次はない
第1制御塔が堕ちた。
その報告が空衡社上層部に届いた時、最初に起きたのは沈黙ではなかった。
怒号だった。
「なぜだ!」
白い会議室に、男の声が響いた。
天界の上層にある空衡社本部。
そこは、雲の上に浮かぶように設計された巨大な管理棟だった。
窓の外には、天界の澄んだ空が広がっている。
床は磨かれた白石。
壁には空衡社の紋章。
会議卓は透明な鉱物で作られ、卓上には世界各地の空域図、重力値、衛星配置、第1制御塔の損壊状況が投影されていた。
美しい部屋だった。
だからこそ、その場にいる者たちの醜さが目立った。
「第1制御塔の警備主任は誰だ!」
「現地の防衛規格は最低水準でした。冥下側施設としては通常通りです」
「通常通り? 通常通りで塔が落ちるのか!」
「そもそも、冥下の連中が制御塔を破壊できるなど、想定外です」
「想定外という言葉で済ませるな!」
誰も自分の責任とは言わなかった。
警備が甘かった。
保安社の対応が遅かった。
双落の騎士の配置が悪かった。
現地管理官の判断が遅かった。
冥下の情報を軽視した部署が悪かった。
全て誰かのせいだった。
だが誰一人として、最初から第1制御塔を軽く見ていた自分たちの傲慢さには触れなかった。
会議卓の中央には、第1制御塔の最終映像が繰り返し映されている。
白い塔が根元から裂け、内部から爆ぜ、天界と十柱の紋章が真っ二つに割れる映像。
その瞬間になるたび、役員たちの顔が歪んだ。
「機能面では問題ない」
一人の老年の役員が言った。
額には汗がにじんでいる。
だが声だけは冷静を装っていた。
「第1制御塔は代替が利く。冥下と地上を繋ぐ経路は他にもある。重力補正も周辺塔で分散できる。主要制御には影響しない」
「その通りだ」
別の役員が飛びつくように頷いた。
「これはあくまで辺境設備の損壊だ。報告書にはそう記載すべきだ。第1制御塔の機能停止は、空衡社の空域管理能力を損なうものではない」
「そうだ。問題は報道管制だ。映像を抑えろ。記録を消せ。冥下側の通信網を遮断しろ」
「第1制御塔の破壊を、外部に事実として認識させるな」
事実を処理するのではない。
事実を存在しなかったことにする。
彼らにとって、それは日常的な業務の一つだった。
だが、今回は遅かった。
映像はすでに一部流出していた。
総流社崩壊後、十柱への不信は地上の一部にも広がっている。
空衡社がいくら情報を押し潰しても、消し切れない火種があった。
「双落の騎士はどうした」
誰かが低く言った。
その言葉で、会議室の空気が変わる。
「第一鍵は生存しています」
「損傷は?」
「鎧、兜、右剣を破損。接続値は一時的に不安定化しましたが、現在は回復中です」
「ならばなぜ塔を守れなかった」
「第1制御塔との接続が乱れた瞬間、敵側が塔の主柱へ高出力攻撃を行いました」
「言い訳だ」
役員の一人が吐き捨てた。
「あれは要だ。空衡社の要だろう。塔一つ守れないのなら、何のために飼っている」
飼っている。
その言葉に、誰も反応しなかった。
第一鍵である月代落葉は、彼らにとって人間ではない。
空衡社の資産。
制御網の鍵。
戦場に出せる消耗可能な重要戦力。
その程度の扱いだった。
「第二鍵はどうしている」
「第2制御塔内にて安定状態です」
「絶対に動かすな」
その言葉だけは、全員が即座に同意した。
「第二鍵の移送は不可だ」
「第2制御塔から出すな」
「月代浮羽を外へ出すことは認めない」
第二鍵である月代浮羽。
その名前が出た瞬間、会議室の端末がわずかに揺れた。
記録上は、ただの制御対象。
空衡社の中枢に接続された第二鍵。
だが、その名を呼ぶ時、彼らの声には恐怖が混じっていた。
「おい、次の標的となる制御塔はどこだ?」
「恐らくは第2制御塔かと」
「第2制御塔は絶対に落とせん」
会議長が言った。
「第1制御塔とは訳が違う。あそこは地上と天界を繋ぐ。空衡社の管理権そのものだ」
「分かっている」
「なら、防衛規格を最大にしろ。第一鍵を完全装備に戻せ。保安社にも追加要請を出す」
「保安社だけで足りるか?」
「足りるように使え。あれらはそういう仕事だ」
誰かが小さく笑った。
「冥下の蛮族どもに、二度も空を触らせるな」
その時だった。
会議室の扉が開いた。
空衡社の役員たちは、一斉に振り向いた。
扉の前には、数名の護衛がいた。
しかし誰も声を出せない。
彼らの武器は、すでに床に落ちていた。
切断されていた。
誰も刃を見ていない。
誰も斬撃を聞いていない。
だが、銃も、剣も、腕部装甲も、精密な部品に分解されて床へ散っていた。
その中心を、一人の男が歩いてくる。
天理日煌。
現天理家当主にして陽光の王の異名を持つ者。
空衡社の役員の一人が、喉を鳴らした。
「お前は……陽光の王……」
日煌は足を止めなかった。
黒を基調とした衣装。
スーツのようにも見えるし和服のように見える。
ただ、そこにいるだけで部屋の支配権が移った。
誰も彼に椅子を勧められなかった。
勧める前に、全員が理解していた。
この部屋で座るか立つかを決めるのは、もはや空衡社ではない。
日煌は会議卓の前に立った。
その瞬間、卓上のグラスが一つ、音もなく輪切りになった。
透明な刃。
見えない鎧。
日煌の身を包む透明な鎧が、そこにあるものを斬った。
刃は見えない。
だが、空気だけが細く裂けている。
誰も動けなかった。
日煌は淡々と言った。
「私が来たのは忠告だ」
会議室の誰も返事をしない。
日煌は中央に映る第1制御塔の崩壊映像を見た。
「第1制御塔は代替が利く。機能だけなら問題はない。そう言いたいのだろう」
役員の一人が口を開きかける。
だが、声は出なかった。
日煌の視線が動いただけで、言葉が喉に戻った。
「お前たちは理解していない」
日煌の声は荒くなかった。
怒鳴ってもいない。
だが、会議室にいる誰よりも強かった。
「あの塔は天界の、そして十柱の権威の象徴だ」
映像の中で、白い塔が割れる。
「それが堕ちた」
誰かが息を呑む。
「冥下の反逆者に折られた」
日煌は空衡社の役員たちを見た。
「その意味が分からないはずもあるまい」
沈黙。
日煌は続けた。
「乗っ取られなかっただけ幸運だったと思え。もしあの塔が破壊ではなく奪取されていれば、冥下と地上を繋ぐ空衡社の権限は、反逆者の手に一時的に渡っていた」
「それは……」
「あり得ないか?」
日煌が言った。
「第1制御塔も、堕ちるまではそう思っていたのだろう」
役員の顔が青ざめる。
「第2制御塔を失えば、空衡社が空を管理する理由は消える」
会議室の空気が凍った。
「天理家は、機能しない柱を支え続けるほど優しくはない」
「我々は……必ず第2制御塔を守ります」
会議長がようやく声を出した。
だが、その声は震えていた。
「第一鍵を完全装備で配置し、保安社にも最大規格の支援を要請します。第二鍵も厳重に管理し――」
「管理?」
日煌が言葉を遮った。
その一言で、会議長の背筋が伸びる。
「お前たちの言う管理とは、壊れるまで使うことか」
誰も答えない。
日煌はそれ以上追及しなかった。
興味がないようにも見えた。
だが、その無関心こそが恐ろしかった。
「次はない」
日煌は言った。
「心してかかれ」
そして踵を返す。
護衛たちは道を開けた。
いや、開けさせられた。
日煌が会議室を出ていく。
扉が閉まる。
その直後、会議卓の端が、細い線に沿って崩れた。
見えない刃が、最後にそこを通っていたのだと全員が理解した。
しばらく、誰も喋らなかった。
◇
「……ふざけるな」
最初に沈黙を破ったのは、若い役員だった。
「ふざけるな。天理家にまで脅される筋合いがあるか」
「黙れ」
会議長が言った。
「聞かれていたらどうする」
「もういない!」
「そう思わせることもできる男だ」
その言葉で、再び沈黙が落ちた。
日煌の恐怖は、去った後も残る。
それが陽光の王だった。
だが、恐怖はすぐに怒りへ変わった。
「観令は何をしている」
一人が言った。
「第1制御塔が攻撃された時点で、なぜ反逆者を裁定対象にしない」
「総流社の時もそうだった。奴らは明らかに天界の秩序を乱している」
「保安社の指令が遅い。観令の優先度が低すぎる」
「識鋼社へ連絡しろ」
会議長が言った。
「観令の標的優先度を書き換えさせる。天理久夜、砕耀、あの狙撃手、魔法使い、全員を裁定対象にしろ」
「可能でしょうか」
「識鋼社は観令の管理権を持っているはずだ」
その言葉が出た瞬間だった。
「ずいぶん簡単に言うな」
声がした。
会議室の全員が硬直した。
さっきまで誰もいなかったはずの椅子に、男が座っていた。
大柄な身体。
背中に接続された巨大な機械装置。
青白い電流が、首元から肩、腕へと細く走っている。
アークドライブ。
識鋼社の要。
いや、少なくとも空衡社の役員たちはそう認識していた。
彼がいつ入ったのか、誰も分からなかった。
扉は開いていない。
警報も鳴っていない。
監視端末も反応していない。
ただ、気づいた時にはいた。
まるで彼自身の時間だけが、他者の認識を置き去りにしていたようだった。
「アークドライブ……」
会議長が名を呼ぶ。
アークドライブは頬杖をついたまま、つまらなさそうに会議室を見回した。
「観令の優先度を書き換えろ、だと」
彼は笑った。
「お前ら、あれを識鋼社の端末か何かだと思ってるのか」
会議長の眉が動く。
「違うと言うのか」
「さあな」
アークドライブは肩をすくめた。
「俺は傭兵だ。知ってることを全部話すほど安くない」
それは嘘だった。
少なくとも、観令が識鋼社の所有物ではないことを、彼は知っている。
天理家が管理していることも知っている。
だが、それをそのまま話す気はなかった。
空衡社がどこまで知っているのか。
何を勘違いしているのか。
何を隠しているのか。
それを見るために、彼はあえて曖昧に笑っていた。
「識鋼社は協力するのか」
役員の一人が言った。
声には苛立ちが混じっている。
アークドライブはその男を見た。
「残念だが俺の雇い主は、お前らみたいなクズどもに協力する気はないらしい」
会議室の空気が凍る。
「言葉を慎め」
「俺に言ってるのか?」
アークドライブは即答した。
「俺はただ事実を言っただけだが」
「貴様……!」
役員が立ち上がる。
次の瞬間、その男の前髪が数本、焼け切れた。
青い電流が遅れて空気を焦がす。
アークドライブは座ったまま動いていない。
だが、全員が理解した。
今の一瞬、彼は動いた。
この会議室の誰にも見えない速度で。
「怒鳴るな。鬱陶しい」
アークドライブは淡々と言った。
「じゃあ金を払えば、アークドライブ、貴様は手を貸すのか」
会議長が言った。
アークドライブは少し笑った。
「金さえ払えば俺は動いてやる。仕事だからな」
その言葉に、数人の役員がわずかに安堵する。
だが、次の言葉で表情が変わった。
「だがな」
アークドライブは背中の装置をわずかに鳴らした。
「冥下のギャング風情に、要が二人もいないと解決できないのか?」
会議室が静まる。
「双落の騎士がいて、保安社を呼んで、それでも足りないから俺を呼ぶ」
彼は笑っていなかった。
「それこそ、自分たちには空衡社を管理する資格が無いって言ってるようなものだろ?」
誰も言い返せない。
「第1制御塔は代替可能なんだろう?」
アークドライブは、さっき空衡社が使った言葉をそのまま返した。
「なら騒ぐなよ。代替できるんだろ」
「問題は権威だ」
会議長が苦々しく言った。
「それをさっき陽光の王に教えてもらったのか?」
アークドライブは笑った。
「勉強熱心だな」
「貴様、何をしに来た」
「確認だ」
「確認?」
「お前らが本当に観令に頼ろうとする程度の連中なのか。それを見に来た」
アークドライブは立ち上がった。
背中の装置が低く唸る。
「観令を動かせば勝てる。識鋼社に頼めば標的を書き換えられる。そう考えた時点で、お前らは自分たちの塔を守る資格を半分失ってる」
「何だと」
「自分で守れない空を、他人の裁定で守ろうとしている」
アークドライブの声が低くなる。
「そんなものは支配じゃない。寄生だ」
会議長の手が震えていた。
怒りか、恐怖か。
その両方だった。
「……いくらだ」
会議長は言った。
「第2制御塔防衛への技術支援。識鋼社の要として、いくらなら動く」
アークドライブは少しだけ考えるように首を傾けた。
「俺は高いぞ」
「払う」
「だろうな。お前らは金で空を縫ってきたからな」
アークドライブは指を鳴らした。
会議卓に青い回路図が展開される。
第2制御塔の外周。
重力アンカー。
空域管制線。
保安社の予定配置。
第一鍵の配置候補。
第二鍵の保護区画。
空衡社の役員たちは息を呑んだ。
自社の機密が、当然のようにそこに表示されていた。
「お前らの防衛線は穴だらけだ」
アークドライブは言った。
「第1制御塔の失敗は偶然じゃない。お前らは塔を神棚みたいに扱ってる。拝めば守られるとでも思ってるのか」
「改善案を出せ」
「命令するな。依頼しろ」
会議長は唇を噛んだ。
「……依頼する。第2制御塔の防衛支援を」
アークドライブは頷いた。
「仕事としては受ける」
そして、冷たく付け足した。
「ただし、観令には触らない。触らせない。あれを私怨の処理に使うな」
「識鋼社にその権限がないからか」
役員の一人が探るように言う。
アークドライブは笑った。
「知りたければ天理家に聞け。さっきの陽光の王に頭を下げてな」
その言葉で、空衡社側は沈黙した。
日煌にもう一度頭を下げる。
それは、彼らにとって敗北に等しかった。
「第2制御塔は守る」
会議長が言った。
「必ずだ」
「守れなかったら?」
アークドライブが聞く。
会議長は答えない。
アークドライブはつまらなさそうに言った。
「その時は、空衡社の名前で空を管理する必要がなくなる。さっき言われたばかりだろ」
会議室に、再び日煌の言葉が蘇った。
次はない。
◇
第2制御塔の地下深く。
そこに、月代落葉はいた。
修復された鎧が、彼女の身体を包んでいく。
新しい兜。
新しい双剣。
強化された重力接続具。
第1制御塔で破壊された装備よりも、さらに重く、さらに白く、さらに冷たい。
整備員たちは誰も落葉の顔を見なかった。
彼女を人間として扱えば、手が鈍るからだ。
空衡社ではそう教えられている。
「第一鍵、装備接続」
「重力値、安定」
「第2制御塔との同期、開始」
落葉は何も言わなかった。
兜が閉じる。
視界が狭くなる。
呼吸音が、鎧の内側で反響する。
その時、通信の奥から小さな声が聞こえた。
『……お姉ちゃん』
落葉の指が、わずかに止まった。
整備員の一人が慌てて通信を切ろうとする。
落葉は、その手を見ただけだった。
整備員は動きを止める。
「浮羽」
落葉の声だけが、兜の中で柔らかくなった。
『痛い?』
「痛くない」
『嘘。重い音がする』
落葉は少しだけ黙った。
そして言った。
「大丈夫。今度は守るよ」
『誰から?』
「浮羽を傷つける人たちを」
『悪い人なの?』
落葉は答えられなかった。
第1制御塔で見た少年の顔を思い出す。
白い髪。
速い刃。
真っ直ぐすぎる目。
凪佐小平の細い剣も思い出す。
弱そうな声。
だが、空を火花で埋めるほどの斬撃。
彼らは敵だ。
そうでなければならない。
そう思わなければ、剣が鈍る。
「……通してはいけない人たち」
落葉はそう言った。
浮羽は少しだけ黙る。
『お姉ちゃんは、また戦うの?』
「うん」
『怖い?』
「怖くないよ」
『嘘だ』
落葉は笑わなかった。
けれど、声だけは少しだけ緩んだ。
「浮羽は、ここにいて」
『うん』
「何があっても、出てきちゃだめ」
『……うん』
「私が守るから」
通信が切れる。
兜の内側に、落葉の呼吸だけが残った。
装備接続が完了する。
第一鍵。
双落の騎士。
空衡社の要。
そう呼ばれるものが、再び立ち上がる。
だが、その鎧の中にいるのは、妹を守りたいだけの若い女だった。
上層部はそれを知らない。
知ろうともしない。
ただ命令だけが下る。
『第2制御塔、防衛規格最大へ移行』
『保安社、追加部隊展開』
『第一鍵、正面防衛へ』
『第二鍵、塔外移送不可』
『月代浮羽を、外へ出すな』
落葉は双剣を握った。
第1制御塔では、迷いがあった。
だが、次は違う。
今度守るのは塔ではない。
妹だった。




