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白いカラス  作者: シンドゥー


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23/31

王の友

 空衡社は、空を失った。


 会社が消えたわけではない。


 本社はまだ天界上層に残っている。

 白い管理棟も、空域観測用の端末も、数えきれない補助塔も、社員も、記録も、空衡社という名の看板も残っている。


 だが、空を命令する権利は失われた。


 第1制御塔は折れた。

 第2制御塔は奪われた。

 衛星兵器は砕かれた。

 第一鍵は命令を捨てた。

 第二鍵は鍵ではなくなった。


 それだけで十分だった。


 空衡社本部の会議室には、まだ白い灯りがついていた。


 透明な会議卓。

 磨かれた白石の床。

 空を管理する企業にふさわしい、雲の上のような部屋。


 そこにいる者たちは、誰一人として空を見ていなかった。


 彼らが見ていたのは、卓上に映る文字列だけだった。


『第2制御塔関連権限、天理家直轄へ移行』


『空衡社上層部の全管理権限を停止』


『軌道兵器無断使用の記録を回収中』


『第一鍵、命令応答なし』


『第二鍵、接続断』


『第2制御塔、空衡社制御権喪失』


 会議長は、唇を噛んでいた。


「もう一度言う。再接続しろ!」


 誰も動かない。


「第一鍵に命令を送れ」


 誰も答えない。


「月代浮羽を再拘束しろ」


 その言葉を出した瞬間、会議室の空気が変わった。


 役員の一人が小さく言う。


「その命令は、禁止されています」


「誰にだ」


「天理家です」


 会議長の顔が歪む。


「空衡社の資産だ」


「その言葉は、もう使わない方がいい」


「なんだと」


「第一鍵と第二鍵を資産と呼んでいた記録も、審議対象に含まれています」


 沈黙が落ちた。


 誰も反省していなかった。

 ただ、追及されることを恐れていた。


「まだだ」


 会議長は言った。


「空衡社には補助塔がある。空域管理データも残っている。天理家直轄など一時措置だ。審議が終われば、我々は――」


 会議室の端で、金属がきしむ音がした。


 アークドライブが立ち上がっていた。


 二メートル半に届く巨体。

 脳以外はすべて機械。

 背中に接続された巨大な機械装置が、低い駆動音を鳴らしている。


 彼は陽光の王により切られた会議卓に映る文字列を眺め、退屈そうに言った。


「まだ自分たちが会議してると思ってるのか」


 会議長が睨む。


「貴様は何もしていない」


「仕事分はしたはずだが」


「第2制御塔は奪われた」


「俺の仕事は、お前らの無能をなかったことにすることではない」


 アークドライブは会議卓に金属の指を置いた。


 透明な卓が、わずかに軋む。


「第1制御塔を折られた。第2制御塔を奪われた。衛星兵器は砕かれた。第一鍵は命令を聞かない。第二鍵は外れた。保安社も止められなかった」


 彼は会議室を見回した。


「空衡社が空を管理する理由は、もうない」


「黙れ」


「黙ってほしけりゃ、金を払え。仕事なら黙ってやる」


 アークドライブは肩をすくめる。


「でも今回の依頼はもう終わってる。仕事にもならない」


 その時、会議室の扉が開いた。


 誰も入ってこない。


 ただ、新しい通達だけが届いた。


『空衡社上層役員の全権限を即時停止』


『空域管理補助網を天理家直轄監査下へ移行』


『第一鍵および第二鍵の再拘束命令を禁止』


『違反した場合、反逆支援行為として処理する』


 会議長の顔から血の気が引いた。


 彼らはようやく理解した。


 自分たちはまだ空を支配しているつもりだった。

 まだ部下に命令できるつもりだった。

 まだ第一鍵と第二鍵を取り戻せるつもりだった。


 だが、もう何も届かない。


 命令は塔へ届かない。

 衛星は動かない。

 保安社も応じない。

 第一鍵も第二鍵も戻らない。


 空衡社は、空の所有者ではなくなった。


 アークドライブは会議室を出ようとして、最後に振り返った。


「陽光の王が言ってたな」


 会議室の誰もが顔を上げる。


「次はない、って」


 アークドライブは笑わなかった。


「本当になかったな。」


 次の瞬間、彼の姿が消えた。


 自身の時間だけを加速させ、誰の目にも映らない速度で会議室を去った。


 残されたのは、空を失った者たちだけだった。


   ◇


 久夜たちはいつものカフェへ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。


 戻った、というより、流れ着いたと言った方が近かった。


 久夜は肩と脇腹に包帯を巻かれている。

 梟の車椅子はところどころ歪み、銃身には焦げ跡があった。

 鈴木は腕に火傷を負い、ラナは眠りかけたまま歩いている。

 凪佐小平は何度も「もう帰っていい?」と聞き、そのたびに梟に無言で睨まれていた。


 砕耀だけは、外見上ほとんど無傷だった。


 衛星兵器を砕いた時、全身が壊れた。

 骨も筋肉も裂けた。

 宝珠の心は燃え尽きる寸前まで力を吐いた。


 だが、今の砕耀の身体には傷跡すらほとんど残っていない。


 再生能力が規格外なのだ。


 彼自身は、それを当然のように思っている。


「だから言ったろ。俺は不死身だって」


 カフェの椅子にどかりと座り、砕耀は笑った。


 その前に、巫里が立っている。


 彼女は治療器具を並べ、淡々と言った。


「砕耀、服を脱ぎなさい」


「は?」


「検診をします」


「意味ねえだろ。見ろよ。治ってる」


「再生していることと、問題がないことは違います」


「いや、治ってるだろ」


「あなたは何もわかっていません。」


 巫里は冷たく言い切った。


「あなたは自分を無敵だと思っている患者です。医師にとって、最も面倒な分類です。この手の患者が後戻りできないとこまで症状が悪化してから助けを求めに来る。」


 砕耀は顔をしかめる。


「だが無敵なのは事実だろ」


「それを患者が言うから問題なのです」


「俺、患者じゃねえし」


「先ほど衛星兵器を受け止めて全身損傷した人間を、患者でないと呼ぶ文化は知りません」


「もう治った」


「治ったように見えるだけです」


 砕耀は深くため息をついた。


「巫里、お前本当に面倒くせえな」


「治療は面倒なものです。あなたたちが壊しすぎるから、なおさらです」


 砕耀は不満そうにしながらも、結局検診を受けた。


 彼にとっては意味のない確認に思えた。

 だが巫里にとっては違う。


 再生する身体だからこそ、確認がいる。


 痛みを無視する者ほど、壊れ方に鈍くなる。

 無敵だと思っている者ほど、死に近い場所へ平然と踏み込む。


 巫里はそれを知っていた。


 だから、砕耀がどれだけ嫌そうな顔をしても手を止めなかった。


「宝珠の心拍が通常より高いです」


「戦った後だからな」


「再生後の出力低下が遅い」


「強いってことだろ」


「危険ということです」


 砕耀は顔をそむけた。


「医者は嫌いだ」


「結構です。好かれるために治療していません」


 店の奥では、久夜が巫里とは別の簡易処置を受けていた。


 梟が彼の左手を取っている。


 小さな裂傷に薬を塗り、包帯を巻く。


 久夜は少しだけ顔をしかめた。


「痛い」


「生きてる証拠」


「巫里みたいなこと言うな」


「便利な言葉だったから借りただけ」


 梟は淡々と言いながらも、手つきは丁寧だった。


 包帯を巻き終えると、彼女は小さく息を吐く。


「今回、本当に死ぬかと思った」


「俺も」


 梟は一瞬だけ久夜を見た。


 強気な目だった。


 けれど、その奥にまだ恐怖の名残がある。


 ブラックホールに吸い込まれかけた時の感覚。

 撃てないものがあると理解した瞬間の無力感。

 何もできず、ただ車椅子ごと引きずられる恐怖。


 梟は視線を落とした。


「撃てないものがあるの、嫌い」


 久夜は答えに迷った。


 すると梟が続ける。


「だから次は、撃てるものを撃つ」


「十分頼りにしてる」


「それじゃ足りない」


 梟は包帯の端を結ぶ。


「もっと当てる」


 久夜は笑った。


「お前らしいな」


「でしょ」


   ◇


 月代落葉と浮羽は、店の奥の席にいた。


 落葉は鎧を脱いでいる。


 完全にではない。身体を支える一部の装具はまだ残っていた。

 だが兜も双剣も、壁際に置かれている。


 今の彼女は、双落の騎士ではなかった。


 妹の隣に座る姉だった。


 浮羽は椅子に座らされ、目の前の皿をじっと見ている。


 白いケーキ。


 赤い果物。

 小さな銀のフォーク。

 塔の中にはなかったもの。


 浮羽は真剣に聞いた。


「これ、落ちない?」


 ラナが隣で頷く。


「落ちないよ」


「ほんと?」


「たぶん」


「たぶん?」


 浮羽が不安そうな顔をする。


 落葉がすぐに皿を支えた。


「落ちない。私が持ってる」


「お姉ちゃんが持ってるなら落ちない」


「うん」


「じゃあ食べる」


 浮羽はフォークを持とうとした。


 指がうまく曲がらない。

 落葉がそっと手を添える。


「ゆっくり」


「こう?」


「うん。そう」


「落ちない?」


「落ちない」


 小さな一口をすくうだけで、長い時間がかかった。


 浮羽はそれを口に入れ、ゆっくり噛む。


 そして、目を少しだけ開いた。


「あまい」


 落葉の表情が崩れた。


「うん」


「あまいね」


「うん」


「塔の水と違う」


 店の中が、一瞬だけ静かになった。


 落葉は浮羽の髪を撫でる。


「これから、もっと食べよう」


「毎日?」


「毎日は身体に悪いかな」


 巫里が遠くから言う。


「その通りです」


 浮羽はそちらへ顔を向けた。


「だめ?」


「毎日はだめです」


「じゃあ、時々?」


「時々なら大丈夫です」


 浮羽は落葉を見る。


「時々だって」


「うん。時々」


「お姉ちゃんも?」


「一緒に食べる」


 浮羽は安心したように頷いた。


「一緒ならいい」


 ラナはその様子を見ながら、自分のケーキを少しだけ浮羽の皿に寄せた。


「これも食べる?」


 浮羽は首を傾げる。


「いいの?」


「うん」


「ラナの分、減るよ」


「いいよ。私はまた頼むから」


「また来る?」


「来る」


「私も来る?」


「来る」


 浮羽は落葉の袖を握った。


「お姉ちゃん、また来る?」


「来よう」


「ケーキも、時々?」


「時々」


 浮羽は満足そうに笑った。


   ◇


 流星は窓際に立っていた。


 外の空を見ている。


 彼だけが、先ほどのブラックホールがどれほど危険だったかを正確に理解していた。


 あれはただの暴走ではない。

 小さな少女の身体から、空間そのものが一点へ落ちようとしていた。

 数秒遅れれば、塔も、久夜たちも、浮羽自身も残らなかった。


 久夜が近づく。


「浮羽のこと、どうする」


 流星はしばらく外を見たまま答えなかった。


 やがて、静かに言う。


「ここに置くには危険すぎる」


「だよな」


「閉じ込めるべきではない。だが、今すぐ自由にしていい力でもない」


 流星は久夜を見る。


「しばらく、私が見る予定だ」


 落葉が反応した。


 浮羽の肩を抱く手に力が入る。


「あなたが?」


「そうだ」


「空衡社と同じことをしない保証は」


「言葉だけなら、いくらでも保証できる」


 流星は淡々と言う。


「だが、それでは意味がない。君が見ればいい」


「私が?」


「浮羽のそばにいてくれ。私の工房でも、私の管理下でも、君が納得しないことはしない」


 落葉は黙った。


「彼女を鍵として扱わない。兵器としても扱わない。ただ、制御の練習は必要だ。あれは本人の意思とは関係なく、世界を傷つける」


 浮羽が小さく手を上げた。


「空を曲げた人?」


 流星は頷く。


「そうだ」


「落ちないようにしてくれた人?」


「そうだ」


「お姉ちゃんも一緒?」


「一緒でいい」


 浮羽は落葉を見る。


「じゃあ、こわくない」


 落葉はまだ警戒していた。


 だが、浮羽の声は少しだけ安心している。


 落葉は静かに頭を下げた。


「……浮羽を、お願いします」


「お願いされるほどのことではないさ」


 流星は短く答えた。


「それに、預かるとは置くことではない。暮らすことだ」


 浮羽が瞬きをする。


「暮らす?」


「食べて、寝る。少し練習して、また食べる」


「ケーキも?」


「好きなだけ食べるといい」


 巫里がすかさず言う。


「時々です」


 浮羽は少し残念そうに頷いた。


「時々か」


 落葉はその横顔を見て、ほんの少し笑った。


 「ただその前に両親に会うといい」


 「え、」


 落葉が驚く。


 「君たちの両親が地上で生活してることは黎明の星から聞いている。浮羽の暴走が心配なら私も同行しよう」


「よろしくお願いします」


 落葉は改めて頭を下げた。


   ◇


 慧悟は、カフェにはいなかった。


 学者の城を守るために、彼は余計な場所へ出向かない。

 久夜たちに協力することと、自分の城を危険に晒すことは別だった。


 だから彼は、遠く離れた学者の城の地下にいた。


 閉鎖された解析室。

 外界との通信を絞り、観令の死角に近い回線だけを残した空間。


 その中で、慧悟は砕耀から送られた記録を見ていた。


 総流社の隠し倉庫から奪った記録。

 保安社の旧採掘区で拾った指令ログ。

 第1制御塔の残骸から回収された通信痕跡。

 観令照合外の命令群。


 断片ばかりだった。


 だが、断片は嘘をつかない。


 慧悟は画面を切り替える。


 観令が見ていたはずの時間に、見ていないものがある。

 裁定されるべき異常が、裁定されていない。

 逆に、人間にとっては些細なものが、異常なほど強く記録されている。


 保安社の実命令と、観令の記録が一致していない。


 誰かが隠したのではない。


 もっと不自然だった。


 まるで、観令そのものが選んでいる。


 見るものと、見ないものを。


 消すものと、残すものを。


 慧悟は小さく呟いた。


 指が止まる。


「やはり意思か」


 その声は、誰にも届かない。


 画面の奥で、観令照合外の文字列が静かに点滅していた。


 慧悟は端末を閉じなかった。


 休息は、久夜たちの場所にある。


 だが、彼の前にあるのは、世界の底へ続く歪みだった。


   ◇


 夕方。


 久夜はカフェの外へ出た。


 店内は少しだけ落ち着いていた。

 ラナは机に突っ伏して眠っている。

 鈴木は火傷の処置を受けながら文句を言っている。

 砕耀は検診から逃げようとして巫里に捕まっている。

 梟は店主と片づけをしていた。

 落葉と浮羽は、同じ皿のケーキを半分ずつ食べている。


 久夜は短い階段の前で足を止めた。


 そこに、一人の老人がいた。


 小さな背中。

 古い服。

 細い手。

 手すりに掴まり、一段ずつ時間をかけて階段を上っている。


 息が荒い。


 足元も危なかった。


 久夜は自然に声をかけた。


「大丈夫か、じいさん」


 老人は振り向かない。


「大丈夫じゃ」


 声は弱い。


 久夜は階段を降り、老人の横に立つ。


「手、貸すぞ」


「いらん」


「無理してるだろ」


「年寄りはだいたい無理して生きとるものだ」


「それはそうかもしれないけどな」


 久夜は少し笑って、手を差し出した。


 老人は仕方なさそうに顔を上げる。


 そして、久夜の顔を見た。


 その瞬間、老人の表情が変わった。


 血の気が引く。

 目が見開かれる。

 手すりを握る指が震える。


「……赫天」


 声にならないほど小さな呟き。


 久夜は眉をひそめた。


「何?」


 老人は一歩下がろうとした。


 だが階段で足がもつれ、倒れかける。


 久夜が慌てて支えようとする。


「危ない!」


「触るな!」


 老人は叫んだ。


 弱々しい身体から出たとは思えないほど、切実な声だった。


 久夜の手が止まる。


 老人は荒く息をしながら、久夜から目を逸らした。


「すまん……すまん。お前さんが悪いんじゃない」


「俺、何かしたか」


「しておらん。何もしておらん」


 老人は震える声で言う。


「ただ、顔が……似とった」


 久夜はすぐに分かった。


 天理赫天。


 天理家の祖。

 世界を統一した王。

 天理家で、久夜が何度も見せられてきた顔。


「赫天に?」


 老人は答えなかった。


 答えないことが、答えだった。


 久夜は少し距離を取る。


「悪かった。近づかない」


「違う。わしが悪いんじゃ。昔を勝手に怖がっただけじゃ」


 老人は手すりにしがみつきながら、情けなく笑った。


「わしみたいな老害が、若いもんの顔を見て逃げようとする。笑えるじゃろ」


「笑えねえよ」


「…そうか」


 その時、店の扉が開いた。


 巫里が出てくる。


 彼女は老人を見て、足を止めた。


 久夜はその表情に気づく。


 巫里が、わずかに驚いている。


「あなたは…」


 巫里の声が低くなる。


「まだ死んでいなかったのですね」


 老人は嫌そうに顔をしかめた。


「相変わらず医者は嫌な言い方をする」


「事実を確認しただけです」


「それが嫌なんじゃ」


 久夜は二人を見る。


「知り合いか」


 巫里はすぐには答えなかった。


 老人も黙っていた。


 やがて、老人が小さく頭を下げた。


「藍勝護」


 その名を聞いても、久夜はすぐには反応できない。


 老人は続ける。


「昔は、そう名乗っておった」


 巫里が静かに言った。


「鋼青の星」


 久夜の目が変わる。


「え?」


 星。


 その言葉の重さを、久夜はもう知っている。


 光年の星。

 死蝕の星。

 災焔の星。

 偶愛の星。


 そして、鋼青の星。


 だが目の前の老人は、とても星には見えなかった。


 階段に怯え、手すりに掴まり、久夜の顔を見ただけで逃げようとした老人。


 護は久夜の視線に気づき、困ったように笑った。


「そんな顔をするな。わしにも分かっとる。星なんぞ、もう似合わん」


 巫里が言う。


「星は、本人が似合うと思うから残るものではありません」


「難しい話はやめてくれ。わしは頭がよくない」


 護は少し咳き込む。


 巫里が即座に近づこうとするが、護は手で制した。


「大丈夫じゃ。階段で疲れただけじゃ」


「その時点で大丈夫ではありません」


「相変わらず手厳しい」


「患者が相変わらず無茶を言うからです」


 久夜は護を見つめた。


「赫天を知ってるのか」


 護の肩がわずかに震える。


「知っとる」


「どういう関係だった」


 護はすぐには答えなかった。


 赫天という名が出るたび、彼は少しだけ遠くを見る。

 そこには恐怖があった。

 後悔もあった。

 そして、懐かしさもあった。


 やがて、護は言った。


「戦友だった」


 久夜は目を細める。


「戦友?」


「ああ。共に戦ったのだ世界と」


「赫天と?」


「そうじゃ」


 久夜は思わず言った。


「赫天は、一人で世界と戦ったんじゃないのか」


 護が久夜を見る。


 その顔に、今度は怯えではなく、苦い諦めが浮かんだ。


「天理家では、そう教えとるのか」


「……そうだ」


 久夜の声は低かった。


「赫天は己の身一つで世界と戦った。孤独の英雄として世界を統一した。そう聞かされてきた」


 護は目を閉じた。


「そうか」


 短い言葉だった。


 だが、その中に長い時間があった。


「まあ、そうするわな」


「どういう意味だ」


「一人の英雄にした方が、都合がいい」


 護は手すりを握り直す。


「赫天は一人で戦ったんじゃない。わしらがいた」


 久夜は黙る。


「八人いた」


 護は言った。


「赫天を含めて、八人で世界と戦った」


 風が吹いた。


 冥下の湿った風。


 久夜の中で、天理家の歴史が音を立ててずれた。


 赫天は孤独の英雄ではなかった。


 世界を一人で背負った王ではなかった。


 戦友がいた。


 仲間がいた。


 そして、その存在は消されていた。


「なぜ隠した」


 久夜が聞く。


 護は弱々しく笑う。


「わしに聞くな。わしは隠した側じゃない」


「でも分かるだろ」


「少しはな」


 護は遠くを見る。


「赫天を孤独の王にした方が、天理家には都合がいい。戦友がいたとなれば、世界を変えたのは赫天だけではなくなる。赫天以外の願いや、後悔や、失敗も残る」


 護は首を横に振る。


「それに、あいつ自身は……真実を消したかったわけじゃないはずじゃ」


「赫天が?」


「ああ」


 護は少しだけ声を落とした。


「赫天は残した。いつか誰かが、世界の真実を知るように。あいつはそういうものを、書き残したはずじゃ」


 久夜は思い出す。


 天理家で見せられた赫天の言葉。

 畏怖を重んじ、王として世界を統べた者の記録。


 だが、そこに戦友の話はなかった。


 赫天が何を願い、何を悔い、何を残そうとしたのか。

 久夜は知らない。


 知らされていない。


「じゃあ、俺が知ってる赫天は何なんだ」


 護は答えに困ったように眉を下げた。


「天理家が見せたかった赫天じゃろ」


 その言葉は難しくなかった。


 だが、重かった。


 久夜は黙った。


 護は慌てるように言う。


「すまん。わしは頭がよくない。うまく言えん。ただ、あいつは一人じゃなかった。それだけは本当じゃ」


「八人の一人が、あんたか」


「昔はな」


「今は?」


 護は自嘲する。


「今は階段も怖い老害じゃ」


「老害って言うな」


「事実じゃ」


「事実でも言うな」


 護は久夜を見る。


 赫天に似た顔。


 けれど、赫天ではない顔。


 護は小さく息を吐いた。


「怖いんじゃ」


 久夜は何も言わない。


「赫天に会うのが怖い。あいつを止められなかったことも怖い。若いもんがまた戦っているのを見るのも怖い」


 護は手すりに視線を落とす。


「わしは、逃げてばかりじゃ」


 巫里が静かに言う。


「逃げ続けて生き残ったことを、無価値とは言いません」


「医変な慰めはいらん」


「慰めではありません。診断です」


 護は苦笑した。


「本当に嫌な医者じゃ」


「あなたも本当に面倒な患者です」


 久夜は少しだけ笑った。


 そして、護から距離を取ったまま言う。


「階段、上るんだろ」


「……ああ」


「手は貸さない。近づくなって言われたからな」


 護は久夜を見る。


「でも横で待つ」


 久夜はそう言った。


 護はしばらく黙った。


 そして、弱々しく笑った。


「顔は似とるが、言うことは少し違うな」


「赫天と?」


「ああ」


「嫌か」


「怖い」


「正直だな」


「年寄りは嘘をつく体力もなくなる」


 護は手すりを握り、一段ずつ階段を上った。


 久夜は少し離れた場所で、同じ速度で歩く。


 巫里はその後ろから、いつでも支えられる距離でついてくる。


 鋼青の星。


 その背中は小さかった。


 だが、久夜はもう笑えなかった。


 この老人は、天理家が消した歴史の中にいた。


 赫天の隣にいた。


 世界と戦った八人の一人だった。


 久夜が知っていた歴史は、また一つ崩れた。


 空衡社の塔のように。


 白く、美しく、正しいものの顔をしていた歴史が、音を立てて割れていく。


 その先に何があるのか、久夜はまだ知らない。


 ただ一つだけ分かる。


 天理家が語った赫天は、赫天のすべてではない。


 そして、赫天の真実を知る者が、まだ生きている。


 階段を上りきった護は、荒い息を吐きながら呟いた。


「疲れた」


 巫里が言う。


「座ってください」


「命令か」


「医療指示です」


「同じじゃろ」


 久夜は扉を開ける。


 カフェの中から、温かい匂いが流れてきた。


 焼いたパン。

 甘い菓子。

 薬草の匂い。

 血の匂いも少し。


 生きている匂いだった。


 護はその匂いを吸い込み、少しだけ目を細めた。


「……まだ、こういう場所があるんじゃな」


 久夜は答えなかった。


 護は重い腰をゆっくり上げ立ち去った。


 久夜と巫里はその小さな背中をただ見守っていた。


 護は老いた足取りで。


 星には見えない背中で。

 

 それでも、確かに世界の真実を抱えたまま。

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