残す。表に出したくない裁定であっても、内部の手続きまで完全に消すことは少ない』


「自分たちは間違えない、と思ってる連中だからな」


 砕耀が椅子の背もたれへ腕を乗せる。


「記録を消すより、見せない方が選ぶ。裁定自体を無かったことにすれば、自分たちが法を破ったと認めることになるからだ」


「面倒な人たち」


 梟が呟いた。


「権力持ってる奴が、自分を疑わなくなったら大体面倒だ」


 砕耀は投影板の上部にある天秤の紋章を見る。


「裁律社の要は、その中でも特にひどいって話だ」


「法の女神」


 落葉が椅子から言った。


 全員の視線が向く。


「知っているのか」


 久夜が尋ねる。


「何度か、空衡社と裁律社の共同任務で姿を見ました。直接会話をしたことは、ほとんどありません」


「どんな奴?」


 ラナが聞いた。


 落葉は少し考えた。


「民衆から強く支持されています」


「性格を聞いてる」


「…よく笑う方でした」


 砕耀が眉を上げる。


「随分と曖昧だな」


「人が見ている時は、常に笑っていました」


 その言葉に、短い沈黙が生まれた。


「見ていない時は?」


 久夜が尋ねる。


「分かりません。彼女はいつも大勢に囲まれていましたから」


 砕耀が背もたれから身体を起こす。


「法の女神が行う公開裁定は、見世物みたいに人が集まる。慈悲深い裁定者だの、弱者の味方だの、随分と評判がいい」


「悪い話もあるんだろ」


「自分を讃える奴には甘く、異議を唱える奴には重い刑を出すという噂がある。だが、それを証明できる記録は表に出てない」


「どうして?」


 ラナが首を傾げる。


『重い刑を受けた奴は、裁定に逆らった罪人として扱われる』


 慧悟が答える。


『訴えれば訴えるほど、反省していないと判断される。裁定を疑う行為そのものが、新たな罪へ変えられる』


「それじゃ、間違っていても直せない」


『ああ』


 慧悟の表情がわずかに曇る。


『人々を守るための仕組みが、法を扱う者を守るために使われている』


 久夜は記録棟を見つめた。


「まずは公開裁定を見に行く」


「素直に入れてくれるとは思えねえがな」


「裁律社の公開裁定は原則誰も入れる。身分の確認などはされない」


「観察か、また戦いになるんじゃねえか」


 砕耀が言う。


「本当に戦うつもりはない」


「お前がそう思ってても、向こうが始めるんだよ」


「全然あり得る話だが、少なからずこちらから武器を抜く気はない。まあその時はその時だ」


「結局戦うんじゃねえか」


「私も同行します」


 落葉が言った。


 巫里が即座に振り返る。


「いけません」


「空衡社に関する裁定記録があるなら、私にしか分からない分類が含まれている可能性があります」


「あなたは、少し歩くだけで補助具の警告が鳴る状態です」


「移動車を使えば、支庁まで歩く距離は短くできます」


「支庁の中では?」


「ゆっくり歩きます」


「問題は速度ではありません」


 落葉は巫里を見た。


「古い認証が残っていれば、通常の閲覧者には見えない記録へ入れるかもしれません」


「認証が残っていなければ?」


「私は元要です。少なからず皆さんのご助力できることはあります」


「それを理由に、治りかけの身体を壊すつもりですか」


「壊すつもりはありません」


「壊すつもりで怪我をする人はいません」


 落葉は答えなかった。


 久夜が落葉の前へ歩み寄る。


「自分で逃げられるか」


「補助具が正常なら」


「止まったら?」


「難しいと思います」


「なら、戦闘になったら俺たちが運ぶ」


 巫里が久夜を見る。


「同行を認めるのですか」


「落葉は必要な情報を持ってる」


「必要だからといって、怪我人を連れ回していい理由にはなりません」


「残ったら後悔するかもしれないぞ」


 久夜は落葉を見る。


「多分、無理に止めても別の方法で来る」


 巫里も落葉を見る。


 落葉は視線を逸らさなかった。


 しばらく睨み合った後、巫里が深く息を吐く。


「補助具の制限は解除しません」


「承知しました」


「異常を感じたら、すぐに座ってください」


「はい」


「戦闘になった場合は、最優先で退避してください」


「はい」


「自分の判断で異理を使わないでください」


 落葉の返答が僅かに遅れた。


「はい」


「今、間がありましたね」


「気のせいです」


「絶対に使わないでください」


「必要がなければ」


「必要があってもです」


「それは難しいかもしれません」


「落葉さん」


「できる限り使いません」


 巫里の目がさらに険しくなる。


 作業台の奥から流星が何か持って来て落葉に渡した。


「万が一だ。もし戦闘になったらこれを使うといい」


 流星が渡したのは小さな薬だった。


「これは?」


「体内のアドレナリンを増幅させる薬だ。短時間だが動かない体を稼働させられる」


「流星さん、」


 巫里は納得いかない様子。


 砕耀が横から口を挟んだ。


「その辺で諦めろ。こいつは素直そうな顔で言うこと聞かねえぞ」


「あなたも同類です」


「俺は素直そうな顔してねえだろ」


「自覚があるなら直してください」


 砕耀は何も返さず、椅子から立ち上がった。


「よし準備できたら出るぞ」



   ◇


 裁律社の地上支庁が建つ街は、白かった。


 建物の壁。


 街路を区切る標柱。


 職員たちの制服。


 道の脇に並ぶ旗。


 視界へ入るものの多くに、同じ白と天秤の紋章が使われている。


『法はすべての者を等しく見る』


『正しき裁定が秩序を守る』


『法を恐れる必要があるのは、罪を犯した者だけである』


 建物の壁や柱には、同じ言葉が何度も刻まれていた。


「たくさん書いてある」


 ラナが移動車の窓から外を見る。


「忘れられるのが怖いんでしょ」


 梟が言った。


「何を?」


「自分たちが正しいってこと」


 移動車が支庁前で止まる。


 大きな白い塔の前には、すでに多くの民衆が集まっていた。


 花を持った者。


 子供を肩車した者。


 祈るように手を組んでいる者。


 その大半が、支庁の入り口ではなく、広場中央に作られた高い壇を見ている。


 久夜たちが車を降りる。


 落葉も補助具に支えられながら、慎重に地面へ足を下ろした。


 久夜は何も言わず、落葉の歩幅に合わせて進む。


 その様子に気づいた砕耀が、僅かに口元を緩めた。


「何してる」


「別に」


 砕耀は久夜の隣を歩く。


「無意識ってのは便利だなと思ってな」


「意味が分からん」


「分からなくていい話だ」


 支庁へ続く道の手前で、白い制服を着た職員が立っていた。


「記録閲覧をご希望の方は、右側の受付へお進みください。公開裁定をご覧になる方は、広場内でお待ちください」


「今日は公開裁定なのか」


 久夜が尋ねる。


「はい。間もなく開始されます」


「法の女神が出るの?」


 ラナが聞く。


 職員は誇らしそうに頷いた。


「本日は、女神様が自ら裁定を執り行われます」


 周囲にいた民衆が、その呼び名へ反応した。


「女神様を見に来たのかい?」


 花束を抱えた年配の女性が、ラナへ笑いかける。


「違うよ。記録を見に来た」


「あら、そうなの。でも、せっかくだから見ていくといいわ。とてもお優しい方なのよ」


「どんな人?」


「罪を犯した人にも、やり直す機会をくださるの。罰するだけではなく、どうすれば正しい道へ戻れるかを考えてくださる」


 隣にいた男も会話へ加わった。


「女神様のおかげで、この街は安全なんだ。悪人は裁かれ、正しい者は守られる」


「間違えたことはないの?」


 ラナが尋ねる。


 男は不思議そうな顔をする。


「女神様が?」


「うん」


「あるはずがないだろう」


「どうして?」


「法を一番深く理解している方だからだ」


「理解していたら、絶対に間違えないの?」


 男の表情が少し険しくなる。


「子供には難しい話だ」


「分からないから聞いてる」


 梟がラナの肩を軽く引いた。


「もういい」


「でも」


「答えがない」


 男は不満そうに梟を見たが、それ以上は何も言わなかった。


 やがて、支庁の大扉が開いた。


 広場を満たしていた話し声が、一斉に歓声へ変わる。


「法の女神様!」


「女神様!」


「こちらを見てください!」


 白い衣をまとった一人の女が、階段の上へ現れた。


 長い髪。


 金色の装飾。


 天秤を模した細い杖。


 衣の裾は翼のように広がり、階段を下りるたびに柔らかく揺れている。


 女が片手を上げる。


 それだけで、広場の歓声は少しずつ静まった。


「皆さん」


 穏やかな声が、広場の端まで届いた。


「本日も、法の下へ集まってくださったことを嬉しく思います」


 大喝采だった。


 民衆が


 拍手する。

 声援を上げる。

 

 女は広場を見渡した。


 右から左へ。


 ゆっくりと、すべての者へ視線を配る。


 しかし久夜には、人々の顔を見ているようには思えなかった。


 誰が笑っているか。


 誰が頭を下げているか。


 誰が自分へ手を伸ばしているか。


 女の目が確かめているのは、人ではなく、自分へ向けられた反応だった。


「法は、人を縛るためだけにあるものではありません」


 女は杖を胸元へ寄せる。


「弱き者を守り、過ちを犯した者を正しき道へ戻すためにあります。罪を犯したからといって、人としての価値まで失われるわけではないのです」


「慈悲深いお言葉だ」


「さすが女神様」


 周囲から声が上がる。


 その瞬間、久夜は空気が僅かに重くなったのを感じた。


 何かに押さえつけられるほどではない。


 だが、階段の上に立つ女の存在が、先ほどよりも大きく感じられる。


 砕耀も気づいたのか、目を細めた。


「久夜」


「ああ」


「今、増したな」


「何が?」


 ラナが二人を見る。


「圧だ」


 砕耀は民衆と女を交互に見る。


「拍手が起きた瞬間に、あいつの力が強くなった」


 落葉が女を見上げる。


「法の権威を力へ変えているのだと思います」


「法の権威?」


「裁定が正しいと信じられるほど、その力が強くなる。以前に見た時も、人が多い場所ほど強い圧力を感じました」


「じゃあ、ここはあの人が一番強くなれる場所?」


 ラナが広場を見回す。


「おそらくは」


 久夜は壇を囲む民衆を見た。


 公開裁定。


 大勢の観客。


 女を讃える声。


 最初から、彼女へ力を集めるために作られたような場所だった。


「最初の被告人を」


 女が告げる。


 裁律社の職員に連れられ、一人の男が壇の前へ進んだ。


 痩せた中年の男だった。


 両手には白い枷が嵌められている。


 空中へ罪状が浮かび上がった。


『管理物資の不正持ち出し』


『配給記録の改竄』


『虚偽申告』


 民衆がざわめく。


「配給を盗んだのか」


「ひどい奴だ」


 男は震えながら膝をついた。


「顔を上げてください」


 女は悲しげな表情を浮かべる。


「ここは、あなたを辱めるための場所ではありません」


 男が恐る恐る顔を上げる。


「なぜ、管理物資を持ち出したのですか」


「娘が病気でした」


 男の声が震える。


「薬が必要だったんです。配給を待っていたら間に合わないと言われて……」


「それで、他の方へ渡るはずだった物資を?」


「はい」


「娘さんは助かったのですか」


「助かりました」


 女は胸元へ手を当て、安堵したように微笑んだ。


「それは本当によかった」


 広場からも、小さな安堵の声が上がる。


「ですが、娘さんを助けたいという思いが、他の者から奪うことを正当化するわけではありません」


「分かっています」


「あなたが持ち出した分だけ、救われなかった方がいたかもしれない」


「はい。すべて、私の罪です」


 男は深く頭を下げる。


「どのような罰でも受けます。法の女神様の裁定に従います」


 女の口元が僅かに緩んだ。


「自らの過ちを認めることは、決して容易ではありません」


 空中へ判決が表示される。


『労役三年』


『不正取得物の返還』


『更生審査』


「三年間の労役を命じます」


 男が驚いたように顔を上げる。


「罪と向き合い、再び社会へ戻るための時間です」


「ありがとうございます!」


 男は地面へ額をつけた。


「女神様、本当にありがとうございます!」


 民衆から大きな拍手が起きた。


 女は男ではなく、拍手する人々を見ていた。


 再び、空気が重くなる。


「今の判決は軽いのか?」


 久夜が小声で尋ねる。


「記録の改竄まで含めれば、かなり軽い方だ」


 砕耀が答えた。


「理由が娘の治療だったことを考慮する余地はある。だが、通常なら三年だけでは済まない。」


「自分を讃えたから?」


 ラナが言う。


「まだ決めつけるの速い」


 砕耀は女を見たまま答えた。


「次を見れば分かる」


 男が連れられていき、代わりに若い女が壇の前へ立たされた。


 年齢は久夜と大きく変わらないように見える。


 両手を拘束されているが、頭は下げていなかった。


 空中へ罪状が表示される。


『裁定局への無断侵入』


『職員への暴言』


『業務妨害』


『非公開記録の開示要求』


「罪を認めますか」


 女が尋ねる。


「父がどこにいるか教えてください」


 若い女は質問へ答えず、壇上を見上げた。


「今は、あなたの裁定です」


「父が何の罪で連れていかれたのかも、どこにいるのかも教えてもらえないから、裁定局へ入りました」


「許可なく侵入したことは認めるのですね」


「何度頼んでも追い返されたからです」


「職員へ暴言を吐いたことは?」


「怒鳴りました」


「物を投げたとも記録されています」


「誰も受け取らなかった書類を、机に置いただけです」


「投げたのでは?」


「そんなことより、父のことを教えてください」


 女は困ったように眉を下げた。


「非公開とされた記録には、公開できない理由があります」


「家族にも?」


「秩序を守るために必要な場合があります」


「父は突然呼び出されて、そのまま帰ってこなかったんです」


 若い女の声が大きくなる。


「生きているのかも分からない。何をしたのかも分からない。それでも黙っていろっていうんですか」


 民衆がざわめく。


「何か理由があるんだろう」


「裁律社が、何の理由もなく連れていくはずがない」


 若い女は周囲を見る。


「私は、その理由を聞きたいだけです」


「まずは、自らの罪と向き合いなさい」


 女は優しく諭すように言う。


「今もなお、あなたは自分の行いを正当化しようとしている」


「正当化していません」


「では、法へ逆らったことを認めるのですね」


「あなたたちが何も答えなかったからでしょう!」


 若い女が声を荒らげた。


 白い枷が強く光り、その身体を地面へ押さえつける。


「静粛に」


 女が杖を床へ触れさせた。


「裁定の場で感情に任せて叫ぶことは、あなた自身の立場を悪くするだけです」


「最初から私の話を聞くつもりなんてないくせに」


「そのようなことはありません」


「なら、父の居場所を教えて」


「今はあなたの罪について話しています」


「またそれ」


 若い女は女を睨んだ。


「あなたは、何でも法って言えば許されると思っているんですか」


 広場が静まり返った。


 女の笑顔は崩れない。


 だが、杖を握る指だけが僅かに強くなる。


「言葉を慎みなさい」


「父を返して」


「反省しなさい」


「質問に答えて」


「あなたには、まず法を信じる心が必要です」


「法じゃない」


 若い女は震えながら、それでも女から目を逸らさなかった。


「私が信じろと言われているのは、あなたでしょう」


 女の目が細くなった。


 空中へ新たな罪状が浮かび上がる。


『法秩序への反抗』


『裁定者への侮辱』


『反省の欠如』


「あ、増えた」


 ラナが言う。


 最初に表示されていた罪状にはなかった。


 女は何事もなかったように判決を告げる。


「長期拘束十五年」


 民衆の間から驚きの声が漏れた。


 若い女の顔から血の気が引く。


「十五年?」


「法秩序への反抗、裁定者への侮辱、そして反省の欠如を考慮した結果です」


「父のことを聞いただけで?」


「あなたは、自らの行為を軽く考えています」


「人を殺してもいない。物も盗んでいない!」


「罪の重さは、行為だけで決まるものではありません」


 女は若い女へ手を差し伸べた。


「今からでも遅くありません。自らの過ちを認め、法へ謝罪しなさい」


「法へ?」


 若い女は差し出された手を見る。


「それとも、あなたへ?」


「同じことです」


 女は静かに答えた。


 久夜の目つきが変わる。


 若い女は首を横に振った。


「違います」


「謝罪しなさい」


「嫌です」


「もう一度だけ機会を与えます」


「謝りません」


 女の笑顔が、一瞬だけ消えた。


「そうですか、連れていきなさい」


 職員たちが若い女の両腕を掴む。


「待って!」


 女が抵抗する。


「父がどこにいるか、それだけ教えて!」


 女神はすでに民衆へ向き直っていた。


「罪は、人の心を曇らせます」


 若い女の叫びへ重ねるように、優しい声を広場へ響かせる。


「正しき手を差し伸べられても、それを拒絶してしまうことがある」


「誰か、父のことを調べて!」


「私たちは、そのような者を見捨ててはなりません」


 若い女の姿が広場の外へ消える。


 民衆の多くは、最後まで彼女を見なかった。


「おかしい」


 ラナが言った。


 近くにいた男がラナを見る。


「何がおかしい」


「最初の人より、悪いことしてない」


「我々には見えない事情まで、女神様は見ている」


「どうやって?」


「法の女神様だからだ」


「それ、理由になってないよね」


 男の表情が険しくなる。


「子供が口を挟むことではない」


「子供にも分かるくらい変だよ」


「ラナ」


 砕耀が間へ入る。


「今はやめろ」


「でも」


「お前の言ってることは間違ってねえ。だがここで言い合っても、あいつの力になるだけだ」


 ラナは不満そうに口を閉じた。


 久夜は壇上の女を見る。


 先ほどよりも、女の周囲を覆う圧力が強くなっている。


 若い女を罪人と信じる声。


 判決を正しいと受け入れる視線。


 それらが集まるほど、女は大きく見えた。


「罪を見てるんじゃない」


 梟が呟く。


「ああ」


 砕耀が答える。


「自分に頭を下げるかどうかを見てる」


 落葉は女から目を離さない。


「以前も、同じでした」


「何が?」


 久夜が尋ねる。


「あの方を讃える者は、罪状に比べて軽い判決を受ける。異議を唱える者は、反省の欠如を理由に刑を重くされる」


「知っていて、何もしなかったのか」


 久夜の言葉に、落葉は僅かに目を伏せた。


「はい」


「どうして」


「当時の私は、裁定の正しさを考えませんでした」


 補助具の上に置かれた落葉の手が、僅かに握られる。


「裁律社が罪人と判断した者を、指定された場所へ運ぶ。それが任務でした」


「さっきの女みたいな人も?」


「いたのかもしれません」


「覚えてない?」


「罪状も、名前も確認しませんでした」


 落葉は若い女が連れていかれた道を見る。


「人として見ていなかったのだと思います」


 久夜は何も言わなかった。


 落葉が自分の過去を許していないことは、その声だけで分かった。


「記録を探す」


 久夜は支庁の入り口へ向き直る。


「観令だけじゃない。今の女の父親についても、何か分かるなら調べる」


「記録へ入れればな」


 砕耀が言う。


「できるかじゃねえ、入るんだろ」


 久夜たちは広場の端を通り、記録棟へ向かおうとした。


「そちらの方々」


 法の女神の声が響く。


 久夜たちの足が止まった。


 広場中の視線が一斉に向けられる。


 女は壇上から、柔らかな笑みを浮かべて久夜たちを見ていた。


「せっかく裁定をご覧になったのです。そのまま立ち去られるのですか?」


「記録を見に来ただけだ」


 久夜が答える。


「記録」


 女は嬉しそうに、その言葉を繰り返した。


「世界の秘密に関する記録でしょうか」


 久夜の目が鋭くなる。


 砕耀が大剣の柄へ手を伸ばす。


 梟は周囲の職員を見る。


 先ほどまで民衆を整理していた職員たちが、いつの間にか久夜たちを囲むように位置を変えている。


「どうして知ってる」


 久夜が尋ねる。


「裁律社は、秩序を守るために必要な情報を管理しています」


「監視してたってことか」


「見守っていたのですよ」


 女は慈愛に満ちた声で答える。


「天理家に背き、総流社を襲い、保安社の執行を妨げ、空衡社の制御塔を破壊した方々を」


 空中に白い文字が現れる。


『天理家への反逆』


『総流社施設襲撃』


『保安社執行妨害』


『空衡社制御塔侵入』


『裁定対象者の逃亡幇助』


 民衆がどよめいた。


「あれが天理久夜?」


「反逆者だ」


「女神様を狙っているのか」


「捕まえろ!」


 久夜たちへ敵意が集中する。


 その声とともに、女の周囲へ白い光が集まっていく。


 空気が急激に重くなった。


 ラナが星嚢を抱く。


 落葉の補助具が圧力に耐えるように軋む。


 砕耀は民衆を見回した後、壇上の女へ視線を戻した。


「成る程な、俺たちを罪人だと思わせるほど、お前は強くなるわけか」


「法は、信じる者によって支えられます」


 女が杖を掲げる。


「法の正しさが認められるほど、その権威は強くなる。当然のことでしょう」


「何が権威だ」


 砕耀が言う。


「法を私物化してる奴がよ」


「私は、法の意思を示しているだけです」


「じゃあさっきの判決もか?」


 久夜が尋ねた。


 女の視線が久夜へ向く。


「何か問題がありましたか」


「物資を盗んだ男は、自分を讃えたから軽くした」


「彼は自らの罪を認めました」


「父親の居場所を聞いた女は、お前を否定したから十五年」


「彼女は法を侮辱し、反省を拒みました」


「お前への侮辱を、法への侮辱に変えただけだろ」


 民衆から怒声が上がる。


「女神様を侮辱するな!」


「罪人のくせに!」


「裁きを受けろ!」


 そのたびに、女の周囲の光が濃くなる。


 女は民衆を静めるように手を上げた。


「皆さん、落ち着いてください」


 歓声と怒号が少しずつ弱まる。


 女は悲しそうに久夜を見る。


「天理久夜。あなたは法を誤解しています」


「お前を法だと思ってないだけだが」


 女の笑顔が止まった。


 ほんの一瞬。


 すぐに、優しい表情へ戻る。


「残念です」


「何が」


「あなたも、先ほどの罪人と同じなのですね」


「勝手に同じにするな」


「自分が理解できないものを不正と決めつけ、自らの行いを省みようとしない」


「別に俺は、自分の行いを正しいとは思ってない」


 久夜は女を見上げる。


「でも、お前よりは自分が間違う可能性を考えてる」


 女の目に冷たい光が宿った。


 落葉が一歩前へ出る。


「法の女神」


 補助具が低い音を立てる。


「あなたは、被告人を見ていません」


「月代落葉」


 女は初めて、落葉をはっきり見た。


「生きていたのですね」


「はい」


「空衡社を裏切り、秩序を破壊したあなたが、私へ法を語るのですか」


「私は、人を道具として扱いました」


 落葉は否定しなかった。


「命令された対象を、理由も聞かずに運びました。自分の行いを正しいと信じ、疑おうともしなかった」


「自ら罪を認めるのですね」


「過ちを認めているだけです」


「同じことです」


「違います」


 落葉は静かに首を横に振った。


「過ちを認めることと、あなたへ従うことは違う」


 女の笑みが薄くなる。


「あなたは先ほどの二人を見ていなかった」


「何を言っているのです」


「最初の男性が、なぜ盗んだのか。次の女性が、なぜ怒ったのか。あなたは、それを裁定の材料として使っただけです」


「事情を考慮することは、正しい裁定に必要です」


「あなたが見ていたのは、事情ではありません」


 落葉の声は変わらない。


「自分へ頭を下げたかどうかです」


 広場の空気が凍りついた。


 女の周囲に集まっていた光が激しく揺れる。


「慎みなさい」


「あなたを讃えた者には慈悲を与え、あなたを疑った者には罪を加える」


「いいえ、違います」


「あなたは法を使って人を裁いているのではない」


「黙りなさい」


「人を使って、自分が正しいと確かめている」


 女の笑顔が消えた。


 それでも声だけは、穏やかさを保とうとしていた。


「あなたは長く命令へ従ってきたため、自分で正しさを判断することに慣れていないのでしょう」


「確かにそうかもしれません」


「ならば、私が教えて差し上げます」


 女が杖を床へ打ちつけた。


「正しき法を」


 白い文字が、久夜たちの足元へ広がる。


『公開裁定』


 地面から白い柱が立ち上がり、広場を囲む。


 民衆が歓声を上げた。


「女神様の裁定だ!」


「反逆者を裁け!」


「法の正しさを示してください!」


 声が重なるほど、女の存在が膨れ上がっていく。


 久夜たちの周囲に、巨大な円形の空間が形成された。


 白い床。


 高い柱。


 幾重にも並ぶ傍聴席。


 壇の中央には、他の誰よりも高い場所に立つ女。


 奇妙な構造だった。


 罪人を閉じ込めるための牢獄には見えない。


 被告人や証人を見やすくする法廷でもない。


 すべての席が、中央に立つ女だけを見つめるように作られていた。


 女は両手を広げる。


 歓声を受ける役者のように。


「皆さん、ご覧ください」


 広場の民衆へ向けて、女が告げる。


「法は、いかなる者も見捨てません」


 久夜たちの頭上へ、罪状が並んでいく。


「反逆者であろうと、罪を認め、正しき道を選ぶのであれば、救われる機会は与えられます」


「誰が認めるかよ」


 砕耀が大剣を抜いた。


 民衆から悲鳴が上がる。


 その悲鳴すら、女の力へ変わっていく。


「武器を下ろしなさい」


 女は砕耀へ微笑みかける。


「抵抗しなければ、傷つく必要はありません」


「さっきも似たようなこと言ってたな」


「何がです?」


「お前へ従えば救ってやるって」


「法へ従うのです」


「お前は法じゃあねえだろ?」


 女は答えなかった。


 代わりに、杖を静かに持ち上げる。


 その背後に、白い剣が現れた。


 一振り。


 二振り。


 十を超え、さらに数を増していく。


 剣の隣には槍。


 鎖。


 巨大な斧。


 顔のない白い兵士。


 裁定の内容も、罪状も関係なく、異なる武器が次々に生み出される。


 ラナが目を見開く。


「法って、こんなに武器が必要なの?」


「必要なわけねえだろ」


 砕耀が低く答える。


「ありゃ法の力じゃねえ。あの女が使いたいものを出してるだけだ」


「無礼な」


 女の視線が砕耀へ向く。


「これらは、法の執行者です」


「どの罪にどの武器を使うか、決まりはあるのか?」


「罪人が抵抗すれば、相応の力で制圧します」


「じゃあお前の気分次第ってことだ」


 白い剣の切っ先が、一斉に砕耀へ向く。


「訂正しなさい」


「嫌だね」


 砕耀は笑った。


「分かりやすくて助かる。法を侮辱されたから怒ったんじゃない。お前自身を馬鹿にされたから、俺を斬りたくなっただけだ」


「黙りなさい」


 女の声から、初めて完全に優しさが消えた。


 次の瞬間には、再び慈悲深い笑みが作られる。


「最後の機会を与えます」


 女は久夜たちを見下ろした。


「武器を捨て、罪を認め、法へ従いなさい」


 久夜は腰の鞘へ手を伸ばした。


「断る」


「なぜですか」


「お前が法じゃないからだ」


 ダガーが鞘から抜かれる。


 梟も銃を構える。


 ラナが星嚢を開く。


 落葉が剣の柄へ触れようとし、久夜が片手で制した。


「落葉は下がってろ」


「ですが」


「ここまで歩いただけでも無理してる」


「戦えないほどでは」


「戦うなって言われてただろ」


 落葉は反論しようとしたが、久夜の表情を見て手を下ろした。


 砕耀が久夜の前へ出る。


「どうする」


「まず、あの女を法の上から引きずり下ろす」


「簡単に言うな」


「難しくてもやるんだよ」


 女の周囲で、無数の武器が音を立てる。


 広場を埋める歓声。


 罪人を裁けと叫ぶ声。


 自分だけを見つめる無数の視線。


 そのすべてを受け、女は満足そうに微笑んだ。


「裁定を開始します」


 白い剣が放たれる。


 久夜は地面を蹴り、最初の一振りへダガーを叩きつけた。


 白い光と黒い刃が激突する。


 広場に、甲高い音が響いた。

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