【外伝前章】境界潜行者
応接会議室。
外の慌ただしさとは違い、部屋の中は静かだった。
壁面モニターには白羽市周辺の位相マップ。
赤いノイズが、街の各所で微かに脈打っている。
エレナ・クロイツはそれを眺めながら、足を組んでいた。
「日本支部は相変わらず“抑え込む”方向なのね。」
その言い方には、わずかに皮肉が混じっている。
暁が缶コーヒーを机に置く。
「そっちは違うのか。」
「違うわ。」
即答だった。
「欧州圏は、“向こう側”を完全な敵だとは考えてない。」
剣也が眉をひそめる。
「共存派ってやつか。」
エレナは頷く。
「霊災は災害。でも、異界そのものは違う。」
「区別してるのよ。」
リアが口を開く。
「異界内部の観測記録は極端に少ないはず。」
「生還率は?」
「公表値で17%。」
エレナがさらりと言う。
剣也が顔をしかめた。
「低すぎだろ……。」
「実際はもっと低い。」
エレナの表情は変わらない。
「ほとんど帰ってこない。」
沈黙。
ルナが静かに聞く。
「……向こう、何がある。」
エレナの視線がルナへ向く。
数秒。
観察するように見つめる。
「場所による。」
やがて答える。
「都市みたいな領域もある。」
「海しか存在しない場所もある。」
「時間が崩壊してる層もある。」
剣也が呟く。
「……異世界かよ。」
「近いわね。」
エレナは机に指を置く。
「でも、一番危険なのは環境じゃない。」
空気が少し変わる。
「“認識”よ。」
リアが反応する。
「認識汚染。」
「正解。」
エレナが頷く。
「向こう側は、人間の認識を侵食する。」
「長時間いると、“現実との境界”が曖昧になる。」
「自分が何者なのか分からなくなる人間もいる。」
暁が小さく笑う。
「だから潜行者は頭おかしい奴しか残らねぇ。」
「否定できないわ。」
エレナも少しだけ笑った。
剣也が聞く。
「……あんたは何を見た。」
その瞬間。
部屋が静かになる。
エレナは少しだけ視線を落とした。
だが隠さない。
「“人類の残骸”。」
誰も喋らない。
「向こう側には、“元人間”みたいな存在がいる。」
「霊とも違う。」
「妖とも違う。」
「でも、人だった痕跡だけが残ってる。」
ルナの瞳がわずかに揺れる。
エレナが続ける。
「中には、言葉を喋るものもいる。」
「助けを求めるものも。」
「でも――」
一拍。
「近づいた隊員から壊れていった。」
剣也が顔をしかめる。
「……なんだよそれ。」
「分からない。」
エレナははっきり言う。
「だから観測してる。」
リアが分析する。
「異界は単一空間ではない。」
「複数階層構造の可能性。」
「ええ。」
エレナが頷く。
「しかも、“拡張してる”。」
モニターが切り替わる。
世界地図。
各地に赤い点。
増えている。
年々。
確実に。
「2037年以降、“境界”は広がり続けてる。」
「霊災は結果でしかない。」
「本当の問題は――」
エレナの目が細くなる。
「世界そのものが、向こう側に近づいてること。」
空気が重くなる。
剣也が口を開く。
「……止められんのか、それ。」
沈黙。
短い。
だが、十分だった。
エレナが静かに言う。
「だから、あなた達を見に来た。」
視線が、
剣也。
リア。
そしてルナへ向く。
「“選択”という変数が、何を変えるのか。」
その時。
不意に。
ルナが小さく呟いた。
「……知ってる。」
全員が見る。
ルナは窓の外を見ている。
遠く。
もっと遠く。
「……向こう。」
小さく。
断片的に。
「……見たことある。」




