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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
58/86

遠い約束 7



「戸籍謄本なんかでよければ、いくらでもとってきてやるよ」


 次に茅蜩館を訪れる時に持参しよう。その時には、新しいホテルの全貌も教えてやる。茅蜩館のようなチンケなホテルには真似しようのないほど大きくて豪華な俺のホテルに、君たちは腰を抜かすに違いない。俺を馬鹿にした自分たちの愚かさを、心の底から悔やむがいい。


 ……とかなんとか、冬樹が自信満々に言い残して帰っていった後、橘乃と要は、八重の居間に呼ばれた。

 

 居間では、冬樹の応対を要たちに任せるしかなかった人々が、彼らを待ち構えていた。 

「私が行くと、冬樹さんが調子に乗ってロビーで喋りまくりそうだったからねえ」

 襟足をほりほりと掻きながら八重が要たちだけに冬樹の対応を任せたことについて詫びを入れれば、貴子は貴子で、「みんなして、私が出ていったら騒ぎが大きくなるだけだって行かせてくれなかったのよ。 私が総支配人だっていうのに、あんまりだと思わない?」と、要に訴えた。


「貴子さんは、あの場にいないほうがよかったと思いますよ」

「ほら、ごらん」

 要の遠慮がちな意見に、八重が勝ち誇ったように胸を逸らす。

「あんたは、《大好きな久志兄さん》のことになると冷静じゃなくなるからね。挑発に負けてロビーで怒鳴り合いの喧嘩でもされた日には、それこそ冬樹さんの思う壺じゃないか。総支配人自らホテルの品位を貶めるような真似は御免だよ」

 『お手柄だったね』と、八重が彼女の2番目の孫の隆文とその婚約者の香織に笑みを向けた。どうやら、貴子のロビーへの乱入を力づくで阻止したのは、このふたりであるようだ。

 

「僕がいたなら、冬樹に言いたい放題にさせなかったのに」と、騒ぎを起こす気満々だった浩平も、「おまえが一番来なくてよかった」と、要からあっさりと拒絶された。ちなみに、浩平が来られなかったのは、再来週に予定されている小宴会の打ち合わせ中だったからだそうだ。

「畑山さんと桜井さんのどっちが主賓の挨拶をしようが乾杯の音頭をとろうが、僕は正直どっちでもよかったのに」

「どっちだってよくない。本人たちにとっては大事なことだ」

 要と貴子と八重の声が重なった。浩平は、彼らの非難を軽く無視したまま「でも、せっかく冬樹を直接凹ませる機会が、手の届くところにあったのに、どうでもいい打ち合わせのせいで……」と、しきりに悔しがった。


「ねえ。浩平さんって、冬樹さんとは、普段から喧嘩なさるぐらいに親しいの?」

 浩平がこれ以上3人に怒られないようにと、橘乃がやんわりと話の矛先を変えた。

「戸籍上の続き柄でいえば、あいつは僕の叔父さんってことになるね。でも、お互いに姿を見たことがある程度の知り合いでしかないよ」

 浩平には、要における貴子と同じように、戸籍上の養父母がいる。彼の養父である竹里秋彦は、竹里冬樹の母違いの弟にあたる。剛毅の名誉のために言っておけば、秋彦の母親が武里剛毅の先妻で冬樹の母親が後添いだ。六条源一郎のように、剛毅が一時にふたり以上の女性を妻として養っていたわけではない。

「そんなことないよ。あいつだって、別宅に女性を囲ってたし、それ以外にも、あっちこっちの女に無節操に手を出しては興味がなくなったら捨てることを繰り返していたからね。剛毅と比べたら、関わった女性と手を切れない六条さんのほうが、ずっと誠実だよ」

 自分でお茶のお替りを湯呑に注ぎながら、浩平が教えてくれる。

「だけど、無節操な遊び人の剛毅も、冬樹の母親と結婚した後は、全ての女性関係を整理しなくちゃならなかった。冬樹の母親の機嫌を損なうわけにはいかなかったからね」

「政治家のお嬢さんでしたね?」

 橘乃の広範囲に及ぶ友人ネットワークから知りえた情報によると、冬樹の母親の母方の家というのは、彼女の祖父を筆頭に首相や大臣を数多く輩出してきた家系である。

「冬樹の母親のお兄さん――つまり冬樹の伯父さんは、その血筋の本流から外れているけれども、次の首相だって噂されている人がその地位につけば、確実に閣僚入りするって言われているらしいね」

 その兄に利用されているのが、竹里リゾートなのだそうだ。

「ホテルの売り上げが、政治資金としてお兄さんに渡っているってことですか?」

「合法とされる範囲で……という意味では、そうだね。今は法律が厳しくなってきているから」

 今であれば違法なことを昔の武里がやっていたことを、浩平が匂わせた。

「ホテルの売り上げをもっていくなら、まだ許せるのよ。それならば、オープンさせたホテルを大事にしようっていう気にもなるでしょうから」

 貴子がため息をつきながら腕を組む。

「というと?」

「リゾートホテルって気軽に言ってますけど、竹里のそれは、ホテルを一軒建てるだけでは終わらないんですよ」

 キョトンとしている橘乃に要が説明を始める。


 竹里リゾートは保養所というよりもスポーツアミューズメントとしての性格が濃い。美しい景色と温泉を楽しむだけでは飽き足らない客のために、ゴルフやテニス、マリンスポーツやスキーなどが楽しめる娯楽施設が必ず近くにある。そういった施設が近くにない場合は作る。 そして、多くの場合、近くにないので新設される。

「ですから、ひとつのリゾートホテルを作るとなると、ホテルの建設予定地一帯に大々的に手を入れることになります」

 ホテル建設に加えて、ゴルフ場やスキー場の開発が行われる。また、それらの施設に付帯する設備も新たに作られることになる。大勢の人が出入りする場所ができれば、そこに至る道路や水道などのインフラの整備も必要となる。

「大工事なんですね」

 ということは、大金が動くことになる。工事を仕切るのは大手の建設会社だろうが、実際の工事では、地元の土木会社を始めとして多くの働き手が駆り出されることになる。環境破壊などを憂いる人々も少なくはないだろうが、そこで暮らす人々にとっても、それなりに魅力的な話だ。『スポーツ推進』とか『地域活性化』とかいう名目で国からの援助が期待できれば、その魅力は更に増すだろう。小さい頃から度々耳にしてきた父や兄の会話から、橘乃でもそれぐらいのことは分かる。


「リゾートが完成したら、ホテルや周辺施設で働く従業員が必要になりますし、それらの従業員が暮らしていくために必要とされるもの――住宅や商店といったものも増えていくでしょう。それから、土産物や特産品を売る店もできますね。ホテルでの食事や土産物の材料を作ったり採ってきたりする人たちもまた忙しくなります」

「リゾートホテルが建てられることで、地元の人たちにとっても仕事や働く場所が増えて利益にもなる……わけでもないんですか?」

 周りの人々の表情を見る限り、そうとは言えないようだ。

「まあ、いいことばかりあるように思えるから、地元の人も一生懸命誘致するんでしょうね」

 だからこそ、武里リゾートへの地方からの期待は高い。特に地元の有力者たちや彼らの陳情を受けた地元選出の国会議員などが誘致に躍起になる。純粋に地域の活性化を願ってのことでもあろうが、そういった地元の名士たちは地元の土建業者と密接な関係にある場合も多いようだから、彼らの利益にも直結するようだ。地元に利益をもたらすことができれば自分を支持する基盤が強固なものになり、選挙の票集めの役に立つ。ゆえに、武里リゾートを誘致したい者たちは、冬樹の伯父をあてにする。真偽のほどはわからないが、武里リゾートの開業決定権は彼が握っているともいわれている。 


「……ええと、ということは、冬樹さんの伯父さまは、リゾート開発の口利きをしてあげることで、利益を得ているということですか?」

 利益誘導型の政治家。父や兄は、そんなふうに呼んでいたと思う。

「手に入れるものはお金とは限らなくて、自分や自分の派閥への支持とか、自分の希望を通すための交換条件にするのですよね?」

「うん。実は私もよくわからないんだけど、たぶん、そういうことしているんだと思う」

 貴子が橘乃に向かって、小さく舌を出しながら笑う。「工事を一括で受注するのは大手の建設会社になるから、そちらからも、いろいろな見返りを得ているという噂もあるわね。あくまでも、私が聞いた噂にすぎないけど」

「そうなんですか?」

「どうなんだろうね」

 橘乃がたずねても、浩平は、思わせぶりな笑みを浮かべるだけだった。


「だから、冬樹さんの伯父さんにしてみれば、ホテルが出来上がってしまえば、それでいいんですよ」

「貰うものはもらっちゃった後だから?」

「有り体に言ってしまえば、そういうことになるのでしょうね。『貰う物はもらったし、渡すものも渡した』ということで、契約完了です」

 

 そこから先のこと――できあがったリゾートをどのように地域に生かしていくかは、その地域に住む人々が考えていくべき問題となる。少なくとも冬樹の伯父はそう考えているだろうし、出来上がったリゾートを最後まで面倒をみていく義務も責任も感じていないだろう。 


 都会に本社を持つ大手の建設会社にしても、代金を受け取ってしまえば、それまでである。何年か何十年か後に、他のリゾート地に押されて集客力が落ちようが、そのせいでホテルが大赤字の末に潰れようが、彼らには関係ない。せいぜい『気の毒に』と思う程度だ。


「結果的に辛い目に合うのは、リゾートで働いている、地元の方々ということになりますね」

「それから、いずれ莫大な損失を抱え込むことになる武里グループだね」

 浩平が付け足す。

「でも、潰れるとは限らないでしょう?」

 武里リゾートは、今のところ大人気だ。友だちの中には、これからスキーやマリンスポーツブームが来ると断言し、武里リゾートの全国制覇を試みようとする者もいるほどだ。

「ええ。 当面は大丈夫でしょうね」

 要が、この人には珍しい皮肉の籠った笑みを浮かべた。

「この国ではリゾートという言葉からして耳新しいですし、今は誰もが豊かになりつつある時代ですから、しばらくは人気を保ち続けるでしょう。品のない言い方をするならば、今のリゾートは儲かります。だからこそ、武里リゾート……というよりも冬樹さんは、次から次へと新しいリゾートホテルをオープンさせています。しかも、冬樹さんの成功に触発されて、他の業者も参入してきました。でも、この流れは長く続かないと思います」


 どこに行っても変わり映えしないと思われるようなリゾート地がいくつもオープンすれば、いずれ淘汰される時がくるだろう。建設ラッシュは、せいぜいあと20年。その頃には維持できなくなって閉鎖するリゾートも出てくるはずだと、要が確信を込めた口調で予測する。

「え? そんな先なの?」

「ホテルリゾートみたいなバカでっかい施設の元を取るには、短すぎる時間だよ」 

 驚く橘乃に八重が苦笑を向けた。浩平も貴子も八重に同意するようにうなずく。 

「それまで満員御礼だったホテルにある日ぱったり客が来なくなるわけじゃないからね。徐々に客足が減って、設備の更新にお金がかけられなくなって、全体的にボロくなって、最終的に廃墟化する」

 後に残るのはゴーストタウンと借金だけだと、浩平が夏の怪談話さながらの陰鬱な声で告げた。


「リゾートってね。多くの人が思っているほど簡単じゃないんですよ」

 生真面目な顔で要が言う。

「美しい景色以外に楽しめるものがないような遠い場所にあるホテルに、仕事も用事もない人を滞在させるんです。お客さまに『来てよかった』と思っていただけるかどうかは、自分たちの接客にかかっていると言っても過言ではありません。少しでも嫌なことがあったら、そのお客様は、ホテルどころかその地に二度と足を踏み入れてくれなくなるかもしれない。それぐらいの気持ちがないとリゾートホテルなんて維持できません。しかも、そこまで頑張っても、お客さまから『また来たい』とまでは思っていただけないかもしれない」

「うちでいうなら、鎌倉のホテルね。鎌倉は観光地だし、近くの海は海水浴場として昔から流行っているから、リゾートとは言い難いけれども、あそこも、そのどちらからも少しだけ離れた所にあるでしょう? だから、いろいろ苦労しているのよ」

「ええ」

 貴子に言われて、橘乃は、先日訪れたばかりの鎌倉のホテルを思い出した。

 寺社が多く集まっている鎌倉の中心部から江ノ電で数駅。海まで長い坂道を下りることになるホテルから見える景色は、確かに美しかったが、少し不便でもあった。なるほど、ああいう場所にあるホテルは、あえて泊まりたいと思わせる何かがなければ、どんどん客が離れて行ってしまいそうだ。 

(そういえば、鎌倉の総支配人さんは、レストランで出すメニューを決めるために、シェフと連れ立って地元の魚市場や港、近郊の畑に行ったりするって話していたっけ)

 訪れる人がホテルにチェックインする前にゆっくり観光できるようにと、駅近くで旅行鞄を引き取るサービスもしているとも言っていた。


「現在保養地として知られている地で生き残ってきたホテルは、『そこに行くことでしか得られない何か』を必死になって追求することで、お客さまを増やしてきたんです。それに、日本には昔ながらの良い湯治場が沢山ありますからね。立派な施設があるからといって漫然と人が来るのを待っているだけでは、保養目的のホテルに固定客なんてつきません」


 武里リゾートも同じだと要が言う。今は物珍しさから客が大勢やってくるかもしれない。だけども、同じようなリゾートを各地に出来てしまったら、必ず流行らない場所が出てくる。

「『どこに行っても同じ』ならば、最終的に残るのは、人口の多い東京や大阪から行きやすいとか、スキー場の雪質が良いとか……」

「そこにしかない『何か』があるホテルが残る?」

「そうですね。自分たちの地域ならではの強みを探し出して、それを上手にお客さまにアピールできたところや、『来てよかった』と思わせるだけの居心地の良さをお客さまに提供できるところが残っていくのでしょうね」

 要が橘乃にうなずく。 


「それ以外は潰れちゃうの?」

「だろうね」

 突き放すように浩平が言う。

「でもね。冬樹や彼の伯父さんばかりの責任とは言い切れない。武里リゾートができれば万事オーケーって思っているほうも悪いんだよ。あれは、東京生まれで東京のものが一番だと思っている冬樹が『いい』って思っているものを、全国各地に作っているだけだからね。その土地ならではの良さなんて、冬樹にわかるわけないし、あいつは始めから知ろうともしない。しかも、あいつを見ただろう? あいつは、その時々の流行りを、そのまんま追っかけているだけだよ」

 流行とは、読んで字の如く流れて行くものだ。最先端の流行に合わせて作られたホテルが、オープンするそばから時代遅れになっていくのは必然である。 

「流行のものほど飽きられるのは早いからね。冬樹から与えられたものを漫然と運営していていれば、人気を失う時期も当然早くなるわけさ」

 浩平は、なかなか手厳しかった。 

「そういうことがわかっているからこそ、軽井沢や箱根の老舗リゾートホテルは、どこも武里の後追いをしてない。10年ぐらい様子を見て、スポーツリゾートの動向を見極めてから始めても全然遅くないって思っているんだよ。秋彦にしても、このペースでの開発はマズイと思ってる。でも、今は儲かっているからね。秋彦が反対したところで、誰も聞きやしない。それどころか、みんなして秋彦を疎ましがって、社長の座から追い落とそうとしている。特に、冬樹の母さんは、秋彦が邪魔で邪魔でしょうがないんだよ」

 武里グループ内での秋彦の立場は、日に日に悪くなっているらしい。冬樹を守るために、冬樹の母親が彼女の血縁を使ってグループ全体に圧力をかけさせた結果であるようだ。

「悪いのは全部冬樹なのに……」

 悔しげに浩平がつぶやく。

「秋彦さんのことが、ご心配なのね?」

 憎まれ口ばかり叩いているような人だが、浩平も要と同じようだ。戸籍だけの親子関係と思いきや、ちゃんと親子として愛情で繋がっている。 

 

 だけども、浩平は、要のように素直に感謝を口にするような性格はしていなかった。

「まさか。 僕は秋彦の不甲斐なさに呆れ果てているだけだよ」

 浩平が吐き捨てる。

「あの馬鹿が正論を吐くだけでやられっぱなしになっているおかげで、輝美のヒステリーは酷くなるばかりで、こっちは困っているんだ」

 どうやら、彼は、養母の輝美のことも気にして様子を見に行っているようだ。しかしながら、「あいつも剛毅の息子なんだから、もっと汚い手を使って、冬樹を再起不能にしてやればいいんだ」という浩平の主張には、誰も賛成しなかった。「真っ正直なのが、秋彦さんの好いところなんだよ」と八重に諌められた。


「そうかもしれないけどさ。ところで、話を戻すけど、マリアって子がお祖母ちゃんの本当の孫だってことになったら、祖母ちゃんはどうするつもりなの?」

「どうするって? なにを?」

「茅蜩館だよ。彼女に譲るつもり?」

「譲らないよ」

 八重の返事は、『なぜそんなことを、わざわざ聞くのだ?』と言わんばかりのそっけなさだ。

「でも、六条さんにホテルを渡すっていうのは、お祖母ちゃんが死んだ後か、早くても新しい別館が完成してからの話でしょう? いまから遺言内容を変えれば……」

 隆文も気になっているようだ。


「それでも、茅蜩館は六条さんのものだよ」

 八重が、きっぱりとした口調で言う。

「元はと言えば、恩返しのつもりで六条さんに渡すことにしたけど、おかげで相続問題もいい具合に収まったじゃないか。今さら、ひっくり返すつもりはないよ」

「でも……」

「でももなにも、今日初めて茅蜩館にやってきたような子に、茅蜩館を任せられないよ」

 相続辞退を口にしようとする橘乃に八重が微笑み、「この際だから、ちゃんと言っておこうね」と自分が育てた血の繋がらない孫たちと娘を見た。


「私にとっての茅蜩館は預かり物だ。自分の財産だとは、一度として思ったことがないよ。茅蜩館の良さを生かしながら時代に合わせて成長させていくことができる人に、いつか引き継ぐこと、それまで茅蜩館を守り抜くことが、私の務めだと思っていた」

 恩返しという意味もあったが、六条源一郎であれば、経営能力に問題があろうはずがない。八重が考える茅蜩館のあり方に理解を示し、茅蜩館ならではの良さもわかってくれている。なにより、源一郎ならば、貴子はもちろん3人の孫たちを平等に扱ってくれるという確信があった。 


「六条さんなら、あんたたちを手放すことは茅蜩館にとっても大きな痛手になると、客観的に判断してくれるという自信があった。まさか、娘の持参金にしてホテルを返してくれることまでは期待していなかったし、その娘さん自身が、茅蜩館のオーナーにピッタリなお喋りだってことには驚いたけどね」

 八重は喉を鳴らすようして笑うと、3人の孫の名をひとりひとり呼んだ。


「マリアって子が血の繋がった孫であろうとなかろうと、このお祖母ちゃんが渡してやれるものは、茅蜩館に嫁いできた私が、久助さんのご両親とここで働いていた人たちから、教えていただいたもの。つまり、仕事のやり方とか心構えみたいなものだね。それだけは、胸を張って私の財産だと言い切れるし、それならば、私からあんたたちに幾らでも渡してやれる。ホテルマンはもちろん、どんな職につくことになっても、一人前の人間として誰からも歓迎されるように。 家族のひとりやふたりなら、自分の手で充分に養っていけるように。そう思いながら、私は、あんたたちのことを育ててきた。ボタンとか滝川くんみたいに行き場をなくしてやってきた子についても、『どこに行ってもやっていけるように』ということを頭に置いて面倒をみてきたつもりだ」

「うん」

「ここをクビになっても、どこかのホテルで雇ってもらえる自信ならあるよ」

 貴子に続いて、3兄弟がうなずく。


「だから、マリアって子が私の本当の孫だったとしても、私が渡せるものは、あんたたちに渡してきたものと同じものでしかないよ。だけどねえ……」

 八重が、皺の寄った顔を曇らせた。


「あの子は、たぶん、違うだろうねえ」

「違うでしょうね」

 貴子もため息まじりに同意する。


「だって、名前が《マリア》だもの」

「ああ、そうか。《マリア》は、いくらなんでも、まずいですよね」

「なによ? 要、今まで気が付かなかったの? もしかして、本物かもしれないと思ってたの?」

「いや、始めから偽者だと決めてかかっていたというか…… 橘乃さんとマリアさんのやり取りを聞いていただけで、充分に偽者だとわかったというか……」

 貴子に睨まれた要はしどろもどろだ。橘乃にしても、マリアの話しぶりがぎこちなかったことから、『もしや』とは思っていた。だが、疑っていたとはいえ嘘をつかれていたことが明らかになるのは、やはりショックだった。


「でも、《マリア》だと、どうして偽者だって思うんですか?」

「それはね。マリアは、ボタンの、いわゆる源氏名だったからよ」

 ボタンが洲崎の方の怖いお兄さたちから逃げ回りながらパンパンをやってた頃に、身元を曖昧にするためにマリアという名乗っていたのだそうだ。

「ええっ! そうだったんですかっ!」

 それでは、間違いなく偽者ではないかと盛り上がる橘乃に対して、隆文は、まだ釈然としないようだった。女性の心理にとことん鈍い婚約者のために、香織が、「あのね、隆文くん。好きな人との間に授かった子供に、自分が別の男の人から買われていた頃に名乗っていた名前をつけると思う? つけないよね?つけないんだよ」と、懇切丁寧に教えている。


「それにさ。 持ってくるって言っていた戸籍謄本もねえ。証拠になるかどうか……」

「なりませんか?」

「戦争が終わってから、戸籍そのものが、いろいろ変わったからねえ」

 家単位から夫婦単位への変更や身分の記載の廃止など、新しい法律の施行により、戸籍は大きく変わった。

「ああ、そうね。あんたたちを八重さんの戸籍に入れなかったのだって、移行期間中に小細工されたら問題だとか、相続の法律が変わったらどうするんだとか誰かがグチャグチャ言い出したせいだったんだから」

「じゃあ、何の役にも立たない?」

「立たないかどうかは、見てみないとわからないけどね」

 そもそも、ボタンの戸籍からしてどうなっているかわからないと、八重が首を捻る。

「洲崎とのゴタゴタの片付けついでに、久志が手伝って、ボタンの本籍地を茅蜩館に移動させたんだよ」

 ボタンがいなくなってから数年後に、八重は、ふと気になって、その戸籍謄本を取り寄せてみたことがあるという。そこにマリアの出生は追記されていなかったそうだ。


「戸籍って、そう簡単に新しく作れるものでもないよね?」

「た、たぶん?」

 八重に訊かれたところで、橘乃にもわからない。咄嗟に要を見たが、彼も慌てたように首を振っただけだ。

「それにさ、ボタンのことをマリアさんがそこまで知っていることからしても、どうもねえ……」

「孤児院の方が話してくださったということですが」

「そうかもしれないけどさ。だけど、ボタンが本当に死んだのなら、その孤児院の人は、子供の預け先として、どうしてうちに連絡をくれなかったんだろうね。あの子が頼れる場所なんて、うちしかないのに」

「そういえば、そうですよね」

 子供の養育先は、その子と少しでも縁のあるところにと、普通なら考えるはずだ。


「第一、ボタンは…… そうそう死なないと思うんだよねえ」

「そうよねえ、あの子、たくましかったもの」

 貴子が笑う。

「本当に久志兄さんの子供を産んでいたとしても、独りでしっかり育てていると思うわよ。でもって、父親のことは子供にも内緒にしていると思う。兄さんに迷惑かけたくなくて彼女が身を引いたんだとしたら尚更、遺産欲しさに子供が茅蜩館に押しかけるきっかけになるような情報を与えるようなヘマは絶対にうたないでしょうね。たとえ兄さんに繋がるような証拠もあったとしても、自分が死んじゃう前に破棄…… あっっ! あるかもっ!」

 貴子がいきなり大声を上げた。 


「ねえ、八重さん! 無くなったレジスターブック! ボタンが持ってるってことはない?」

「あ……―――― あれか?」

 鼻の前で手を合わせ記憶をたどるように視線を宙に向けた八重が、小さく何度かうなずく。

 レジスターブックとは、ホテルの滞在客が記入する宿帳のことであると、橘乃は、以前要から教えてもらった。


「兄さんが死んだ時に、どこを探しても出てこなかったでしょう? もしかしたら、ボタンが持っているってことはない? あれなら、ボタンも捨てられないだろうし」

「そりゃあ、あれが大事な物だってことはボタンも知ってただろうけどね。でも、どういうシチュエーションで、久志からボタンに渡ったんだい?」

「えーと、エンゲージリングの代わり?」

「指輪の代わりに宿帳渡す馬鹿が、どこにいるんだよ?」

「それは、兄さんだから……?」

「説得力がないね」

「だよね?」


「あの?」

 遠慮がちに橘乃が質問を挟んだ。 


「レジスターブックが、ないんですか?」

「う~ん、ないといえばないんだけど……」

「あるといえばあるというか……」

 貴子と八重が言葉を濁す。 



 あまり話したいことではないらしい。                      



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