厳しい理想と甘い現実 5
「ところで、どうして茅蜩館は茅蜩館という名前になったんですか?」
「屋号の由来ですか? 創業が大昔のことなので、はっきりとはわかっていませんが、ふたつの説が伝えられています。ひとつ目は…… 茅蜩って、夏の終わりの夕方に鳴くじゃないですか。茅蜩が鳴き始めると、人は『ああ、厳しかった夏がやっと終わるな』と、ちょっとホッとした気分になる。自分たちの宿もそんなふうに息抜きのできる場所でありたい。そんな創業者の想いから『茅蜩館』と名付けられたという説です。もう一つは、セミのヒグラシと『日暮し』を掛けているという説ですね。宿屋というのは、誰かの1日分の生活を、お金をいただいて、こちらに預けていただくことでもあるでしょう? だから、『その預かった一日分、私どもが全力を挙げて、おもてなしします』という営業方針を屋号にしたという説です」
「なるほど、『日暮し』かあ。 そういえば、このお店の《DayLife》っていう店の名前も……」
「ええ。 DayとLifeで『日暮らし』です。 ほどんど駄洒落ですけれども」
「それに、あまり名前で呼んだことがないけど、このティーラウンジの名前の《kanakana》だし」
「そうそう。筆記体のロゴで洒落っ気を出してはいますが、ここも、カナカナゼミ――ヒグラシからです。 それと、カラカラとも掛けているらしいです」
「カラカラってローマにある公衆浴場の遺跡のことですか? そういえば、父から聞いたのですけど、このラウンジって昔は大浴場だったんですってね。それから…… 本館のフランス料理やさんは、ひらがなで《ひぐらし》でしょう、和食のお店は《ひぐらしあん》」
「残念でした。あれは、茅蜩庵と書いて『ぼうちょうあん』と読むんです」
「そんな読み方あるんですか! 全然知らなかった。 でも、読める人、いるの?」
「それが、結構いらっしゃるんですよ。もっとも、どちらの読みでも間違いではないので、こちらからは訂正しないことにしてますけどね」
梅宮との夕食は楽しく、会話も弾んだ。
もともとお喋り好きな橘乃ではあるが、それにしても話しやすい。彼との食事の間、橘乃は一度として気詰まりな沈黙に悩まされることがなかったし、自分ばかりが話し過ぎて相手を圧倒するという失敗も犯さなかった。なぜなら、彼女がムキになって話す気になれないほど、彼の話が面白かったからだ。
梅宮は、橘乃の母が言うところの、『引き出しの多い人』なのだろう。自分から会話をけん引するようなことこそしなかったが、彼は、いろいろなことに詳しかった。しかも、彼の豊富な知識は、書物などから闇雲に雑学を仕入れてきた類のものではなく、ホテルで働きながら多くの人と接している間に増えていったものであったようだ。
「場所柄、ここには様々な分野の第一線で活躍している方々や、教養豊かな方々が多くお見えになりますから」と、梅宮は言う。そして、そんな彼らをもてなす側のスタッフもまた一級のスペシャリストである。ホテルだから、日本とは異なる文化や言語生活様式をもつ外国からの訪問者も多い。
梅宮は、そういった人々から直接貴重な話を聞くことで様々な刺激を受け、実際に専門書を読んだり異国の言語や地理について調べてみたり、あるいは休みを利用して美術館や博物館を訪れたりして知識を積み上げていったようだ。
『おもてなしするにあたって、相手のことに興味がないままではいられませんから』と、なんでもないことのように言って、梅宮が笑う。まるで、このホテルで働いていれば誰でも自分のようになれるかのような口ぶりだ。だが、それほど簡単なことではないことぐらい、橘乃にだってわかる。何処で何年働こうと、客の話を適当に聞き流し、その場限りの対応に終始しているだけなら、こんなふうに変われるはずがないのだ。梅宮は、自分で自分を磨く努力を積み重ねてきた人なのだろう。
「梅宮さんって、勉強熱心なんですね」
橘乃が感心すると、梅宮がしきりに照れた。その様子は、彼の養母である貴子の照れる様に驚くほどよく似ていた。血の繋がりがないというのに、ここまでそっくりなのも面白い。きっと、血ではなくて心がしっかり繋がった親子なのだろう。そのことを橘乃が指摘したら、梅宮が、ひどく驚いた顔をした。年上の男性に対して、こんなことを思うのは失礼かもしれないが、普段は落ち着き払っている梅宮が動揺している様子は、なんだか可愛らしかった。
そんな梅宮を面白がって、料理を運んできてくれた年配のウェイターが、更に彼をからかう。ついでに、《勉強熱心な》梅宮の幼い頃の失敗談も、面白おかしく橘乃に語ってくれた。
「そんな昔のこと、今ここでバラさなくてもいいでしょう!」
顔を真っ赤にしながら、梅宮が抗議した。「それより、なんで、安芸津さんが今さらお皿を運んでいるんですよ?」
「こんなに面白そうな機会を他人に譲るのが惜しくてねえ」
安芸津と呼ばれた老ウェイターが、しれっとした顔で答える。梅宮の紹介によれば、安芸津は、かつての梅宮に給仕のイロハを教え込んだ人だという。現在は、フロアから少し引っ込んだところで宴会部門の総括をしているのだそうだ。
「後でまた腰が痛くなっても知りませんよ」
「これくらいなんでもないさ」
憎まれ口を叩く梅宮に、安芸津が胸を張った。梅宮に向ける彼の眼差しが温かい。花屋の香織が言っていたとおり。遺産目当ての親戚からは憎まれていても、梅宮は、このホテルのスタッフから――特に彼を幼い頃から知っている年配者から、とても可愛がられているようだ。
「そういえば、香織さんが言ってたのだけど、梅宮さんは、後々このホテルの総支配人になるのですってね」
「そんなの、まだ、わかりませんよ」「なりますよ。 いずれね」
顔をしかめながら謙遜する梅宮の声と力の籠った安芸津の声が重なった。
「そのつもりで育ててきたんだ」
何かを言いかけた梅宮の機先を安芸津が制した。「私も、貴子さんも、それから、フロントの増井や他のみんなもね。君が望んでいないのなら、無理強いするつもりはないよ。だけど、本心では望んでいるのに他の誰かに遠慮して私たちの期待を裏切るようなことだけは、しないでもらいたいな」
安芸津の言葉は、梅宮自身にとっても思いがけないものだったらしい。それでも、そこまで彼らに期待されるのは、嬉しいことだったようだ。
「は、はい。 頑張ります」
いくぶん気圧され気味ではあったが、梅宮が、はにかんだような笑顔を安芸津に返した。
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鮮やかに茹で上げられたエビ入りのサラダに、枝豆の冷製スープ。そして、この店定番のカニクリームコロッケ。片づけを始めた厨房に残っていたものとは思えないほど、運ばれてくる料理は、どれも彩りがよく美味しかった。
明日ディナーをいただくことになっている本館2階のフランス料理のレストランと比べると、《DayLife》で供される料理は、ホテルらしい高級感を保ちながらも、どこか人懐っこい味がする。
「そういえば、こちらのレストランだけお子様ランチがありましたよね? デパートの屋上で出しているようなオマケ付きの可愛らしいのじゃなくて、子供が好きそうなものを少しづつ盛り付けてあるの」
「ええ。 今は昼はバイキングになってしまっているので昼のランチは廃止になってしまいましたけど、夜は、今でもお出ししてます。あれは女性にも人気があるんですよ。いろいろ食べられて量がちょうどいいって」
そんな話をしながらふたりが食べていたのは、メニュー構成を考えるとひょっとしたらバランスが悪いのかもしれないが、橘乃のリクエストに応えてシェフが作ってくれたオムライスであった。こちらは肉料理も兼ねており、橘乃のは大きめの鶏肉とキノコがたっぷりと入ったトマトベースのソース、梅宮のには玉ねぎと牛肉入りのデミグラスソースが、たっぷりとかけられている。
「そっちのも美味しそう」
「あげましょうか?」
橘乃が余程物欲しげな顔をしていたのだろう。梅宮は皿を取り寄せると、橘乃の分を取り分けてくれた。ホテルマンだけあって、彼の動作には無駄がなく、盛り付けも美しかった。橘乃も、もらった分よりも多めに自分の皿から梅宮の分を取り分けてもらった。
「ごめんなさい。人の食べているものまで欲しがるなんて、意地汚いですよね?」
「そんなふうには、僕は思っていません。むしろ、どの料理も美味しそうに食べてくださるので見ていて気持ちがいいです。ああ、そうだ。今度、試食会に参加してみませんか?」
梅宮が橘乃を誘う。夏の終わり頃を目安に冬期のコースメニューを決めなければならない。 そのための、試食会があるという。
「洋食部門はクリスマス用のメニューも別に決めなけれはなりません。それから、今期に限って言えば、休館前の特別メニューも決める必要があって、橘乃さんの御意見をうかがえるとありがたいのですが」
「そんな大事なことに、私が参加してもいいの?」
「橘乃さんなら、誰も反対しないと思いますけど」
「なんといっても八重オーナーの跡を継ぐ人ですからね。むしろ、『参加したくない』と言われるほうが困ります」
目を輝かせる橘乃に梅宮の言葉を裏付けるように、安芸津も橘乃の参加を勧めてくれる。
その時に安芸津が運んできたコーヒーとデザートが、今日のディナーの締めであった。デザートは、レモン風味のシャーベットとイチゴのムース、そしてオレンジのソースに彩られたチョコレート風味のカステラが土台になっているプチフールが一枚のお皿の上に絵のように並べられたもの。いつもの橘乃であれば、盛り付けの美しいデザートを見て、大いにはしゃぐところである。それなのに、これを食べ終わったら食事は終わりだと思った途端に、彼女は、なんとも物足りない気分になった。空腹はとっくに満たされているのに、でも、もう少し、まだ、なにかが足りない感じがしてしかたがない。
だが、その物足りなさも、「食事が終わったら、マートルを見に行きましょう」という梅宮の一言で霧散した。
「……といっても、すぐそこなんですけどね」
梅宮が、ティーラウンジの窓の外にある庭を指差した。庭といっても、その先にある駐車場が視界に入らないようにと設けられた奥行のない細長い坪庭のようなものだ。目隠しが目的なので、人が散策する仕様にはなっていない。ティーラウンジで過ごす客の気持ちを和ませるための鑑賞用として設えられた、大理石製の造形物と緑のコントラストが美しいモダンな庭である。
「なるほど。梅宮さんが『この時間であれば』見学可能だって言っていたわけですね」
橘乃は苦笑いを浮かべた。誰もいない時ならいざ知らず、ティーラウンジの営業時間中にメンテナンススタッフでもない者が庭の中をウロウロしていたら、きっと水族館の魚のように客の目を引いたことだろう。
食事を終えると、梅宮は、テーブルを照らしていたキャンドルを手に、ティーラウンジの大窓の端にひっそりと存在している出入り口に橘乃を誘った。
「日中にスタッフと職人さんしか入らないところですから、足元に気をつけて」
梅宮が橘乃に手を差し伸べる。その手をみるなり、橘乃は自分の身が強張るのを感じた。梅宮にしてみれば、当たり前のことなのだろう。今日の昼だって、彼は、逃げ出そうとした花嫁に手を貸していた。 だけども、橘乃が覚えている限り、彼女が家族以外の若い男性の手に触れるのは、これが初めてである。女子校育ちだから、フォークダンスさえ男子と踊ったことがない。なかった。……ということに、橘乃は、今さらながら気が付いた。
「あ、ありがとう、ございます」
何故かうわずる声をどうにか制御しながら、橘乃は自分の手を梅宮の手に重ねた。その手に引かれて、冷房の効いた屋内から庭に出る。夏の夜気には、昼間の暑さの名残があった。だが、その生ぬるい空気さえ、橘乃の火照った頬には充分すぎるほと冷たく、そして、心地よく感じられた。




