重い空
空が、低かった。
冥下に青空などない。
頭上にあるのは、地上の裏側から漏れる光と、天界の人工的な輝きと、何層にも重なった配管と鉄骨と居住区の底だ。
それでも、その日は特に低く感じた。
見上げるだけで、首の奥が重い。
肩に何かを置かれているような圧迫感があった。
久夜は屋上の縁に立ち、暗い上空を見上げていた。
遠くで、金属の軋む音がする。
風ではない。
どこかの足場が、重みに耐えきれず鳴いている。
「変な空だな」
久夜が呟いた。
隣にいた砕耀は、手すりに肘を置いたまま答える。
「空はいつも変だ。上にあるものが正しいとは限らねえ」
「哲学か?」
「現場の話だ」
砕耀は下を見た。
通りを歩く人々の足取りが、いつもより重い。
荷車を押す男が、何度も立ち止まっている。
子どもが石段を上がれず、母親に手を引かれている。
古い看板が傾き、金具が悲鳴を上げていた。
誰も異常だとは騒いでいない。
冥下では、異常が日常に混ざる。
重い空も、壊れた街も、誰かの都合も、すぐに生活の一部になる。
「総流社の次は、これか」
久夜が言った。
「血の流れを乱せば、次は呼吸が重くなる」
砕耀は視線を上げた。
「空衡社だ」
◇
治療室というには、あまりにも雑な部屋だった。
壁は剥がれ、天井の配管からは時折、水滴が落ちる。
古びた棚には薬瓶が並び、その横には用途の分からない器具が布をかけられて置かれていた。
消毒液の匂いと、乾いた薬草の匂いが混ざっている。
冥下第三区の裏通り。
砕耀が「医者を呼ぶ」と言って案内した先が、そこだった。
久夜は椅子に座らされ、肩の包帯を外されていた。
光を名乗った男に裂かれた傷は、まだ完全には塞がっていない。
「痛っ」
薬を塗られ、久夜が顔をしかめる。
白い手袋をつけた女は、まったく表情を変えなかった。
「痛いでしょうね。損傷した組織に刺激を与えていますから。痛みがあること自体は、現段階では悪い兆候ではありません。むしろ問題は、あなたが痛みを報告ではなく邪魔者として扱っていることです」
「長い。何言ってるかわからん」
「動かない」
女は淡々と言った。
白に近い薄灰色の髪。
澄んだ緑の目。
細く長い指。
髪の隙間から覗く、亜人特有の尖った耳。
見た目は若い。
けれど、その目だけは年齢を誤魔化していなかった。
多くを見てきた目だった。
多くを救い、多くを失い、それでもまだ数えることをやめていない目。
彼女の名は、巫里。
冥下で医者をしている亜人だった。
砕耀が幼い頃、世話をしてくれた人でもあるらしい。
「巫里」
壁際にいた砕耀が言った。
「もう少し優しくしてやれ」
巫里はゆっくりと砕耀を見る。
「優しさという言葉を、痛みの減免という意味で使っているなら、その要請は却下します。痛みを全て消すことはできます。ですが、痛みを消された患者は、自分の身体がまだ使えると誤解する。その誤解は、戦場では致命的です。優しく殺されたいなら別ですが」
「ほら、いつもの始まった」
鈴木が部屋の隅で呟いた。
ラナは薬棚の近くで、困ったように目を瞬かせている。
「えっと……つまり、痛い方がいいってこと?」
「違います」
巫里は久夜の肩を縫いながら言った。
「痛みは善でも悪でもありません。信号です。信号をどう扱うかで、愚かさの程度が分かる。火災報知器が鳴った時に耳を塞ぐ者は、静けさを得る代わりに焼け死ぬ。彼の場合、それを勇気と呼ぶ傾向がある」
「俺の話か?」
「あなた以外に誰がいますか」
久夜は黙った。
梟は車椅子に座り、巫里の手元をじっと見ている。
膝の上には小さな布。
その指は、無意識に布の端を撫でていた。
巫里は視線を動かさずに言う。
「あなたが応急処置をしましたね」
梟の指が止まる。
「悪かった?」
「悪くありません。出血量、圧迫位置、固定の向き。現場処置としては十分です。ただし、十分という言葉は、最善という意味ではありません。あなたは恐らく、自分の処置を過小評価する癖と、他人の損傷を過大に背負う癖がある」
「……私そんな喋ってないんだけど」
「観察はしました」
「相変わらず嫌な医者」
「良い医者が欲しいなら、地上の清潔な診療所へ行きなさい。あそこでは笑顔で高額な請求書を渡してくれます」
梟は不満そうに視線を逸らした。
それでも、巫里の手元を見るのはやめなかった。
久夜はそれを見て、少しだけ笑う。
「何」
梟がすぐに気づいた。
「いや。お前が素直に聞いてるの珍しいなって」
「必要なことは聞くだけ」
「俺の言うことは?」
「必要じゃない」
「即答かよ」
巫里が糸を結びながら言った。
「会話を続けるなら、肩の縫合線が歪みます。痕が残ってもよければどうぞ。もっとも、戦場で傷痕を勲章のように扱う文化は、私の嫌いなものの上位に入ります」
久夜と梟は同時に黙った。
「よろしい」
巫里は糸を切った。
◇
治療が終わると、砕耀は机の上に数枚の図を広げた。
総流社の資料ではない。
冥下の各区画に置かれている、重力測定杭の記録だった。
「ここ数日、第5圏の一部で重力値が乱れてる」
砕耀が指で地図を叩く。
「自然変動じゃないのか?」
久夜が聞く。
「重力が自然変動で変わったら、人間は普通に生活できねえ」
「じゃあ、誰かが意図的にやってるのか」
「ああ間違いない」
砕耀は別の紙を出した。
そこには、地上と冥下を結ぶ古い搬送路の図が記されていた。
現在は封鎖されているはずの道。
そして、その上に重なるように、空中へ伸びる新しい経路が赤線で描かれている。
「総流社が崩れた。物流の穴が空いた。地上も天界も、表向きは混乱してる」
「その穴を、空衡社が埋めようとしてる?」
梟が端末を覗き込む。
「埋める、というより奪うだな」
砕耀は地図の一点を指で押さえた。
「総流社の管を使わず、空衡社の重力制御で貨物を浮かせて運ぶ。気流を作り、重さを変え、古い昇降路の上に空中輸送路を通す。」
「それが、ここ?」
ラナが地図を見る。
砕耀は頷いた。
「冥下第5圏の上だ」
「ここで問題なのが重力値が規定を大きく越しているということだ。元々総流社の荷物は空衡社の重力管理により楽に輸送していた。だが人体に影響しないように制限がかけられている。だが今は規定を大きく超え今も少しずつ重力値が増加している。」
鈴木が顔をしかめる。
「下に人が住んでるのにか」
「空衡社の資料では、人じゃないということだ」
砕耀の声が低くなる。
梟が端末を操作した。
表示された資料を、淡々と読み上げる。
「冥下第5圏における重力負荷上昇は、短期的には許容範囲内。老朽建築物の一部倒壊、人流低下、医療負荷増大が予測されるが、補助塔再稼働による輸送利益が損失を上回る」
部屋が静かになる。
梟は続けた。
「当該区画は非正規居住層を多く含むため、補償優先度は低い」
久夜は何も言わなかった。
ただ、机の上の地図を見ていた。
その地図の上には、今も歩いている人間がいる。
荷車を押す男。
石段を上がれない子ども。
傾いた看板の下で商売を続ける老人。
空衡社の資料では、それらはすべて負荷だった。
「利益のためなら冥下の人間なんてどうでもいいってことか」
久夜が低く言う。
巫里は薬箱の中身を整理しながら答えた。
「十柱にとって天界や地上の人は守るべき民です。しかし冥下の人間は生きていようが死んでいようがどうでもいいと考えてるわけです。人の考える所業ではありません。今の天界は倫理も善悪の区別をつかないほど多くの命を踏み躙ってきたのでしょう」
ラナは地図を見つめていた。
「じゃあ、この重さは……あくまで総流社の輸送権を奪うためで、私たちを狙ったものではないの?」
「まあ、大体そうだ」
砕耀は言った。
「空衡社にとっては、俺たちですら主目的じゃない。総流社が弱った。だから、今のうちに輸送権益を奪う。そのために古い制御塔を動かした」
「その結果、街が重くなってる」
「ああ」
鈴木が舌打ちした。
「一番腹立つやつだな。殺そうとしてる自覚すらねえ」
「殺意がないから、罪が軽くなるわけではありません」
巫里が静かに言った。
「むしろ、殺意がなくても人を壊せる仕組みの方が厄介です」
久夜は砕耀を見る。
「止めるぞ」
「だから、ここにいる」
砕耀は地図の一点を叩いた。
「重力異常の中心は、古い空衡社の補助塔。通称、第1制御塔。近年は地上と冥下の物質輸送のサポートとして使われていた」
「よしそこを壊せばいいんだな」
「違います」
巫里が即座に言った。
「なぜ今の話を聞いて、その結論になるのですか。あなたの脳は刃物に近すぎます」
梟が小さく笑った。
久夜は不満そうにする。
「じゃあどうすんだよ」
「壊せば、支えを失った重量がそのまま街に落ちます。建物は崩れ、負傷者は増え、あなた方が止めたかったものを自分の手で起こすことになる」
巫里は地図を見る。
「空を落とすなら、落ちた先を見ないといけません」
部屋の空気が重くなる。
外の重力異常のせいだけではなかった。
砕耀はしばらく黙っていた。
やがて、地図の一点を叩く。
「目的は三つだ」
久夜たちが顔を上げる。
「一つ、第5圏に漏れている重力負荷を止める。このままだと人間も建物も先に壊れる」
砕耀は二本目の指を立てた。
「二つ、空衡社の空中輸送路を一時的に潰す。総流社の後釜に入られる前に、やつらの計画を止める」
三本目。
「三つ、制御塔の制御記録を取る。塔を破壊した時の被害を予測、そしてこれが空衡社の悪事だって証拠を掴んでやる」
「つまり?」
久夜が聞く。
「塔の重力を止める。そして記録をとり塔の破壊が可能かそして証拠を見つけるだ」
梟が銃の整備をしながら言った。
「私は外から反射板と観測器を見る」
「ラナは落下物の制御。大きいのは無理でも、軌道をずらすだけで助かる」
ラナは緊張した顔で頷いた。
「やる」
「鈴木は扉と外部配線を焼く。中へ入るのは俺と久夜」
「そして俺が制御核を斬る」
「だから最後だと言ってるだろ」
砕耀が睨む。
巫里も冷たく見る。
久夜は少しだけ顔を逸らした。
「分かってる。まず確認すんだろ」
「そうだ」
砕耀は地図を畳んだ。
「総流社は、荷を握って人を潰した」
彼の声は低かった。
「空衡社は、人を重さに変えて潰す」
久夜は窓の外を見た。
重い空の下で、街はまだ動いている。
誰かが荷車を押し、誰かが店を開き、誰かが子どもの手を引いて歩いている。
その全てを、空衡社は負荷と呼んだ。
「行くぞ」
久夜は言った。
◇
古い空衡社制御塔、第1制御塔は冥下第5圏の外れにあった。
地上へ向かう古い昇降路の跡地。
かつては地上と冥下の物質を輸送する塔だった。今は使用回数も減少し、管理されることなくなり周囲には錆びた柵と傾いた警告板だけが残っている。
塔は白かった。
冥下の煤にまみれながらも、白さだけは失っていない。
それが余計に不気味だった。
久夜たちは、塔から少し離れた廃ビルの影に身を潜めていた。
梟は車椅子を固定し、狙撃銃を展開している。
「風が変」
梟が言った。
「上に引っ張られる感じがある」
ラナが不安そうに空を見た。
「私の魔法と似てるけど、逆……いや、似てないかも。気持ち悪い」
巫里は携帯用の測定器を見ている。
「重力値が周期的に揺れています。人体に即時危険はありません。ただし長時間滞在すれば平衡感覚に影響が出ます。鈴木、気分が悪くなったら黙らず言いなさい。あなたは我慢した後に騒ぐタイプです」
「まだ何も言ってねえだろ」
「だから今言いました」
砕耀は大剣を背負い直した。
「行くぞ」
久夜が一歩踏み出した。
その瞬間。
地面が沈んだ。
いや、地面が沈んだのではない。
身体が、地面に引かれた。
足首から腰、腰から胸へ、見えない重さがまとわりつく。
久夜は即座に後ろへ跳ぼうとした。
だが、足が遅れた。
「っ」
久夜の身体がわずかに傾く。
次の瞬間、白銀の影が降ってきた。
音はなかった。
重いはずのものが、羽のように落ちてくる。
全身を覆うフルプレートの鎧。
厚い肩甲。
隙のない胸当て。
顔を覆う兜。
腰に下げられた二本の剣。
その姿は、騎士だった。
だが、騎士という言葉で片づけるには、あまりにも静かだった。
重い鎧を着ているはずなのに、足音がない。
地面に着地した瞬間、周囲の瓦礫だけが砕ける。
本人は揺れない。
白銀の騎士は、久夜たちの前に立っていた。
背が高い。
兜越しでも分かる。
姿勢が美しかった。
まるで舞台に立つ踊り手のように、軸がぶれない。
砕耀が低く呟く。
「嘘だろ……双落の騎士がなぜここに」
騎士は双剣を抜いた。
刃が空気を撫でる。
その瞬間、周囲の小石が地面にめり込んだ。
ラナが息を呑む。
「重い……」
久夜はダガーを構えた。
「空衡社の番犬か」
騎士は答えない。
ただ、剣を構える。
その構えは美しかった。
けれど、美しさの奥に、冷たい諦めのようなものがあった。
「こいつは空衡社の要だ気をつけろ!」
砕耀が言った。
白銀の騎士が踏み込む。
遅くはない。
むしろ速い。
重い鎧を着ているとは思えないほど、動きが滑らかだった。
久夜は横へ抜けようとする。
だが、騎士の剣先が空気をかすめた瞬間、久夜の右足が重くなった。
「っ、触れてねえぞ!」
剣が空気を裂いた。
正確には、剣が通った場所に重さが残った。
久夜の足首が地面に引かれる。
姿勢が崩れる。
そこへ騎士のもう一本の剣が入る。
久夜は戻るダガーを呼び、無理やり受けた。
刃と刃がぶつかる。
重い。
剣そのものが重いのではない。
世界が、剣の側へ傾いている。
梟が撃った。
弾丸が騎士の兜へ向かう。
しかし、途中で弾道が落ちた。
弾は騎士の足元にめり込む。
梟が舌打ちする。
「弾が落とされた」
砕耀が前へ出た。
「なら、重さごと叩き潰してやる」
大剣を抜く。
宝珠の心が低く脈打つ。
砕耀の大剣が、白銀の騎士へ振り下ろされた。
空気が唸る。
まともに受ければ、普通の敵なら吹き飛ぶ。
騎士は避けなかった。
双剣を交差させる。
砕耀の大剣とぶつかる。
轟音。
地面が割れるほどの衝撃波。
周囲の壁が震えた。
だが、白銀の騎士は一歩も下がらなかった。
砕耀の目が見開かれる。
「……まじかよ、どんな体幹してやがる」
騎士は答えない。
ただ、交差した双剣をわずかに押し返す。
砕耀の足元が沈む。
大剣が下へ引かれる。
「くそっ」
鈴木が横から炎を放つ。
騎士は身体を半歩ずらす。
炎は鎧の表面を舐めるだけで、重力に引かれるように地面へ落ちた。
ラナが手を掲げる。
「落ちて!」
塔の上から剥がれかけた鉄板が落ちる。
騎士はそれを見上げた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、動きが止まる。
久夜はそれを見逃さなかった。
踏み込み、ダガーを投げる。
騎士は双剣の片方で弾く。
戻る刃が背後から迫る。
騎士は身体を捻り、最小の動きで避けた。
美しい。騎士の戦い方は武というより舞だった。
だが、その避け方は妙だった。
久夜の首を取れる角度があった。
それを選ばなかった。
代わりに、久夜の肩口だけを狙った。
久夜は後ろへ跳び、傷を浅くする。
「今、外したな」
騎士は答えない。
「殺せただろ」
兜の奥から、視線だけが向いた気がした。
声はない。
けれど、沈黙の形が変わった。
梟が銃口越しに呟く。
「……この人、何か変」
次の瞬間、塔の上部から通信音が鳴った。
機械的な声が周囲に響く。
『対象を確認。排除を優先。双落の騎士、処理を続行してください』
騎士の剣が、わずかに震えた。
本当にわずかだった。
だが、久夜には見えた。
砕耀にも。
梟にも。
巫里は遠くから、その変化をじっと見ていた。
騎士は再び構える。
さっきよりも、剣先が低い。
周囲の重力が増した。
久夜の足が地面へ沈む。
「命令されなきゃ動けねえ犬か?」
久夜が挑発するように言った。
騎士は答えない。
ただ、踏み込んだ。
速く。
重く。
美しい。
久夜は正面から受けず、横へ抜ける。
だが重力が足を引く。
砕耀が間に入る。
大剣と双剣がぶつかる。
梟の弾が反射板を撃ち、光を散らす。
ラナが落下物をずらし、鈴木が炎で足場を焼く。
それでも、騎士は崩れない。
白銀の鎧は重く、しかし踊るようだった。
まるで、鎧の重さだけがこの世界から許されているように。
久夜は歯を食いしばる。
「面倒な相手だな」
砕耀が笑った。
「要ってのは大体そうだ」
騎士の双剣が、同時に振るわれた。
久夜は片方を避け、もう片方をダガーで受ける。
その瞬間、腕が重くなった。
ダガーを持つ手が地面に引かれる。
「しまっ――」
騎士の剣が久夜の喉元へ向かう。
梟が叫ぶ。
「久夜!」
銃声。
弾丸は騎士を狙わず。
久夜の足元に落ちていた金属片を撃った。
金属片が跳ね、久夜の足に当たる。
そのわずかな衝撃で久夜の重心がずれた。
騎士の剣は喉を外れ、久夜の頬をかすめる。
血が飛ぶ。
久夜は転がるように距離を取った。
「助かった」
「二つ目」
梟が言う。
「数えてんのかよ」
「当然でしょ」
その声は強かった。
けれど、わずかに震えていた。
騎士は梟の方を見た。
銃口を向ける少女。
車椅子の狙撃手。
その姿を見た瞬間、騎士の動きがまた止まった。
ほんの一瞬。
何かを思い出したように。
しかし塔の通信が再び鳴る。
『戦闘遅延を確認。必要ならば、――』
音声は途中で途切れた。
騎士が、空へ向けて剣を振ったからだ。
塔の外部スピーカーが重力に潰され、沈黙した。
その場の全員が動きを止めた。
久夜は騎士を見る。
「お前……」
騎士は何も言わない。
ただ、剣を下ろした。
次の瞬間、制御塔全体が低く唸った。
重力値が跳ね上がる。
巫里の測定器が警告音を鳴らす。
「下がってください」
巫里の声が飛んだ。
「周囲の重力か双落の騎士を中心に飛躍的に上昇してます。このままでは塔に到着するより体が潰れるのが先です」
砕耀が舌打ちした。
「撤退だ!」
久夜は騎士を睨んだ。
「クソ、まだ終わってねえ」
騎士は久夜を見ていた。
兜の奥の目は見えない。
だが、彼女が追ってこないことだけは分かった。
追えるはずなのに、追ってこない。
殺せるはずなのに、殺さない。
久夜たちは後退した。
制御塔の白い壁が、重い音を立てて閉じていく。
その前に、騎士の声が聞こえた。
低く、静かな女の声。
「……戻ってください」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
久夜たちにか。
自分自身にか。
あるいは、もっと遠い誰かにか。
答えを聞く前に、塔の扉は閉じた。
◇
拠点に戻った後も、久夜の腕には重さが残っていた。
巫里はそれを診ながら、長く息を吐いた。
「神経ではなく、身体感覚に残留しています。厄介ですね。厄介というのは、治療不能という意味ではありません。治療できるが、患者の理解が追いつかない可能性が高いという意味です」
「また長い」
「短く言えば、今日はもう動くなです」
「このくだり何回目だ」
「あなたがそればかり必要とするからです」
梟は銃の整備をしていた。
撃った弾道を何度も思い返しているのだろう。
「弾が落とされた」
彼女は小さく言った。
「次は、落とされる前提で撃ってやる」
ラナは膝を抱えて座っている。
「私の魔法と似てるのに、全然違った」
砕耀が言う。
「言うならばお前は落とす。あいつは縛る」
「縛る……」
ラナはその言葉を繰り返した。
久夜は壁に背を預け、目を閉じる。
双落の騎士。
殺せる場面で外した剣。
命令の声で震えた刃。
塔のスピーカーを潰した一撃。
最後の言葉。
空衡社の要。
圧倒的な強敵。
それは間違いない。
だが、総流社の刺客や天理家の裁定者とは違った。
戦いたくないのか。
それとも、戦う相手を選んでいるのか。
まだ分からない。
砕耀は地図を広げた。
「制御塔の中には入れなかった。だが分かったこともある」
「何が」
久夜が聞く。
「空衡社の制御は、塔だけじゃない。あの騎士そのものが制御網の一部になってる」
梟が顔を上げる。
「人間を、装置みたいに使ってるってこと?」
「双落の騎士の重力が上昇したタイミングで制御塔内部の重力値が低下していた。つまり制御塔は輸送路に使うのと同時に双落の騎士を弱体化する鎖として機能してると仮定したほうが辻褄が合う」
砕耀は低く言った。
巫里は何も言わなかった。
ただ、久夜たちから少し離れた場所で、古い薬瓶を拭いている。
その目は、どこか遠くを見ていた。
久夜は聞いた。
「巫里。何か知ってんのか」
巫里の手が止まる。
長い沈黙。
やがて彼女は言った。
「知っている、という言葉は便利ですが危険です。人は一つの断片を知っただけで、全体を理解したつもりになる。特に若く、刃物を持ち、怒りに正当な理由がある者はそうです」
「俺のことか」
「はい」
即答だった。
久夜は黙る。
巫里は薬瓶を棚に戻した。
「今あなたに必要なのは、答えではありません。疑問を保つことです。あの騎士は敵です。あなたたちを殺し得る相手です。ですが、敵であることと、彼女の全てを憎んでよいことは同義ではありません」
「……また長いな」
「短く言えば」
巫里は久夜を見た。
「次に会ったら、斬る前に見なさい。あの騎士が敵なのかどうかを」
久夜は、何も返さなかった。
空はまだ重い。
空衡社の柱は、まだ何一つ折れていない。
だが久夜たちは知った。
空衡社は、人を荷物にしない。
人を重さに変える。
そして次の敵は、空から落ちてくるのではない。
すでに誰かの背中に、重く乗っている。




