厳しい理想と甘い現実 6
樹齢が25年ほどだと聞いていたので大木を想像していたのだが、梅宮が見せてくれたマートルの木は、橘乃が思っていたのよりも、ずっと可愛らしかった。
萩や雪柳のよう……といったらいいだろうか。沢山の葉をつけた細くしなやかな枝が木の本体を覆い隠すように無数に伸び、ちょっとした繁みを形成している。高さは、枝の一番高いところを天辺とすれば、およそ2メートルほど。 小さい木だと思ったばかりではあるが、この種の木にしては、たぶん大きいほうなのだろう。
その木の上のほう―― 梅宮の頭よりも幾分高い位置にある枝の先に白いものを見つけたのは、橘乃だった。
「あれ、花じゃないかしら?」
「よく見えませんね。ちょっと持っていてもらえますか?」
梅宮は橘乃にキャンドルを預けると、腕を伸ばして、白いものが見える枝を引き寄せてくれた。すぐ目の前まで近づいてきた枝に、橘乃が灯りを近づける。揺らめく炎の中に、恥じらうように白く可憐な姿をさらしたのは、やはり花だった。銀梅花という和名が示すとおり、梅の花に似ているが、梅の花よりもおしべが長くて数も多いようだ。それらは、花の中心から火花を散らすように放射状に広がっていた。咲いていたのはその一輪だけだったが、こんな時期に花が見られるのは珍しいと、梅宮も驚いていた。
たった一輪だけとはいえ、まるで橘乃に見せるかのように、花を咲かせてくれたマートル。
(まるで、夢のような…… と、いうよりも、昨日のことは全部、夢だったりして?)
橘乃がそんな疑いを持ってしまったのは、昨夜があまりにも楽しかったせいでもあるが、茅蜩館ホテルのベッドの寝心地が快適すぎるせいでもあった。マットレスの固さといい枕の高さといい、信じられないほど橘乃の好みに合致している。この夢見心地の気分のまま半日ばかり過ごせたら、どんなに幸せだろう。
とはいえ、橘乃ばかりがいつまでも惰眠を貪っているのも、気が引けた。もちろん、今の橘乃はこのホテルの客でもあるのだから、朝寝坊をしたところで誰かに咎められることはない。しかしながら、昨晩橘乃をもてなしてくれたスタッフたちの数人は、既に働き始めているはずだ。梅宮の話では、6時半からの朝食のサービスに備えて夜勤をする者がいるということだった。その梅宮せよ、とっくに起き出しているに違いない。
「梅宮さんって、とっても働き者だものね」
梅宮の顔を思い浮かべつつ、橘乃は、寝ころんだまま大きく脚を振り上げた。下ろす勢いを利用して起き上がる。真っ先に目についたのは、昨日もらった花カゴだった。
最初に彼女を迎えてくれた時と変わらぬ美しさを保っている花々に笑いかけると、彼女は、他の花を引き立てるためのアクセントとして加えられたマートルの細い枝を、カゴの中から引き抜いた。葉先を擦って鼻先に寄せると、彼と見たマートルが発していたのと同じ爽やかな香りが、彼女の鼻を優しくくすぐった。この香りこそ、昨日のことが夢ではない証拠に他ならない。証拠といえば、この部屋に大量に飾られていたバラやユリの大半も、ひとつの花瓶に品よく上品に活け替えられたものを残して、それこそ夢か幻のごとく昨日のうちに消え失せていた。これも、橘乃の求めに応じて、茅蜩館のスタッフが嫌な顔ひとつせずに働いてくれたおかげである。つまり、夢のようなサービスとは、誰かが頑張ってくれているからこそ成立するということ。『夢』で片付けてしまったら、彼らに申し訳ない。
「皆に会ったら、お礼を言おう」
マートルの葉先で自分の頬を撫でながら、橘乃は、昨日知り合いになった人々の顔を思い出していた。
「まずは、花屋さんの香織さんでしょう。それから、フロントの増井さんと、《Day Life》のスタッフの皆さん。そうそう! 昨日、お料理を運んでくださった安芸津さんも忘れてはいけないわよね」
現在の安芸津は直接客の相手はしていないと梅宮は言っていたが、どこに行けば会えるだろう?
「梅宮さんに訊けば、教えてくれるわよね。そうだ。 誰よりもまず、梅宮さんに昨日の礼を言わなくてはね」
どこに行けば梅宮に会えるだろうかとは、彼女は考えもしなかった。昨日も会えたのだから、今日も会える。それも、すぐにでも会えるだろう。なぜだかわからないが、橘乃には、そんな確信があった。
「ともあれ、まずは着替えなくっちゃ」
ここは彼女の家ではないのだ。 寝間着のままでは、部屋の外には出られない。
ところで、今日は何を着よう?
☆ ★ ☆ ★ ☆
同じ頃。要は、竹ぼうきを片手にマートルの木がある坪庭に向かっていた。昨夜橘乃と訪れた坪庭は、ティーラウンジの大窓から見て楽しむことを目的に作られている。散策用にはできてないので遊歩道のようなものもなく、庭の地面全体に白っぽい砂利が敷かれているのだが、その砂利を、昨夜はふたりで踏み荒らしてしまった。だから、ラウンジの開店時間前に竹ぼうきで平らにならしておこうと思ったのだ。
橘乃と彼が一緒に食事をしたことは、既に噂になっているようだった。
朝起きるなり八重と弟たちに、それから部屋を出てここに向かうまでにすれ違った者3人に、要は、散々からかわれた。嫌味を言ってきた者もひとりいた。竹ぼうきを持って歩いているだけなのに、「もう、オーナー気分でいらっしゃいますか? 朝から掃除とは、ごせいが出ますね」と言っていた。先日、同じように掃除道具を持った彼が歩いていた時には、「お前のような孤児には、掃除が似合いだ」とせせら笑っていたから、いい加減なものである。
「結局のところ、あの人は、なにがなんでも要の上げ足をとらずにはいられないだけの人なのだろう」
要は苦笑した。嫌われるのは悲しいし腹も立つ。だけども、以前と態度を変えない人がいることに、要は少しホッとしていた。
「今さら怒ったってしようがないしな」
要はそう結論づけると、ティーラウンジ脇の小さなドアを開けた。早朝だというのに、坪庭に出るやいなや、ムッとするような熱気とアブラゼミの鳴き声が彼の体を包み込む。今日も暑くなりそうだと思いながら、まずは、まだ客を入れていないティーラウンジの中を覗きこむようにして、ガラス窓に曇りや手垢が残っていないかどうかを確認し、それから、マートルの木を見上げた。
昨夜、橘乃が見つけた白い花は、依然としてそこにあった。
ちなみに、この地域におけるマートルの花期は6月の中旬である。今まで要が気が付かなかっただけかもしれないが、旧盆間近の8月下旬に花をつけるのは極めて珍しいはずだ。
(よりによって昨夜、なぜ、この花は咲いていたのだろう?)
花を眺めていた要の心に、猜疑心が芽生え始める。この花は、まるで、ふたりが花を見に来るのを知っていて、わざわざ咲いてみせたようではないか。
ホテルで育った要は、人を感動させるためには時に仕掛けが必要であることを熟知していた。いわゆる《演出》というやつだ。
(もしかして、これも、そうだったりするのだろうか?)
要は、マートルの木に近づくと、竹ぼうきの柄を使って花が咲いているあたりの枝をまとめて自分の近くに引き寄せた。彼の突然の暴挙に驚いたアブラゼミが一匹、坪庭を囲む壁やガラスのあちこちにぶつかりながら逃げて行く。「ごめん」とセミに謝りつつ、要は、一輪だけ咲いているマートルの花と、その周辺を注意深く観察した。陽の光の下でも、花は本物にしか見えなかった。造花でもなければ、市場から仕入れてきた花つきの枝を括りつけたわけでもないようである。
「タネも仕掛けもなかったか……って、何をやっているんだよ、僕?」
要は、押さえつけていた枝をそっと解放すると、乱れた樹形をせっせと整え始めた。作業をしながら、最近の自分は疑い深くなっていていけないと反省する。「ダメだなあ……」と呟けば、「そうだ、そうだ!」と言わんばかりに、高いところまで逃げ出したアブラゼミが、再びけたたましく鳴き始めた。その声に加勢するように、そこかしこでアブラゼミが一斉に声を上げる。そのあまりの煩さに、要は耳を塞ぎたくなった。彼は、アブラゼミの鳴き声が苦手だった。あの音は、彼に嫌なことを思い出させる。大好きな人たちがいっぺんにいなくなってしまったのを知らされたあの夏の日に、要を引き戻そうとする。
「うるさいなあ。疑って悪かったって思ってるってば」
要は、アブラゼミたちを威嚇するように竹ぼうきを一振りすると、その竹ぼうきで踏み荒らされた砂利をならしはじめた。
「でもさあ、疑いたくもなるじゃないか」
整えた砂利を踏まぬように後ずさりながら、要が愚痴る。
次期オーナー争いに疲れた八重がオーナーの権利を大恩ある六条源一郎に譲ることにした。だが、源一郎には、ホテルを我が物にする気がなかった。だから、次期オーナーとなる権利をこれから嫁ぐ愛娘の持参金とした。これにより、要にも、橘乃とホテルを手に入れるために努力する権利と機会が与えられた。
ここまでは、いい。
源一郎が突拍子もないことを言い出すのは珍しいことではない。それに、彼は『独身男性ならば誰でも』という条件をつけたのだから、要だけが対象者から外される理由もないだろう。
だが、源一郎がこれを発表してから…… 正確には彼が発表する少し前からだが、要には、橘乃とふたりきりで話す機会が格段に増えた。偶然もあったが、彼に近しい人々が積極的にそういう機会を作ってくれているようでもある。それどころか、昨日を境に、これまで彼を敵視していた親戚の多くが、いきなり彼を応援してくれるようになった。
それは、なぜか?
皮肉なことに、彼らの気持ちを急変させたのは、武里グループの期待のプリンス、竹里冬樹の存在だった。なにせ、芸能人でもないのに、業界以外の者までもが『プリンス』と持ち上げるほど華やかで魅力的な御仁である。若い橘乃など、ころっと彼に参ってしまうかもしれない。 今まで武里の利益を代表していると思い込んでいた浩平の頭越しに冬樹が橘乃とホテルを手に入れてしまうことになったら、茅蜩館ホテルは、どうなる? 自分たちは、どうなる? そんな危機感が、彼らを要の支持に追い立てているのだ。逆に言えば、冬樹が橘乃の求婚者に名乗りを上げなかったら、彼らが要に対して好意的になることはなかったに違いない。
季節外れの花も冬樹の登場も、偶然でしかない。だが、その一方で、多くの人が、要のために動いてくれる。その結果、あらゆることが要にとって有利になりつつある。偶然と作為が、尻込みしている要の背中を代わりばんこに押している。要は、そんな気がしてしかたがない。
(でも『尻込み』って? なんに対して、僕が尻込みしているっていうんだよ?)
自分の愚痴を聞き咎めて手を止めた要の脳裏に、『運命』という言葉と、橘乃の笑顔が浮かんだ。
「な、なにを馬鹿なことを?! 皆にちょっとチヤホヤされたぐらいで自惚れるのもいい加減にしろ!! 頭を冷やせ自分!」
要は、自分の妄想を振り払うように、竹ぼうきを激しく振り回した。竹ぼうきは、下手くそなゴルファー所有のゴルフクラブよろしく地面を力強くかっ飛ばし、せっかく平らに均した砂利を四方八方に巻き散らした。
「あううぅぅぅ…… やり直しだ」
要は、呻きながら竹ぼうきにすがった。彼の失敗をあざ笑うかのように、セミの声がひときわ大きくなる。恨めしげに空を見上げながら、要はマートルの木の根方まで戻ると、作業を再開した。それと同時に愚痴も再開する。
「だいたい、橘乃さんも変なんだよ。僕のことなんて放っておけばいいのに」
彼女は、親戚たちから邪魔にされてきた要に、ひどく同情してくれていた。だからこそ、殊更に要を皆と平等に扱おうとしてくれる。そんな橘乃の気遣いは、要にしてみれば、とてもありがたいことである。しかしながら、なるべくならば周囲と波風を立てなくないと思っている要にとって、彼女の善意は、嬉しくもあると同時に、お節介に思えないでもなかった。だからこそ、彼は、橘乃から距離を置こうとした。だが、彼がそうしようとすると、彼女はひどく傷ついた顔をする。莫大な持参金を背負わされてから昨日茅蜩館を訪れるまでの約一週間、まともな求婚者がひとりも現れなかったせいで、今の彼女は、すっかり自信を失っているらしいのだ。よく笑う朗らかな娘だと知っているだけに、橘乃の悲しい顔を見ると、彼はひどく落ち着かない気分になる。その結果、普段の自分からは予想できないほど、彼女の前で話しすぎたり舞い上がってしまったりしている……ような気がする。そして、そんな要を、ここのスタッフは、かなり面白がっている。
「でも、彼女に魅力がないわけないじゃないか?」
要は、怒ったように呟いた。
彼女の姉の結婚式で、ロビーで、橘乃を見かけるたびに、彼は感心していたのだ。彼女は、いつ見ても元気いっぱいで、いつでも笑っていて、いつも誰かしらの世話を焼いていた。しかも美人だ。彼女を嫁にできる男は、きっと果報者だろう。彼女と手を取り合って、共に人生を歩いていけたら……
「柔らかかったな」
要は、作業を止めると、右の掌を見つめながら、記憶に残る彼女の手の形をなぞるように、指を曲げた。
柔らかくて、小さな手だった。それに華奢で、強く握ったら壊れてしまいそうな感じがしたのを意外に思ったことが、自分でも意外だった。どうやら、要は橘乃に対して、無意識のうちに『たくましい』とか『ずぶとい』いうイメージを持っていたようなのだ。ちなみに、八重や貴子を尊敬している要にとって、これらの言葉は誉め言葉である。
「でも、そんなことを本人に言ったら、きっと怒っただろうな」
橘乃のふくれっ面を想像した要の口元が綻ぶ。どこからか視線を感じたのは、ちょうどその時だった。しまりのない顔のまま左後方に振り向く。ティーラウンジの窓から、ひどく嬉しそうな顔をしながら要を眺めている数人のスタッフと目が合った。
「う、うわっ!」
「いやあ、あの小さかった要くんが、深夜近くまで女の子とデートするほど成長したなんて、私も歳を取るわけだ」
感慨深げな声は、二重になっているがゆえに防音効果の高いティーラウンジの窓の向こう側から……ではなく、要の真横から聞こえた。
「龍生さん」
いつの間にか傍に佇んでいた白い衣に浅葱色の袴を身に着けた男に、要は咎めるような視線を向けた。装束から充分に推測できると思うが、彼は、このホテルで行われる神前結婚式を取り仕切っている神職のひとりである。
「昨日は、お楽しみだったんだって?」
「人聞きの悪いことを言わないでください。なんで、こんな時間に、こんな所にいるんですか?」
「どうしてって、いつもの朝のお勤めだよ。掃除に祝詞に、あれやこれや」
龍生が、ふて腐れている要に向かって柏手を打つような仕草をする。
ここ茅蜩館ホテル東京の神前式場は、ここから比較的近くにあり龍生の家が代々守る神社の管轄になっている。戦時中に空襲で焼けてしまった神社の宝物を預かったのが縁で、そういうことになっているらしい。宮司でもある龍生の父親は、『ホテルの仮神殿であろうと、御社は御社』と考えてくれており、結婚式のあるなしにかかわらず毎朝袴姿で自転車を漕いでホテルにやってきて、一通りのお勤めを果たして帰っていく。
父親がホテル内で花屋を営んでいる香織と同じで、龍生も要も、比較的小さいうちからお互いを知っていた。『歳を取った』などと本人は年寄りくさいことを言っているが、実のところ、龍生と要の年齢は、10歳も違わない。
「それと、ふたりで過ごす初めての夜を素敵に演出したという、季節外れの花を見ようと思って」
「その変に意味深な言い方、やめてくださいってば」
「おお、本当に咲いている! 素晴らしい。まるで奇跡だ」
要の抗議を無視して、龍生が歓声をあげた。普段から祝詞で鍛えているだけあって、その声は、アブラゼミの鳴き声に劣らずよく響いた。
「あくまでも控えめに、しかしながら印象的に。さすがは、伝説の総支配人。久志おじさんは、いい仕事をするなあ」
「はあ?」
いきなり亡くなった八重の息子の名前が出てきて、要は脱力した。貴子の《運命》説の次は、龍生による《幽霊の差し金》説ときたものだ。
「怪談の季節だからって、やめてくださいよ。龍生さんが言ったら、シャレになりません」
龍生一家は、茅蜩館の《お祓い》担当でもある。
茅蜩館は歴史のあるホテルであるし、様々な人が様々な想いを持って訪れる場所でもある。また、昔から堅牢な建物が多い地区であったので被害が少なかったように思われているようだが、戦争中は、このあたりでも多くの人が亡くなっている。それゆえか、客やスタッフが誰もいない何もないはずの所で『出た』『見た』『感じた』という話は昔から事欠かず、要自身も、通常の理屈では説明しきれない不思議な体験をしたことが何度かある。
ホテルとしては、たとえ自分らには察知できなくても、その手の目撃談が増えた場所には、なんらかの対処をする必要がある。龍生たちの《お祓い》にどれだけの効果があるのか、実際のところは要にはわからない。気休めにすぎないかもしれないと、どこかで疑ってもいる。 しかしながら、『怖い』という苦情の数は、彼らが対処した前と後では、確実に違う。
「冗談を言っているつもりはないさ」
「でも、まるで、総支配人……じゃなくて久志さんが、まだ此の世で迷っているみたいじゃないですか」
「久志おじさんが迷っているなんて、俺は、言ってないよ」
袂に手を突っ込みながら、龍生が困ったように笑う。
「でも、死んじまったらそれっきり、なんにも残らないっていうのも寂しくないかい?」
「そうかもしれないけど」
「久志おじさんの魂は、今でも、ここにいるよ」
フロントがある方向に目を向けながら、龍生が微笑む。
「誰かに恨みがあるとか、死ぬに死ねずに成仏できないとか、そういう類のモノじゃない。もっと穏やかで優しいものだよ。大好きだった場所に対する思い入れとか、誰かを大切に思う気持ちとかさ。彼のそんな想いが亡くなった後も残っていて、ホテルの空気の中に溶け込んでいる感じ」
「守ってくれているってこと?」
「そ。このホテルは、久志おじさんの愛情と心意気に、今でも守られている。そう言えば、わかるかな? それから……」
うなずく要の頭に手を置くと、龍生は、「お前のこともな」と言った。
「僕のことも?」
自分のことも、総支配人が守ってくれているのだろうか? 心許なげに目で問いかけた要に、「ああ」と、龍生が力強くうなずいた。
「お前の傍にいるとな。時々、久志おじさんの気配を感じる。要のことを、自分の本当の子供みたいに思っていたんだな」
「そう、ですか」
要は、最近尖り気味だった自分の心が、急激に柔らかくなるのを感じた。
「だから、久志おじさんとしては、じれったくて仕方がないんだろうよ。なんたって、橘乃さんは、彼……」
突然、龍生の声が途切れた。要には、彼が自主的に話すのを止めたというよりも、急に声が出なくなったように見えた。
「龍生さん? 大丈夫ですか?」
「……。 うん、なんでもない。大丈夫」
心配した要が声をかけると、龍生は、笑いながら首を振った。それから、彼は、調子を整えるように何度か咳払いをすると、「なんたって、橘乃さんは、彼の親友だった六条さんの娘さんなんだから。ふたりが一緒になったら、きっと喜ぶ」と、中断していた話の続きを始める。
「そういうわけで、久志おじさんも応援している。『頑張れ要! もっと積極的に橘乃さんにアピールしろ! そして、僕のホテルを継いでくれ!』ってな。だけど、彼が、どれだけ叫んでみたところで、肝心の要の耳に届かない。思い余った久志おじさんは、ユーレーとしての力を駆使して季節外れの愛の花を咲かせ、要を発奮させずにはいられないほどの強力なライバルを呼び寄せ、霊が視える俺を見込んで、久志おじさんの気持ちを代弁させ……」
さっきまでしんみりしていたはずの龍生の話が、だんだん妙な方向に流れていく。
「……。 龍生さん」
呆れた要は、龍生に冷たい眼差しを向けた。
「今までの話、どこからどこまでが本当ですか?」
「最初から最後まで、完全なる真実でございます」
結婚式場で新郎新婦の両親に対しているような真面目さで、龍生が答える。
「その顔が、非常に嘘くさいんですけど」
「そう思うのなら、それもよし」
要と目を合わせて、龍生がニヤリと笑った。やはり、冗談であるようだ。
「もう! 人をかつぐのは、やめてくださいよ!」
「なにが嘘なものか」
「でも、龍生さん、久志さんの幽霊の話なんてしたことないじゃないですか」
「言ったって信じないだろうし、言えば、要だけじゃなくて、みんなが気にするだろう?」
「そんなこと言って、本当は…… あ! わかった、例の『橘乃さんの花婿は誰だ?』って賭けに龍生さんも参加しているんじゃないですか? それで……」
この男は絶対に自分に賭けているに違いないと、要は確信した。
「それは、確かに賭けているけど、でも、本当に、時々見かけるんだよ。本館のロビーとか、新館のエレベーターホールの手前とか」
龍生を追って坪庭から出てきた要に、彼が、ティーラウンジの先――接収時代に新館用のフロントが置かれていたといわれている場所を示した。
「やっぱり、賭けてたんだ。龍生さんのお父さんと牧師さまに言いつけますからね。 ……って、あれ?」
龍生に促されるまま、彼が示した方向に顔を向けた要の視線が、左から右に動いた。
「それは勘弁してくれ! ……って、まさか、視えるのか?」
龍生が顔色を変える。
「違いますよ。 今、エレベーターに乗っていった若い女の子です」
あの子は、橘乃の妹。六条家の4番目の娘ではなかっただろうか?




