遠い約束 6
ボタンは、洲崎の生まれだ。
当時の洲崎には吉原の向こうを張る花街があり、彼女の母親も遊女のひとりだった。金離れのよい上客に恵まれた、なかなかの売れっ子であったようだ。
今更なかったことにできない時期まで妊娠を隠していた彼女が授かった子供をどうしても産むのだと言い張った時、妓楼の主は良い顔をしなかった。
ボタンが2歳の時に女が亡くなると、彼は、遺されたボタンを厄介者とみなした。捨てられずにすんだのは、母を亡くしたばかりの幼女を不憫に思った妓楼の女たちが、『この子は絶対に美人になる。大きくなったらここで働かせればいい。大事に育てれば、いつか楼主をたんまり儲けさせてくれるよ』と、一風変わったやり方で、この子を庇ってくれたおかげであった。
見込みがなさそうなら下働きとしてこき使えばいいだけだ。そう割り切った楼主は、ボタンを手元に残しておくことにした。始めは、ただの気まぐれだった。だが、ボタンが長じるにつれ、彼はボタンの利発さに気がついた。しかも、この子には、なんとも言えない愛嬌がある。どんな美人も愛嬌のある女には敵わない。そのことを、楼主は経験的に知っていた。
この子を磨き上げよう。かつて美貌と才気で殿さまや豪商を魅了した太夫を育てるが如く、この娘にも多くの教養と芸事を身に着けさせ、最高の女性に仕立てよう。この娘を男の生理的な欲求に応えるだけの娼婦ではなく、『触れることさえ畏れ多い』と、『会って話をするだけでも価値がある』と、思わせるだけの女にするのだ。
楼主の思いつきは、ボタンが母親をしのぐ美貌の持ち主になるだろうと誰もが確信し始めたことで、更に現実味を帯びた。彼は、本気でボタンに投資し始めた。もちろん、かかった金はボタンの借金になった。彼は花街の楼主だ。余計な情けなど、はなから持ち合わせていない。
しかしながら、あと数年でボタンの披露目をしようかという時、洲崎遊郭は、命令によって閉鎖された。戦争が始まってから2年目の昭和18年のことだった。
花街の女性たちは一斉に職を失うことになった。女たちの中には、自分の意志あるいは楼主からの要請で戦地に赴いた者もいたが、楼主は、年齢制限を理由にボタンを留まらせた。ボタンは、自分が大切に育て上げた極上の華だ。自分の知らない見知らぬ場所で花開かせることなどあっていいわけがない。遊郭が再開されれば、ボタンが自分の郭の再建の切り札になるだろうことを、彼は確信していた。
それまでの間、ボタンは、遊郭の跡地に建てられた軍需工場の行員として動員されることになった。この頃のなると、真っ当な世間に背を向けて生きてきた遊郭の楼主ですら、『誰もかれもが御国のために働くべきだ』という風潮に逆らいきれなかったのだ。
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「その工場には同じ年ぐらいの少女たちが大勢働いていた。いわゆる勤労奉仕ってやつだ。だが、ボタン以外の娘さんたちは皆、普通の家の娘さんだった。美しいが卑しい者として、ボタンは彼女たちから苛められ……」
冬樹とマリアと名乗る女性が代わる代わるに語るボタンの半生を、要は複雑な思いで聞いていた。
洲崎の女郎屋の生まれのボタンは、幼い頃から、高級接待向けの女性となるための様々な教育を受ける代償として、多額の借金を背負わされた。しかしながら、戦争中に洲崎遊郭は閉鎖を命じられ、勤労奉仕していた工場も終戦の年の3月に空襲を受けて全焼。その時、非情であるはずの楼主が、彼女を庇って火を受け、亡くなっている。
茅蜩館の近くで営業していたためにパンパンだったことは多くの人に知られていたものの、ボタンは自分の過去を人に話すようなことはなかったと要は聞いている。
彼女の生い立ちを知っていたのは、八重やボタンと友人だった小菅など、ごく僅かな人間のみ。要とて、ごく最近に彼女たちから教えてもらったばかりである。それにも関わらず、冬樹たちが語るボタンの半生は、要が八重たちから聞かされていた話の筋を正確になぞっていた。楼主が死に際に『地獄に行く前に、ひとつぐらい善いことをしておかないとな』と言って彼女に自由を与えたことも、彼らは知っていた。もっとも、自由を得て、空襲のどさくさに紛れて逃げ出したところで、ボタンに落ち着く先があるわけがない。食うや食わずの状態で何とか生き延びようとしている間に、彼女は結局『花街流』の稼ぎ方を覚えた。終戦後は、当たり前のように占領軍相手にをひさぐ女たちの群れに加わった。
ここまで、冬樹とマリアが言っていることに間違いはなさそうだ。
橘乃の母親がボタンの母親かもしれないという疑いさえ持っていなかったら、そして、語り手が冬樹でさえなかったら、要も、マリアがボタンの忘れ形見だと、あっさり信じたかもしれない。
(いや、やっぱり信じなかっただろうな)
マリアはともかくとして、冬樹の話を聞けば聞くほど、自分の気持ちが冷めていくことに、要は気がついていた。今となっては、ロビーが混む時間が訪れる前に、いかにして冬樹を追い返すかということばかり考えている。茅蜩館にとっては疫病神でしかない冬樹が姿を見せた時点で、できるだけ隅へと誘導したものの、大声を出されれば多くの客の注意を引くことは間違いない。こんな長話をされるとわかっていたならば別室に案内すればよかったと要は後悔していた。
(信じたくないという気持ちもあるのだろうけど、でも、なにかがかなり違う気がするんだよなあ)
特に、冬樹の語るボタンが、違う。
彼の語るボタンは、要の知っているボタンではなかった。まるで、同じ脚本を使って別の女優が演じる芝居を見ているような…… そんな違和感がある。そして、その違和感は、この界隈で稼ぎ始めたボタンの様子を冬樹が語るにいたって、いっそう強くなった。
冬樹の語るボタンは、不幸な境遇に生まれた自分の星回りを嘆き、好きでもない男と関係を持つたびに罪の意識にさいなまれる、実に悲劇的な女性だった。要が知っているボタンも、パンパンだった過去を悔いていた。だけども、彼女がそのように変わったのは、久志の勧めで茅蜩館で働くようになってからのことだ。先日、小菅が教えてくれた話によると、パンパンだった頃のボタンは、そのようなしおらしさを全く持ち合わせていなかった。
『ボタンは、他の生き方なんか知らなかったもの』
そう、小菅は言っていた。
ボタンは、自分を可愛がってくれた《お姉さんたち》がしていたようにしただけだ。自分を売ることについては、『取り締まりがあるけど、捕まったら病気のチェックもしてくれるから、ありがたいわよね』程度の認識しかなかったという。ホテルの前で客引きをする度に久志から何度『その商売から足を洗え』と諭されても、鼻で笑い飛ばすだけだったそうだ。
だけども、本当に同情されるべきことはボタンのそういう自覚のなさだったろうと、要は思う。
要が預けられた孤児院にしても、他人様からみれば可哀想な環境だったのだろうが、彼らの面倒をみてくれていた人々は、一般の人々以上の道徳心と優しさを持ち合わせていたものだ。それに引き換えボタンは、悪いことを悪いことを認識することさえできないばかりか、むしろ推奨されるような育てられ方をしたのだ。
(ああ、そうか。僕がお世話になった孤児院で育った女の子なら、冬樹さんが語るボタンみたいな可哀想な女性になるかもなあ)
運命に弄ばれるまま嘆き悲しむ無力なヒロインは、真っ当な道徳心と堕ちてしまった境遇よりも幸せな過去を持っているからこそ成り立つもののようだ。そういう意味では、冬樹が語るボタンよりも本当のボタンのほうがずっと可哀想だったに違いないと要は思う。
(でも、ボタンが『無力』とはねえ……)
要は、ボタンと初めて会った日のことを思い出していた。無力なヒロインというものは、自分で蹴り倒した椅子に足をかけ、威勢のいい啖呵で苛めっ子を脅かしたりできるものなのだろうか?
ボタンは、強かった。理不尽な現実に流されないだけの、たくましさとふてぶてしさを持っていた。要がボタンの思い出を無暗に誇張していないことは、八重と小菅から聞いた『ボタンが茅蜩館の前で客を引いていた理由』からも明らかである。
ボタンが逃げ出した洲崎は、終戦半年後には歓楽街として復活した。俗にいう洲崎パラダイスである。 ボタンを籠の鳥にしていた楼主の店も、経営者を変えて早々に営業を再開していた。もしも、楼主が生きていたら、ボタンは楼主に義理立てて彼の店に戻ったかもしれない。それ以前に、彼が生きていればボタンに自由などやらなかっただろう。
だけども、楼主は亡くなり、ボタンは自由を得た。
……とばかり思っていたのだが、楼主の死に際の口約束を聞いたものはボタンの他になく、彼女の借金の念書は、空襲を受けても焼け焦げひとつつかずに残っていたそうだ。
どこかからボタン生存の噂を聞きつけた新しい経営者は、当然、ボタンを取り返そうとした。彼は、自分の手下を使って彼女の行方を探させた。占領軍目当ての女たちが大量に集まっている有楽町や新橋あたりは、真っ先に目を付けられた。うっかり見つかって捕まりかけたこともあったようだ。
だから、ボタンは、自分の力で借金を返して自由を手に入れようと決心した。そのためには、捕まって連れ戻される前に大金を稼ぐ必要があった。
金銭感覚が自国とはけた違いの金離れのいい他国の軍人から、なるべく効率よく金をむしりとる。または、金持ち将校のオンリー(専属)になり、彼の帰国に便乗させてもらって、追っ手の手の届かないところまで海外脱出する。それが、彼女の立てた計画だった。
できるだけ階級の高い軍人に客を絞ることは、金を稼ぐため以上の利点もあったという。階級の高い軍人が利用するクラブほど、入店のチェックが厳しい。彼女を狙う男たちに見つかったとしても、クラブの中にいる限りボタンは安全であった。
比較的高い地位の軍人が寝泊まりしている上に実は街娼の客引きが認められておらず、とはいえ取締りがそれほど厳しくない茅蜩館の周辺は、ボタンを探している男たちの目から逃れつつ彼女の野望の達成するためには、うってつけの場所であった。
茅蜩館よりも更に偉い人々が滞在していた帝都ホテルの前ならば、客引きの場所として最高だったのかもしれないが、いかんせん、帝都ホテルは彼らが本部にしていたビルに近かったために警備が特に厳しく、ボタンのような者が近づけば速攻でつまみ出されること請け合いであった。
つまり、ボタンは慎重に検討を重ねたうえで、茅蜩館の前に立っていたのだ。道徳的には間違ったことをしていたかもしれないが、彼女は全力で自分の運命を切り開こうとしていた。彼女が流されるままの女だったら、とっくの昔に洲崎に戻されて、籠の鳥のような生活に戻っていたはずだ。久志にも、会えずじまいだっただろう。要にもだ。
しかしながら、冬樹は、ボタンの借金返済に関わる営業活動については、一切触れず、生きるために体を売りながら借金取りに怯える可哀想なボタンを強調した。ボタンがこんな調子だったから、彼女と愛し合うことになった久志もまた本来の性格からだいぶ変わっていた。否、こちらは完全に別人だった。
久志は、虐げられるばかりだった彼女を匿い(ボタンが強引に逃げ込んできたので久志が匿うしかなかったというのが事実である)、彼女を狙う借金取りどころかヤクザまがいの軍人をも問答無用でボコボコにし(久志だったら、力に訴えるのは最終手段だと心得ていたはずだ。それより、当時のホテルの職員が占領軍の人間を殴ったら大問題になる)、ボタンの所有権を主張する経営者にも殴り込んで借金を帳消しにさせ(ボタンの代理人として久志が経営者と話し合ったことは事実だが、ボタンが払いきれない借金を久志が肩代わりすることで、経営者との貸借関係を解消しにしただけだと要は八重から聞いている)、ボタンを疎んじる茅蜩館一族からの妨害にもめげずに(……といっても、東京の茅蜩館には彼女の味方のほうが多かったから、実際には、要が受けていた程度の嫌がらせだと思われる)彼女を守り、愛しぬいた。
(『愛しぬいた』のかもしれないけど)
要の知っている久志とボタンの繋がりは、もっと優しくて穏やかなものであったような気がする。それこそ、進展がなくて周りがじれったくなるほどに……
(それより、冬樹さんが話す総支配人って、六条さんみたいだな)
派手好みで女性のためならどんな手段も惜しまない六条源一郎は、昔は、今以上に情熱的で無鉄砲な性格をしていたと聞いている。ストッパーだった久志が亡くなってしまったので丸くならないわけにはいかなかったのだと、いつだったか、源一郎が話してくれたこともあった。
(まあ、こういうヒーローとヒロインのほうが一般受けするのだろうけれど)
傍らの婚約者を横目で観察しながら、要は、内心でため息をついた。
橘乃は、冬樹の話に聞き入っていた。
(橘乃さんは、こういう話が好きそうだもんなあ)
だが、それを話している男が最近自分を誘拐しかけたことを、彼女は覚えているのだろうか?
(こんな男の言うことを鵜呑みにして、どうするんですよ? 少しは疑ったら、どうなんですか?)
要は、心の中で橘乃に訴えた。だが、彼女の潤んだ瞳は、自称ボタンの娘に向けられたままだ。
「あなたのお母さまは、大変な苦労をなされたのね」
冬樹がボタンと久志の仲が無惨に引き裂かれる経緯を(この話の流れから察するに、きっと劇的に引き裂かれたに違いない)話そうとした矢先、要が止める間もなく、橘乃が自称ボタンの娘に近づき、両手で包み込むようにして彼女の手を取った。
「マリアさんとおっしゃたわね? それで、今、お母さまは、どうしていらっしゃるの?」
「え?」
要は思わず声を上げた。偽物と決めつけていたので、そんな基本的な質問をすることさえ思いつかなかった要も阿呆だが、質問されたマリアまでもが、一瞬虚を突かれたように目を瞬かせた。
「この人ね」
そんな周囲の動揺などお構いなしに、橘乃が要を振り返る。
「彼は、ボタンさんと久志さんに、とても可愛がってもらったんです。でも、ボタンさんがいなくなってしまった途端に、久志さんまで亡くなってしまったから、ずっと寂しい思いをしてきたの。だから……」
だから、要にボタンを会わせてやってほしいのだと橘乃がしんみりとした口調でマリアに言った。 ……かと思ったら、今度は、人懐っこい笑顔で彼女に話しかける。
「それはそうと、マリアさん。あなた、お母さまの写真をお持ちじゃない? お綺麗な方だったんでしょう? 私、ボタンさんの噂は沢山聞いたのですけど、こちらには写真が残っていないとかで、お顔をまだ拝見したことないんです。よかったら拝見させてもらえないかしら?」
「しゃっ、写真は!」
しゃくりあげるような声で、マリアが橘乃の言葉を遮った。
「写真は…… その、一枚もありません。母は、私が子供の時に亡くなって……」
「まあ、そうだったの? それはお辛かったわね。お幾つの時?」
「…… に、2歳?」
心許なげに、マリアが返事をした。しかも、質問口調である。
「まあ、そんな小さい時に?」
橘乃が、ますますマリアに同情した。
「立ち入った質問をするようですけど、お母さまが亡くなった後は、あなたは、どうしていらしたの? もしかして、孤児院に?」
彼女を抱きしめんばかりの勢いで、橘乃がたずねた。かなり不躾な質問であるのに不快な感じがしないのは、彼女が本気でマリアのことを案じているように見えるからだろう。
もっとも、マリアは、機嫌を損ねる以前に、質問の意図するところがわからなかったようだ。
「え? 孤児院?」
「ボタンさんは、身寄りがいなかったそうじゃないですか。だから……」
「あ、ああ! そうか、そうですよね!」
『そこで、あなたが感心してどうするんだ』と、要は、心の中でマリアに突っ込みを入れた。
ともあれ、どういう経緯で冬樹に協力することになったのは定かではないにしろ、彼女がボタンの娘でなさそうだということは、はっきりしてきた。ところで、このマリアという女性だが、冬樹と一緒にやってきたから悪人だという先入観があったものの、橘乃とのやり取りを見る限り、根は善人のようである。
(お喋りに夢中になっている間に、相手の嘘と実体を暴き出してしまうとは…… 橘乃さんって、いろんな意味で、すごいのかもしれない)
「孤児院、いました!」
呆れながらも感心している要の前で、マリアが橘乃の無自覚な誘導尋問的な質問に食いついた。
「じゃあ、そこの人たちが、お母さまのことを話してくれたの?」
「はい?」
またしてもマリアの頭上にクエスチョンマークが浮か……んだように見えた。
「お母さまがお亡くなりになった時、まだ2歳だったのでしょう?」
先ほど冬樹が話したようなボタンの身の上をたった2歳の娘が記憶として残しているとは思えない。ならば、彼女が大きくなってから身近な人から聞かされたのだろうと、橘乃は考えたようだ。
「その方たちは、誰からボタンさんのお話を聞かされたのかしら? その方たちにたずねれば、ボタンさんが茅蜩館を出られた後の詳しいお話を聞かせていただけるかしら? どちらに行けば、お会いできるかしら?」
橘乃は、おそらくボタンを恋しく思っている要のために、いろいろと情報を集めようとしてくれているのだろう。だけども、追及されているマリアの顔は、明らかに引きつっている。お喋りに夢中になっている橘乃は、マリアの動揺に気づきもせずに、善意の追及を続けた。
「そういえば、亡くなる前のボタンさんは、どこで暮らしていたのかしら? 生活は苦しかったのかしら? 久志さんが亡くなったことは、ご存じだったのかしら? せめて、お墓詣りがしたいのだけど……」
「え、ええと……?」
橘乃の矢継ぎ早な質問は、とうとうマリアを思考停止に追い込んだようだ。まっすぐな橘乃の眼差しから逃げるように泳いだマリアの目線が、冬樹をとらえた。冬樹は、あくまでも強気だった。
「認めたくない気持ちはわかるけどさ。そうやって、つまらない質問で彼女を追いつめたところで、彼女が真の相続人であることは変わらない」
マリアを庇うように彼女の肩を引き寄せながら、冬樹が橘乃に責めるような視線を向ける。橘乃が、ひどく傷ついたような顔をした。
「追い詰めるなんて…… 私は、ただ……」
「そうは申しましても」
要は橘乃を冬樹の前から横に押しのけるようにして前に出た。橘乃は充分すぎるほどの働きをしてくれた。冬樹の相手まで彼女にさせることはない。
「恵庭久志元総支配人の隠し子を名乗ってこられた方は、私を含めてこの方で4人目です。お話だけで信じるわけにはまいりません」
「ということは、その新藤ボタンしか知らないはずの『お話』に間違いがないことは、あんたも認めるわけだね?」
「作り話だとは断言できない内容ではありましたね」
要は慎重に言葉を選んだ。
「ですが、新藤ボタンは、自分の意志で茅蜩館を辞めました。誰かが彼女を追いだしたわけではありません。妊娠のことも、おそらく誰も知らなかったと思います」
『ただし、自分以外』という言葉を、要は飲み込んだ。久志とボタンが本当に結婚していたとしたら、その前に親戚中の大反対にあっただろうことは、要にも予想はつく。無理矢理別れさせられたかもしれないし、ボタンの妊娠がわかったら、中絶を強く勧める者もいただろうことも否定できない。
だけども、ボタンは久志のプロポーズに応える前に出て行った。妊娠したことも、ボタンが別れ際に残した言葉から『そうかもしれない』と要が勝手に推測していただけで、彼女が誰かに打ち明けた様子もない。つまり、ボタンは、騒ぎになる前に誰にも何も言わずに茅蜩館から去ったのだ。だけども、そのことを冬樹に納得させるのは、難しい。
「そういうことにしておいたほうが、あんたたちにとって都合がいいものな」
冬樹は、やはり要の言い分を、逃げ口上を受け取ったようだった。
「そうやって、自分たちの都合のいいように過去を書き換えて、ボタンを排除した罪の意識から逃れようとしているんだ」
「そんなつもりは、ありません。ですが……」
要は、急に馬鹿馬鹿しくなってきた。完全に時間の無駄だ。こんなところで冬樹と押し問答する暇があったら、まずは、自分が橘乃の母親がボタンかどうかをこの目で確認しにいくべきだろう。そのほうが、なにかとスッキリするに違いない。
(うん。そうだ。とにかく、橘乃さんのお母さんに会おう。話は、それからだ)
彼は冬樹のペースに乗るのを止めると、事務的な口調で「わかりました。そこまで、おっしゃるのなら、証拠を見せてください」と要求した。
「証拠? 今しがた俺が語ってやったボタンの話が証拠だよ」
「それは、証拠にはなりません」
要は断言した。
「新藤ボタンの身の上を知っていさえすれば、誰でもなりすますことが可能です」
「『なりすます』なんて、ひどい言いぐさだな! 君は可哀想な彼女を哀れむこともできないのか! この人でなし!」
「そう思われても結構です」
要は、冬樹の抗議をいなすと、マリアに謝った。
「申し訳ございません。あなたを疑うのは大変心苦しいのですが、私は、この竹里冬樹さんのことを全く信じられないんです」
「い、いいえ、そんな……」
どうやら本当に善い人であるらしいマリアが、恐縮するように首を振った。
「自分のことを棚上げにして、マリアさんが久志さんの本当の娘であるという証拠を出せとまではいいません。ですが、新藤ボタンの娘である証拠なら、なにかしらお持ちですよね? 戸籍謄本でも、出生届の写しでも、私たちが見てもボタンが生前使っていたとわかる遺品でも、なんでもいいですから私たちに見せてくださいませんか?」




