祝福されし英雄
護の背中は、路地の向こうへ消えていった。
老いた足取りだった。
手すりがなければ階段も危うい。
背は丸まり、肩は小さく、歩くたびに足元を確かめている。
鋼青の星。
そう呼ばれた男の背中には、星の輝きなど見えなかった。
ただ、古びた上着と、震える膝と、長い時間に押し潰された老人の影だけがあった。
それでも久夜は、その背中から目を離せなかった。
世界と戦った八人の一人。
赫天の戦友。
天理家が語らなかった歴史の生き残り。
それが、あの老人だという。
「……巫里」
久夜は、護が消えた路地を見つめたまま言った。
「あの人は、本当に赫天の戦友だったのか」
巫里はすぐには答えなかった。
彼女もまた、護の去った方角を見ていた。
いつものような、患者を診る冷静な目ではなかった。
少しだけ遠いものを見る目だった。
「はい」
短い返事だった。
「藍勝護は、赫天と共に世界と戦った八人の一人です」
久夜の喉が、少しだけ乾いた。
八人。
護も言っていた。
赫天は一人で世界と戦ったわけではない。
赫天を含め、八人で世界と戦ったのだと。
だが、久夜が知る歴史には、そんな者たちは存在しなかった。
「俺は、そんな話を知らない」
久夜は言った。
声が思ったより低くなった。
「天理家では、赫天は己の身一つで世界と戦ったと言われていた。誰にも頼らず、誰にも並ばれず、孤独に世界を統一した英雄だと」
巫里は、少しだけ目を伏せた。
「天理家が残したい歴史と、実際に起きた歴史は同じではありません」
「……じゃあ、俺が教えられてきた赫天は何だったんだ」
「天理家にとって必要な赫天です」
久夜は何も言えなかった。
分かっていたことではある。
天理家が都合の悪いものを隠すこと。
赫天の言葉すら、支配のために飾り直すこと。
自分はそれに反発して、家を出た。
それでも、胸の奥が鈍く痛んだ。
自分が嫌っていたものの中にも、まだ知らない嘘が埋まっている。
どれだけ剥がしても、下からまた別の嘘が出てくる。
天理家とは、そういう場所だった。
久夜はカフェの扉に手をかけた。
中から、温かい匂いがした。
焼いたパン。
甘い菓子。
薬草。
少しだけ血の匂い。
生きている者たちの匂いだった。
「中で話を聞きたい」
久夜は言った。
「外で聞く話じゃなさそうだし」
巫里は頷いた。
「ええ。外で話すには、少し古すぎます」
◇
カフェの中は、静かではなかった。
ラナは机に突っ伏したまま寝息を立てている。
鈴木は腕の処置を受けながら、痛くないふりをして失敗していた。
砕耀は検診から逃げようとして、巫里がいない今のうちに椅子から立ち上がっている。
凪佐は時計を見ながら、何度目か分からないため息をついていた。
梟は店主と片づけをしている。
落葉と浮羽は、同じ皿の残りを半分ずつ食べていた。
久夜と巫里が戻ると、梟が最初に気づいた。
「さっきの人は?」
「帰った」
久夜は短く答えた。
「大丈夫なの?」
「分からない」
正直な答えだった。
梟は少しだけ眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに、車椅子を動かして久夜の近くへ来る。
「何か聞いた?」
「少しだけ」
「顔色、悪いけど」
「元からだ」
「違う。嫌なものを見た顔」
久夜は苦く笑った。
「よく見てるな」
「見てるから」
梟は当然のように言った。
その一言で、久夜の胸の重さが少しだけ緩んだ。
だが、すぐに戻る。
「巫里が話してくれる」
その言葉に、店内の空気がわずかに変わった。
砕耀が椅子へ戻る。
鈴木が文句を言うのをやめる。
落葉が浮羽の皿を支えたまま顔を上げる。
凪佐は帰るタイミングを逃した顔をした。
「僕、聞いた方がいい話?」
凪佐が弱々しく言う。
巫里は即答した。
「聞きたくないなら帰って構いません」
「帰る」
梟が凪佐を見る。
凪佐は座り直した。
「……はい、聞きます」
砕耀が笑う。
「弱えな」
「弱いんだよ。知ってるでしょ」
ラナが机から顔を上げる。
「なに? ごはん?」
「違う」
久夜が言う。
「昔話だ」
ラナは眠そうに目をこすった。
「古い話、眠くなる?」
「たぶん」
「じゃあ起きる」
「普通逆だろ」
「大事そうだから」
ラナは姿勢を正そうとして、半分失敗した。
巫里は店の中央に立った。
白い外套の裾に、まだ治療薬の匂いが残っている。
彼女は医者だった。
だが、その瞬間だけは、医者というより、古い戦場から戻ってきた証人のように見えた。
「先に言っておきます」
巫里は静かに言った。
「これから話すことは、公式記録とは異なります」
久夜は黙って聞いた。
「天界の記録。天理家の教育。観令に残された断片。それらと、私が知る出来事は一致しません」
「巫里は、どこまで知ってるんだ」
久夜が聞く。
巫里は少し考えた。
「私は、長く生きています」
「何歳なの?」
ラナが素直に聞いた。
鈴木が慌てる。
「おい、女に年齢聞くなや」
「なんで?」
「…いや、なんとなく危ない気がする」
巫里は表情を変えずに言った。
「おおよそ二百九十年です」
店内が静かになった。
ラナは目を丸くする。
「にひゃく……?」
「九十年です」
「巫里、すごく大人」
「大人という言葉では少々足りませんね」
鈴木が小声で言う。
「もう伝説じゃねえか」
巫里は鈴木を見た。
「年齢で患者の処置優先度は変わりません」
「俺は何も言ってねえ」
「言いました」
「聞こえてたのかよ」
砕耀は腕を組んだ。
「二百九十ってことは、亜神戦争より前か」
「はい」
巫里は答えた。
「私は、その時代を知っています」
その声が、少しだけ低くなった。
「亜人が生まれ始めた時代も。亜人が処分対象になった時代も。亜人が居場所を失っていった時代も」
浮羽が小さく落葉の袖を握った。
「処分って、なに?」
落葉は答えに詰まる。
巫里が代わりに言った。
「ここでは人を、人として扱うのをやめる言葉としておきます」
浮羽は理解しきれない顔をした。
それでも、嫌な言葉だということだけは分かったらしい。
落葉の袖を握る指が少し強くなった。
巫里は話を続けた。
「赫天が世界を統一した後、亜人が生まれ始めました」
久夜は眉を動かす。
「世界統一の後?」
「はい。すぐに戦争になったわけではありません。最初の亜人が生まれ、そこからおよそ五十年後に亜神戦争が始まりました」
「五十年……」
久夜は呟いた。
天理家の教育では、亜人は初めから世界の秩序を乱す危険な存在として語られた。
どこから現れ、どう生き、いつ追い詰められたのか。
そんなことは教えられなかった。
巫里は言う。
「初期の亜人は、思っているほど嫌われていませんでした」
その言葉に、久夜は顔を上げる。
「差別は少なかったのか」
「まったくなかったわけではありません。異質なものへの恐れはありました。ですが、世界統一後の人々は疲れていました。多くの者が家族を失い、国を失い、名前を失っていた。誰もが何かしら壊れていた時代です」
巫里は遠くを見る。
「だからこそ、亜人もまた、壊れた世界の一部として受け入れられた」
ラナは小さく聞いた。
「最初は、仲良くできてたの?」
「少なくとも、できていた場所はありました」
巫里の声は淡々としていた。
だが、その奥には確かな温度があった。
「人間の子と亜人の子が同じ場所で遊ぶこともありました。亜人の職人が地上の工房で働くこともあった。天界に上がった亜人もいました。すべてが平等だったとは言いません。ですが、最初から戦争だったわけではありません」
久夜は息を呑んだ。
天理家で聞いた歴史と違う。
そこにいたのは、愚かな反逆者たちではない。
最初から暴れる怪物でもない。
生まれて、馴染もうとして、生きようとしていた者たちだった。
「何が変わった」
久夜が聞いた。
巫里は一瞬だけ沈黙した。
その沈黙は、ただ記憶を探しているだけではなかった。
言葉を選んでいる沈黙だった。
「公式記録では、亜人が秩序を乱すようになったとされています」
「秩序を?」
「はい。理性を抑えられず暴走した。集団で暴力行為を行った。公共施設を破壊した。天界の管理に従わなくなった。そう記録されています」
「実際は?」
巫里の目が、わずかに鋭くなる。
「私は、その記録を信じていません」
店内が静かになった。
巫里は続ける。
「もちろん、暴動はありました。破壊もありました。亜人の中にも、怒りや恐怖に呑まれた者はいました。ですが、それは結果です。原因ではありません」
「原因は何だ」
久夜が聞く。
巫里はすぐには言わなかった。
そして、慎重に言葉を置いた。
「私は、観令が関わっていたと考えています」
その場にいる全員の空気が変わった。
観令。
世界を監視し、記録し、裁定するもの。
久夜たちは、その名前をもう単なる制度として聞けなくなっていた。
慧悟が遠くで調べているもの。
総流社や保安社の記録と食い違うもの。
見ているはずなのに見ず、見なくていいものを見ているもの。
巫里は言った。
「断定はできません。当時の私には、観令の仕組みを調べる力などありませんでした。ですが、ある時期から急に、亜人に対する判定が変わった」
「判定?」
「危険性評価。行動監視。社会適応指数。暴走予測。そういった名目の記録です」
巫里の声に、わずかに苦味が混じる。
「それまで人として扱われていた者たちが、数値で分けられ始めました。危険、要観察、隔離推奨、処分対象」
浮羽がびくりとした。
落葉がその肩を抱く。
巫里はそれに気づき、少しだけ声を柔らかくした。
「名前より先に、分類が来るようになったのです」
久夜は拳を握った。
「処分対象って……何をしたんだ」
「何もしていない者もいました」
巫里は言った。
「将来危険になる可能性がある。理性が不安定になる恐れがある。集団化すれば秩序を乱す恐れがある。そういう理由で、管理され、隔離され、場合によっては消されました」
ラナは小さく言った。
「まだ何もしてないのに?」
「はい」
「ひどい」
「ええ」
巫里は頷く。
「ひどいことでした」
彼女は淡々としていた。
だが、その淡々さがかえって重かった。
怒りを通り越して、何度も同じ傷を見てきた者の声だった。
「当然、亜人は反発しました。最初は抗議でした。デモでした。処分をやめろ、家族を返せ、隔離施設を開けろ。そういう声でした」
「それが反乱にされた」
梟が言った。
巫里は彼女を見る。
「はい」
梟は唇を噛んだ。
「都合が良いね」
「はい。とても」
巫里は否定しなかった。
「亜人が声を上げれば、秩序を乱したと記録される。記録されれば、さらに管理が強くなる。管理が強くなれば、抵抗が増える。抵抗が増えれば、処分対象が増える」
砕耀が低く言った。
「流れが腐ってやがる」
「腐敗は、最初から腐敗の顔をしていません」
巫里は答えた。
「安全。予防。秩序。管理。そういう清潔な言葉で始まります」
久夜は黙っていた。
清潔な言葉。
安全。
予防。
秩序。
管理。
天理家の屋敷で、何度も聞いた言葉だった。
そこには血の匂いがなかった。
痛みの声もなかった。
ただ白い紙と、整えられた言葉だけがあった。
その下で、誰かが消えていた。
「そして、亜神戦争が始まりました」
巫里は言った。
店内に、静かな重みが落ちる。
亜神戦争。
その名は久夜も知っていた。
だが知っているだけだった。
天理家で語られるそれは、天界の秩序を守るための戦いだった。
理性を失った亜人たちが、地上と天界を脅かした。
それを天界と天理家、そして赫天が鎮めた。
単純な話だった。
善と悪。
秩序と反乱。
天界と亜人。
だが、巫里の語る歴史は違う。
そこには、処分された者がいた。
抗議した者がいた。
分類された者がいた。
名前を奪われた者がいた。
久夜は静かに言った。
「祝福の星」
巫里の目が、久夜へ向いた。
「聞いたことがありますか」
「ああ」
久夜は頷く。
「天理家にいた時に聞いた。天界に反旗を翻した亜人のリーダー。愚かで、恐ろしくて、赫天に討たれた存在だと」
巫里の表情は変わらなかった。
けれど、ほんのわずかに、彼女の指が動いた。
「そう語られるでしょうね」
「違うのか」
「天界から見れば、そうだったのでしょう」
巫里は答えた。
「ですが、私たちから見れば違います」
私たち。
その言葉に、久夜は気づく。
巫里は、ただ歴史を語っているのではない。
彼女はそちら側にいた。
亜人側に。
処分対象にされた者たちの側に。
天界から秩序を乱す者と呼ばれた側に。
「皆さんに分かりやすく言うなら、祝福の星」
巫里は静かに言った。
その言い方には、わずかな抵抗があった。
「ですが、私は本来その名で呼ぶべきではないと思っています」
ラナが首を傾げる。
「どうして?」
「彼には、名前がありました」
巫里の声が、少しだけ低くなる。
「祝福の星などという、天界の恐怖が亜人たちの希望が世界がつけた名ではなく。彼を呼ぶための名前が」
誰もその名を聞かなかった。
聞いてはいけないような気がした。
巫里も言わなかった。
彼女は知っている。
だが、まだ言わない。
その沈黙の中に、死者への礼のようなものがあった。
「彼は、亜人たちの将軍でした」
巫里は続ける。
「天界の記録では、亜人を扇動した危険な反逆者です。ですが、私が見た彼は違いました」
久夜は息を止める。
私が見た。
その言葉の重さが違った。
巫里は、祝福の星を文献で知っているのではない。
誰かから聞いただけでもない。
見ていた。
同じ時代に。
同じ戦場で。
「彼は、前に立つ人でした」
巫里は言った。
「亜人を戦わせるために後ろから命じる者ではありません。いつも前にいました。誰よりも傷つき、誰よりも血を流し、それでも後ろにいる者を振り返った」
彼女の目が、ほんのわずかに揺れた。
「私は軍医でした」
店内が静まり返る。
「彼と共に前線へ出ました。私は、英雄譚が作られる場所を見ていました」
巫里は少しだけ目を伏せた。
「正確に言えば、英雄譚などという綺麗なものではありません。実際の戦場は、泥と血と悲鳴です。腕が飛び、名前が分からなくなり、助けられる者より助けられない者の方が多い」
彼女の声は冷静だった。
だが、その冷静さは治療室の冷たさではない。
何度も血に触れた者の冷たさだった。
「それでも、彼が前に立つと、兵たちは立ち上がりました」
久夜は何も言えなかった。
「彼が強かったからだけではありません。彼が、逃げるなと命じたからでもありません」
巫里は言う。
「彼は、後ろにいる者の名前を覚えていました」
ラナが小さく顔を上げる。
「名前?」
「はい。兵士の名前。負傷者の名前。村の子供の名前。亡くなった者の名前。彼はよく覚えていました」
巫里は続ける。
「名前を覚えられることは、処分対象と呼ばれた者たちにとって、大きな意味を持ちました」
浮羽が、自分の胸元を握った。
「鍵じゃなくて?」
落葉の表情が痛む。
巫里は浮羽を見て、ゆっくり頷いた。
「鍵ではなく。番号ではなく。危険度でもなく。名前です」
浮羽は小さく呟いた。
「名前……」
落葉がその手を包む。
「浮羽」
落葉は呼んだ。
浮羽は顔を上げる。
「あなたは、浮羽」
浮羽は少しだけ笑った。
「うん。浮羽」
巫里はその様子を見て、わずかに目を細めた。
それから話を戻す。
「祝福の星は、天界にとって恐怖でした。亜人たちにとっては、希望でした」
「英雄だったのか」
久夜が聞く。
巫里は少しだけ考えた。
「私は、英雄という言葉を簡単には使いません」
彼女は言った。
「英雄という言葉は、死者を飾るためにも、生者を戦場に送るためにも使われます。便利で、危険な言葉です」
砕耀が頷く。
「確かにそうだな」
「ですが」
巫里は続けた。
「それでも、彼を英雄と呼ぶ者がいたことは否定しません」
そこには、巫里自身の主観が混じっていた。
完全な中立ではない。
彼女は祝福の星側に立っている。
それは医者として歴史を語る者として正しい距離ではないのかもしれない。
だが、彼女は見たのだ。
処分対象と呼ばれた者たちが、彼の背中を見て立ち上がるところを。
死ぬのが怖いと泣いた兵士が、彼に名前を呼ばれてもう一度前を向くところを。
怪物と呼ばれた子供が、彼の大きな手に頭を撫でられて泣き崩れるところを。
だから、声が少しだけ偏る。
それは偏りではなく、傷の形だった。
久夜は静かに聞いた。
「赫天とは、どうなった」
巫里は目を閉じた。
「戦いました」
短い答えだった。
「赫天と、祝福の星が?」
「はい」
「赫天が勝ったんじゃないのか」
「天理家の記録では、そうでしょう」
久夜の眉が動く。
「実際は?」
「相討ちです」
店内の空気が止まった。
久夜は言葉を失った。
赫天が勝ったのではない。
相討ち。
天理家の祖。
世界を統一した王。
畏怖によって秩序を築いた存在。
その赫天と、祝福の星は相討ちになった。
「その戦いの後、赫天は長い眠りにつきました」
巫里は言った。
「力を使い果たしたのです。あるいは、世界を見る力を失ったのかもしれません」
「祝福の星は?」
久夜が聞く。
巫里は答えなかった。
その沈黙は、知らないからではない。
知っているからこそ、言わない沈黙だった。
「今は、まだ話したくありません」
巫里は言った。
「順序があります」
慧悟の言葉のようだった。
だが、巫里のそれは知識人の計算ではない。
医者として、傷口を一気に開かないための順序だった。
「久夜」
巫里は彼を見た。
「あなたが天理家で学んだ歴史は、完全な嘘ではありません」
「……どういう意味だ」
「嘘だけで歴史は残りません。事実を混ぜるから、長く残るのです」
巫里は淡々と言う。
「赫天は世界を統一しました。亜神戦争は起きました。祝福の星は天界に反旗を翻しました。そこまでは事実です」
そして、少しだけ声を強めた。
「ですが、その事実の並べ方が違うのです」
久夜は黙っていた。
「誰が先に奪ったのか。誰が先に名前を消したのか。誰が先に処分対象と呼んだのか。誰が声を反乱と記録したのか」
巫里は言った。
「そこを変えれば、英雄は反逆者になります。虐殺は治安維持になります。救済は暴動になります」
梟が低く言う。
「便利だね、記録って」
「はい」
巫里は頷く。
「だから私は、記録だけを信じません。傷を見ます。傷は、記録より正直です」
久夜は自分の手を見た。
包帯が巻かれている。
その下には傷がある。
自分の傷は分かりやすい。
血が出る。
痛む。
治れば跡が残る。
だが、歴史の傷は見えない。
天理家は、それを白い布で覆う。
祝福という名をつける。
反逆という言葉で縫い止める。
秩序という薬を塗り、痛みそのものをなかったことにする。
巫里はそれを剥がそうとしている。
ゆっくりと。
全部ではなく、少しずつ。
久夜は口を開いた。
「護は、亜神戦争で戦わなかったのか」
巫里は久夜を見る。
「本人がそう言いましたか」
「逃げたって言ってた」
「なら、本人の言葉を尊重します」
「本当は違うのか」
巫里は答えなかった。
しばらくして、静かに言う。
「戦えなかった者を、戦わなかった者と同じに扱うのは暴論です」
久夜はその言葉を受け止めた。
「護は、自分を老害と言っていた」
「彼は自分を許していません」
「何を?」
「生き残ったことを」
巫里の声は冷たくも、優しくもなかった。
ただ正確だった。
「戦場では、死者より生者の方が罰を受け続けることがあります」
凪佐が小さく呟いた。
「嫌な話だね」
「はい」
巫里は頷く。
「嫌な話です」
そこで、店内に沈黙が落ちた。
ラナはもう眠そうではなかった。
浮羽は自分の名前を確かめるように、落葉の手を握っている。
砕耀は珍しく冗談を言わない。
梟は久夜を見ている。
久夜は、何も見ていないようで、遠くを見ていた。
天理家の歴史が崩れていく。
だが、それはただの破壊ではない。
崩れた下から、人の名前が出てくる。
護。
巫里。
祝福の星。
まだ語られない、本当の名。
久夜はようやく言った。
「俺は、何を信じればいい」
巫里は少しだけ首を横に振った。
「急いで信じる必要はありません。それは他人に決めてもらうことではありませんから」
「でも、知らなきゃ戦えない」
「知識は武器になります。ですが、未消化の知識は毒にもなります」
巫里は久夜の包帯を見る。
「傷も同じです。開いたばかりの傷口に、薬を流し込みすぎれば壊れます。洗い、止血し、縫い、待つ。順序があります」
「俺は患者か」
「はい」
即答だった。
久夜は思わず苦笑した。
「そこは迷わないんだな」
「あなたは全身が問題です。身体も、立場も、知識も」
「ひどい言い方だ」
「いえ、正確です」
砕耀が笑った。
「やっぱ医者って嫌いだわ」
「あなたの検診はまだ終わっていません」
砕耀の笑みが消えた。
「嘘だろ」
「本当です」
「俺は治ってる」
「まだ言いますか」
「言うだろ。治ってるんだから」
「再生していることと問題がないことは違います」
「その話、さっき聞いたぞ」
「理解していないので繰り返しています」
重かった空気が、少しだけ緩んだ。
ラナが小さく笑う。
浮羽も、よく分からないまま笑った。
梟はため息をつき、久夜の包帯を軽く押さえた。
「久夜もあとで診てもらいなよ」
「俺はもう診られた」
「心の方」
「それ巫里の担当か?」
「全部患者って言ってたから担当でしょ」
巫里は否定しなかった。
「必要なら診ますよ」
「どうやって」
「長く話を聞きます」
久夜は顔をしかめた。
「カウンセリングは嫌だな」
「逃げる患者が多い治療です」
凪佐が小さく手を上げる。
「あ、僕も逃げていい?」
「あなたは帰って寝なさい」
「やった」
梟が見る。
凪佐はすぐに座り直した。
「……まだいます」
◇
夜が近づいていた。
カフェの外には、冥下の湿った暗さが戻り始めている。
空衡社が空を失っても、空そのものはまだそこにあった。
高く、遠く、重く、誰のものでもない顔をして。
久夜は窓の外を見た。
天理家で聞いた祝福の星は、愚かな反逆者だった。
巫里が語った祝福の星は、名前を奪われた者たちの前に立った将軍だった。
どちらも、誰かの語った歴史だ。
だが、巫里の声には傷があった。
天理家の白い講堂にはなかったものだ。
久夜はそれを無視できなかった。
巫里は、片づけられた治療器具を布で包んでいた。
その手元は正確だった。
軍医だった手。
祝福の星と共に前線へ出た手。
処分対象と呼ばれた者たちの傷を縫った手。
久夜はその手を見て、聞いた。
「巫里」
「何でしょう」
「いつか、その名前を教えてくれるか」
巫里の手が止まった。
祝福の星。
天界がつけた名ではない。
彼を呼ぶための、本当の名前。
巫里はしばらく黙っていた。
やがて、静かに答える。
「安心して下さい。あなたがあの方の名前を知る日も近いはずです。ですので今しばらく準備をして待っていてください」
「準備って何だ?」
「その名を、武器にしないことです」
久夜は黙った。
「怒りで呼ばないこと。利用するために呼ばないこと。天理家への反発だけで呼ばないこと」
巫里は久夜を見る。
「名前は、死者の墓でも、反逆の旗でもありません。その人が生きていた証です」
久夜はゆっくり頷いた。
「分かった」
「今は、それで十分です」
巫里は治療器具を包み直した。
久夜はもう一度、窓の外を見た。
空はまだ落ちていない。
けれど、自分の中の空は少し変わっていた。
赫天は一人ではなかった。
祝福の星は、ただの反逆者ではなかった。
亜神戦争は、秩序と暴力の単純な話ではなかった。
そして観令は、ただ見ているだけではなかったのかもしれない。
知らなかったことが、増えていく。
知らなければならないことが、増えていく。
久夜は拳を握った。
怒りではない。
まだ名前のない感情だった。
悔しさ。
疑い。
恐れ。
それでも知りたいという衝動。
そのすべてが混ざっていた。
巫里は最後に、独り言のように言った。
「祝福という言葉ほど、残酷に使われた名を、私は多く知りません」
誰も返事をしなかった。
カフェの灯りだけが、静かに揺れていた。
その灯りの中で、久夜は初めて思った。
天理家を壊すだけでは足りない。
隠された名前を、取り戻さなければならない。
世界の真実は、まだ白い布の下にある。
そしてその布の端を、今、巫里がほんの少しだけめくったのだ。




