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白いカラス  作者: シンドゥー


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21/31

全てを飲み込む黒き虚空

 第1制御塔が堕ちる、その数秒前。


 白い塔の内部では、誰にも見えない侵入が起きていた。


 砕耀が宝珠の大剣を振り上げた時。


 凪佐が双落の騎士を正面橋へ引きつけていた時。


 梟が固定具を撃ち抜き、ラナが小さな留め金を落とし、土龍たちが地下から物理回線を切断していた時。


 天城慧悟は、遠く離れた場所で、空衡社の制御層を見ていた。


 慧悟の前には、無数の線が流れている。


 第1制御塔の内部回線。


 地上側の認証経路。


 天界側の監視系統。


 衛星兵装の待機信号。


 重力補正の変動記録。


 第1制御塔から第2制御塔へ流れていく同期信号。


 それらは血管に似ていた。


 だが、慧悟はそれを血管とは呼ばなかった。


 血管は、まだ生き物のものだからだ。


 空衡社の制御層はもっと乾いている。


 生きている人間を通しているくせに、そこに生命の匂いがない。


 彼にとって、それは病巣に近かった。


「……」


 砕耀の一撃によって、第1制御塔の主柱が裂ける。


 塔の制御系は、自分自身を守るために命令を走らせた。


 損壊区画の切断。


 重力補正の再計算。


 第一鍵との接続維持。


 第二鍵への影響遮断。


 衛星兵装の軌道修正。


 それらが同時に走った瞬間、空衡社の制御層に、ごく小さな空白が生まれた。


 人間でいえば、強い痛みを受けた直後、呼吸と心拍と意識が一瞬だけずれるようなものだ。


 慧悟は、そのずれを待っていた。


 侵入は乱暴ではなかった。


 壁を壊すのではない。


 鍵を盗むのでもない。


 傷口に、細い針を入れるような作業だった。


 抜き取ったのは制御権ではない。


 塔を動かす権限でもない。


 ただの記録。


 だが、その記録が必要だった。


 画面に白い文字が流れる。


 第一鍵。


 接続率、不安定。


 拘束率、低下。


 重力出力、上昇。


 第二鍵。


 覚醒兆候。


 出力抑制。


 塔外移送不可。


 生体登録情報。


 月代落葉。


 月代浮羽。


 慧悟は、その二つの名前を見た。


 表情は変わらない。


 ただ、視線だけがわずかに冷える。


「……人間を鍵にしたか」


 その直後、第1制御塔が折れた。


 画面の半分が白く焼ける。


 回線が乱れ、偽装経路が潰れ、慧悟の仕込んだ観測針も空衡社の制御層から弾き出された。


 それで十分だった。


 必要なものは、すでに抜き取っている。


 慧悟は椅子にもたれ、数秒だけ目を閉じた。


 医者が検査結果を前に、患者へどう告げるべきか考える時のように。


 そして、静かに言った。


「……次は、第2制御塔だ」


   ◇


 久夜たちがその情報を聞いたのは、第1制御塔から戻った後だった。


 砕耀の拠点には、まだ白い粉塵の匂いが残っていた。


 久夜の服には細かな砂が入り込み、梟の車椅子は片側の車輪を修理中だった。


 鈴木の腕部装甲には焦げ跡があり、ラナは毛布を肩にかけたまま、机の端に座っている。


 凪佐は壁際で、細剣を膝の上に置いていた。


 刃は折れていない。


 だが、その手はまだ少し震えていた。


 中央の端末に、慧悟の顔が映る。


 天城慧悟。


 黎明の星。


 世界最高の知能を持つ医者。


 彼は画面越しに久夜たちを見渡し、しばらく何も言わなかった。


 沈黙は、間ではなかった。


 診察だった。


 久夜の呼吸。


 砕耀の再生速度。


 梟の目の動き。


 ラナの指先の震え。


 鈴木の機械腕の応答遅延。


 凪佐の肩の硬さ。


 それらを見てから、慧悟はようやく口を開いた。


「……全員、何とか生存はしているようだな」


 久夜が眉を寄せる。


「確認の仕方が医者っぽくて嫌だな」


「俺は医者だ」


「そうだったな」


 慧悟は画面を切り替える。


 第1制御塔の崩壊映像。


 砕耀の大剣が入り、白い塔の主柱が裂け、空衡社の紋章が真ん中から割れる。


「第1制御塔の破壊は成功した。空衡社の権威にも傷をつけた。そこまでは予定通りだ」


 砕耀が腕を組む。


「なら次は?」


「……第2制御塔だ」


 慧悟の声は平坦だった。


 だが、その平坦さの奥に、わずかな重さがあった。


「ただし、第1制御塔と同じ方法は使えない」


 画面に、第2制御塔の構造図が映る。


 第1制御塔より遥かに大きい白い塔。


 地上と天界を繋ぎ、空に根を張るように伸びている。


 そこから、無数の線が伸びていた。


 重力補正。


 空中輸送。


 衛星兵装。


 地上と天界を繋ぐ昇降路。


 都市浮揚区画の姿勢制御。


 医療輸送。


 気流調整。


 避難経路。


 久夜は黙って画面を見た。


「……デカいな」


「ここの本質は大きさではない」


 慧悟は言った。


「第2制御塔は、空衡社という組織だけでなく、地上の生活そのものが依存している中枢だ」


 梟が目を細める。


「依存」


「そうだ。今はほとんど稼働してないとはいえ第1制御塔は地上と冥下を繋ぐ重要な役割が合った。即ち権威の象徴だった。折れば、支配の信用に傷がつく。だが第2制御塔は違う。あれは空衡社の空域管理権そのものに近い」


 慧悟は塔から伸びる線を一つずつ赤く染めた。


「病院への高高度輸送。浮遊都市の姿勢制御。空中輸送路。衛星兵装の待機位置。天界側への昇降管理。どれも空衡社の支配装置だが、同時に現実の生活を支えている」


 久夜の表情が険しくなる。


「つまり、壊したら空衡社だけじゃ済まない」


「……そうだ」


 慧悟は頷いた。


「第2制御塔を第1制御塔と同じ方法で破壊すれば、空衡社の権威は大きく揺らぐ。だが、それ以上に関係のない人間が落ちる。文字通り、落ちる」


 ラナが小さく息を呑んだ。


 凪佐がぼそりと言う。


「じゃあ、やめよう」


 砕耀が見る。


「早いな」


「壊したらまずい塔を壊しに行くの、普通にやめた方がいいと思う」


「普通はな」


「僕は普通を推したい」


 慧悟は凪佐の弱音を無視した。


「……破壊ではなく、奪取する」


 部屋が静かになる。


 梟が聞く。


「制御権を奪うってこと?」


「一時的にだ。恒久的な支配は無理がある。第2制御塔は空衡社の中枢に近い。奪い続ければ、天界側の管制網と衛星側の認証が順に切断にかかる」


「じゃあ何をする」


 久夜が聞く。


「言うならば手術だ」


 慧悟は言った。


 久夜は少し顔をしかめる。


「また医者の例えか」


「例えではない。構造が近い」


 慧悟は第2制御塔の中心部を指す。


「患者は第2制御塔。病巣は空衡社の管理権。切除対象は第一鍵と第二鍵を縛る接続。患者を殺さず、病巣だけを取る」


 慧悟は本当に、塔を患者として診ていた。


「君たちは第1制御塔を折った成功体験に引きずられている。だが今回は、切断する場所を間違えれば患者ごと死ぬ」


 久夜は黙った。


 慧悟はさらに画面を切り替える。


 二つの名前が表示される。


 月代落葉。


 月代浮羽。


「第1制御塔の破壊直前に抜いた登録情報だ」


 久夜の目が細くなる。


「それは?」


「君たちが双落の騎士と呼んでいた存在。その登録名が、月代落葉。空衡社側の運用呼称は第一鍵」


 梟の手が、車椅子の肘掛けで止まる。


「落葉」


 凪佐は細剣を見下ろしたまま、苦い顔をした。


「あの人、そんな名前だったんだ」


「そして、第二鍵が月代浮羽」


 慧悟は続ける。


「第2制御塔の中枢に接続されている。ログ上の生体情報を見る限り、二人は姉妹、あるいは極めて近い血縁関係にある」


 ラナが小さく言った。


「姉妹を、鍵にしてるの?」


「そうだ」


 慧悟は否定しなかった。


「空衡社の資料では、名前は登録情報に残っているだけだ。運用上は第一鍵、第二鍵。人間として扱う気はない」


 久夜の目が鋭くなる。


「落葉は重力を操る。浮羽も同じなのか」


「似ているが、同じではない」


 慧悟は波形を表示した。


 第1制御塔崩壊時、乱れた重力値の中に、一瞬だけ別の揺らぎが混じっている。


「落葉は重力を縛る。下を定義し、重さを与え、対象を沈める。第1制御塔で君たちが見たものだ」


 画面上で、瓦礫が地面へ叩きつけられる映像が流れる。


「対して、浮羽は落下の向きを外す可能性がある」


 梟が銃の整備を止める。


「向きを外す?」


「落ちる、という現象には前提がある。対象がどこを下だと判断しているか。空間がどこへ繋がっているか。力がどの方向へ逃げるか。浮羽のログは、そこを揺らしている」


 鈴木が顔をしかめた。


「意味が分からん」


「分からなくていい。元より君たちに分かるように説明する気はない」


「終ってるぞコイツ」


 鈴木が少し苛つきながら言う。


「自ら考えることをせず、ただ他者に答えを問う。愚かな事だ」


 慧悟は続ける。


「続けよう。第1制御塔崩壊時、落下中の瓦礫の一部が下ではなく横へ流れた。衛星兵装の軌道も、通常の落下計算から外れている。浮羽の能力は、局所的な空間歪曲に近い」


 ラナの顔が青ざめる。


「それって、私の魔法よりもっと……」


「規模が違う」


 慧悟は即答した。


「君の魔法は落下を扱う。浮羽は、落下先そのものに干渉している可能性がある」


 凪佐が嫌そうに笑った。


「聞けば聞くほど帰りたいね」


「帰るなら今だ」


 砕耀が言う。


「いや、帰らないけど。帰りたいとは言うよ。ほら会社とか学校でみんな早く帰りたいとか言うだろ」


「面倒くせえな」


「ごめん」


 久夜は慧悟を見る。


「第2制御塔を奪うとして、どうやる」


「正面からは不可能だ」


 慧悟はあっさり言った。


「第2制御塔は第1制御塔の比ではない。認証は深く、監視は多層化されている。外から強引に入れば、その時点で閉じる」


「なら無理じゃねえか」


「無理ではない。正面から入るのが無理なだけだ」


 慧悟の指が画面をなぞる。


「塔には通常運用がある。医療輸送、空域補正、衛星連携、保安社との通信、空衡社内部の権限確認。完全に閉じた臓器は存在しない。生きている限り、何かを出し入れしている」


「そこに入るのか」


 梟が言う。


「そうだ。呼吸に紛れる」


 慧悟は、何でもないことのように言った。


「ただし、侵入は簡単ではない。警戒されれば難易度は飛躍的に上昇する。」


「だから俺たちが暴れるのか」


 久夜が言った。


「そうだ」


 慧悟は頷く。


「君たちが正面から攻めれば、空衡社はそこを見る。第一鍵、保安社、塔の防衛網、すべてが君たちへの対応に寄る。その間に私は裏から入る」


 砕耀が腕を組む。


「囮だな」


「45点と言ったところか」


「どう違う」


「囮は捨てるものだ。君たちは捨てない」


 鈴木が嫌そうな顔をする。


「言い方変えても、やることは囮じゃねえか」


「機能としては近いが、扱いが違う」


「扱いねえ」


 その時、画面の端に青い回路図が重なった。


 慧悟の声が、わずかに低くなる。


「……次の戦いもう一つ、問題がある」


 砕耀の表情が変わった。


「何だ」


「アークドライブが空衡社に手を貸した」


 その名が出た瞬間、部屋の空気が沈んだ。


 久夜はその名前に聞き覚えがなかった。


 だが、砕耀と凪佐の反応で、ただの技術者ではないのだと分かった。


「誰だ」


 久夜が聞く。


 慧悟は画面を切り替えた。


 古い戦場記録。


 焼けた都市。


 倒れた反逆者たち。


 その中心に立つ、機械化された影。


「天地戦争で、数多の反逆者を屠った天界側の英雄。反旗の星を討った要だ。脳を除く大半を機械化し、それでも人間としての理性を失わなかった例外個体だ」


 梟が静かに聞く。


「天界では英雄」


「冥下では、反乱が終わる時に現れる名前だ」


 凪佐が天井を見上げた。


「あー……聞きたくなかったな、その名前」


 鈴木が舌打ちする。


「また要かよ」


「しかし本人が出ることはない」


 慧悟は言った。


「なんで言い切れる」


 久夜が言う。


「十柱の誇り。プライドという奴だ。アークドライブが出る。それ即ち。空衡社だけでは冥下の反逆者に勝てないと宣言してるみたいなものだ。空衡社の者にはとってそれは敗北よりも耐え難いだろ。

故にアークドライブが直接、戦闘に出ることはない。しかし第2制御塔の防衛線に彼の設計思想が混じっている。そこは対策を施す必要がある」


 青い回路図が拡大される。


 重力アンカー。


 迎撃回路。


 衛星兵装との連動。


 認証の切断手順。


 逃走経路を潰すための封鎖線。


「空衡社単独の設計より無駄が少ない」


「無駄が少ないなら、良くないだろ」


 久夜が言う。


「厄介ではある」


 慧悟は否定しない。


「だが、無駄が少ないということは、目的が見えるということでもある。目的が見えるなら、切開線を引ける」


 その言葉に、久夜は少し黙った。


 慧悟はアークドライブを恐れているようには見えなかった。


 軽視しているわけでもない。


 ただ、巨大な刃物を前にして、それをどう分解するか考えている医者の顔だった。


「戦いは?」


 砕耀が聞いた。


「現時点では避けるべきだ」


 慧悟は言った。


「アークドライブは戦闘用に完成された症例だ。無理に殴れば、こちらの骨が先に折れる」


 久夜が顔をしかめる。


「症例扱いすんな」


「適切な分類だ」


「本人が聞いたら怒るぞ」


「本人が怒るかどうかは医学的には重要ではない」


「お前、本当に相手に合わせる気ないな」


「必要がない」


 梟が小さく息を吐いた。


「で、アークドライブの防衛線は抜けるの?」


「善処する」


「できる、じゃなくて?」


「できると言えるほど簡単ではない。できないと言うほど絶望的でもない。だから善処だ」


 答えになっていないようで、慧悟にとってはそれが答えだった。


 巫里の通信が入る。


『天城先生。そろそろ投薬の話をしてください』


「今するところだ」


 慧悟は画面を閉じた。


 代わりに、月代落葉の接続波形が表示される。


「……今回、月代落葉を正面から倒す必要はない」


 久夜が眉を上げる。


「倒さなくていいのか」


「本気の彼女を倒すのは今の君たちは無理だ。なら出力を下げ弱体化させる方が合理的だ」


 慧悟は波形の一部を赤く示した。


「第一鍵の重力は、塔から借りているものではない。月代落葉自身の異理だ。だから第2制御塔でも、彼女は自力で戦える。加えて前回の戦闘では彼女は第1制御塔により力制限されていた」


「じゃあ次は制限なしかよ」


「制限なしの本気だ」


 慧悟は否定しなかった。


「だが、生体由来なら介入点がある」


 梟が少し目を細める。


「だから薬?」


「そうだ」


 巫里が小さなケースを開いた。


 中には、細長い投薬具が一本だけ入っている。


 透明な薬液が、細い管の中で鈍く光っていた。


『重力干渉半減薬です』


 久夜はケースを見る。


「半減?」


『投与に成功すれば、一定時間、月代落葉の重力干渉をおよそ半分まで低下させます』


 鈴木が顔をしかめた。


「異理を薬で弱くするってことか」


 慧悟が答える。


「重力そのものを薬で変えるわけではない。異理を発生させる生体反応へ介入する」


 ラナが不安そうに聞く。


「危ない薬なの?」


「間違いなく危険だ」


 慧悟は即答した。


 巫里が続ける。


『ただし、殺すための薬ではありません。完全に止める薬でもありません。出力を急にゼロへ落とせば、本人の身体や神経系が保たない可能性があります』


「だから半分か」


 久夜が言う。


「そうだ」


 慧悟は頷く。


「半分まで落とせば、接近できる。接近できれば、第一鍵と塔の接続を切る隙が生まれる。落葉を救う可能性も、浮羽へ到達する可能性も、その一瞬にしかない」


 凪佐が小さく手を上げた。


「半分でも、たぶん普通に死ねると思うんですけど」


「致死性はある」


「そこは否定してほしいな」


「ここで嘘を付く理由があるか?」


「嫌な人だな〜」


 久夜は投薬具を見る。


「どうやって投薬するんだ?」


「そんなの君が接近して刺すに決まってるだろ」


 慧悟は言った。


「おい、簡単に言うなよ」


「簡単ではない。だが、君以外では届かない」


 梟が狙撃銃へ視線を落とす。


「撃ち込むのは?」


「弾丸型にすると、落葉の重力場で落とされる。装甲で潰される可能性も高い。確実性が低い」


『梟さんの役割は、投薬具の軌道補正です』


 巫里が言う。


『投薬具そのものを撃つ。久夜さんの接近角度を作る。落葉さんの剣を一瞬逸らす。どれか一つではなく、全部です』


「注文が多い」


 梟は淡々と言った。


『いつも通りです』


 ラナが小さく手を上げる。


「私は?」


 慧悟が答える。


「落下干渉。投薬具は重力場に落とされる。君はその落ちる方向を少しだけずらす」


「大きくは無理」


「小さくでいい。薬が届くか届かないかは、数センチで決まる」


 凪佐が嫌そうな顔をする。


「僕は?」


「重力の焦点を切り久夜を援護しろ」


「また難しいことを」


「落葉の重力は均一ではない。強い場所と弱い場所がある。その焦点を君が斬れば、久夜の進路が開く」


「僕、最近ずっと無茶振りされてない?」


「できるから振っている」


「できるって期待されるのが言一番困るんだよ」


 砕耀が投薬具を見た。


「俺は保安社を抑えればいいのか?」


「そうだ」


 慧悟は言った。


「君は防衛線を割れ。保安社を引き受け、衛星兵装への備えもしておけ」


「衛星兵装まで俺か」


「君が一番壊れにくい。なら使えるだけ使う」


「便利に使うな」


「便利だから使う。役に立たないものは捨てるだけだ」


 砕耀は少し笑った。


「嫌いじゃねえよ、その雑さ」


「俺は雑ではない」


 巫里が投薬具を久夜へ渡す。


『投薬具は一本だけです。失敗すれば次はありません』


 久夜はそれを受け取った。


 ずしりと重い。


 薬液の重さではない。


 この一本に、落葉と浮羽へ届く可能性が乗っている。


「入れれば、落葉は止まるのか」


「止まらない」


 慧悟は即答した。


「重力が半分になっても、月代落葉の剣技、身体能力、判断力は残る。むしろ薬の違和感で行動が荒れる可能性もある」


「ダメじゃねーか」


「駄目ではない。まだ切開線がある」


 久夜は投薬具を腰へ収める。


「じゃあ、その線を斬る」


 慧悟は少しだけ沈黙した。


 それから言った。


「……何か起きた時の予備は、こちらで何とかしておく」


 久夜が眉を上げる。


「何とかって何だよ」


「教える必要はない」


「世界最高の頭脳が雑になったぞ」


「確定していない要素を確定したように語る方が雑だ」


 久夜は笑った。


「まあいい。何とかしろ」


「無論だ」


 慧悟は画面越しに、全員を見た。


「最後に一つ」


 誰も口を挟まなかった。


「第2制御塔で見るものを、すべて敵だと思うな。塔は敵だ。空衡社も敵だ。保安社も敵として動くだろう。だが、第一鍵と第二鍵は病巣ではない。病巣に巻き込まれた臓器だ」


 久夜の目が細くなる。


「斬るなってことか」


「医者としては腫瘍なら切れ」


 慧悟は言った。


「だが、斬る場所を間違えるな」


 凪佐が細剣を鞘に収める。


「医者の作戦って、物騒だね」


「手術は本来、危険も伴う物騒な行為だ」


 慧悟は静かに答えた。


「だからこそ、医者は数多の知識を取り入れどこを切るか決める」


   ◇


 出発前、拠点の外には土龍たちが用意した偽装車両が並んでいた。


 外見は古い輸送車。


 だが内部には、重力変動に耐えるための固定具と、巫里が調整した簡易医療装置が積まれている。


 梟の車椅子は車両の中央に固定され、鈴木は機械腕の出力を確認していた。


 ラナは窓の外を見ている。


 遠く、冥下の濁った空の向こうに、白い塔の影が見えた。


 第2制御塔。


 第1制御塔よりも遥かに高く、遥かに白い。


 その白さは、もう杭ではなかった。


 空に刺さった針だった。


 久夜は車両に乗り込む前、ふと振り返った。


 端末の中の慧悟は、もう別の画面を見ていた。


 大量の文字列。


 医療回線。


 重力ログ。


 アークドライブの青い設計線。


 第一鍵と第二鍵の接続波形。


 彼は久夜たちを見送っていない。


 すでに手術を始めている。


「慧悟」


 久夜が声をかける。


 慧悟は画面から目を離さない。


「何だ」


「失敗したら?」


「失敗しないようにするだけだ」


「そうじゃなくて」


「失敗した場合の話を今しても、君の行動精度は上がらない」


「ほんと相手に合わせねえな」


「合わせる必要がある相手には合わせる」


「俺にはないと」


「ない」


 久夜は呆れたように笑った。


「じゃあ、俺たちは派手に暴れてくる」


「せいぜい死なない程度に頑張るといい」


「頑張りますよ」


 久夜はそれ以上言わず、車両へ乗り込んだ。


 扉が閉まる。


 エンジンが低く唸る。


 土龍の地下道へ続く通路が開いた。


 車両が動き出す。


 白い塔へ向かって。


 壊すためではなく。


 奪うために。


 落葉を弱め、浮羽へ届き、空衡社の空を盗むために。


   ◇


 第2制御塔は、空の喉だった。


 地上と天界を繋ぐ白い塔。

 人も、物資も、命令も、記録も、裁定も、祈りも、恐怖も、そこを通る。


 塔はただの建造物ではない。


 空衡社が空を管理しているという証。

 十柱が世界の上に立っているという証。

 天界が地上を見下ろし続けるための白い針。


 第1制御塔は折れた。


 だから第2制御塔は、最初から戦場だった。


 塔の外周には、保安社の部隊が展開していた。

 白い装甲の兵士。

 大天使。

 権天使。

 さらに後方には、主天使級の指揮個体。


 空には無人機。

 塔の側面には重力アンカー。

 周囲の地面には、踏む場所ごとに重さが変わる罠。

 空域の上層には、空衡社の軌道兵装が沈黙したまま待機している。


 そして、正面橋。


 白い橋の中央に、双落の騎士が立っていた。


 月代落葉。


 新しい兜。

 修復された双剣。

 白銀の重装鎧。

 そして、全身から漂う重力の圧。


 第1制御塔の時とは違う。


 彼女は塔に繋がれていない。


 空衡社の制御値に縛られていない。

 塔の拍に合わせる必要もない。

 命令系統から能力を借りているわけでもない。


 だから彼女は、最初から本気だ。


 久夜は遠くからその姿を見て、息を吐いた。


「前より重いな」


 隣で砕耀が大剣を肩に担ぐ。


「最初から全開ってわけか」


「勝てると思うか」


「勝てるかじゃねー」


 砕耀は塔を見上げた。


「勝つんだよ」


 通信越しに、天城慧悟の声が入る。


『目的を再確認する。第2制御塔の破壊ではない。主導権の奪取だ』


 慧悟は戦場にはいない。


 学者の城の地下。

 観令の死角に近い封鎖室。

 そこから第2制御塔の制御層へ侵入している。


『第2制御塔を雑に壊せば、地上と天界の接続に深刻な被害が出る。空衡社の敗北条件は、塔の破壊ではなく、制御権の喪失。そして第二鍵との接続断だ』


「第二鍵、月代浮羽」


 久夜が言う。


『断定にはまだ情報が足りない』


「その言い方、だいたい当たりって意味だろ」


『可能性は高い。だが、異理の詳細は不明。対策はできない』


 巫里の声が続いた。


『今回、私たちが準備できるのは重力対策だけです。浮羽という少女が何をできるのかは分かりません。分からないものへの対策は、対策とは呼びません』


 久夜は小さく笑う。


「分からない敵より、目の前の敵ってことか」


『その通りです。目の前の敵だけでも十分に死ねます』


「間違いないな」


 凪佐小平が、細い剣を握りながら小さく手を上げた。


「あの、僕は死にたくないんだけど」


 誰も答えなかった。


 凪佐はくたびれた顔でため息をつく。


 地上の会社員のような男。

 弱そうで、頼りなさそうで、今にも帰りたいと言い出しそうな男。


 だが、彼が握っている剣だけは違った。


 細く、軽く、無駄がない。


 かつて冥下で「剣心」と呼ばれた男の剣。


 梟が車椅子の固定具を締めながら言う。


「叔父さん、手が震えてる」


「震えるよ。相手が悪いし、状況も悪いし、明日仕事だし」


「まだ仕事の話するんだ」


「するよ。仕事があるのは事実だし現実だからね」


 凪佐は落葉を見た。


 白い騎士は、こちらを見ている。


 その重さだけで、喉が乾く。


「正面からは無理。あれは無理。前回よりずっと強い」


 砕耀が言う。


「援護は」


「援護くらいなら行けるかも……いや、分からない。期待はしないで。援護なんてしたことないから」


「十分だ」


「十分じゃないと思うんだけどなあ」


 巫里が淡々と説明を始める。


『重力干渉半減薬は一本。対象は月代落葉。投与成功時、一定時間、彼女の重力干渉をおよそ半減させます。ただし、完全無効ではありません。本人の剣技、身体能力、判断力はそのままです』


 久夜は腰の投薬具に触れた。


「当てればいいんだな」


『当てれば、です。彼女の重力場では、投擲物も身体もまともに進みません。普通に投げれば地面へ落ちます。近づけば潰されます』


 慧悟が補足する。


『投薬には三つ必要だ。梟の弾道補正。ラナの落下干渉。凪佐小平の重力焦点の切断。そして久夜の接近』


「四つじゃねえか」


『一つでも欠ければ失敗する』


 凪佐がさらに顔色を悪くする。


「やっぱり帰りたいです」


「帰れると思ってんのか?」


 砕耀が笑う。


 その胸の奥で、宝珠の心が低く鳴った。


 砕耀の役割は正面突破。


 保安社を引き受け、宝珠の心に力を溜める。

 傷つき、再生し、さらに力を蓄える。


 今日、この戦場には空衡社の衛星兵器がある。


 落ちてくれば、普通の戦力では止められない。


 だが、宝珠の心が温まった砕耀なら、砕ける。


 砕耀はそれを理解していた。


 だから笑っていた。


「こっちはこっちで、空から落ちてくるもんを見とく」


 久夜は砕耀を見る。


「無茶するなよ」


「無茶しなきゃ勝てねえ相手だろ」


「死ぬなって意味だ」


「それなら任せろ。俺は不死身だ」


 鈴木が火炎器を肩に担ぐ。


「俺は保安社を燃やすぜ」


 巫里が即答する。


『燃やす場所を選びなさい。塔の主配線を焼けば慧悟の作業に支障が出ます』


「分かってるよ。敵だけ燃やせば良いんだろ!」


『敵だけを燃やす炎などありません』


「説教は後にしろや」


 ラナは両手を握っていた。


「私は小さいものを落とす。大きいのは無理。でも、小さいものなら見つける」


 梟は狙撃銃を構える。


「久夜、死なないで」


「そればっかだな」


「毎回死にかけるから」


「今日は死なない」


「今日は、じゃない。これからも」


 久夜は一瞬だけ言葉に詰まり、それから笑った。


「分かったよ」


 慧悟の声が低くなる。


『開始する』


 白い塔の外周に、警報が走った。


   ◇


 最初の一発は、梟だった。


 弾丸は人を狙わない。


 外周防衛線の重力アンカー。

 その基部にある、小指の爪ほどの制御ピン。


 弾丸がピンを撃ち抜いた。


 ラナが手を伸ばす。


「落ちて」


 制御ピンが真下へ落ちる。


 それは偶然のように、隣のアンカーの支点へ挟まった。

 わずかに角度が狂う。


 重力場の線が、一瞬だけ歪んだ。


 久夜が走る。


 白い地面を、白い影が駆ける。


『侵入者確認』


『天理久夜、接近』


『高速目標、進路封鎖』


 保安社の大天使が飛ぶ。


 光刃が空中に網を作る。

 権天使が槍を地面へ打ち込み、拘束結界を張る。

 主天使が後方から命令を飛ばす。


『戻刃に注意。前回戦闘記録を反映』


 久夜は笑った。


「学習してるじゃねえか」


 投げたダガーが光刃の網を抜ける。


 権天使が戻る軌道に槍を合わせた。


 ダガーが弾かれる。


 久夜は、その弾かれた刃を追い越した。


「だったら、戻る前に使う」


 空中で弾かれたダガーを掴み、権天使の槍の根元を斬る。


 槍が折れる。


 権天使が下がる。


 そこへ鈴木の炎が横から叩き込まれた。


「焼けろ!」


 炎が白い装甲を包む。


 保安社の装甲は燃えにくい。

 だが、視界は焼ける。

 センサーは狂う。

 陣形は崩れる。


 その炎の影から、砕耀が突っ込んだ。


 大剣が防衛線をまとめて割る。


 大天使二体が光刃を振り下ろす。


 砕耀は避けなかった。


 肩が裂ける。

 腕が削れる。

 胸に刃が刺さる。


 だが止まらない。


「温いな」


 大剣が横へ走る。


 大天使の装甲が砕け、橋の外へ吹き飛ぶ。


 権天使が三体、砕耀を囲んだ。


 重力杭が打ち込まれる。

 砕耀の足が地面へ沈む。


「また足止めか、くだらん」


 砕耀は笑った。


「悪いが、今日は足を止めるほど暇じゃねえ」


 地面に沈んだ足を、無理やり引き抜く。


 筋肉が裂けた。

 骨が砕けた。

 宝珠の心が即座に体を繋ぐ。


 痛みが、熱になる。

 熱が、大剣へ流れる。


 宝珠の心が赤く光る。


   ◇


 正面橋で、月代落葉が動いた。


 たった一歩。


 それだけで、戦場全体の重さが変わった。


 久夜の足が沈む。

 梟の弾丸が途中で下へ曲がる。

 鈴木の炎が地面へ押し潰される。

 ラナの落とした小物が、落ちる前に床へめり込む。


 落葉は双剣を構えた。


 兜の奥から、静かな声が響く。


「これより先へは通しません」


 久夜はダガーを構える。


「そこに浮羽がいるんだな」


 落葉は答えない。


「答えなくていい。今ので十分だ」


「通しません」


「そればっかだな」


「他に言葉は不要です」


 凪佐が久夜の横に並ぶ。


「ええと、できれば通してほしいんですけど……無理ですよね。はい。分かってます」


 落葉は凪佐を見る。


「あなたにも、退いていただきます」


「退きたいのは本音なんですけどね」


 凪佐は細剣を構えた。


「でも、退くと怒られるので」


 重力が落ちた。


 橋の石材が一斉に沈む。

 久夜の膝が折れかける。

 凪佐の靴底が床に食い込む。


 落葉の右剣が久夜を狙う。


 左剣が凪佐を狙う。


 同時だった。


 重い。


 剣が重いのではない。

 剣に触れた空間そのものが、下へ落ちてくる。


 久夜は受けずに逃げる。


 だが逃げた先の床が急に重くなった。


 足を取られる。


 落葉の右剣が首へ迫る。


 凪佐の剣が、その剣の腹を撫でた。


 受け止めない。

 押し返さない。

 わずかに逸らす。


 久夜の髪が数本切れた。


「危なかったね」


 凪佐が言う。


「お前、余裕あるな」


「ないよ。今ので寿命が5年は縮んだ」


 落葉が踏み込む。


 橋全体に重力の波が走る。


 場所ごとに重さが変わる。


 右足だけ重い。

 左肩だけ軽い。

 腹だけ下へ引かれる。

 頭だけ浮く。


 身体の中身がずれるような感覚。


 久夜は吐き気を飲み込み、踏み込む。


 落葉の双剣が交差する。


 凪佐が動いた。


 弱々しい声とは違い、剣だけが速い。


 足元の重力アンカーを斬る。

 橋の支柱内部の重力伝達線を斬る。

 落葉の剣が作った重力の焦点、その端だけを斬る。


 戦場に小さな隙間が生まれる。


 慧悟の声が飛ぶ。


『久夜、右前方三歩。凪佐小平、左支柱の二番線』


「命令が細かい……!」


『斬れ』


「はい……」


 凪佐が斬る。


 橋の左側の重力が一瞬抜ける。


 久夜が投薬具を抜いた。


 落葉が即座に反応する。


 投薬具へ重力が集中する。


 金属筒が地面へ引かれる。


 梟が撃った。


 弾丸が投薬具の側面を叩き、軌道を変える。


 ラナが叫ぶ。


「そっちに落ちて!」


 投薬具が不自然に横へ滑る。


 凪佐が落葉の左剣を逸らす。

 久夜が地面を蹴る。

 戻るダガーが落葉の視線を奪う。


 投薬具が、落葉の首元の鎧の隙間に刺さった。


 薬剤が注入される。


 落葉の身体が、ほんの一瞬だけ強張った。


 周囲の重力が乱れる。


 久夜は反動で吹き飛び、橋の上を転がった。


 凪佐も片膝をつく。


「入った? 今の入った?」


 巫里が即答する。


『投薬成功。重力干渉、低下を確認。ただし完全無効ではありません。半減状態です』


 久夜は血を吐き、立ち上がった。


「半分でこれかよ」


 落葉はまだ立っていた。


 双剣を握り、こちらを見ている。


 重力は軽くなった。

 だが、戦場はまだ彼女のものだった。


 久夜はダガーを構え直す。


「だったら、通るまでやるまでだ」


   ◇


 凪佐が跳んだ。


 空中で半拍止まる。


 その姿を見た瞬間、空衡社と保安社が一斉に反応した。


『対象が、上昇』


『閃空乱刃、警戒』


『第一鍵から分離せよ』


 権天使の槍が飛ぶ。

 大天使の光刃が空を塞ぐ。

 空衡社の重力装置が凪佐の着地点を潰す。


 凪佐は嫌そうに呟いた。


「あ、見られてる。見られると緊張するんだよな」


 それでも、剣は止まらない。


 凪佐が落ちる。


 斬撃が増えた。


 前から。

 斜め上から。

 足元から。

 背後から。


 刃と刃が空中でぶつかり、火花が飛ぶ。

 斬撃同士が衝突し、白い橋の上に閃光が散る。


 閃空乱刃。


 冥下でそう呼ばれた、剣心の神業。


 今回は落葉だけを斬るためではない。


 権天使の槍を斬る。

 大天使の光刃を斬る。

 空衡社の重力アンカーを斬る。

 久夜の足元に集中する重力の焦点を斬る。


 凪佐は、戦場そのものを刻んでいた。


 落葉の右剣が凪佐へ向く。


 凪佐は受けない。


 剣の腹を撫で、わずかに逸らし、そのまま落葉の膝元の重力場へ斬撃を重ねる。


 火花が散る。


 もう一度、凪佐が跳ぶ。


 保安社の指揮個体が命令を変えた。


『対象を第一鍵から離せ』


『周辺戦力を攻撃。防衛行動を誘発』


 大天使が梟を狙う。

 権天使がラナへ拘束弾を撃つ。

 空衡社兵が鈴木の背後を取る。

 砕耀の足元へ重力杭が集中する。


 凪佐の目が動いた。


「それは困る」


 彼は落葉から離れた。


 梟へ向かう光刃を斬る。

 ラナへ飛ぶ拘束弾を斬る。

 砕耀を縫い止める重力杭を斬る。


 閃空乱刃の火花が、橋から戦場全体へ散った。


 保安社と空衡社は理解していた。


 凪佐を落葉と戦わせ続けてはいけない。


 凪佐が閃空乱刃を連発すれば、本気の双落の騎士であっても崩れる可能性がある。


 だから、凪佐を引き剥がす。


 彼の優しさを利用し、仲間を守らせる。


「こういうの、本当に向いてないんだけどな……」


 弱音を吐きながら、凪佐は戦慄を切り刻む。


   ◇


 久夜と落葉だけが、橋の中央に残った。


 投薬により、落葉の重力は半減している。


 だが、それでも十分すぎるほど重い。


 落葉の双剣が走る。


 久夜は速度で逃げる。


 曲がる。

 止まる。

 戻る。

 投げる。

 受け取る。


 戻るダガーが往路と復路で落葉を挟む。


 落葉は右剣で往路を弾き、左剣で復路を落とした。


 久夜が懐へ入る。


 ダガーが鎧の隙間を狙う。


 落葉は半歩沈む。


 久夜の足元だけが重くなる。


 踏み込みが潰れる。


 落葉の膝が久夜の腹に入った。


「がっ……!」


 身体が浮く。

 いや、浮かされた。


 上半身だけを軽くされ、腹部への衝撃で姿勢を壊された。


 落葉の剣が振り下ろされる。


 久夜は戻るダガーで受ける。


 重い。


 付加された重力により腕が折れそうになる。


 久夜はダガーを捨てた。


 落葉の剣が空を斬る。


 戻る刃が背後から帰る。


 落葉は首を傾けて避けた。


 白い兜に、細い傷が入る。


 久夜は血だらけで笑った。


「届くじゃねえか」


 落葉は答えない。


 また踏み込む。


 剣と重力が、久夜を潰しに来る。


 久夜の肩が斬られる。

 腕が裂ける。

 脇腹に血が滲む。


 だが久夜も止まらない。


 ダガーが落葉の肩装甲を削る。

 戻る刃が腰の接続具を掠める。

 足元の重力に引かれる力を逆に使い、滑るように懐へ入る。


 落葉の呼吸がわずかに荒くなる。


 久夜も限界だった。


 視界の端が赤い。

 膝が笑う。

 重力対策具の補助はとっくに悲鳴を上げている。


 それでも、目だけは逸らさない。


「お前、本当に塔を守りたいのか」


 落葉の剣が来る。


 久夜は避ける。


「空衡社を守りたいのか」


 落葉は答えない。


 左剣が久夜の腕を裂く。


「違うだろ!」


 久夜は血を吐きながら言う。


「お前が守りたいのは、浮羽だろ!」


 その名に、落葉の剣がわずかに遅れた。


 久夜はそこへ入る。


 ダガーが兜の側面を叩く。


 落葉が揺れる。


「……通すわけには行かないんです」


「それは空衡社の言葉だ」


 久夜は言った。


「お前の言葉じゃない」


 落葉の重力が爆ぜた。


 半減してなお、戦場が沈む。


 久夜の身体が地面へ叩きつけられる。


 それと同時に周囲の瓦礫がスクラップとなる。


 骨が軋む。


 落葉の剣が首元へ迫る。


 梟の弾丸が、剣の腹を撃った。


 わずかに角度が逸れる。


 剣は久夜の首ではなく、肩を裂いた。


 久夜は叫びながら、地面に刺さったダガーを引き抜く。


 戻る刃が落葉の背後から飛ぶ。


 落葉は避けない。


 重力で落とそうとする。


 その時、巫里の声が入った。


『上へ!』


 久夜は考える前に跳んだ。


 戻るはずだったダガーは、塔の乱流で上へ弾かれていた。


 久夜はそれを掴む。


 空中で身体を反転する。


 落葉が見上げる。


 二本の剣が迎え撃つ。


 久夜は落ちる。


 落葉の重力を逆に使って、真上から突っ込む。


 ダガーと双剣がぶつかった。


 衝撃。


 白い橋が割れる。


 久夜の腕が裂ける。

 落葉の肩装甲が砕ける。


 二人とも退かない。


 決着まで、あと一呼吸。


 その時だった。


 空が鳴った。


   ◇


 梟が最初に気づいた。


「上!」


 雲のさらに上。


 白い光点が三つ、空に生まれていた。


 それは星ではない。

 砲撃でもない。


 空衡社が空に置いた、大槍。


 軌道兵器。

 衛星から落とされる、空そのものの処刑刃。


 第2制御塔の主導権が奪われる前に、空衡社は最後の保険を起動した。


 目標は第2制御塔周辺全域。


 久夜たちも。

 保安社も。

 落葉も。

 浮羽も。


 まとめて消すつもりだった。


「自分の塔ごとやる気かよ!」


 鈴木が叫ぶ。


 巫里の声が鋭くなる。


『直撃すれば周辺空域ごと消えます。塔内部の浮羽も危険です』


 落葉が空を見上げる。


 兜の奥の表情は見えない。


 だが、彼女の重力が一瞬だけ荒れた。


 怒りだった。


 空衡社は、妹ごと戦場を消そうとしている。


 「クソ、お前の力じゃなくても落ちてくるのか」


 一つ目の衛星槍が、雲を突き破った。


 落下の衝撃波だけで地面が沈む。


 久夜は動けない。


 凪佐は空を見上げ、即座に首を振る。


「無理。あれは斬れない。剣でどうこうする大きさじゃない」


 その時、砕耀が前へ出た。


 保安社との戦闘で傷だらけになった身体。

 裂けた肩。

 砕けた肋骨。

 血に濡れた腕。


 だが、胸の宝珠は赤く燃えていた。


 傷つくたびに再生した。

 再生するたびに、力を溜めた。


 大剣は赤黒く脈打ち、刃の内側で熱が唸っている。


「ちょうど」


 砕耀は空を見上げた。


「温まってきたところだ」


 巫里が叫ぶ。


『砕耀、その出力は身体が持ちません』


「いつものことだ」


『いつもで済ませないで下さい』


「説教は後で聞いてやる」


 砕耀は大剣を構えた。


 衛星槍が落ちる。


 砕耀は跳んだ。


 跳躍ではない。

 地面を爆発させ、自分の身体を空へ撃ち出した。


 大剣を振り上げる。


「落ちてくるなら――」


 砕耀の声が戦場に響く。


「叩き壊すだけだ!」


 大剣と衛星槍が衝突した。


 世界が白く弾けた。


 遅れて、音が来る。


 砕耀の腕が裂ける。

 肩が外れる。

 胸の宝珠が火花を散らす。


 だが大剣は折れない。


 衛星槍の先端に亀裂が入る。


「おおおおおおおおッ!」


 砕耀が吠える。


 赤い光が大剣を包み、衛星槍の内部へ食い込む。


 軌道兵器の重力核が露出する。


 砕耀はそこへ大剣を叩き込んだ。


 一つ目の衛星兵器が空中で砕けた。


 破片が雨のように降る。


 だが、二つ目が来る。


 落葉が動いた。


 久夜との戦闘を放棄し、空へ剣を向ける。


 重力が反転した。


 二つ目の衛星槍の軌道が横へずれる。


 衛星槍は彼女が落としたものではない。

 だから、これは彼女自身の意思だった。


 妹を守るための重力。


 砕耀が笑う。


「助かったぜ、月代さんよ!」


 彼は空中で身体を捻り、二つ目の衛星槍を斜めから叩き割った。


 1本目の衛星槍で破壊された体がエネルギーとなり宝珠の心は更に力を溜めていた。


 大剣が衝突した瞬間、大爆発が起こり衛星槍は木っ端微塵と化した。


 大槍は第2制御塔から離れた廃空域に落ち、地面を大きく陥没させた。


 三つ目。


 最後の一本は、塔の中央を狙っていた。


 砕耀はもう体勢を崩している。

 落葉も浮羽のいる塔へ向かいかけている。

 久夜は動けない。


 砕耀の宝珠の心が、最後にもう一度脈打った。


 折れかけた大剣が赤く光る。


「持ってけや、宝珠」


 砕耀は大剣を投げた。


 宝珠の心と共鳴した大剣が、赤い流星のように空へ走る。


 三つ目の衛星槍へ突き刺さった。


 そして、爆ぜた。


 空が赤く染まる。


 赤く染まった大剣の破片が血の雨のように降り注いだ。


 衛星兵器が塔の真上で砕け散る。


 衝撃波が第2制御塔を揺らし、久夜たちを地面へ叩きつけた。


 砕耀は地面に落ちる。


 全身から血が流れ、宝珠の光が弱まる。


 久夜が叫ぶ。


「砕耀!」


 砕耀は片手だけを上げた。


「言っただろ、俺は不死身だってな」


 巫里が怒る。


『無茶ばかりして、心配しましたよ』


「フハハハ」


 砕耀は笑った。


 そして、衛星兵器は全て砕けていた。


   ◇


 塔の音が変わったのは、その直後だった。


 慧悟の声が通信に入る。


『第2制御塔の主導権を奪取した。空衡社の制御命令は遮断される。チェックメイトだ』


 戦場が止まった。


 保安社の兵士たちが端末を見る。

 空衡社の無人機が統制を失う。

 重力アンカーの光が落ちる。

 塔の白い制御線が、一本ずつ沈黙していく。


 空衡社が、空を失った。


 久夜と落葉はまだ向かい合っていた。


 落葉は戦える。


 重力は消えていない。

 剣も握れる。

 久夜を斬ることもできる。


 だが、彼女は剣を下ろした。


 空衡社の敗北は確定した。


 そして彼女にとって何より、塔の奥にいる浮羽の安否が分からない。


 もう、久夜と戦う理由はなかった。


 空衡社の通信が怒鳴る。


『第一鍵、戦闘を継続せよ』


 落葉は動かない。


『第一鍵、天理久夜を排除しろ』


 落葉は双剣を下ろす。


『第一鍵、月代浮羽の再拘束を支援――』


 その瞬間、落葉の重力が通信塔を潰した。


 白い支柱が地面へ沈み、粉々に砕ける。


 落葉は言った。


「黙れ」


 それは


 騎士の声でもなかった。


 姉の声だった。


 白い扉が開く。


 第2制御塔の中央部。


 空衡社が第二鍵と呼び、塔の奥に固定していた場所。


 そこから、一人の少女が出てきた。


 月代浮羽。


 白に近い髪。

 細すぎる腕。

 力の入らない指。

 歩いているというより、塔に押し出されたような足取り。


 目は開いている。


 けれど、その瞳は誰かを見ているわけではなかった。

 音のする方。

 重さのある方。

 そういうものを探しているようだった。


 浮羽は震える唇で言った。


「……お姉ちゃん?」


 落葉の身体が固まった。


 それから、兜を外す。


 血と汗で額に髪が張りついている。

 頬には傷。

 唇の端から血が落ちている。

 鎧は割れ、肩当ては半分外れていた。


 それでも浮羽は、小さく笑った。


「お姉ちゃん、いた」


 落葉は一歩近づく。


「浮羽」


「声だけじゃない?」


「声だけじゃない」


「ほんと?」


「ほんとだよ」


「お姉ちゃん、ここ?」


「ここにいる」


「また扉の向こうに行く?」


「行かない」


「ずっと?」


「ずっと」


 浮羽は少しだけ安心したように息を吐いた。


 その幼い息が、落葉の胸を締めつけた。


 どれだけ長い間、この子は扉の向こうの声だけを頼りにしていたのか。


 落葉は膝をつき、浮羽の手を取った。


 細い。

 軽い。

 力がない。


 けれど、温かかった。


「浮羽」


「なに」


「ごめん」


「どうして?」


「迎えに来るのが、遅くなった」


 浮羽は首を傾ける。


「来てくれたよ」


「遅かった」


「でも来たよ」


「……うん」


「お姉ちゃん、泣いてる?」


 落葉は答えられなかった。


 浮羽はうまく動かない手を、落葉の頬へ伸ばそうとした。


 届かない。


 落葉がその手を取って、自分の頬へ当てる。


 浮羽の指が、涙に触れた。


「あったかい」


「浮羽も、あったかい」


「私、まだいる?」


「いる」


「鍵じゃない?」


「違う」


 落葉ははっきりと言った。


「あなたは鍵じゃない」


「じゃあ、なに?」


「浮羽」


「浮羽?」


「私の妹」


 浮羽はゆっくり瞬きをした。


「妹」


「うん」


「お姉ちゃんの?」


「私の」


 浮羽は、幼い子供のように少し笑った。


「お姉ちゃんの浮羽」


 落葉は浮羽を抱きしめた。


 強くではない。

 壊れ物を包むように。

 それでも、二度と離さないと決めた腕だった。


 その時だった。


 浮羽の背後に、黒い点が生まれた。


 最初は針の穴ほどだった。


 だが、その瞬間、戦場から音が消えた。


 風の音。

 瓦礫の音。

 砕耀の宝珠の鼓動。

 梟の車椅子の軋み。

 誰かの息。


 すべてが黒い点へ落ちた。


 久夜は本能でダガーを構えた。


 腕が黒い点へ引かれる。


「なんだあれ……」


 黒い点が小指の先ほどに大きくなる。


 それだけで、戦場全体が軋んだ。


 瓦礫が浮く。


 いや、浮いたのではない。


 黒い点へ落ちている。


 金属片が吸い込まれ、音もなく潰れた。

 石が粉になり、空衡社の装甲片が薄く引き伸ばされ、黒い中心へ消えた。


 ラナが両手を伸ばす。


「落ちないで……!」


 だが、止められなかった。


「違う……これ、落ちてるんじゃない……全部、そこに行っちゃう……!」


 凪佐が剣を構え、すぐに顔を青くする。


「ムリムリムリ」


 弱音ではなく、判断だった。


「死ぬ死ぬ死ぬ!」


 砕耀は大剣を地面に突き立てる。


 それでも身体が黒い点へ滑る。


「っ……踏ん張れねえ!」


 落葉は浮羽を抱きしめ、重力を展開した。


 自分と浮羽の周囲を重く固定し、吸い込まれないように押さえ込む。


 だが、すぐに顔が歪んだ。


「……違う」


 掴めない。


 落葉の重力は、物を重くする。

 落ちる向きを定める。

 空を地面へ引く。


 だが浮羽の背後の黒い点は、方向そのものを奪っていた。


 上も下もない。


 すべてが黒い一点へ落ちていく。


 落葉の重力で作った足場すら、黒い点へ引かれて歪んだ。


 浮羽が震える。


「お姉ちゃん」


「大丈夫」


「落ちる」


「落ちない」


 落葉は嘘をついた。


 自分たちが引かれていることを、誰よりも分かっていた。


 浮羽は落葉の鎧を弱く握る。


「私がやってる?」


「浮羽のせいじゃない」


「でも、私から出てる」


「違う」


「みんな、落ちちゃう?」


 落葉は答えられなかった。


 黒い点が拳ほどの大きさになる。


 小さい。


 あまりにも小さい。


 それなのに、第2制御塔の残骸がすべて内側へ曲がり始めた。


 光が歪む。

 空が沈む。

 保安社の権天使が一体、飛行装置を全開にしたまま引きずられる。


 光の翼が裂けた。


 装甲が潰れた。


 悲鳴が聞こえる前に、その身体は黒い点へ吸い込まれ、消えた。


 久夜の喉が凍る。


 人が、消えた。


 殺されたのではない。

 斬られたのでもない。

 そこにいたという事実ごと、黒い奥へ落ちたように消えた。


 巫里の通信が歪む。


『全員、離れて――いえ、距離に意味がありません。あれはブラックホールです。このままでは塔だけでなく周辺空域ごと……』


 梟の車椅子の固定具が一本外れた。


 車椅子が滑る。


 鈴木が飛びつき、車輪を掴む。


「梟!」


「離さないでよ!」


「離すわけねーだろ!」


 鈴木の足が床を削る。


 凪佐は梟とラナの前に立ち、飛んでくる破片を斬り続ける。


「待ってここで死んだら部長に怒られるよ」


 そう言いながら、一歩も退かない。


 久夜は落葉と浮羽へ向かおうとした。


 だが、踏み出した瞬間、身体が黒い点へ持っていかれる。


 ダガーを地面に刺す。


 刃が白い床を削る。


 数メートル。


 それだけの距離が、世界の端ほど遠かった。


 落葉と浮羽の足元が剥がれる。


 浮羽の髪が黒い点へ流れる。


 落葉は妹の髪を押さえるように抱きしめた。


「お姉ちゃん」


「大丈夫」


「こわい」


「私も怖い」


「お姉ちゃんも?」


「うん」


「一緒?」


「一緒」


 浮羽は震えながら、落葉の胸に顔を押しつけた。


「一緒なら、少しだけだいじょうぶ」


 その言葉で、落葉の目に涙が浮かんだ。


 だが、黒い点は止まらない。


 落葉と浮羽の身体が、床から浮く。


 黒い点へ引かれる。


 落ちる。


 姉妹ごと。


 落葉が浮羽を抱きしめる。


「浮羽は悪くない」


「でも」


「悪くない!」


 落葉は叫んだ。


「浮羽は悪くない!」


 浮羽が小さく泣いた。


「お姉ちゃん、落ちないで」


「落ちないよ。絶対」


「手、離さないで」


「離さない」


「ずっと?」


「ずっと」


 その約束ごと、二人は黒い点へ引きずられていく。


 久夜が叫ぶ。


「落葉!」


 誰も届かない。


 砕耀でも届かない。

 凪佐でも斬れない。

 梟でも撃てない。

 ラナでも落とせない。

 慧悟でも止められない。

 巫里でも治せない。


 この場にいる誰にも、どうにもできなかった。


 その瞬間、空間が裂けた。


 黒い点のすぐ横に、裂け目が走る。


 それは光ではなかった。


 世界に刻まれた傷だった。


 傷口の向こうに、星の海が見える。


 その裂け目から、一人の男が踏み出す。


 航海流星。


 彼は戦場を見た。


 吸い込まれる瓦礫。

 崩れる塔。

 引きずられる久夜たち。

 黒い点へ落ちかけている落葉と浮羽。


 一瞬で、流星の顔から余裕が消えた。


「……これは、災害であり厄災だ」


 流星がコートから手を出した。

 

 周囲に無数の裂け目が走る。


 一つ。

 十。

 百。


 戦場の空一面に、星の傷が開く。


 裂け目の向こうには別の空間がある。

 別の距離。

 別の空。

 別の落下先。


 流星は、黒い点へ向かう重力の流れを裂け目へ逃がした。


 瓦礫の流れが逸れる。

 第2制御塔を潰そうとしていた力が、裂け目へ流れる。

 黒い点へ落ちていた空間が、別の空へ逃がされる。


 だが、足りない。


 黒い点はまだ膨らむ。


「呆れたものだ。空衡社とやらは随分無茶な器に入れたな」


 流星はもう片方の手も上げる。


 黒い点の周囲を囲むように、円形の裂け目が開いた。


 重力の流れを受け止め、逃がし、また受け止める。


 星の海が戦場を包む。


 浮羽が震えた。


「知らない人」


 落葉が妹を抱きしめる。


「大丈夫」


 流星は短く言った。


「失礼。怖がらせるつもりはない。少しだけ、空の向きを変える」


「空、曲がるの?」


「曲がる」


「落ちない?」


「落ちないようにする」


「ほんと?」


 流星は迷わず答えた。


「本当だ」


 浮羽の呼吸が、ほんの少し落ち着く。


 黒い点の膨張が鈍る。


 落葉はその隙に、妹へ囁く。


「浮羽、私の声だけ聞いて」


「うん」


「今、どこにいる?」


「お姉ちゃんのところ」


「何を持ってる?」


「お姉ちゃん」


「私も浮羽を持ってる」


「持ってる?」


「うん。ぎゅってしてる」


 浮羽は落葉の胸に顔を押しつける。


「ぎゅってしてる」


「そう」


「落ちない?」


「落ちない」


「お姉ちゃんも?」


「落ちない」


「私も?」


「落ちない」


 浮羽は何度も小さく頷いた。


 怖い夢から覚めようとする子供みたいに。


「ここ」


「ここ」


「お姉ちゃんと、ここ」


「うん」


 黒い点が、少しずつ小さくなる。


 流星の裂け目が最後の重力を飲み込み、遠い空間へ流していく。


 音が戻る。


 瓦礫が落ちる音。

 誰かの荒い息。

 砕耀の宝珠の鼓動。

 梟の車椅子の軋み。

 ラナのすすり泣き。


 黒い点は針の穴ほどに縮み、やがて消えた。


 流星が指を閉じる。


 裂け目が一斉に閉じた。


 落葉と浮羽の身体が、地面へ落ちる。


 落葉は妹を庇うように抱え込み、自分の背中から床へ落ちた。


「浮羽!」


 浮羽はしばらく動かなかった。


 落葉の顔から血の気が引く。


「浮羽、返事して。お願い、浮羽」


 浮羽の指が、落葉の鎧を弱く叩いた。


「……お姉ちゃん」


 落葉の目が見開かれる。


「いる?」


「いる」


「落ちてない?」


「落ちてない」


「よかった」


 浮羽は、そこで初めて泣いた。


 大きな声ではない。

 幼い子供みたいに、息を詰まらせて、落葉の胸に顔を埋めて、小さく泣いた。


「こわかった」


「うん」


「黒いの、こわかった」


「うん」


「私、こわい子?」


「違う」


「みんな、こわかった?」


 落葉は浮羽の髪を撫でる。


「少し怖かったと思う」


「ごめんなさい」


「でも、浮羽が怖い子だからじゃない」


「ほんと?」


「ほんと」


「お姉ちゃん、怒ってない?」


「怒ってない」


「きらいじゃない?」


 落葉の涙が落ちた。


「嫌いになるわけない」


「ほんとに?」


「ほんとに」


「ずっと?」


「ずっと」


 浮羽は落葉の服を握った。


 今度は、少しだけ力が入っていた。


「じゃあ、帰る」


「うん」


「お姉ちゃんと帰る」


「うん」


「また、扉に入らない?」


「入らない」


「鍵、しない?」


「しない」


「声だけじゃない?」


「声だけじゃない」


 落葉は浮羽を抱きしめた。


 壊れた塔の下で。

 空衡社の命令が途切れた場所で。

 第一鍵も第二鍵も、もう意味を失った場所で。


 姉妹はようやく触れ合っていた。


 久夜は、その光景を見て動けなかった。


 勝利の実感はなかった。


 ただ、流星が来なければ全員死んでいたという事実だけが、身体の奥に冷たく残っている。


 砕耀が倒れたまま笑った。


「……おいおいやべえな、あの子」


 凪佐が壁にもたれて震えていた。


「やばいなんてもんじゃないよ。今の、人生で死んだと思った」


 梟は銃を下ろした。


「流石に焦ったね」


 ラナは小さく頷く。


「魔法でもあんなのみたことないよ」


 流星は閉じた空間の跡を見つめていた。


 久夜は彼を見る。


「ありがとう。助かった」


 流星は息を吐く。


「お礼なら私に連絡してきた。黎明の星を名乗る者に言う事だ。」


 九死に一生。


 まさにそれだった。


 巫里の通信が、ようやく安定して戻る。


『第2制御塔、完全機能停止。空衡社制御権、喪失。 第二鍵との接続は断たれました。空衡社は、月代浮羽をもう鍵として使えません』


 久夜は落葉と浮羽を見る。


 浮羽はまだ泣いている。

 落葉はその背を撫で続けている。


 剣は地面に落ちていた。


 もう拾わなかった。


 その時点で、空衡社は敗けていた。


 第2制御塔の主導権を失った。

 衛星兵器も砕かれた。

 第一鍵は命令を捨てた。

 第二鍵は、ただの少女に戻った。


 空はまだ自由ではない。


 だが少なくとも、あの姉妹を縛っていた白い塔は、もう空ではなかった。


   ◇


 空衡社本部の会議室では、誰も立ち上がれなかった。


 第2制御塔の映像は途切れている。


 制御権喪失。

 第二鍵、接続切断。

 第一鍵、命令応答なし。

 衛星兵器、三基破壊。

 保安社部隊、壊滅的損耗。

 空域管理権限、天理家側へ移行待機。


 その文字列だけが、白い卓上に並んでいた。


 会議長は震える声で言った。


「再接続しろ!」


 誰も答えない。


「第一鍵に命令を送れ」


 応答なし。


「第二鍵を再拘束しろ」


 応答なし。


「衛星兵器の残存数は」


「……使用可能域にありません」


「保安社は」


「指揮系統、崩壊しています」


「アークドライブは……」


 会議室の端に、彼はまだいた。


 アークドライブは椅子に座り、退屈そうに画面を見ている。


 彼はゆっくり立ち上がった。


「終わりだな」


「まだだ」


 会議長が言った。


 声は震えていた。


「まだ、第2制御塔本体は残っている。再接続すれば――」


「終わりなんだよ」


 アークドライブは冷たく遮った。


「第1制御塔は象徴を折られた。第2制御塔は制御権を奪われた。第一鍵は命令を聞かない。第二鍵は外れた。衛星兵器は砕かれた。保安社も止められなかった」


 彼は会議長を見る。


「空衡社が空を管理する理由は、もうない」


 その時、会議室の扉が開いた。


 誰も入ってこない。


 ただ、天理家からの通達だけが届いた。


『空衡社の地上天界接続管理権を一時凍結』


『第2制御塔関連権限を天理家直轄へ移行』


『空衡社上層部の管理責任を審議対象とする』


 会議長の顔から血の気が引いた。


 日煌の言葉が、全員の耳に蘇る。


 次はない。


 その次は、本当になかった。

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