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白いカラス  作者: シンドゥー


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22/31

外伝 月の姉妹

 月代落葉(つきしろおちは)が最初に覚えた妹の重さは、腕の中の軽さだった。


 高校一年生になったばかりの落葉は、六歳の浮羽(うきは)を膝に乗せていた。


 浮羽は同じ年頃の子どもよりも小さく、細かった。


 手足にはほとんど力がなく、少し長く歩いただけで息を切らす。


 熱を出すことも多かった。


 学校へ通える日より、家で過ごす日の方が多い。


 それでも浮羽は、不幸そうには見えなかった。


「お姉ちゃん、もう一回」


 浮羽は落葉の胸に身体を預けながら、ピアノを指さした。


「もう一回弾くの?」


「うん」


「浮羽、眠そうだよ」


「眠くない」


 そう答えた直後、浮羽は小さなあくびをした。


 落葉は笑った。


「眠そう」


「今のは、ちがう」


「何が違うの?」


「息を大きく吸っただけ」


「そういうことにしておこうか」


 落葉は浮羽を抱き上げ、ピアノの前へ連れていった。


 妹の身体は軽かった。


 軽すぎて、少し力を入れれば壊れてしまいそうだった。


 落葉は椅子に座り、その隣へ浮羽を座らせる。


「浮羽は、ここを押して」


 落葉が一つの鍵盤を指した。


「一つだけ?」


「一つだけ」


「お姉ちゃんは、いっぱい弾くのに?」


「この音がないと、曲が完成しないから」


 浮羽は白い鍵盤を見つめた。


「私が押さないと、完成しない?」


「うん」


「じゃあ、押す」


 落葉が弾き始める。


 浮羽は真剣な顔で、自分の番を待った。


 指が震えている。


 鍵盤を押すだけでも、浮羽には力が必要だった。


 曲の途中。


 落葉が目を向けると、浮羽は小さな指で鍵盤を押した。


 一つの音が加わる。


 落葉はその音に合わせ、旋律を続けた。


 曲が終わる。


 浮羽はすぐに落葉を見上げた。


「できた?」


「できたよ」


「ちゃんと曲になった?」


「浮羽がいたから、曲になった」


 浮羽は嬉しそうに笑った。


 月代家には、こうした時間が多かった。


 両親は落葉にも浮羽にも優しかった。


 落葉がバレエを習いたいと言えば、応援してくれた。


 ピアノを習いたいと言えば、家に楽器を置いてくれた。


 学校で役目を任された時も、試験で良い成績を取った時も、運動で表彰された時も、結果だけではなく努力を褒めてくれた。


 浮羽が体調を崩せば、治療を受けさせることができた。


 天界で暮らせるほどの権力はなかった。


 だが、地上で家族四人が不自由なく生きていくには十分な暮らしだった。


 落葉は恵まれていることを知っていた。


 だからこそ、自分にできることを誰かへ返したいと思っていた。


 人から注目されたいわけではない。


 舞台の中心に立ち、自分だけを見てほしいわけでもなかった。


 音楽や踊りによって、言葉にできないものを誰かへ届けることが好きだった。


 自分の動きで空気が変わる。


 一つの音で、誰かが笑う。


 同じ場所にいる者たちの気持ちが、ほんの一瞬だけ重なる。


 落葉は、その瞬間が好きだった。


   ◇


 高校で初めて大きな舞台に立った日、浮羽は会場に来られなかった。


 朝から熱があった。


 浮羽は布団の中で、何度も謝った。


「ごめんね」


「謝らなくていいよ」


「お姉ちゃん、いっぱい練習したのに」


「浮羽が悪いわけじゃないでしょう?」


「でも、見たかった」


「じゃあ、帰ってきたら見せるね」


「ここで?」


「ここで」


 落葉は約束どおり、舞台を終えてから真っすぐ家へ帰った。


 リビングの机を端へ寄せる。


 椅子も移動させる。


 両親は何も聞かず、笑いながら場所を空けてくれた。


 浮羽は毛布に包まれ、ソファに座っている。


「お姉ちゃん、疲れてない?」


「少しだけ」


「じゃあ、休んでいいよ」


「大丈夫」


 落葉は浮羽の前に立った。


「今日のお客さんは、浮羽だけだから」


「私だけ?」


「一番良い席だよ」


 音楽を流す。


 落葉は学校の舞台で踊ったものと同じ踊りを、妹一人のために踊った。


 広い舞台ではない。


 照明もない。


 衣装も着ていない。


 観客は一人だけ。


 それでも落葉は、学校で踊った時よりも丁寧に身体を動かした。


 浮羽が見失わない速さで。


 浮羽が疲れない長さで。


 最後の動きを終える。


 浮羽は毛布の中から、弱い力で手を叩いた。


「きれい」


「ありがとう」


「お姉ちゃん、飛んでた」


「飛んではいないよ」


「飛んでるみたいだった」


 浮羽は少し考えるように首を傾けた。


「お姉ちゃんは、軽いね」


 落葉は笑った。


「浮羽の方が軽いよ」


「私は重くない?」


「全然」


「抱っこしても大丈夫?」


「何回でも」


 落葉は浮羽を抱き上げた。


 身体はやはり軽かった。


 けれど、落葉にとっては、何よりも大切な重さだった。


   ◇


 高校生活が進むにつれ、落葉は学校の中でも多くの役割を任されるようになった。


 生徒会長。


 式典の代表。


 文化祭の運営。


 運動競技の選手。


 人から頼まれれば、断るより先に何ができるかを考えた。


 頼られることが誇らしいというより、自分にできることで誰かが困らずに済むことが嬉しかった。


 浮羽は、そんな姉の話を聞くことが好きだった。


「今日も前で話したの?」


「少しだけね」


「みんな、お姉ちゃんの話聞いた?」


「聞いてくれたよ」


「すごい」


「原稿を読んだだけだよ」


「でも、私だったら声出ない」


「浮羽は、出したい時に出せばいいよ」


「お姉ちゃんは、怖くないの?」


「怖いよ」


「でも、前に出るの?」


「怖くても、伝えたいことがあるからね」


 浮羽は、その答えをしばらく考えていた。


「私にも、伝えたいことある」


「何?」


「お姉ちゃん、好き」


 落葉は少し驚き、それから笑った。


「私も浮羽が好きだよ」


「ちゃんと伝わった?」


「すごく伝わった」


 浮羽は満足そうに頷いた。


   ◇


 月日は流れた。


 落葉は十九歳になった。


 高校を卒業し、大学への入学も決まっていた。


 入学案内。


 新しい教科書。


 通学に使う鞄。


 それらが落葉の部屋に並んでいた。


 浮羽は九歳になっていた。


 身体の弱さは変わらない。


 長く歩くことはできず、外出には時間がかかる。


 けれど、幼い頃より話す言葉は増えた。


 自分で歩ける距離も少しだけ伸びた。


 落葉の大学合格を祝う日。


 家族四人でケーキを囲んだ。


 浮羽はフォークを持ち、真剣な顔でケーキを見ていた。


「落ちそう」


「大丈夫だよ」


 落葉が手を添える。


「お姉ちゃんが持ってるから」


「落ちない?」


「落ちない」


 浮羽は慎重にケーキをすくい、口へ運んだ。


「あまい」


「美味しい?」


「うん」


 浮羽は、落葉の部屋に置かれた大学の案内を見た。


「お姉ちゃん、大学に行くの?」


「行くよ」


「遠い?」


「毎日帰ってこられるくらい」


「本当?」


「本当」


「帰ったら、一緒にピアノ弾く?」


「弾こうね」


「踊るのも見せてくれる?」


「時間がある日はね」


 浮羽は少しだけ安心したように笑った。


「じゃあ、大学行っていいよ」


「許可してくれるの?」


「うん」


「ありがとう」


 両親が笑った。


 落葉も笑った。


 その時は、大学へ行くことを疑っていなかった。


 家族のもとへ帰ってくることも。


 浮羽とピアノを弾くことも。


 いつか自分の表現を誰かへ届ける仕事に就くことも。


 すべて、これから選べるものだと思っていた。


   ◇


 事故が起きたのは、それから間もない日のことだった。


 落葉は浮羽と二人で散歩をしていた。


 浮羽の体調が珍しく良く、少し遠くまで歩けそうだった。


 信号の前で立ち止まる。


 大きな交差点だった。


 車が並び、人々が信号の変化を待っている。


 浮羽は落葉の手を握っていた。


「少し疲れた?」


「少しだけ」


「向こうで休もうか」


「うん」


 信号が変わる直前。


 浮羽の手から、力が抜けた。


「浮羽?」


 浮羽は空を見ていた。


 その目は、何かを見ているわけではない。


 上も下も分からなくなったように、視線だけが揺れている。


「お姉ちゃん」


「どうしたの?」


「変な音がする」


「音?」


「重い音」


 落葉が浮羽の肩へ触れた。


 その瞬間、浮羽の身体が地面から離れた。


「浮羽!」


 身体が浮く。


 浮羽だけではない。


 交差点に停車していた車のタイヤが、地面から離れた。


 信号待ちをしていた人々の足が浮く。


 自転車が持ち上がる。


 看板が支柱から外れ、空中へ引かれる。


 植木鉢。


 鞄。


 端末。


 街路樹の枝。


 周囲にあるものが、一斉に空へ浮かび始めた。


 悲鳴が上がる。


「何だ!」


「降ろしてくれ!」


「子どもが!」


 浮羽の顔から血の気が引いていた。


「お姉ちゃん、こわい」


「大丈夫」


「止まらない」


「大丈夫だから」


 落葉は浮羽の手を掴んだ。


 浮羽の異理。


 そう理解するまでに、時間はかからなかった。


 異理は隠すものだった。


 地上で力を持つ者の多くが、能力の存在を隠して暮らしている。


 知られれば、天界の研究対象にされる。


 危険と判断されれば、保安社に連行される。


 何もしていなくても、治安を乱す可能性があるという理由だけで、日常を奪われる。


 落葉自身も、自分の中にある力を誰にも見せずに生きてきた。


 だが、その時は迷わなかった。


 浮かび上がった人々が、さらに高く持ち上げられている。


 車が横転しながら空中へ浮く。


 建物の窓が軋む。


 地面に固定されていたものまで、少しずつ浮き始めていた。


 落葉は重力を広げた。


 見えない力が交差点を覆う。


 浮き上がった人間を、一人ずつ地面へ引き戻す。


 強く落とせば怪我をする。


 落下速度を調整する。


 車の下に人がいる。


 車体を空中で固定し、人を地面へ戻してから、ゆっくりと車を下ろす。


 看板が落ちる。


 軌道をずらす。


 窓ガラスが浮く。


 破片が人へ向かわないよう、地面へ縫いつける。


「皆さん、動かないでください!」


 落葉は叫んだ。


 普段の穏やかな声ではない。


 それでも、言葉だけは敬語だった。


「今、戻します。慌てないでください!」


 浮羽の力は弱まらなかった。


 むしろ、強くなっていく。


 浮羽の背後に、黒い点が生まれた。


 針の穴ほどの、小さな黒。


 落葉はそれを見た瞬間、理解した。


 あれは危険だった。


 理由を考える必要はなかった。


 身体の奥にある何かが、逃げろと叫んでいた。


 黒い点の周囲で、光が歪んでいる。


 浮かんでいた小石が、黒い点へ引かれた。


 消えた。


 次に金属片が引かれる。


 細長く歪み、音もなく飲み込まれた。


「浮羽、私を見て」


「止まらない」


「私を見て」


「みんな、浮いてる」


「浮羽」


「黒いの、出た」


 黒い点が少しだけ大きくなる。


 交差点を走っていた大型トラックが引かれた。


 車体の前部が持ち上がり、黒い点へ向かう。


 トラックの側面には、空衡社の紋章が描かれていた。


 落葉は片腕をトラックへ向ける。


 もう片方の腕で、浮羽を抱き寄せた。


 人々を地面へ戻す。


 車を固定する。


 建物を沈める。


 黒い点を押さえる。


 同時にすべてを行う。


 落葉の腕から血が流れた。


 骨が軋む。


 視界が白くなる。


 それでも力を緩めなかった。


「浮羽、大丈夫」


「お姉ちゃん、痛い?」


「痛くないよ」


「嘘」


「大丈夫だから」


 落葉は黒い点へ、自分の出せるすべての重力を集中させた。


 押し潰す。


 閉じ込める。


 あらゆる方向へ広がろうとする力を、一点へ縛る。


 空衡社のトラックが黒い点へ飲み込まれる。


 車体の前半分が、一瞬で消えた。


 切断されたのではない。


 そこに存在していた部分だけが、最初からなかったように失われた。


 黒い点が、さらにトラックを飲み込もうとする。


「消えてください!」


 落葉が叫んだ。


 重力が収束する。


 黒い点が揺れた。


 周囲の空間が軋む。


 次の瞬間。


 黒い点が消えた。


 浮かんでいたものが落ち始める。


 落葉は残った力を使い、人々と車を最後まで地面へ戻した。


 誰も地面へ叩きつけられなかった。


 建物も倒れなかった。


 怪我人もいなかった。


 最後の一人が地面へ降りたのを確認してから、落葉は膝をついた。


 浮羽が落葉へ抱きつく。


「お姉ちゃん」


「大丈夫」


「ごめんなさい」


「浮羽は悪くないよ」


「でも、私がやった」


「浮羽がしたかったことじゃないでしょう?」


「みんな、こわかった」


「浮羽も怖かったよね」


 落葉は震える妹を抱きしめた。


 助かった。


 誰も死んでいない。


 浮羽も無事だった。


 落葉は安堵した。


 同時に、これまで感じたことのない恐怖が胸に広がった。


 浮羽は小さかった。


 身体が弱く、一人で遠くへ歩くことも難しい。


 ピアノの鍵盤を押すだけでも、力が必要な子だった。


 その妹の中に、街を壊せるほどの力がある。


 世界から一部を消せるほどの力がある。


 そして、その力が知られてしまった。


   ◇


 数日後。


 月代家を訪れたのは、保安社の天使ではなかった。


 空衡社の者だった。


 白い服。


 整えられた髪。


 穏やかな笑顔。


 月代家の応接室で、男は両親へ丁寧に頭を下げた。


「先日の件につきましては、人的被害が確認されなかったことを、弊社としても喜ばしく思っております」


 落葉は両親の隣に座っていた。


 浮羽は別室で休んでいる。


「車両の件は、申し訳ありませんでした」


 落葉が頭を下げる。


「私たちの方で、可能な限り弁償いたします」


「その必要はございません」


 男は優しく答えた。


「弊社所有車両の損失については、事故として処理することが可能です」


 落葉の父親が息を吐いた。


「では、今回の件は」


「ただし」


 男の声は変わらなかった。


 表情も穏やかなままだった。


「同様の現象が再発した場合、弊社の管轄内だけで処理することは困難になります」


 母親の顔が強張る。


「どういう意味でしょうか」


「保安社への報告義務が発生します」


 部屋が静かになった。


「未制御異理による大規模事故。空間消失現象。周辺住民への危険。これらを踏まえれば、浮羽さんは保安社の管理対象となる可能性が高いでしょう」


 落葉は男を見る。


「浮羽を、連れていくということですか」


「我々としても、そのような結末は望んでおりません」


 男はあくまで優しかった。


「幼いお子様を、保安社の管理施設へ送るべきではないと考えています」


「では、どうすればよいのでしょうか」


「弊社の施設で、能力制御の訓練を受けていただきたい」


 男は落葉へ視線を向けた。


「落葉さんにも、ご協力をお願いしたいと考えております」


「私にも?」


「浮羽さんの現象を止めたのは、あなたですね」


 落葉は否定しなかった。


「妹さんの反重力現象と、落葉さんの重力現象。二つの能力は互いに干渉し、抑制し合う可能性があります」


 机の上に資料が置かれた。


「数か月程度の訓練です」


「数か月」


「能力を安全に制御するための訓練。それに、最低限の研究協力をお願いしたい」


 父親が資料を見る。


「研究というのは」


「健康検査や能力測定が中心です。危険なことはいたしません」


 男は微笑んだ。


「大学についても、休学手続きを弊社が支援します。訓練終了後には、元の生活へ戻れるよう最大限配慮いたします」


 正しい提案に聞こえた。


 浮羽を保安社から守る。


 能力を制御できるようにする。


 落葉も一緒にいられる。


 大学にも戻れる。


 だが、落葉には分かっていた。


 選択肢ではない。


「拒否した場合は?」


 男は少しだけ沈黙した。


「今回の事故を、正式な手順で保安社へ報告することになります」


「浮羽だけですか」


「公衆の面前で異理を使用した落葉さんについても、調査対象となるでしょう」


 両親の表情が変わる。


 男は静かに続けた。


「我々は、月代家の皆様にとって最も穏当な方法をご提案しています」


 落葉は資料を見た。


 浮羽の顔が浮かぶ。


 怖かったと泣いていた妹。


 自分のせいだと謝っていた妹。


 保安社の施設へ、一人で送るわけにはいかなかった。


「分かりました」


 落葉は言った。


「協力します」


 母親が落葉を見る。


「落葉」


「大丈夫です」


 落葉は笑った。


「数か月ですから」


 その言葉を、落葉自身が一番信じたかった。


   ◇


 空衡社の施設へ入った初日。


 落葉と浮羽は、同じ部屋に入れられた。


 白い壁。


 白い床。


 窓はない。


 必要最低限の家具だけが置かれている。


 浮羽は落葉の袖を掴んでいた。


「ここで寝るの?」


「そうみたいだね」


「お姉ちゃんも?」


「一緒だよ」


「お父さんとお母さんは?」


「訓練が終わったら会えるよ」


「いつ?」


「すぐだよ」


 その日の夜は、同じ部屋で眠ることができた。


 二日目から、検査が始まった。


 浮羽の身体に端子がつけられる。


 落葉にも同じものがつけられる。


 重力出力。


 反重力出力。


 接続率。


 抑制率。


 異理発生時の脳波。


 呼吸。


 心拍。


 恐怖反応。


 空衡社の者たちは、ほとんど姉妹を見なかった。


 画面に表示される数字だけを見ている。


「浮羽、苦しくない?」


「少し」


 落葉が職員へ向き直る。


「本日の検査は、あとどの程度続くのでしょうか」


「第一対象は発言を控えてください」


 落葉は一瞬、言葉を失った。


「第一対象?」


「検査上の識別名です」


「名前で呼んでください」


 職員は落葉を見なかった。


「検査を継続します」


 数日後。


 落葉は第一対象ではなく、第一鍵と呼ばれるようになった。


 浮羽は第二鍵だった。


「第二鍵、出力を上げろ」


「浮羽は疲れています」


「第一鍵。発言は許可していない」


「身体に負担が出ています」


「第二鍵の出力を上げろ」


「これ以上は危険です」


 職員が端末を操作した。


 落葉と浮羽の間に、透明な壁が降りる。


「お姉ちゃん」


「浮羽、大丈夫だよ」


「近くに来て」


「今行くから」


「第一鍵。所定位置へ戻れ」


 落葉は壁へ手をついた。


「妹を休ませてください」


「第二鍵の出力が規定値へ達していない」


「浮羽は人間です」


「運用上、その区別は不要だ」


 落葉の目が揺れた。


「何を言っているのですか」


「第一鍵。位置へ戻れ」


「浮羽を休ませてください」


「従わない場合、第二鍵の制御試験を保安社部隊のみで継続する」


 壁の向こう。


 浮羽の周囲に、白い装甲の兵士たちが入ってくる。


 浮羽が怯え、落葉を呼ぶ。


「お姉ちゃん」


 落葉は拳を握った。


「……分かりました」


「第一鍵。応答形式が違う」


 落葉は唇を噛んだ。


「第一鍵、命令に従います」


 壁が上がる。


 落葉は浮羽のもとへ行き、その身体を抱きしめた。


「ごめんね」


「お姉ちゃん、悪くない」


「怖かったね」


「うん」


「もう大丈夫だから」


 落葉は職員を見た。


 その時には、もう敬語以外の感情を表へ出さなくなっていた。


   ◇


 姉妹が別々の部屋に移されたのは、施設へ入って一か月後だった。


「姉妹間の接触が測定値へ影響している」


 それが理由だった。


 親への連絡は、最初の数回だけ許された。


 通話は常に録音されていた。


 横には職員が立っている。


「元気にしている?」


 母親の声。


「はい。問題ありません」


「浮羽は?」


「元気です」


 本当は、その日の浮羽は検査中に倒れていた。


 落葉は言えなかった。


 言えば通話を切られる。


 両親が空衡社へ抗議すれば、浮羽との面会を減らされる。


「大学の手続きは大丈夫なの?」


「空衡社の方が対応してくださっています」


「早く帰ってきてね」


「はい」


 通話が終わる。


 落葉が職員を見る。


「浮羽に会わせてください」


「本日の面会予定はない」


「約束では、検査後に会えることになっています」


「計画は変更された」


「理由を教えてください」


「第一鍵に説明する必要はない」


 次の週から、親への通話もなくなった。


「ご家族への連絡について、確認してもよろしいでしょうか」


「不要だ」


「両親は心配しています」


「第一鍵の精神安定に不要な外部接触と判断された」


「私の精神状態を決めるのは、私ではないのですか」


 職員は画面から目を離さなかった。


「第一鍵に意思決定権はない」


   ◇


 浮羽との連絡は、壁越しの音だけになった。


 同じ区画にいる。


 だが、会うことはできない。


 夜。


 落葉が白い壁の前に座っていると、反対側から小さな音がした。


 こつ。


 一度だけ。


 落葉は顔を上げる。


 壁へ指を当て、同じように叩く。


 こつ。


 少し間を置いて、また音が返ってきた。


 こつ。


 落葉も返す。


 こつ。


 幼い頃、二人でピアノを弾いた。


 浮羽は一つの音しか担当できなかった。


 それでも、一つがなければ曲は完成しなかった。


 壁を挟んだ二つの音は、音楽とは呼べない。


 それでも姉妹にとっては、互いがまだそこにいることを確かめる曲だった。


「浮羽」


 声は届かない。


 落葉は壁に額をつけた。


「お姉ちゃんは、ここにいるよ」


 反対側から、もう一度だけ音がした。


   ◇


 施設での生活は、訓練という言葉から少しずつ離れていった。


 第一鍵と第二鍵は、空衡社の設備へ接続された。


 浮羽の異理を発生させる。


 落葉が重力で抑える。


 浮羽を不安にさせる。


 出力を測定する。


 落葉を疲弊させる。


 抑制限界を測定する。


 姉妹のどちらかが倒れるまで続ける。


 倒れれば治療する。


 再び使えるようになれば、同じ実験を行う。


 空衡社にとって休息とは、労わるための時間ではなかった。


 再使用できる状態へ戻るまでの待機だった。


 保安社の部隊も同じように使われた。


 浮羽の異理を受けた兵士が壁へ叩きつけられる。


 装甲が潰れ、腕が曲がる。


 兵士が動けなくなると、空衡社の職員は表情も変えずに命令した。


「第三班を下げろ。第四班を投入」


 負傷者が運び出される。


 代わりの兵士が入ってくる。


 落葉は職員を見る。


「今の方の治療は」


「保安社の管轄だ」


「重傷です」


「次の試験を開始する」


「人が怪我をしているのですよ」


「運用可能数は残っている」


 落葉は言葉を失った。


 空衡社は、姉妹だけを道具として扱っているのではなかった。


 保安社の兵士も。


 施設の作業員も。


 輸送機も。


 衛星兵器も。


 塔も。


 空も。


 すべて、壊れるまで使うものだった。


 壊れれば交換する。


 交換できないものだけを、重要資産と呼ぶ。


 落葉と浮羽は、交換できないから鍵と呼ばれているだけだった。


 人間として大切にされているわけではない。


   ◇


 落葉の身体能力は、空衡社にとって都合が良かった。


 長身。


 柔軟性。


 正確な重心移動。


 舞踊で磨かれた姿勢。


 音に合わせて動く感覚。


 空衡社は、それらを戦闘へ転用した。


 最初に渡されたのは、二本の訓練剣だった。


「第一鍵。武装を持て」


「私は戦うために来たのではありません」


「第一鍵の役割は第二鍵の保護と制御だ」


「そのために、なぜ剣が必要なのですか」


「第二鍵を奪おうとする者を排除するためだ」


「そのような人がいるのですか」


「質問は不要だ」


 訓練は始まった。


 回る。


 踏み込む。


 軸足を沈める。


 身体の線を崩さず、二本の剣を振るう。


 落葉が誰かへ何かを届けるために磨いた動きは、人を制圧するための動きへ変えられた。


 バレエで覚えた回転は、周囲を斬るために使われた。


 ダンスで磨いた重心移動は、重力場の中を歩くために使われた。


 人へ見せるために伸ばした指先は、剣の柄を握った。


 落葉の戦いは、空衡社の兵士たちから美しいと評された。


「舞のようだ」


 訓練を見ていた職員が言った。


 落葉は答えなかった。


 それを美しいとは思えなかった。


   ◇


 空衡社の施設に入ってから半年が過ぎた頃。


 落葉は大学について尋ねた。


「私の休学期間について、確認してもよろしいでしょうか」


 職員は端末を操作した。


「在籍は終了している」


 落葉は聞き間違えたと思った。


「……終了とは、どういう意味でしょうか」


「長期運用が決定したため、不要な外部所属を整理した」


「退学したということですか」


「そうだ」


「私は、その手続きに同意していません」


「第一鍵の同意は必要ない」


 落葉はしばらく何も言えなかった。


 入学案内。


 新しい教科書。


 通学用の鞄。


 家族で食べたケーキ。


 浮羽との約束。


 大学から帰ったら、またピアノを弾くはずだった。


「数か月と聞いていました」


「当初の予定だ」


「元の生活へ戻れると」


「状況が変わった」


「両親は、このことを知っているのですか」


「外部への情報共有は行っていない」


「連絡させてください」


「不要だ」


「私の人生です」


 職員は初めて落葉を見た。


 その目に、怒りも悪意もなかった。


 本当に理解していない目だった。


「第一鍵に、施設外の人生は必要ない」


 落葉は、自分の未来が消えたことを、その一言で知らされた。


   ◇


 ある日。


 検査室の端末に、空衡社のものではない映像が流れていた。


 職員が消し忘れた広告映像だった。


 画面の中で、一人の少女が笑っている。


 チセラ。


 歌手。


 配信者。


 アイドル。


 落葉も名前だけは知っていた。


 天界にも地上にも冥下にも、その姿があると言われる存在。


 映像の中のチセラは、画面の向こうへ向けて話していた。


『今日も、ここにいてくれてありがとう』


 落葉の足が止まった。


 誰に向けられた言葉なのかは分からない。


 不特定多数へ向けた言葉だ。


 それでも、その時の落葉には、自分へ言われたように聞こえた。


 ここにいていい。


 必要だから置かれているのではない。


 運用できるから生かされているのではない。


 ただ、そこにいることを肯定する言葉。


 落葉は画面を見つめた。


 チセラになりたいわけではなかった。


 歌手になりたいわけでもない。


 ただ、自分の意思で人前に立ちたかった。


 踊りでも。


 演技でも。


 言葉でも。


 誰かへ何かを届ける仕事をしたかった。


 画面の中の少女は、自分の表情で笑っている。


 自分の声で話している。


 命令された第一鍵ではない。


 落葉は、もう諦めたはずの未来を思い出した。


「お姉ちゃん」


 背後から浮羽の声がした。


 珍しく、検査の移動中に同じ部屋へ入れられていた。


 浮羽も画面を見ている。


「この人、きれい」


「そうだね」


「歌う人?」


「歌ったり、お話をしたりする人だよ」


「お姉ちゃんも、こういうのしたかった?」


 落葉は答えられなかった。


 浮羽は落葉の手を握った。


「お姉ちゃん、踊るの好きだった」


「覚えてるの?」


「私だけに踊ってくれた」


 落葉の胸が痛んだ。


「また見たい」


「……ここでは、できないよ」


「少しだけ」


 浮羽は弱く笑った。


「私だけのお客さん」


 落葉は周囲を見た。


 職員はいない。


 監視カメラはある。


 それでも、落葉はほんの少しだけ身体を動かした。


 音楽はない。


 衣装もない。


 白い検査着。


 狭い床。


 落葉は一度だけ回った。


 昔、浮羽のために踊った時と同じように。


 浮羽は小さく手を叩いた。


「きれい」


 落葉は笑った。


 その瞬間、映像が消えた。


 扉が開く。


 空衡社の職員が立っていた。


「第一鍵。不要な動作をするな」


 落葉の笑みが消える。


「浮羽が見たいと言っただけです」


「第二鍵に娯楽は必要ない」


「この程度で検査に影響はありません」


「第一鍵にも娯楽情報は必要ない」


 端末の電源が切られた。


「移動しろ」


 落葉は浮羽の手を握ったまま歩き出した。


 その日以降、検査区画の端末から外部映像はすべて消えた。


   ◇


 さらに月日が流れた。


 浮羽の出力は強くなった。


 黒い点が生まれる回数も増えた。


 落葉は、そのたびに消した。


 腕が壊れた。


 脚が折れた。


 神経が焼けるような痛みが走った。


 それでも止めた。


 浮羽を危険物として処理させないために。


 空衡社が保安社部隊を投入する前に。


 浮羽自身が、自分の力で傷つかないように。


「第一鍵、出力を上げろ」


「これ以上は、浮羽の身体が持ちません」


「第二鍵の損傷許容範囲内だ」


「浮羽は部品ではありません」


「第一鍵。命令に従え」


「拒否します」


「第二鍵を単独試験へ移行する」


 落葉は黙る。


 それを言われれば、従うしかなかった。


「……第一鍵、命令に従います」


 少しずつ、落葉は反論をしなくなった。


 怒らなくなった。


 大学のことも聞かなくなった。


 両親のことも聞かなくなった。


 未来のことを考えなくなった。


 考えれば、苦しくなる。


 苦しめば、判断が遅れる。


 判断が遅れれば、浮羽が傷つく。


 だから落葉は、自分の心を殺した。


 喜びも。


 怒りも。


 夢も。


 名前も。


 浮羽を守るために必要のないものから、順番に捨てた。


   ◇


 白銀の鎧を着せられた日。


 落葉は鏡の前に立っていた。


 全身を覆う重装鎧。


 顔を隠す兜。


 二本の剣。


 重力接続具。


 鏡の中に、月代落葉はいなかった。


 舞台に立ちたかった少女も。


 大学へ行くはずだった学生も。


 浮羽のためにピアノを弾いた姉も。


 白い鎧に包まれ、命令を待つ道具だけがいた。


『第一鍵、応答してください』


 通信が入る。


 落葉は答えなかった。


『第一鍵、応答してください』


 兜の中で、落葉は目を閉じた。


 この命令を拒めば、浮羽との接触を奪われる。


 浮羽の制御を保安社部隊に任せると言われる。


 空衡社が浮羽を壊れるまで使うことを、落葉はもう知っていた。


 通信の向こうから、小さな声が聞こえた。


『……お姉ちゃん?』


 落葉の表情が変わる。


「浮羽」


『お姉ちゃん、いる?』


「いるよ」


『どこ?』


「ここにいるから」


『声だけ?』


 落葉は拳を握った。


「今は声だけ」


『また会える?』


「会えるよ」


『ほんと?』


「ほんとだよ」


『待ってる』


「うん。少しだけ待っててね」


 浮羽への通信が切れる。


 空衡社の音声が戻る。


『第一鍵、応答してください』


 落葉は目を開けた。


 顔から感情を消す。


 声から温度を消す。


 浮羽の姉ではなく。


 月代落葉ではなく。


 空衡社が望む鍵として答えた。


「……第一鍵、応答します」


   ◇


 三年後。


『第一鍵、戦闘を継続せよ』


 落葉は動かなかった。


『第一鍵、天理久夜を排除しろ』


 双剣を下ろした。


『第一鍵、月代浮羽の再拘束を支援――』


 落葉の重力が通信塔を潰した。


「黙れ」


 それは、第一鍵の声ではなかった。


 双落の騎士の声でもなかった。


 月代落葉の声だった。


 白い扉の向こうから、浮羽が現れる。


「……お姉ちゃん?」


 落葉は兜を外した。


「浮羽」


「声だけじゃない?」


「声だけじゃないよ」


「ここにいる?」


「ここにいる」


 落葉は妹の手を取った。


 細い。


 軽い。


 けれど、温かい。


 三年前と変わらない、大切な重さだった。


「帰ろう、浮羽」


「どこに?」


 落葉は答えられなかった。


 家へ帰れるのか。


 両親がどこにいるのか。


 大学へ戻れるのか。


 自分に何が残っているのか。


 何一つ分からない。


 それでも、もう空衡社が決めることではなかった。


「まだ、分からない」


 落葉は妹の手を握り直した。


「でも、一緒に決めよう」


「お姉ちゃんと?」


「うん。一緒に」


 浮羽は小さく頷いた。


 第一鍵は、もういなかった。


 第二鍵も、もういなかった。


 白い塔の下にいたのは、月代落葉と月代浮羽。


 奪われた時間を取り戻すため、初めて自分たちの未来を選ぼうとする、二人の姉妹だけだった。

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