遠い約束 8
「ねえ、なくなったレジスターブックって……」
仕事や用事を言い訳にしながら落ち着かない様子で居間を出ていく八重と貴子を気にしながら最初に口を開いたのは、隆文だった。
「あれのことかな?」
「ないと言えば、あれだよね? でも、あれがあるってことは、どういうこと?」
「要は、なにか聞いている?」
「いや、知らないな」
顔を寄せ合うようにして話し合っていた弟たちから同時に問われて、要が首を横に振る。
「でも、あったらあったで、いろいろ面倒なことになりそうな予感がするんだが」
「うん。 なるよねえ」
要の疑念に弟たちがコクコクとうなずく。
秘密めかした3人の態度に橘乃の好奇心は大いに刺激されていた。だが、彼女よりも先に、「どういうこと?」という問いを先に発したのは香織だった。
「後でゆっくり話すよ。そうだな、今日の仕事が終わってからね」
隆文が香織を促して立ち上がり、部屋を出て行こうとする。どうやら、この場でのこの話は、ここまでらしいと橘乃は察した。あとのふたりも仕事に戻るようだ。ところで、自分はどうしたらいいだろう。誰もいなくなった居間で八重が戻ってくるのを待っているのも、橘乃としてはためらわれる。
「橘乃さん、一緒に来てくれますか?」
「いいの?」
橘乃は、嬉々として婚約者の誘いに乗った。建て替え準備のために総支配人の補佐に回されている彼が向かったのは新館にある事務所……だとばかり思っていたら、その奥にある書庫だった。あまり人が出入りしていない場所なので、ドアを開けた途端にムッとした暖気がふたりに襲いかかってくる。
要が冷房の操作パネルをいじっている間に、橘乃は、レジスターブックが納められている棚に向かった。 要の片づけを手伝ったことがあるので場所はわかっている。
「ええと」
後ろで手を組み、天井の高さまである棚に隙間なく並べられた黒い本の背表紙に記された年表記をざっと目で追う。 隣合う2冊の年が繋がらないのは1か所だけだった。『1943~45年』と記された冊子の隣に『1947~49年』と記された冊子が並んでいる。
「ここ?」
「残念」
2冊のレジスターブックの間に指を置いてみせた橘乃に、要が微笑みながら首を振った。
「あ、そうか。この年が空いているのは、占領軍の人がホテルを使っていた時期だからですね」
当時の茅蜩館は占領軍の宿舎として利用されていた。ホテルの営業はしていないのだから、レジスターブックの出番はない。
「ええ。その二年間は、茅蜩館の本館が接収され、新館もオープンしていなかった時期です。ですから……」
要が『1947~』の方のレジスターブックを棚から引っ張り出して見せてくれた。一冊の分厚い本のように見えていたそれは、もともとは宿泊者ごとに記入してもらった書類だったものを日付順に並べて綴じたものであるようだ。
「ほら、最初のページ」
「え? まあ」
肩を寄せるようにして冊子を覗き込んだ橘乃の顔に笑みが浮かぶ。レジスターブックの最初の1ページ目に記されていたのは、アルファベットの筆記体だった。『タカヒサ キリュウ』と読める。
「これ、和臣兄さまのお祖父さまよね?」
桐生喬久。茅蜩館の新館の建設に奔走したという人物である。
「ええ、直筆ですよ。新館の最初のお客さまです」
「『他一名』っていうのが、お父さまね?」
「そうです」
六条源一郎は喬久の書生であった。
「住所『今日から、ここのスイート』。職業『無職』……って、なにこれ?」
笑いが込み上げてくる。
「フィクサーだとは書けないでしょうし、本人はフィクサーだとも思ってなかったそうですからね」
梅宮も笑う。しかしながら、喬久が出鱈目を書いているのかと言えば、そんなことはないそうだ。新館が出来上がって以来、彼は茅蜩館を自宅代わりにしていたという。海外のホテルでの宿泊時にも、茅蜩館の住所を連絡先として書いていたそうだ。
「この間、研修と称して海外に行かせてもらった時に、イギリスのホテルで当時のレジスターブックを見せてもらう機会があったんですけど、事実でしたね」
「無職も?」
「ええ」
顔を上げた橘乃と、こちらを向いて微笑んでいる要の目が合った。
「あ」
ほぼ同時にふたりが声を出し、どういう訳だか、お互いに目を逸らすことができなくなった。そして、
どちらともなく相手に向かって顔を寄せ、唇を合わせた。
「………………。いや、無職というより、イギリスだと貴族は働いてないのが普通だと思われているというか、貴族も職業だと思われているようですね」
かなり間が空いた後、要が強引に話を戻そうとする。
「へえ、そうなんですか」
相槌を打つ橘乃も、かなり上の空だった。そして、要も、橘乃と同様に頭の中がフワフワした感覚で満たされているようだ。
ぼうっとした顔のまま要を見つめる彼女に、再び彼が唇を寄せる。離れがたくなって、更にもう一度。書庫の外を通り過ぎる女性たちの弾けるような笑い声に驚いて我に返るまで、ふたりはキスを繰り返した。
「ですから」
なにが『ですから』なのかは定かでないが、赤い顔をした要が、おたおたしながら話を元に戻した。橘乃も、今度こそは真剣に彼の話を聞こうと気を引き締めた。それにしても暑い。だが、その暑さが夏の暑さからくるものではないことは明らかだ。
「失われたレジスターブックというのは、こちらではなくてですね」
要が手にしていた冊子を棚に戻す。代わりに取り出されたのは、橘乃が目をつけた2冊よりもひとつ手前にあった『1939~42年』の冊子であった。
「ええと…… あ、ここです」
落ち着きを取り戻した要が、冊子を開いて橘乃に示す。
「あら?」
手を伸ばして要が開いてくれたページの前後を確認した橘乃は、1939年のページのすぐ後に1942年のページが続いていることに気が付いた。なんということだろう。1940年と41年、つまり昭和15年と16年の分がごっそり抜けている。
「どういうことなんですか?」
橘乃は要にたずねた。先刻と同じように要の顔が間近にあったが、さすがにキスに夢中になる気にはなれなかった。
「さあ」
彼女の予想に反して、要の返答は曖昧だった。
「ただ、この時期のレジスターブックが失われているのは、茅蜩館だけではないんです」
日光や軽井沢、箱根などにある幾つかの古いホテルでも、紛失していることが明らかになっているという。
「別荘地にある老舗のホテル?」
「もう少し具体的にいえば、開国後に外国から訪れた人々が避暑の目的で利用していたホテルで、戦後の一時期、うちと同じように接収されていたホテルです」
別荘地ではないが、同じように接収されていた横浜の茅蜩館も同期間のレジスターブックが失われているそうだ。接収されていない鎌倉のホテルは無事だという。
「じゃあ、持っていってしまったのは……」
「証拠もなしに、誰かを泥棒だと疑うのは、よくないと思いますよ」
疑うどころか決めつけようとしていた橘乃に、要がやんわりと釘を刺した。
「ただ、なくなっているレジスターブックが『戦争が始まるまではあった』ということは、多くの人が記憶しています」
「じゃあ、やっぱり!」
「それでも、はっきりしないんですよ」
勢い込んだ橘乃に要が首を振った。
「接収中に占領軍によって処分されてしまったのかもしれない。でも、接収される前に、それぞれのホテルの当時の支配人が、破棄したとか隠したとか提出した。 ……という疑いもなきにしもあらずでしてね」
『何があったにせよ、当時の総支配人たちが真相を知っているはずだ』という確信に近い噂もあるそうだ。
「ということは、その人たちに訊けばいいのではないの?」
「それが、そんなに簡単なことでもないんですよ。あの人たちが『明かさない』と決めたならば、殺されたって言いません。本当に知らないのかもしれないし」
結局、いまだに真相は闇の中だという。
「特にうちは、当時の総支配人だった久志さんが亡くなってますからね。横浜の総支配人だった人も、真偽はともかく『僕は知らない。知っているとしたら、久志だろうよ』の一点張りだったそうです。でも、もしかしたら……」
「久志さんがボタンさんに失われたはずのレジスターブックを渡した可能性があるかもしれないのね?」
「貴子さんは、そう考えたようですね」
パタンと音を立てて、要がレジスターブックを閉じた。
「でも」
橘乃にはどうにも納得できないことがある。
「レジスターブックって、それほど重要なものなんですか?」
レジスターブックに書かれていることといえば、宿泊した日付と部屋、そして名前と住所をメインとしたわずかな情報のみである。
「もちろん、お客さまのプライベートな情報ですから、外に漏れたら大事になるとは思いますよ」
だが、要の話を聞く限り、レジスターブックを手に入れた者は、そこに書かれている情報を利用するのではなく葬ることを目的としていたようだ。他で調べればわかるような基本情報を、なぜ、必死になって消そうとしたのだろうか。
「それがそうでもないらしいんですよ」
要によると、ホテルのレジスターブックというのは、過去の足取りを辿るための大事な資料と考えられているのだという。
「足取り? あ! 殺人犯を追ったりするんですね?」
そういえば、テレビドラマなどで刑事がホテルで聞き込みをしているではないか!
「そういう時にも、要請があれば協力しないでもないですけどね」
ミーハーな橘乃に要が苦笑する。
「レジスターブックの重要性を語る時に真っ先に挙げられるのは、食中毒と伝染病対策です」
仕事や観光などで海外からやってくる客、あるいは海外から帰国した者が国内に入ってから伝染病を発症した場合、あるいは食中毒が発生した場合、国内での病気の拡散を防ぐためなどの理由で、その人物の移動範囲を絞り込む必要があるのだという。
「ですから、ホテルは、レジスターブックを置くことを法律で義務付けられていますし、これに記入することは、お客さまの義務でもあります。特に外国からいらしたお客さまの場合には、国籍やパスポートの番号や前泊地の記入をお願いしていますが、決して相手を怪しんでいるわけではないし、差別的な意味もありません」
「書くことを拒否したり、嘘ついたりしたら?」
「一応法律違反になります」
しかしながら、罪に問われたケースというのは、皆無に近いようだ。ホテル側も、明らかに偽名だとわかる名前を書かれても、警察に突き出すようなことまではしないという。
「でも、偽情報を書いたり、記入を拒否すれば、その人は怪しい人よね?」
「そうですね。かえって私たちの注意を引くことになります。ですから、ほどんどのお客さまは、記入を拒むことはなさいませんし、浮気を目的に来館される方を除けば、たいていの方は本当のことを書かれていると思います」
レジスターブックは個人の情報を詮索する類のものではなく、記入すべきことも必要最低限である。 しかも、何事もなければ、書庫に仕舞い込まれるだけの書類でもある。また、ホテル側の都合で、内容を書き換えるようなものでもない。しかも、サインも含めた宿泊者の直筆が残る。
「だからこそ、史料的な価値があるのだそうです」
「歴史?」
「ええ。過去を知る手がかりとしての資料ですね」
過去を知るために取られる手段には、幾つかある。
例えば、歴史書を読む。例えば、当時の新聞などの報道内容を知る。例えば、当時に生きていた人々の話を聞く。歴史小説も、時代劇も、楽しみながら過去への興味を広げる役に立つ。
しかしながら、例えば昔の人々によって編纂された歴史書であれば、その歴史書を書かせた為政者の意向により意図的に事実を曲げたり、自身の行為の正当性を強調するような書かれ方がされていることが多く、時代が遡るほど、その傾向は著しくなる。
新聞報道は、この傾向が更に顕著だ。特に戦争中は、敵に対する残虐性を強調し味方の戦意を高揚させるような文言が並びがちである。しかも、味方に不利な状況は概して報道されない。または控えめ過ぎる表現で短く報告するのみに留められる。昔に関わらず今でも、そして、国内であろうと国外であろうと、報道には必ず何らかのバイアスがかかっていると考えていいだろう。しかし、だからといって、嘘ばかりが書かれているわけでもない。鵜呑みにしてもいけないし、記事の内容が気に入らないからといって全てを捏造と思い込むこともまた間違っている。書かれた内容から、どれだけ事実らしきものを拾い出せるか。あるいは、紙面に直接書かれていない意図をどれだけ読み取れるか。それが、歴史家のみならず一般市民が報道と向き合う正しい姿勢であろう。
「歴史の証言者というのは、その最たるものですね」
語られるのは、証言者という個人の目から見た『真実』であるので、極めて主観的だ。彼らの体験談には、彼らが体験した事実のみならず、彼らの思い込みや勘違い、当時に語られていた噂が、少なからず紛れ込んでいる。しかも、記憶というものは、時間が経つにつれ、少しずつ自分に都合がいいように書き換えられていくものだ。だが、それは決して悪い事ではない。いわば、ただでさえ辛い思いをした自分の心が安らかになるように証言者が無意識に行っている治療のようなものだ。だから、証言者を嘘つき呼ばわりすることは許されない。だけども、彼らの証言を歴史の事実とするためには、別の裏付けが必要となる。
歴史小説は、論外。どれだけ臨場感があろうと、真実のように書かれていても、読者が感動しようと、あくまでも史実に基づいたフィクションでしかない。
「結局のところ、歴史の真実なんて、誰がどれだけ頑張ったところで、どこにもありはしないんだそうですよ。なにしろ過去のことですからね。タイムマシーンを使って過去に行き、その事件の関係者を嘘発見器にかけながら尋問でもしない限り、事実を証明することは不可能なのだそうです。だから、同じ時代の同じ事件をひとつ扱っても、複数の真実めいた説が存在する。そして、裏付ける証拠が一番もっともらしい説が、真実に近いと認識されることになる」
「レジスターブックは、その証拠に?」
「ええ。これには、『誰が、いつ、どれぐらいの間、このホテル、あるいは東京や日本に滞在していたのか』、そして、『ここに来る前にその人物がどこにいたのか』ということが、淡々と書き連ねてあるだけですからね。嘘が入り込む余地が少ない分だけ、その人物が、レジスターブックに記入したその日に、ホテルに滞在していたという動かしがたい証拠になるそうです」
別のホテルのレジスターブックと付き合わせれば、特定の人物の足取りを確認することもできる。 たとえ、偽名を使っていても、サインを始めとした直筆が残っているので鑑定することも可能だという。
「ということは、何月何日に茅蜩館にいたということを知られると困る人が、どこかにいるということなのかしら? それで、誰かが処分した」
「その可能性があります」
「でも、誰の足取りを消したかったのかしら?」
「わかりません」
なにしろ、確認したくても、レジスターブックが残っていない。
「でも、思い当たる理由ぐらいは、あるのでしょう?」
苦笑を浮かべてはぐらかそうとする要に、橘乃が焦れた。
「じゃあ、ヒント! ヒントをください!」
「橘乃さん。クイズじゃないんですから…… そうですね、謎を解く手掛かりになりそうなのは、紛失したレジスターブックの年でしょうか?」
「昭和15年と16年?」
「16年は?」
「第二次世界大戦、勃発?」
戦争が始まった年だと、橘乃は記憶している。だけども、正確な知識ではなかったようだ。
「第二次世界大戦は西洋の方では既に始まってしまっていましたから、『勃発』というのは少し違うかもしれませんね。日本も、中国に侵攻してました」
要が残念そうに首を振る。
「細かいことだと言われそうですが、昭和16年は、日本とアメリカの戦争が始まった年です。いわゆる太平洋戦争ですね」
「う~~ 近現代史、苦手」
橘乃は呻いた。だけども、ここで逃げてはいけないと思い直す。茅蜩館は、日本の近代化と密接な関係がある。どこかで大恥をかかないためにも、いずれオーナーを名乗るなら、頭に入れておかなければならない知識であろう。
「ええと、16年にアメリカとの戦争が始まりました。きっかけは真珠湾攻撃」
とりあえず、知っていることを言ってみた。
「12月です」
「そんな年の瀬でしたっけ?」
「ええ。ということは、つまり?」
第2のヒントとなる質問が要から投げかけられた。だが、12月だからなんだというのだ?
「ええと…… 1月から11月までは、アメリカさんと戦っていない?」
間抜けな答えしか出てこない自分に、橘乃は我ながら情けなくなった。それにもかかわらず、「くだらないこと言って、ごめんなさい」と謝ると、要は意外にも「正解ですよ」と笑いかけてくれた。
「16年にはまだ、両国の間で人の行き来がありました。15年もです」
「ということは、あちらの国の方でこのホテルに泊まった方がいるかもしれないということですよね?」
宿泊者がいるならば、レジスターブックに記録が残ることになる。
「日本にいることを知られると困る人が泊まったのかしら?」
「『占領軍が処分した説』を取ると、それが有力ですね。そして、知られて困るのは、うちに泊まったことではなく、うちに泊まる前に宿泊した場所だという可能性もあります」
「でも、どうして?」
不思議がる橘乃に、『あくまでも仮説ですよ』と要が前置きする。
「二国が戦争と始める前に、戦争を回避するための話合いが何度も持たれたといわれています」
日本も馬鹿ではない。資源も人口も生産力も戦力も、なにもかもが自国と桁違いのアメリカと実際に戦って負けてみるまで、あの大国に勝てないかもしれない……いや絶対に勝てないだろうと想像してみなかったわけではないだろう。映画や小説には、融通の利かない威張り腐った軍人とかプライドばかりが高そうな政治家など、デフォルメ化された人物ばかりがでてくるが、実際は、かなりの譲歩を許してでも戦争なんてしたくなかったというのが本音だっただろうし、実際はかなり譲歩するつもりだった可能性が高い。
「でも、日本が戦いたくなかったということが知られるとまずいと思った誰かがいた……のかもしれない」
「そうなの?」
「本当だとしたら、戦争を決断しなくてはならないところまで、あちらが日本を徹底的に追い詰めたということになるでしょう? でも、それでは勝者としての心証が悪くなる。あちらとしては、日本がわからず屋の悪い奴らだったから、仕方なく戦争することになったんだということにしておいたほうが気持ち的に楽じゃないですか」
「そうですね」
戦争で犠牲になった人々や被害を受けた人々の苦しみは、誰もが『可哀想』だと共感できる哀しみだ。 だが、わかってもらいづらいのは、戦争に参加した加害者の苦しみである。 加害者もまた人を傷つけた苦しみを負う。勝った者であろうと、それは同じだ。できることなら、感じる痛みは少なくあってほしいだろうと、橘乃は理解を示した。
「あるいは、もっと別の、あちらが完全に悪者になってしまうような歴史的な事実が穿り返される恐れがあって、それを隠そうとしたということも考えられますよね」
「まあ、それはどんな事実?」
「わかりませんよ。『そういうことがあるかもしれないねっていう仮定の話』でしかないって、最初に言ったでしょう? しかも、今のは『占領軍がレジスターブックを隠匿した』という仮定から作り上げたお話です」
隠した者を別の立場の者に設定し直せば、また別の仮定の話が生まれる。そういう類の話でしかないと、要が強調する。
「じゃあ、例えば、日本が隠したと仮定したら? どういう仮説が考えられるの?」
「その場合は、東京裁判に備えて……ということになるでしょうね。開戦前の話し合いを決裂させた日本側の人物が戦争を起こした罪に問われるかもしれないと考えた誰かが、証拠の隠滅を図った。総支配人に行動だけを考えれば、こちらの説のほうが、むしろ、すんなり納得できませんか? 宿泊客の命に関わると政府に言われたら、頑固な総支配人たちだってレジスターブックを提出しないわけにいかなかったでしょうから、その後も、絶対に秘密にするでしょう」
「だけども、なくなっていることに気が付いたら、それこそ占領軍が大騒ぎするんじゃない? いかにも、裁判の証拠になりそうだもの」
「ええ。だから、この仮定にしても、いまいち説得力に欠けるわけです」
他にも、『戦争初期に、交渉決裂を恥とした何者かが、交渉が行われた事実そのものを隠匿しようとして破棄した』とか、『戦争末期に、戦争を避けるための交渉に当たった者を売国奴として投獄しようとした軍部から守るために破棄された』のだとか、無くなったレジスターブックについては様々なことが言われてきたのだという。日米開戦がらみではなく、別の事件を隠すために行われたという可能性もあるという。例えば、ゾルゲ事件などだ。日本を舞台に諜報活動を行っていたスパイに接触した人物を特定されないように、誰かがレジスターブックを破棄した。あるいは証拠として秘密裏に政府に提出させられたまま戻ってこなかったとも考えられる。
「もちろん、今言ったことの全部が外れだという可能性もあります」
「そうですよね」
肝心のレジスターブックがないのだ。どれだけ推理したところで真相が確かめられるわけがない。だからこそ、誰かがレジスターブックを隠さなければならなかったのだろう。
「そういう大事な物をボタンさんが持っているかもしれないのね」
久志が自分で隠し、後にボタンに託した。それだけのことが分かっただけでも、実は大変な発見となるのかもしれない。
「見つかったら、大変なことになるかもしれないですよね?」
「見つかったら困る人がまだ現役かもしれませんから、迂闊に公表すると危険かもしれませんね」
要が大真面目にうなずく。
「でも、マリアさん……は、もっていないわよねえ?」
もはや、誰も、彼女がボタンの娘だと思ってはいない。
「マリアさんは、持っていないでしょうけど……」
合冊本のレジスターブックを棚に戻した要が橘乃を見た。 難しい顔をしている。
「要さん?」
「そういえば、橘乃さんのお家に御挨拶に行かなくてはいけませんね」
「え? なんで急に、そこに話が飛ぶの?」
「すみません。どうも気になってて」
拍子抜けした橘乃に、要がバツの悪そうな笑みを浮かべた。
「母のことは、本当にどうでもいいんですよ」
あの人は臆病なウサギみたいなものだ。怖がりなので、こちらが追っかけているうちは逃げる。だけども、慣れてきたら自分で巣穴から出てくる。
「それより、冬樹さんの新しいホテルのほうは、いいの? 心配じゃないの?」
彼だけではない。八重も貴子も、あまり気にしていないようにみえた。
「それこそ、どうでもいいことです。……と言えるほどの余裕はないですけど、新しいホテルが近くに建つたびに動揺していてもしかたがありませんよ」
東京は、これからますます大都市化するだろう。世界有数の都市となれば、これからは外資の有名なホテルも軒をつらねるようになると、要が予測する。
「そっちのほうがむしろ脅威です。だけども、どんなホテルが近くに建つことになろうと、茅蜩館は、その時代時代にあったサービスを模索しながら、自分たちができるおもてなしをお客さまに提供するだけです」
そのことを、要は、外国のホテルへ研修に行かせてもらった時に強く感じたという。
「さっきは武里リゾートの話でしたけど、都会のホテルでも同じなんですよ。なにかあってから慌てているようでは生き残れません」
なんの気負いもなく、そんなふうに言い切ってしまう要は、橘乃の目にとても頼もしく見えた。しかしながら、やはり誉められるのには慣れていないようだ。橘乃が、「要さんって、カッコいいですよね」と素直な気持ちを口にした途端、「き、急に何を言い出すんですかっ!」と、彼が顔を真っ赤にした。
「だって、本当にそう思ったのだもの」
「ああ、もう出ましょう。ここ、あんまりクーラーが効いてないようですから」
「あ、ちょっと待って」
橘乃は、出口に向かおうとする要の袖を引いた。ホテルの中は人が多すぎる。二人きりになれる所なんて、滅多にない。
「あのね」
要に向かって目を閉じ、心もち唇を突き出してみせる。
「そうですね。 あとちょっとだけ……」
察しのよい要は、クスリと笑うと橘乃の望みを叶えてくれた。
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書庫を出た橘乃は、ひとまず家に帰ることにした。 武里リゾートの新聞記事を見つけるなり家を飛び出してきたことを思い出したのだ。
「というわけで、これ要さんからのお土産」
六条家に戻った橘乃が、食堂の入り口で茅蜩館のロゴが入った煉瓦色の紙袋を差し上げれば、歓声を上げた娘たちが池の鯉のように橘乃の周りに集まってきた。茅蜩館の洋菓子は、この家の女たちの共通の好物だ。
「あれ? これは?」
「ああ、それは違うの」
橘乃は、紙袋から紅子が取り出した包みを奪い返すと、いそいそと茶の用意を始めていた母親たちのところまで持っていった。
「これは、要さんが、お母さまたちに『是非に』って」
「私たち?」
「茅蜩館が新しくなるのを記念して、昔のお菓子のレシピの中で人気だったものを復活させることにしたの。これは、試作品のビスケットなんだけど、感想を聞かせてほしいんですって。きっと『昔ながらの味に詳しい方がいらっしゃるはずだから』って」
ビスケットは、レース編みのような縁模様が入った紙ナプキンで包まれ、巾着のように口のところを赤いリボンで結んであった。 逆立ちしたテルテル坊主のようでもある。
「可愛らしい包みね」
「でしょう? 実際にお店に出すときには、包装紙の材料とかは、また工夫するみたいだけど」
「おすそ分けみたいね。小さい頃、こんなふうに紙に包んだお菓子をもらったわ」
明子の母親の感想に、「本当にね、懐かしい」と橘乃の母親の美和子も、目を細めた。




