落とすだけの魔法
凪佐小平は、逃げるように帰っていった。
正確には、逃げるように帰ろうとして三度引き止められ、四度目でようやく店の扉へたどり着いた。
「じゃあ、僕は帰るからね」
片手に鞄を抱えたまま、凪佐は何度も後ろを振り返る。
「本当に帰るよ。もう呼ばないでね。呼ばれても来ないから。来ないというか、今度こそ来られないから。これ以上休んだら社会的に死ぬから」
椅子へ深く腰を下ろした砕耀が、面白そうに笑った。
「衛星兵器が落ちてきても平然としてたくせに、会社は怖いのかよ」
「会社は斬れないから怖いんだよ」
「斬ればいいだろ」
「駄目だよ。犯罪だから」
「まともだな」
「まともでいたかったんだよ、僕は」
凪佐は深くため息をついた。
第2制御塔で何度も閃空乱刃を放った身体には、まだ戦闘の熱が残っている。
それでも、彼を悩ませているのは落葉の重力でも、保安社の光刃でもなかった。
明日の出勤。
欠勤の説明。
上司の機嫌。
残り少ない有給休暇。
彼にとっては、世界を救う戦いより、そちらの方がよほど現実的な脅威らしい。
梟が車椅子を動かし、凪佐の前へ出た。
「叔父さん」
凪佐の肩が目に見えて跳ねる。
「はい」
「また必要になったら呼ぶから」
「一番聞きたくない言葉だね」
「来てね」
「命令?」
「お願い」
凪佐は困ったように眉を下げた。
「お願いの方が断りづらいんだよなあ」
梟は答えず、凪佐を見上げていた。
強気な目。
けれど、その奥には、かつて自分を引き取った男を見る幼い少女の名残がある。
置いていかれたことへの怒り。
それでも助けに来てくれたことへの安堵。
どちらも言葉にはならないまま、視線の奥に残っていた。
凪佐は耐えられなくなったように目を逸らす。
「……生きているうちは、考えておくよ」
「それ、来るってこと?」
「違う。考えるだけ」
「じゃあ、たくさん悩んで考えて」
「できれば何も考えずに暮らしたいんだけどなあ」
「無理そう」
「僕もそんな気がしてる」
砕耀が口を挟んだ。
「凪佐」
「何?」
「助かった」
凪佐は少しだけ驚いた顔で、砕耀を見た。
昔の友人。
同じ冥下で暴れていた頃を知る悪友。
今も変わらず、どれほど身体が壊れても前へ立ち続ける男。
凪佐は小さく笑った。
「君は僕がいなくても死なないでしょ」
「まあな」
「だったら、助かったと言う相手は僕じゃないよ」
砕耀は何も言わなかった。
「でも、まあ」
凪佐は鞄を持ち直す。
「梟が生きているなら、来た意味はあった」
梟は黙っていた。
凪佐はその沈黙から逃げるように、扉を開ける。
「じゃあ、本当に帰るから。もう帰る。これ以上ここにいたら、明日会社へ行けなくなる」
「もう無理なんじゃねえか?」
鈴木が言った。
「怖いこと言わないで」
湿った冥下の空気が、店の中へ流れ込む。
凪佐は最後に振り返り、小さく手を上げた。
「みんな、生きていてね」
冗談のような口調だった。
けれど、その言葉だけは冗談ではなかった。
凪佐は扉の向こうへ消えた。
小さな鈴の音が鳴る。
しばらく、誰も話さなかった。
戦力が減ったからではない。
戦場から日常へ帰っていく者の背中が、少しだけ遠く見えたからだった。
◇
その夜、ラナは眠れなかった。
カフェの奥に並べられた簡易寝台。
薄い毛布にくるまりながら、古い木の天井を見つめていた。
近くでは、鈴木が大きな寝息を立てている。
砕耀は椅子に座ったまま腕を組み、眠っていた。
梟も車椅子の背を倒し、目を閉じている。
空衡社との戦いは終わった。
第2制御塔を奪った。
落葉と浮羽は助かった。
空衡社は空を失った。
勝った。
勝ったはずだった。
それなのに、ラナの胸は少しも軽くならない。
毛布から片手を出し、天井へ向ける。
「……落ちて」
天井の隅にたまっていた埃が、ふわりと揺れた。
そして、ラナの額へ落ちた。
「痛っ」
痛くはない。
けれど、ラナは顔をしかめた。
これが、自分の魔法だった。
上から下へ。
物を落とす。
それだけ。
第1制御塔でも、第2制御塔でも、少しは役に立った。
留め金を落とした。
制御ピンを落とした。
久夜が持つ投薬具の進路を、ほんの少しだけ変えた。
必要だった。
そう言われれば、必要だったのだと思う。
けれど――。
久夜は、音さえ置き去りにして走る。
砕耀は、衛星兵器を三基も砕いた。
梟は、見えない場所からでも仲間に必要な一発を撃つ。
鈴木は炎を纏い、敵陣へ飛び込む。
凪佐は、戦場そのものを切り刻んだ。
落葉は重力で空を沈める。
浮羽は、世界を飲み込む黒い点を生んだ。
流星は空間を裂き、その黒い点さえ別の空へ逃がした。
その中で、自分だけが埃を落としている。
「……やだな」
誰にも聞こえない声が漏れた。
ラナは毛布を頭までかぶる。
「私、また弱い」
元の世界でも同じだった。
魔法王家に生まれた。
だから、誰よりも多くの魔法を使えて当然だと思われた。
姉たちは期待に応えた。
兄たちも応えた。
けれど、ラナにできたのは物を落とすことだけだった。
火も出せない。
水も操れない。
空を飛ぶこともできない。
王家の腫れ物。
誰かが言った言葉だった。
けれど、いつしかラナ自身もそう思うようになった。
できないのは、自分が悪い。
弱いのは、自分のせい。
何度訓練しても変わらなかったのは、自分が怠けていたから。
そう思わなければ、周囲から向けられる視線に耐えられなかった。
眠っているふりをしていた梟が、わずかに目を開いた。
暗闇の中で、毛布の塊になったラナを見る。
けれど、声はかけなかった。
今のラナが欲しいのは、慰めではない。
大丈夫だと言われても、自分が弱いことは消えない。
梟には、それが分かっていた。
◇
翌朝。
ラナは誰にも告げず、流星の工房へ向かった。
久夜にも。
砕耀にも。
梟にも。
店主にだけ、出かけることを伝えた。
「道に迷うなよ」
「迷わないよ」
「前も同じことを言って迷っただろ」
「今日は大丈夫」
「そうか」
店主はそれ以上聞かず、小さな紙袋を渡した。
「途中で食べろ」
中には焼き菓子が入っている。
ラナは少しだけ笑った。
「ありがとう」
冥下の路地を歩く。
空衡社が空を失っても、冥下の景色はすぐには変わらない。
湿った空気。
錆びた配管。
どこかで軋む機械。
頭上を覆う、濁った空。
白い塔が折れても、世界全体が明るくなるわけではなかった。
流星の工房は、相変わらず道の外れにあった。
扉の向こうから、細かな金属音が聞こえる。
星の欠片でも削っているような、不思議な音。
ラナは扉を叩いた。
「流星、いる?」
少しして、扉が開く。
立っていたのは落葉だった。
「あ」
「ラナさん」
落葉は静かに頭を下げた。
白銀の鎧は着ていない。
身体を支えるための軽い補助装具だけを身につけている。
兜もない。
双剣もない。
今の落葉は、双落の騎士ではなかった。
妹と暮らす、一人の姉だった。
「流星さんにご用ですか?」
「うん。ちょっと相談」
「奥にいらっしゃいます。どうぞ」
工房の奥から、小さな声がした。
「ラナ?」
浮羽が大きな椅子に座っていた。
身体を支える器具はついている。
けれど、空衡社の拘束具とは違う。
浮羽が痛くないように柔らかな布が巻かれ、手の届く場所には小さな菓子皿が置かれていた。
ラナが紙袋を持ち上げる。
「焼き菓子を持ってきた」
「ケーキじゃない?」
「今日はケーキじゃない」
「食べていいやつ?」
「たぶん。時々なら」
浮羽は真剣な顔で頷いた。
「巫里が怒らないやつ」
「そう」
ラナは焼き菓子を一つ取り出した。
落葉が浮羽の手へ、そっと自分の手を添える。
「ゆっくり持とうね」
「落ちない?」
「私が支えているから大丈夫だよ」
「お姉ちゃんが持ってるなら大丈夫」
浮羽が小さく笑う。
ラナも笑った。
けれど、「落ちない」という言葉が胸に刺さった。
自分の魔法は、落とすだけなのに。
工房の奥から、流星の声がする。
「珍しいな。君が一人で来るとは」
作業台の前に、航海流星が立っていた。
モノクル越しの片目で、青白く光る金属片を覗き込んでいる。
周囲には、小さな光点が浮かんでいた。
本物の星ではない。
工房の中にだけ作られた、小さな夜だった。
「今日は、相談がある」
ラナが言う。
流星は道具を置き、こちらを向いた。
「聞こう」
ラナは紙袋を抱えたまま黙った。
口にすれば、本当に弱い者になってしまうような気がした。
けれど、言わなければ何も変わらない。
「私、弱い」
工房の音が止まった。
落葉も、浮羽もラナを見る。
流星は、すぐには否定しなかった。
「現状では、そうだな」
落葉がわずかに眉を動かす。
ラナは唇を結び、それから頷いた。
「うん」
「それで?」
「みんなは強い。久夜も、砕耀も、梟も、鈴木も、凪佐も。落葉も浮羽も。流星も」
ラナは自分の手を見る。
「私は、物を落とすだけ」
「そうだな」
「それしかできない」
「そう思っているのか?」
ラナが顔を上げる。
「だって、そうだよ」
流星は少し考え、作業台から小さな金属球を取った。
「ラナ。強さに必要なものは、何だと思う?」
「才能」
ラナは迷わず答えた。
「間違いではない」
流星は金属球を指先で持ち上げる。
「なら、久夜は強いと思うか?」
「強いよ。あんなに速く動く人、見たことないもん」
「私も、生身であれほどの速度を出す者は滅多に見ない」
流星は金属球を空中へ放した。
球は床へ落ちる。
だが、途中で流星が指を動かすと、球は横へ滑り、作業台の上へ静かに着地した。
「久夜の速度は、脚の速さだけで生まれているわけではない」
「違うの?」
「踏み込みだ」
「踏み込み?」
「最初の一歩へ、身体のすべてを乗せている。あれほどの負荷に耐えられる肉体は、生まれ持ったものだ」
流星は続ける。
「だが、足を置く角度、重心、地面の捉え方、身体を前へ倒す瞬間。それらは技術だ。久夜は何度も失敗し、身体を壊し、それでも踏み込みを磨いた」
「才能だけじゃない?」
「才能を持っていた。だが、持っていただけでは、今の速度には届かない」
ラナは首を傾げる。
「じゃあ、努力すれば私も久夜みたいになれる?」
「それは無理だ」
「すぐ否定する」
「君が久夜になる必要はない」
流星は淡々と言った。
「久夜が君の魔法を使うこともできない」
「でも、久夜の方が強いよ」
「速度を比べればな」
流星は先ほどの金属球を、もう一度持ち上げた。
「砕耀は、久夜より遅い」
「うん」
「では、砕耀は久夜より弱いのか?」
「それは……違うと思う」
「梟は二人より身体能力が低い」
「でも、梟は強いよ」
「凪佐は、衛星兵器を破壊できなかった」
「でも、落葉と戦えた」
「そういうことだ」
流星は金属球をラナへ差し出した。
「強さは、一つの数字ではない」
ラナは球を受け取る。
「敵をたくさん倒せるのが、強いんじゃないの?」
「それも強さだ」
「それも?」
「敵を止める。仲間を守る。道を作る。必要な物を届ける。危険を避ける。誰かを生きて帰す」
流星はラナを見る。
「敵を殲滅することだけが、勝利ではない」
第2制御塔の戦いが、ラナの頭に浮かんだ。
投薬具が落葉の重力に引かれた。
ラナは、その向きをほんの少しだけずらした。
自分一人では、落葉を倒せない。
けれど、あの時ラナがいなければ、薬は届かなかった。
「でも、私は少ししか変えられなかった」
「少しで足りた」
「偶然だよ」
「戦場で必要な場所へ偶然を起こせるなら、それは技術になる」
ラナは黙った。
流星は、ラナの手にある金属球を指す。
「落としてみろ」
「ここで?」
「床へ」
ラナは球を持ち上げる。
「落ちて」
金属球が真下へ落ちた。
乾いた音が、工房に響く。
「いつもと同じ」
「君は、下へ落ちろと考えたのか?」
「落ちるなら下でしょ」
「それが思い込みだ」
ラナは眉を寄せた。
「違うの?」
「下とは何だ?」
「下は下だよ」
「この工房を逆さにすれば?」
「床だったところが天井になる」
「宇宙空間なら?」
「下がない?」
「落葉が重力を別の方向へ向ければ?」
ラナは少し考えた。
「そっちが下になる」
「つまり、落下とは床へ向かう現象ではない」
流星は金属球を拾う。
「定められた方向へ、対象が引かれる現象だ」
流星が指を動かす。
金属球が宙へ浮かび、今度は壁へ向かって落ちた。
壁に触れる直前で止まる。
「落ちる方向を選べれば、使い道は増える」
「私にもできるようになるの?」
「今は無理だ」
「また今は」
「そして、無理な理由は才能の不足だけではない」
流星が作業台へ触れる。
空中へ複数の光の線が投影された。
一本は太く、滑らかに流れている。
もう一本は同じ量の光を持ちながら、途中で細くなり、周囲へ光を漏らしていた。
「君の身体には、十分な魔力がある」
「本当に?」
「少なくとも、現在の出力から想像される量より遥かに多い」
「じゃあ、なんで弱いの?」
「簡単に言えば、出口が詰まっている」
ラナは瞬きをした。
「出口?」
「そうだ」
流星は細い線を指した。
「君の身体は、魔力を外へ放出する際、正しい経路を使えていない」
「どうして?」
「脳の働きが関係している」
空中の図が変わる。
人間の脳を模した光の塊が現れた。
表面に広がる領域の一部が、淡く明滅している。
「大脳皮質の複数の領域が、魔法の使用時に連動する。対象を認識する。術式を思い浮かべる。魔力量を調整する。方向を指定し、身体の外へ放出する」
「いっぱいある」
「君の場合、それぞれは動いている。だが、同時に働く時に僅かなずれが生じている」
「ずれると、どうなるの?」
「術式が完成する前に魔力の一部が漏れる。さらに脳が異常を察知し、自分を守るため出力へ制限をかける」
「私の身体が、勝手に弱くしてる?」
「壊れないようにな」
ラナは分からないという顔をした。
「元の世界じゃ、才能がないとか、努力が足りないとかばかり言われたのに」
手を強く握る。
「魔法王家のくせに、何にも分かってないじゃん」
流星は少しだけ間を置いた。
「それに関しては、仕方のない部分もある」
「じゃあ仕方ないの?」
ラナの声が硬くなる。
「私は、科学技術がこの世界より進んだ世界の出身だ。旅の途中でも、複数の魔法世界を見てきた」
流星は光の脳を回転させる。
「基本的に、魔法が生活や文化の中心になっている世界では、科学が同じ方向へ発達しにくい。魔法が使える理由を、脳や神経の働きから調べる必要がなかったからだ」
「でも、流星は分かった」
「私一人で、すべてを突き止めたわけではない」
流星ははっきりと答えた。
「かつて共に旅をした仲間に、君とよく似た症状があった。その時の記録が残っていたから、可能性に気づけた」
「じゃあ、流星がすごいから分かったんじゃないの?」
「私は優秀な方だとは思っている」
流星は平然と言った。
「だが、脳や神経の専門家ではない。世界最高峰の頭脳と呼ぶべき者も、私ではない」
ラナは瞬きをする。
「慧悟?」
「ああ」
流星は頷いた。
「私が得た観測結果は、慧悟にも送った。大脳皮質と神経反応についての仮説は、彼の見解と照合している」
「流星より、慧悟の方が詳しい?」
「この分野では比較するまでもない」
流星は悔しがる様子もなく言った。
「黎明の星は、私より遥かに深く人間の脳を理解している。私が異世界の事例から異常へ気づき、慧悟が脳の側から構造を確かめた」
「二人で見つけた?」
「そう考えていい」
ラナは、もう一度空中の脳を見る。
「じゃあ、元の世界の人たちが分からなかったのも、本当に仕方なかった?」
「原因を科学的に解明できなかったことについてはな」
流星は淡々と続けた。
「だが、原因が分からないからといって、苦しんでいる本人へ責任を押しつけてよい理由にはならない」
ラナは何も言わなかった。
元の世界で、何度も言われた。
もっと努力しなさい。
王家の者として恥ずかしくないのか。
姉や兄を見習いなさい。
同じ血を引いているのに、なぜできない。
ラナ自身も、それを正しいと思っていた。
できないのは、自分が悪い。
弱いのは、自分のせい。
だから、誰かに助けてほしいとも言えなかった。
「……私、悪くなかった?」
声が小さくなる。
流星は少しだけ間を置いた。
「君に責任はない」
「本当に?」
「先天的な症状だ」
流星は別の記録を表示した。
「有病率は極端に低い。魔法を使う世界では、長い時間をかけて魔法の使用に適した遺伝的特徴が強まる。そのため、同様の症状は発現しにくい」
「魔法王家なら?」
「なおさらだ」
「じゃあ、私が珍しすぎたから、誰も分からなかったの?」
「そうだ」
「だから、ずっと才能がないって言われた?」
「原因を知らない者には、結果だけが見える」
流星は言った。
「魔力はあるのに術が弱い。訓練を重ねても出力が上がらない。ならば、本人の才能か努力に問題があると判断する」
「でも、違った」
「違った」
流星は迷わず答えた。
「君の身体には力がある。努力もしていた。ただ、力を外へ出すための命令が、正しい形で伝わっていなかった」
ラナの手が震えた。
怒っているのか。
悲しいのか。
自分でも分からなかった。
「魔法王家なのに」
「ああ」
「魔法のこと、何でも知ってるみたいな顔してたのに」
「ああ」
「私のこと、何にも分かってなかった」
「そうだな」
流星は否定しなかった。
「知らなかったこと自体は、仕方のない部分もある。だが、知らないまま君を責め続けたことまで、仕方がないとは言わない」
ラナが顔を上げる。
「でも、まだ分からないこともあるんでしょ?」
「ああ」
「なに?」
「君が、一つの魔法しか使えないことだ」
ラナは自分の手を見る。
「物を落とす魔法だけ」
「私が訪れた魔法世界では、専門的な教育を受けていない者でも、簡単な民間魔法を複数扱えることが多かった」
「流星も使えるの?」
「火を灯す。水を集める。衣服を乾かす。その程度のものだがいくつかは覚えた」
流星が指先を上げる。
小さな青い火が、一瞬だけ灯った。
この世界では魔力が通りにくいのか、炎はすぐに消える。
「本当だ」
「私は魔法を専門的に学んだわけではない。それでも、複数の術式を扱えた」
「なのに、私は一つだけ」
「単純な放出障害だけなら、他の魔法も弱い形で発現するはずだ。小さな火。数滴の水。僅かな風。その程度はな」
「でも、何も出なかった」
「そうだ」
流星は光の線を、一本だけ残した。
真下へ伸びる、細い線。
「君が落下以外の魔法を持っていないのか。それとも、落下という一つの魔法の中へ、他の可能性が統合されているのか。現時点では分からない」
「一つの中に、いっぱいある?」
「可能性の話だ」
「治療したら、火や水も使えるようになる?」
「期待しない方がいい」
ラナの表情が曇る。
「使えないまま?」
「恐らくな」
「じゃあ、結局一つだけじゃん」
「一つの魔法しかないことと、一つのことしかできないことは同じではない」
流星は金属球を宙へ浮かべる。
真下。
横。
斜め。
最後には、床から天井へ向かって動かした。
「小さな物だけではなく、大きな物を落とす。真下だけではなく、横へ落とす。地面ではなく、空へ落とす。複数の対象を、それぞれ別の方向へ落とす」
「上に落とす?」
「空を落下先として定義できればな」
浮羽の黒い点が、ラナの頭に浮かんだ。
あの時、上も下もなかった。
すべてが一点へ向かって落ちていた。
「浮羽の黒いのも、落下?」
「似ている部分はある」
浮羽が不安そうに顔を上げる。
落葉がすぐに、その手を包んだ。
「大丈夫だよ、浮羽」
「私のとラナの、同じ?」
「同じではない」
流星が答える。
「浮羽は空間から方向そのものを奪い、一点へ収束させる。ラナは、対象へ落下の命令を与える。現象の一部は似ているが、原理は異なる」
浮羽はラナを見る。
「ラナのは、怖くない?」
「使い方による」
「じゃあ、怖くないように使えばいい」
浮羽は真剣に言った。
「ね?」
ラナは少しだけ笑った。
「うん。怖くないように使う」
流星は、脳の図を小さく折り畳んだ。
「治療によって、魔力の放出効率は改善できる可能性が高い」
「完全に治る?」
「断言はできない」
「時間は?」
「短くても数か月。状態によっては、それ以上だ」
「そんなに?」
「脳は機械部品ではない。交換して終わりにはできない」
「治療って何をするの?」
「薬で大脳皮質周辺の神経反応を整える。その状態で魔法を使い、正しい放出方法を身体へ覚えさせる」
「薬を飲めば強くなる?」
「一時的には出力が上がる。だが、薬だけでは元へ戻る」
「訓練も必要?」
「そうだ」
「楽に強くなりたかった」
「急激に制限を外す薬もある」
ラナが顔を上げた。
「あるの?」
「脳か身体が壊れる可能性が高い」
「それは要らない」
「賢明だ」
ラナは黙り込んだ。
検査。
治療。
薬。
その言葉には、まだ恐怖が残っている。
白い部屋。
冷たい器具。
やめてと言っても止まらなかった実験。
名前ではなく、分類で呼ばれた日々。
流星は答えを急かさなかった。
落葉も口を挟まない。
浮羽が焼き菓子を皿へ戻した。
「ラナ」
「なに?」
「怖い?」
「少し」
「私も怖い」
浮羽は自分の胸元を握った。
「黒いの、また出るかもしれないから」
落葉が浮羽の手を包む。
「無理をする必要はないよ」
「でも、またお姉ちゃんが落ちたら嫌」
「浮羽のせいではないからね」
「うん。でも、少しずつ練習する」
浮羽はラナを見る。
「お姉ちゃんと、流星がいるから」
ラナは、浮羽の細い身体を見た。
自分より遥かに大きな力を持っていても、怖くなくなるわけではない。
それでも浮羽は、自分の意思で練習することを選んでいた。
「……私も、治療する」
ラナは流星を見た。
「ただし、約束して」
「内容を聞こう」
「勝手に身体を調べないで」
「同意を得た範囲だけにする」
「嫌って言ったら止めて」
「止める」
「痛いことをする時は、先に言って」
「必ず説明する」
「途中で逃げても?」
「追わない」
「私を検体とか、荷物とか呼ばない?」
流星はラナの目を見た。
「アステール・ラナと呼ぶ」
ラナは少しだけ考え、頷いた。
「じゃあ、お願い」
「承知した」
◇
治療は、ラナが期待したほど劇的なものではなかった。
最初の検査では、頭の周囲へ細い金属環を浮かべた。
身体を拘束する器具はない。
立ちたければ、いつでも立てる。
扉にも鍵はかかっていなかった。
流星が用意した石を、床へ落とす。
紙を落とす。
金属球を落とす。
水の入った小瓶を落とす。
重さと形を変えながら、同じ魔法を繰り返す。
「落ちて」
金属球が床へ落ちる。
頭の周囲に浮かぶ環が、淡く光った。
流星は表示された記録を確認している。
「もう一度」
「まだ?」
「疲れたか?」
「少しだけ」
「では、今日は終わりだ」
流星はすぐに装置を止めた。
ラナは少し驚く。
「本当に止めるの?」
「疲れたと言っただろう」
「まだできるよ」
「できることと、続けるべきことは違う」
ラナは不満そうに椅子へ座った。
それでも、少しだけ安心していた。
やめてと言っても止めなかった者とは違う。
流星は、ラナが続けたいと言っても、危険だと判断すれば止めた。
検査結果は、再び慧悟へ送られた。
薬の種類と量は、流星が以前の記録から選び、慧悟が神経への影響を確認した。
流星一人の判断ではない。
そのことも、ラナには少しだけ安心だった。
用意された薬は、ごく少量だった。
「苦い?」
「苦い」
「甘くできないの?」
「薬効に必要がない」
「巫里と同じこと言いそう」
「医療に関しては、彼女も慧悟も私より正確だ」
流星は平然と言った。
「だから、必要な部分は二人の知識を借りる」
「流星にも、できないことあるんだ」
「当然だ」
「ちょっと安心した」
「なぜだ」
「何でもできる人に弱いって言われるより、少しだけ安心する」
「私は何でもできるとは言っていない」
「そういうところは変わらないね」
ラナは薬を飲み、すぐに顔を歪めた。
「苦い!」
「言っただろう」
浮羽が焼き菓子を差し出す。
「これ食べる?」
「食べる」
ラナは急いで口へ運んだ。
「少しマシ」
「よかった」
薬が効き始めると、ラナの頭の奥に微かな熱が生まれた。
痛くはない。
今まで細い隙間を無理に通っていたものが、少しだけ広い道へ出たような感覚。
「変な感じ」
「痛むか?」
「痛くない。頭の中が、くすぐったい」
「異常があれば、すぐに言え」
流星が小さな金属球を置いた。
「落としてみろ」
「落ちて」
金属球が床へ叩きつけられた。
普段より速い。
乾いた音が、工房へ響く。
「強くなった?」
「出力は一・二倍程度だ」
「ちょっとだけ」
「初回としては十分だ」
その日から、治療と訓練が始まった。
薬を飲む。
石を落とす。
落下速度を一定にする。
狙った印へ落とす。
魔力を出しすぎない。
力を込めたまま、方向を乱さない。
少し出力が上がるたび、以前できていたことができなくなる。
強く落とせば外れる。
狙えば弱くなる。
薬の効果が切れれば、また細い流れへ戻る。
「全然変わらない」
「以前より、落下地点のずれが減っている」
「でも、強くなってない」
「脳が新しい放出方法を覚えている段階だ」
「いつ終わるの?」
「分からない」
「そればっかり」
「不明なものは不明だ」
数週間。
数か月。
それ以上続く可能性もある。
だが、久夜たちの戦いは待ってくれない。
ラナが治療を終えるまで、十柱が何もしない保証はなかった。
流星も、それを理解していた。
◇
「だから、完成するまでの間は、これを使え」
ある日の訓練後。
流星が作業台へ置いたのは、小さな黒い袋だった。
ラナの両手に収まる程度の大きさ。
布にも、革にも見えない。
表面には、銀色の細い線が星座のように走っている。
袋の口を覗き込んでも、底が見えなかった。
ただ暗いのではない。
小さな袋の中に、遠い空間が折り畳まれている。
「何これ?」
「空間収納展開器だ」
「名前長い」
「正式名称は必要だ」
「普通に呼ぶ名前は?」
「まだ決めていない」
浮羽も袋を覗き込む。
「星の袋」
「そのままだね」
「星袋?」
「少し安そう」
浮羽が困った顔をする。
落葉が優しく頭を撫でた。
「星を収める嚢と考えて、星嚢ではいかがでしょうか」
「せいのう?」
「嚢は、物を入れる袋という意味だよ」
ラナは黒い袋を持ち上げた。
「星嚢。かっこいい」
「では、星嚢とする」
流星が即座に採用する。
浮羽が少し嬉しそうに笑った。
「お姉ちゃんと私がつけた」
「浮羽が最初に考えてくれたからね」
流星は、小さな金属球を星嚢へ入れた。
球は音もなく消えた。
「なくなった」
「内部の隔離空間へ格納した」
「どれくらい入るの?」
「容量には限界がある。生物は入れられない。極端に高温な物や、空間へ強く干渉する物も危険だ」
「ケーキは?」
浮羽が聞いた。
「入る」
浮羽の顔が明るくなる。
「ただし、温度や揺れで形が崩れる可能性がある」
「じゃあ、入れない」
「正しい判断だ」
流星が星嚢の表面へ触れる。
銀色の線が光った。
ラナの頭上に、小さな黒い円が開く。
そこから、先ほど収納した金属球が現れ、床へ落ちた。
「上から出てきた」
「星嚢は、収納した物を指定した場所へ展開できる」
「どこにでも?」
「道具自体は可能だ」
今度は、作業台の横に黒い円が開いた。
金属球が横向きに飛び出し、流星の掌へ収まる。
続けて床へ円が開き、球が天井へ向かって飛び出した。
ラナは目を丸くする。
「上に落ちた」
「私が空間と力の方向を指定した」
「私もできる?」
「今は無理だ」
「また今は」
「君は、落下を自分より下へ向かう現象としてしか処理できていない」
流星は星嚢をラナへ渡した。
「現段階では、展開口を対象の真上に限定している」
「上からしか出せない?」
「そうだ。君が場所を決めれば、その上に星嚢の出口が開く。あとは、収納した物を落とせばいい」
「強くなったら?」
「横から展開する。足元から展開する。移動する相手の進路へ先回りして開く」
流星は工房の天井を指す。
「落下方向を変えられるようになれば、地面から空へ落とすことも可能になる」
「空に落とす」
ラナは、その言葉を繰り返した。
「物を上へ飛ばすのとは違うの?」
「君が空を落下先として定義する。飛ばすのではなく、上へ落とす」
「できるかな」
「分からない」
「そこは、できるって言ってよ」
「できるかどうかを決めるのは、私ではない」
ラナは星嚢を腰へつけた。
「これがあれば、私も強くなる?」
「星嚢そのものは、君を強くしない」
「え?」
「君が考えたことを、戦場で実行するための道具だ」
流星は作業台の上へ、いくつかの物を並べる。
短い鉄杭。
煙幕を発生させる筒。
折り畳まれた金属板。
小型の薬剤容器。
粘着剤の入った球。
強い光を放つ発光体。
「鉄杭を落とせば、敵の動きを止められる。煙幕を落とせば、仲間を隠せる。金属板を落とせば、盾や足場になる。薬を落とせば、離れた負傷者へ届けられる」
「大きな岩を入れたら?」
「容量内なら入る」
「敵に落とせば強い?」
「味方の位置を確認せずに使えば、味方も潰す」
「じゃあ、敵だけいる時」
「それなら有効だ」
「爆弾は?」
「扱えるようになるまでは許可しない」
「けち」
「味方を爆破する可能性がある者へ爆弾を渡さないのは、けちとは言わない」
ラナは、並べられた道具を見る。
「戦う前に、何を入れるか決めるの?」
「そうだ」
「その場で、何でも出せるわけじゃない?」
「星嚢は物を生み出さない。入れていない物は出せない」
「ちょっと不便」
「だから頭を使う」
流星はラナを見る。
「どこで戦うのか。誰と戦うのか。仲間は何が得意なのか。何が必要になるのか。それを考え、中身を決める」
「私一人で敵を倒すためじゃなくて?」
「倒す必要があるなら、倒せばいい」
流星は短い鉄杭を手に取る。
「だが、敵を殲滅することだけが勝利ではない」
第2制御塔で、投薬具を数センチだけ動かしたことを、ラナは思い出す。
その僅かな変化が、久夜を落葉へ届かせた。
「必要な時に、必要な物を届ければいい?」
「そうだ」
「私が直接倒さなくても?」
「仲間が生きて勝てるなら、それでいい」
ラナは星嚢へ手を置いた。
「何を入れればいいと思う?」
「自分で決めろ」
「何も教えてくれないの?」
「助言はする。選ぶのは君だ」
ラナは、鉄杭を手に取った。
次に薬剤容器。
煙幕筒。
少し迷ってから、折り畳まれた金属板も選ぶ。
「まずは、みんなを助けられる物」
「それから?」
「敵を止める物」
「悪くない」
「流星が褒めた」
「評価しただけだ」
「同じでいいよ」
ラナは選んだ物を星嚢へ入れた。
すべてが、音もなく暗闇へ消えていく。
流星が床に白い印を映した。
「鉄杭を出してみろ」
「ここに?」
「白い印の真上へ、星嚢の出口を開くイメージを持て」
ラナは腰の星嚢へ触れた。
白い印を見る。
今の自分にできるのは、上から下へ落とすことだけ。
けれど、以前とは違う。
必要な物を。
必要な場所へ。
自分で選んで落とすことができる。
白い印の上に、小さな黒い円が開いた。
そこから、短い鉄杭が姿を現す。
ラナは手を伸ばした。
「落ちて」
鉄杭が落下する。
白い印の端へ突き刺さった。
中心ではない。
だが、外れてもいなかった。
「惜しい」
浮羽が手を叩く。
ラナは刺さった鉄杭を見て、少し笑った。
「今度は、本当に惜しいね」
「もう一回」
流星はラナの反応を確認する。
「薬の効果が切れ始めている。次で最後だ」
「分かった」
ラナは再び、星嚢へ触れた。
一つしかない魔法。
それがなぜなのかは、まだ分からない。
治療を受けても、火や水が使えるようにはならないかもしれない。
今は、下へしか落とせない。
今は、小さな物しか動かせない。
それでも。
一つしかないなら、その一つを使い切ればいい。
白い印の真上に、二つ目の出口が開いた。
「落ちて」
鉄杭が落下した。
高い金属音が、工房の小さな夜へ響く。
鉄杭は、白い印の中央へ突き刺さっていた。
「真ん中」
浮羽が嬉しそうに笑った。
落葉も静かに頷く。
「お見事です、ラナさん」
ラナは腰の星嚢へ触れた。
まだ星は入っていない。
ただの鉄杭と、薬と、煙幕と、小さな板。
それでも、以前の自分にはなかった可能性が入っている。
いつか、もっと大きな物を落とす。
壁から落とす。
足元から落とす。
そしていつか、地面から空へ、星を落とす。
「次は、何を入れよう」
ラナは初めて、自分の魔法の先を楽しそうに考えた。
落とすだけの魔法。
その「だけ」の中には、まだラナの知らない空が広がっていた。




