厳しい理想と甘い現実 7
朝早くから橘乃に電話で呼び出された紅子は、姉が宿泊中の部屋にやって来るなり備え付けのクローゼットの扉を開けた。そこには、橘乃が持参した着替えの一部が収納されていた。ハンガーにかかっている洋服だけでも5着はある。
「滞在2日目でしょう? こんなに服があるのに、どうして足りないの?」
振り返った紅子は、困惑しきった顔をしていた。
「足りない訳じゃないのよ。ただ……」
怒れる妹から目を逸らしつつ、橘乃は、モゴモゴと言い訳した。
足りない訳ではない。
ただ、梅宮と接するうちに、茅蜩館のスタッフが橘乃が思っている以上に客に注意を向けていることが、わかってしまったのだ。ついでに、彼らが物知りで、流行にも通じているどころか物の良し悪しを見分ける目も備えているということも、わかってしまった。
そんな彼らの目に、橘乃は、どのように映っているのだろう?
もしかしたら、とんでもなく子供っぽい娘だと思われているのではないだろうか?
そんなことを考えてしまった途端、橘乃は、自分が持ってきた服のどれもが自分の幼さを強調するだけの代物に思えてならなくなってしまったのだ。
「別にいいんじゃないの? 橘乃姉さまは、可愛らしいのがウリなのだし。 それに、姉さまって、見た目ほど軽くもなければ能天気でもないから、見直してもらえる機会なんて、この先いくらでもあると思うけど?」
「そうかもしれないけどぉ」
橘乃は、遠慮のない紅子の言葉にめげそうになった。
紅子は、いつだってひと言多い。しかも、そのひと言で、人が一番気にしていることを的確に言い当てたりもする。しかしながら、紅子に悪意があるわけではなく、彼女は、ただ素直に見たまま感じたままのことを言っているだけにすぎない。それだけに、言い当てられた方は、かなり堪える。
「でも、少しぐらいは、見た目からでも『頼りになりそうな女』だと思ってもらいたいじゃない」
「そんなにまでして、梅宮さんっていう人に気に入られたいの?」
「 え?」
一瞬、橘乃は返事に窮した。
「べ、べ、別に梅宮さんだけに気に入られたいわけじゃないわよ!」
顔を真っ赤にしながら、橘乃は訂正した。
「そっちこそ、なんで? なんで、ここで、梅宮さんの名前が出てくるのよ?」
問いかける橘乃の声は、変に裏返っていた。
「だって、ここに来てから、梅宮さんっていう人の名前しか出てこなかったから」
紅子の答えは明解だった。ちなみに、紫乃の結婚式で世話になっておきながら、紅子は梅宮のことをよく覚えていないらしい。しかも、かなりの年配者だと思っているようだ。「その人、そんなに口うるさいオジサンなの?」と、真顔で訊いてくる。
「違うわよ」
バツの悪さを感じて、橘乃は紅子から目を逸らした。そして、「とにかく、梅宮さんだけに気に入られたいわけじゃないから。私は、このホテルのみんなに気に入られたいの。全員よ、全員!」と、くどいくらいに念を押した。
姉の気迫に押されたのか、紅子は目をパチクリさせながら戸惑ったような顔で橘乃を見つめていたが、ありがたいことに、それ以上の質問はしないてくれた。
「誰からもよく見られたいなんて、橘乃姉さまって欲張りなのね」
紅子はため息をもって話を切り上げると、「ご所望のものは、これでよかったのよね?」と言いながら、持参した大きな旅行鞄を橘乃の前に置いた。
鞄の中には、まさに橘乃が望んでいた物が入っていた。
シルエットが美しい象牙色サックワンピースは、彼女が持っている服の中では大人っぽい部類に入るものだ。それに見合う靴もアクセサリーも紅子は見繕ってきてくれていた。どういうわけだが、頼んでもいない服まで入っている。クリームイエローのホルダーネックのワンピースは、姉の明子の結婚式の時に橘乃が着ていたものだ。橘乃や紅子の母親たちが持たせてくれたものだという。
「そっちのワンピースを今から着るつもりなら、こっちも持ってきてよかった」
紅子が満足げに微笑んだ。
「お母さまたちがね。お夕食の時は、これを着たらいいって。とっても似合っていたからって」
「え? お夕食?」
「デートなんでしょう?」
一瞬ではあるがポカンとした顔をした橘乃に、紅子が訝しげな視線を向けた。
「もしかして、忘れていたの?」
「そ、そんなことないわよ」
橘乃は、プルプルと首を振りながら否定した。
決して忘れていたわけではない。まだ思い出していなかっただけである。忘れられるわけがないだろう。なんといっても、橘乃的には、まともな異性からの初めての正式なデートのお誘いなのだから。
(ところで何時の約束だったかしら? でも、なんで忘れちゃっていたのかしら?)
だが、今は、そんな些細な疑問に頭を悩ませている暇はない。橘乃は、ちょっと冷静になれば簡単に答えの出る問題をあえて棚上げすると、嬉々として紅子に話しかけた。
「それでね。誘ってくれたのは、竹里冬樹さんっていう方なのだけど、この人が……」
「聞いたわ。相手は、武里リゾートの社長さんなんですってね?」
紅子が、気のない素振りで橘乃の話を遮った。 彼女の顔にも口調にも、『そんな男は気に入らない』という気持ちが滲み出ている。
紅子の気持ちは、橘乃も、わからないでもなかった。この妹は、いかにも女性にモテそうで、しかも自分がモテることを知っている冬樹のような男性よりも、気が利かなくても実直そうな男性のほうが好みなのだ。そこに野生味が加われば申し分ないと彼女が思っていることも疑いがない。もっとも、紅子が《そのようなタイプ》の男性を好むようになったのは、将来兄の片腕として働けるようにと、父から日夜しごかれている彼の秘書の葛笠と知り合いになってからであることも疑いがない。
「家でも、みんなが心配しているわ。あんまり評判の良い人ではないみたいだから」
「そうらしいわね」
橘乃は、とぼけた。
冬樹の悪いほうの評判ならば、橘乃も、昨日姉たちと別れた後に、梅宮の血の繋がらない弟の浩平から聞かされていた。『女にモテると言えば聞こえはよいが、泣かした女は数知れず。でも、本当に大好きなのは自分だけ。移り気で傲慢、しかも自信過剰の男だよ』ということだった。要するに梅宮の真逆のような存在なのだとも、浩平は言っていた。ゆえに梅宮は冬樹を嫌っているはずだとも、彼は断言していた。
だが、当の梅宮は、嫌えるほど冬樹のことを知らないそうだ。知らないのは、浩平も同じだろうとも彼は言っていた。冬樹と同じ『竹里』の姓を名乗っていても、浩平は、八重の孫として育てられた茅蜩館の人間だ。しかも、武里一族と血の繋がりがあるわけでもない。茅蜩館では武里の手先のように思われているが、浩平は武里一族とのほどんとと直接の交流がないし、向こうの親戚の集まりに顔を出すことすら稀であるという。
「だから、評判どおりの人かどうかは、実際に会って、話をしてみないとわからないじゃない?」
橘乃は朗らかに言い返した。世間の評判なんて、全くアテにできないと思う。その好例ならば、橘乃たちの周りにも沢山いるではないか。
「紫乃姉さまの旦那さまなんて、存在さえ疑われていたし、明子姉さまの旦那さまは醜聞まみれだったけど、本当は男女の区別なくお友だちが多いってだけの気さくな方だったし、和臣兄さまだって昔からとてもモテるけど、誠実だわ」
ついでに言えば、愛人とその庶子を6人ずつ抱えている橘乃の父親の評判に比べれば、冬樹の評判など可愛らしいものである。
「そうかもしれないけど」
「それに、お仕事は、しっかりなさっているみたいよ」
不安顔の紅子になんとかわかってもらおうと、橘乃は言い添えた。ちなみに、これは、梅宮から手に入れた確実な情報である。
「武里グループが保有するホテル・セレスティアルは日本全国に50近くあるのだけど、そのうち、スキー場や海水浴場に併設されているホテルは、武里リゾートっていう会社の持ち物で、スキー場の運営なども、その会社がしているらしいのね」
正確には、ホテル・セレスティアルの子会社のひとつが武里リゾートであるらしいのだが、それは、さておき。冬樹は、そのリゾートホテル部門の会社の社長であり、彼が社長の座についてから、会社は飛躍的な発展を遂げているという。
「そんな人だから、付き合う付き合わない結婚する結婚しないはともかく、今後の茅蜩館を発展させるためにも、彼と話をしてみる価値はあると思うのよ」
「そんなこと言って…… 結局、姉さまは、なにがなんでも、その人ともう一度会いたいだけなんでしょう」
もっともらしい橘乃の屁理屈に、紅子の眉間のシワが深くなる。しかも、彼女は、この少しばかり軽薄な姉のことが心配でならなくなってきたらしい。あまりに心配するので、橘乃は、だんだん妹が煩わしくなってきた。
「もう、いいから。ありがとう。家に帰っていいわよ」
橘乃は、妹を部屋から追い出そうとした。
だが、今まで常に愛想の良かった姉から初めて邪険にされた紅子は、ますます態度を硬化させ、橘乃が着替えを終える頃には、冬樹とのディナーまで監視する気になっていた。
「私も、姉さまとディナー食べる! レストランの席を予約するわ!」
「そんなことしなくてもいいわよ!」
橘乃は、紅子に予約を入れさせまいと電話機を抱きしめた。だが、そんなことでは諦めない紅子は、橘乃に背を向けると、駆け足でロビーに降りていった。
橘乃も慌てて紅子を追いかけると、ひとつ遅れのエレベーターで階下に降りた。1階の昨夜夕食を食べたティーラウンジの近くでは、梅宮が神官姿の男性と話し込んでいた。なぜだかわからないが、梅宮は竹ぼうきを持っていた。姉が追いかけてきていることに気が付いた紅子は、明らかにホテルの職員だとわかる彼らに駆け寄ると、レストランの予約を取りたい旨を梅宮に告げた。
「7時から、『六条紅子さま』のお名前で、2名さまですね。かしこまりました」
ひとつひとつの言葉を区切るようにして、梅宮が紅子に確認を取る。
名乗りもしないのに名前を正確に呼ばれた紅子は一瞬きょとんとしたが、彼の胸元にあるネームプレートを見て、おおよそ納得したらしい。
「ああ。 あなたが、梅宮さんだったんですか? 姉が、お世話になっております」
紅子は、まるで彼女のほうが姉であるかのような口ぶりで、『姉がいろいろとご迷惑をおかけしているかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします』と言いながら、深々と頭を下げると、声を潜めて、「でも、子供っぽかったりオーナーらしくなくても、あんまり怒らないでやってくださいね」と見当違いなお願いをした。
「は、はあ…… 厳しくしたつもりは、全くないのですが……」
戸惑った顔で答える梅宮の横で、神官姿の男性が爆笑している。
「紅子! 余計なことを言わないの! すみません、梅宮さん、この子ったら、なにか勘違いしているみたいで……」
ようやく追いついた橘乃が、梅宮に謝りながら紅子を諌めた。だが、紅子は止まらない。「予約ですけど、お席は姉の席の近くがいいです。でも、姉の食事相手からは気取られなさそうな場所でないと困ります」などという無茶な要求を梅宮に押し付けようとする。
「そのように、とりはからいましょう」
憎らしいほどそつのない笑みを浮かべて、梅宮が紅子の頼みを聞き入れた。綺麗な横顔だ、と、橘乃は思った。顎のラインがスッキリとしていて、口角がしっかり上がっている。……などと余計なことに気を取られている間に、紅子は姉と一緒に朝食を食べさせてもらえるように、梅宮に頼み込んでいた。
「かまいませんよ。お泊りのお客さまと同伴であれば、どなたでもお受けしております。料金は別途いただくことになりますけれども、よろしいですか?」
「ええ。もちろん。お代は、こちらのお姉さんにツケておいてくださいね」
しれっとした顔で、紅子が橘乃に負担を押し付けた。
ミルク入りの紅茶とふたりぶんのパンケーキにメイプルシロップをたっぷりかけたものを堪能している間中、紅子は、橘乃が初デートで愚かな真似をしないようにと母や妹たちから託された数々の苦言とアドバイスを伝え続けた。これらの伝言によって、紅子に限らず六条家の女たち全員が、橘乃のことを『かなり軽はずみな女』だと考えているらしいということが明らかになった。
落ち込む一方の橘乃の気分を支えてくれたのは、店内に飾られている花々だった。ホテルのスタッフは、ここに朝食を食べにくるであろう橘乃のために、昨夜のうちに彼女の部屋から大量の花を取り除けてくれた花を飾り直してくれていた。
「『フルときは、相手に期待を持たせたらダメよ。ハッキリキッパリとフルのよ』」
最後の伝言――おそらく次女の明子の母からだろう――を伝え終えると、紅子は意気揚々と帰っていった。
「もう~全然信用ないんだから~」
むくれた橘乃は、紅子に対して、せめてもの報復をすることにした。
紅子がディナーのために確保した席は、ふたりぶんである。彼女はきっと、妹の夕紀か月子を誘うつもりだろう。それならば……と、橘乃は、家に電話を入れると、月子を呼び出して紅子の誘いを受けないように命じた。
察しの良い月子は、「わかった。紅子姉さまが《彼》を誘うように仕向ければいいのね。夕紀姉さまにも言っておく」と、ふたつ返事で引き受けてくれた。
ついで、橘乃は、昼休みの時間を待って仕事場の兄に電話をした。
《彼》は父の秘書ではあるものの、将来的には兄の片腕となる予定であることから、兄は、父よりも優先的に《彼》のスケジュールを自由にする権利を持っている。
橘乃の計画を聞くと、兄は、快く《彼》の今晩の予定を空けてくれた。そればかりか、《彼》が疑問を持たずに紅子を連れて行けるような大義名分も考えてやるとも言ってくれた。
「仕返しっていったって、紅子にとっても悪い話ではないはすだもの」
自らを正当化しつつ、橘乃は夕方を待った。そして、午後7時。 紅子は父の秘書である葛笠を連れて、もとい葛笠にエスコートされて茅蜩館本館2階のレストランにやってきた。
ウェイターに先導された紅子が、恨めしげな顔に微かな照れ笑いを浮かべて橘乃のテーブルに近づいてくる。葛笠は、かなり緊張しているようだ。片足が悪いこともあり、橘乃のテーブルの脇で、脚をもつれさせて転んだ。
「大丈夫?」
紅子が手を貸して、彼を起こしてやる。橘乃も葛笠が心配ではあったが、素知らぬ顔で通した。 向こうはこちらを偵察するつもりで来ているのだ。 ここは他人のフリをするべきだろう。
(文句だったら、後からいくらでも聞くからね)
橘乃は、心の中で紅子に謝った。 しかしながら、ここから見える紅子の表情を見る限り、彼女からは、文句よりも惚気を聞くことになりそうだ。
(楽しい夕食になりそう)
橘乃は、内心で微笑んだ。
だが、そんな橘乃の予想は、見事に外れた。
紅子と葛笠の仲が決裂したわけではない。あちらは、食事の間中、橘乃が羨ましくなるぐらいに楽しげだった。
問題なのは、橘乃の方だった。というのも、何よりも肝心な橘乃の食事相手――竹里冬樹が、とんでもなく退屈な男だったのである。




