厳しい理想と甘い現実 4
梅宮は4階の事務室にいると思う。八重の居間がある本館の4階ではなく、新館のほうだ。このエレベーターを使って降りればいい。
廊下に出てきた橘乃にそう教えてくれたのは、客の求めに応じて低めの枕を運ぼうとしていたホテルのスタッフだった。コップを載せた盆を持つように床に対して水平に枕を捧げ持った体勢を保ったまま、彼は、廊下の奥の更に向こう側に隠されているスタッフ及び作業用のエレベーターまで、橘乃を案内してくれた。
(でも、ここって、いわゆるホテルの舞台裏よね? 普通は、部外者の立ち入りを禁じている場所よね?)
それにも関わらず、特別な権限など持っていないであろう若いスタッフが、当たり前のように橘乃をここまで通してくれる。この事実だけでも、『ホテルの全従業員が、橘乃のことも、橘乃の持参金や婿選びのことも詳しく知っている』という花屋の香織の言葉が誇張でないことがわかろうというものである。
「そういえば、どっちの『梅宮さん』に用があるのかも、訊かれなかったけど」
しかしながら、どちらの『梅宮さん』の居所をたずねても、彼の答えに違いはなかったようだ。
停止したエレベーターのドアが開くと、そこには茅蜩館ホテル東京総支配人の梅宮貴子が立っており、廊下の奥を眺めやりながら「要なら、まだ事務室にいますよ」と教えてくれた。皮の持ち手がついたナイロン製の大きなバックを肩にかけているところをみると、帰るところであるようだ。
「要に御用ですか?」
「ええ。ちょっと……」
「ありがとうございます」
言葉を濁す橘乃に、肩の力が抜けたような柔らかな表情で貴子が微笑む。
橘乃は、彼女に感謝される覚えがなかった。たずねるように小首を傾げると、「要を仲間外れにしないでくださったから」と貴子が言った。彼女は、竹里冬樹に食事に誘われまでの橘乃と梅宮の会話を聞いていたのだそうだ。
「盗み聞きするような真似をして、ごめんなさい」
貴子が詫びる。
「そんなの気にしませんよ」とは言ったものの、橘乃は、頭から火が出る思いだった。
貴子に聞かれた会話というのは、つまり、『梅宮も、梅宮を邪魔者扱いする親戚たちなんかに遠慮していないで、堂々と橘乃に求婚すればよい』と大勢の人間がいる前で橘乃が梅宮を誘惑するような真似をして2番目の姉からたしなめられた、あの会話に他ならない。
「すみません、私、あんな、恥ずかしい……」
橘乃は、自分の軽挙を悔いるように両手に口を当てた。こんな調子だから、自分は姉たちから口の軽さを叱られてばかりいるのだ。しかしながら、こんな口でも、たまには人の役に立つらしい。恐縮する橘乃に対して、貴子は大真面目な顔で「いえいえ、私は、とてもありがたかったですよ」と首を振った。
「あの子は、いつだって肩身の狭い思いばかりしていましたから。そのせいで、今では、すっかり遠慮がちで自己主張の少ない子になってしまって…… 私が、もっと守ってあげられればよかったんですけどね」
だが、貴子は短気なのだそうだ。梅宮を守るために抗議したつもりが相手と派手な言い争いになり、子供だった梅宮にたしなめられることもしばしばだったという。
「でも、それだけ、総支配人さんが梅宮さんのことを大事に思ってらっしゃるってことですよね?」
そうでなければ梅宮のために本気で喧嘩をすることなどできないだろうと、橘乃は思う。「いいお母さんですね」と言ったら、こちらが驚くほど貴子が照れた。
「『いいお母さん』だなんて初めて言われましたよ」
顔を真っ赤にしながら貴子が打ち明ける。「私、本当にダメな母親で…… というよりも、養子とはいえ、私が要の親だと認識している人のほうが少ないんじゃないですかね。要本人も含めて」
しきりに照れ続けながら、貴子は降りのエレベーターに乗り込んでいった。
独りになった橘乃は、貴子から教えられたとおりに、エレベーターの出口からまっすぐに奥に伸びている薄暗い通路を進んだ。事務室は、客室や宴会時の備品等々が収められた金属ラックの横を幾つも通り過ぎた先にあった。開け放したままのドアから、そっと中を覗く。通路と同様に部屋の中も暗かった。残っているのは梅宮だけであるようで、彼の手元のランプ以外の照明はすべて落とされていた。
事務所だと聞かされていたので、同じ大きさの灰色の事務机の上に書類が雑然と積み上げられている光景を橘乃は想像していたのだが、ここは違った。とても片付いており、書類が置かれたままになっている机はごく僅かしかない。その机にせよ、スチール製の事務机ではなく、磨き込まれた木のテーブルばかりだ。椅子も同じ。一本足でクルクルと回る事務用の椅子はなく、布張りの座面と長い背もたれが付いている椅子が多い。形状から察するに、かつてはホテルのレストランなどでスタッフと一緒に客をもてなしていたテーブルや椅子であると思われる。ランプも、おそらく客室で使われていたものに違いなく、洒落ている。乳白色のガラスのシェード越しの光に淡く照らされた室内は、事務所というよりも閉店後のカフェテリアを思わせた。壁にぼんやりと大きく映る電話応対中の梅宮の影が、彼の声の調子に合わせてユラユラと揺れている。
急ぎの用ではないので、橘乃は彼の電話が終わるまで待つつもりだった。だが、梅宮は、橘乃に気が付くなり、来客を理由に早々に話を切り上げてくれた。
「実は、切るタイミングをなくして困っていたんです」
『大事なお話じゃなかったんですか?』と橘乃がたずねる前に、置いたばかりの受話器を小突きながら梅宮が言った。
橘乃も梅宮から訊かれる前にと、「『どうして、ここに?』っていう質問はなしにしてくださいな。また悲しくなるから」と釘を刺す。続く「私、梅宮さんに謝りに来たんです」という橘乃の言葉と、「先ほどは、大変失礼いたしました」という梅宮の謝罪が、人気のないフロアに先を争うように響いた。
その後、ふたりはふたりして、「いやいや、悪いのは自分の方だから」と自分の非を一方的に主張しあった。
「もう、どっちだっていいわ。とにかく、ごめんなさい」
競い合うようにして『いかに自分が悪かったか』について説明し合った後、根負けしたように両手を上げながら橘乃は笑った。
「それはともかく、あの花をどうにかしていただくことって、できますか?」
「大丈夫ですよ」
頼もしげな笑顔で梅宮が約束してくれる。「つきましては、花を移動させるのと、花が収まるだけの広さがあるスイートに橘乃さんが移動するのと、どちらがいいですか?」
「花のほうを」
迷うことなく橘乃は答えた。
部屋を移動するのは嫌だった。初めて自分で電話して予約した部屋だけに、愛着がある。
「それに、スイートのお部屋ってお高いんでしょう? お小遣いが足りません」
『お嬢さまなのに?』
声にはしなかったが、そう言いたげに梅宮の眉がわずかに上がった。
「父に頼らずに自分のできる範囲で泊まってみようと思ったんです。そのほうがホテル泊まりにきてくださる人の気持ちがわかると思ったから」
侮られたような気がして、橘乃は頬を膨らませた。茅蜩館への興味は尽きないが、自分は、決して物見遊山気分で滞在しているつもりはない。
「祖母の言ったとおりですね。案外、しっかりしていらっしゃる」
「『案外』は、余計です」
「これは、失礼しました」
更に頬を膨らませた橘乃に生真面目な表情で頭を下げた梅宮が、堪え切れぬように笑みを溢した。暗がりにいるせいかもしれないが、取り澄ましたところのない彼の笑顔が、橘乃には、なぜか眩しく見えた。橘乃に対する彼の態度が、だんだん砕けたものになってきたのも嬉しい。
「それはそうと、あのお部屋、可愛らしくて素敵ですね」
謝罪を終えたら忘れずに伝えようと思っていたことを橘乃が告げると、梅宮は嬉しそうな顔をした。
「気に入っていただけましたか? あの部屋は、ちょっとだけ特別なんです」
橘乃に宛がわれた部屋は、若い女性が安心して滞在を楽しめるようにと、若手女性スタッフが設えを工夫した部屋であるそうだ。受験や観劇などを理由に上京するようになった娘を安心して預けられる宿がほしいという、茅蜩館を定宿としている地方の男性客からの要望に応える形で実現したという。
女の子が喜びそうな幾分甘め内装の他にも、手狭であることを理由に普通のシングルよりも利用しやすい値段を設定するなどの工夫があるという。人の出入りの多いエレベーターからさほど離れていないことも、大事なポイントなのだそうだ。
「エレベーターの近くって、大事なんですか?」
「廊下を奥に行けば行くほど、人の気配が少なくなくなりますから」
橘乃の客室に限らず、このホテルでは、女性1名の利用時には、優先的に手前の部屋に割り振ることになっているという。『どれだけ男女平等になろうと、腕力で男に勝つ女は、ほとんどいないんだよ。独りで歩いていて、うっかり部屋に連れ込まれたらどうするんだい?』というのが現オーナーの八重の考えであるそうだ。
「古臭い考えだと笑われるかもしれませんが、うちのホテルは防犯カメラが少ないですからね」
彼だけの責任でもないだろうに、梅宮が申し訳なさそうな顔をする。「後は、食事ですね。男性は、空腹になれば食堂でも立ち食い蕎麦屋でも独りで気軽に入りますけど、まだまだ、そういうのに慣れない女の方は多いですし……」
その時、実にタイミングよく橘乃の腹が大きな音で空腹を訴えた。
思わず腹を抑えた橘乃の手に、梅宮が視線を落とす。
「そういえば、 お姉さまと外でお食事をなさるとおっしゃってましたけど、随分早いお戻りだったような?」
「実は……」
橘乃は、苦笑いを浮かべながら、姉に置いて行かれた事情を話した。
レストランに独りで行くのをためらったことも、花の匂いが充満した部屋で食事をとる気になれなかったことも、正直に打ち明ける。せっかくもらったマートルの香りがわからなかったことも、悲しげに付け足した。
「どんな香りなのか、すごく気になってるんですけどね。 部屋を出る時にマートルの枝だけ一緒に持ってくればよかった」
「そういうことなら、元の木をごらんになりますか?」
悔やむ橘乃に梅宮が提案する。
「いいの?」
「普段は入れないんですけど、この時間なら。それでですね……」
梅宮が、ためらいがちに申し出る。
「私も、実は夕食を食べ損ねていまして…… よろしければ、一緒にどうですか?」
「一緒に……って、お夕飯を?」
「ええ。まずはマートルを見がてら食料を手に入れて、それから、ここで食べてもいいし、マートルの木を眺めながらでもいいし……」
窓の外に顔を向けながら、梅宮が言葉をつけたす。「もちろん。 橘乃さんがお嫌でなければですが」
「嫌ではないです。 ありがとう」
遠慮がちだという梅宮の気が変わる前にと、橘乃は笑顔で応じた。
「嬉しいわ。実は、とってもお腹が空いていたの」
「じゃあ。ちょっとだけ待っていてください。すぐに片付けてしまいますから」
ホッとしたような笑みを向けながら梅宮が机の上に出していたものをしまい始める。この事務所には自分用の机はないらしい。共有の物は共有スペースに、作成中の資料などは自分用のロッカーに片付けるのが決まりであるようだ。
そういうことならば……と、橘乃は彼を手伝うことにした。
梅宮が持ち切れなかった横長の分厚い冊子を抱えて、橘乃は、彼に続いて隣の部屋に入り込んだ。広くもないそこは、資料室であるようだった。壁際の本棚には、ふたりが持ち込んだのと同じ大きさの冊子が、みっしりと並べられている。冊子は、その形状だけでなく内容も同じものであるようで、黒い背表紙には年代らしき数字だけが書き込まれていた。
「『レジスターブック』?」
橘乃が手にしている冊子の黒い表紙には、そう書かれている。
「宿帳のことですよ」
「これ、全部?」
目を丸くしながら、橘乃は本棚の端へ移動した。『1900』という数字が、一番上の棚の隅のほうに見えた。1900年というと、明治時代だろうか?
「『何年の何月何日に何処の誰がホテルに泊まったか?』ってことが、この冊子の中に全て書かれているということですか? 全部取ってあるの? 全員?」
「ええ」
こともなげに、梅宮が肯定する。「大昔のは火事で焼失してますが、江戸時代のものもありますよ」と聞かされて、橘乃は更に驚いた。
「信じられない……すごい……」
「いいえ、普通のことでしょう。どこのホテルも、うちと同じように保管していると思います」
「そうなの?」
「ええ。 ホテルの一番の財産ですから。では、行きましょうか?」
梅宮は、橘乃を促すと、書庫に鍵をかけた。
夜食は、思いがけず豪華なものになった。
当初の梅宮の計画では、閉店時間間際の別館2階の洋食レストラン《DayLife》の厨房にお邪魔して、片づけを始めている厨房のスタッフから残り物のパンと、ハムやチーズの切れ端を恵んでもらう予定だったそうだ。 空腹の橘乃には、それでも充分な御馳走である。しかしながら、《DayLife》の厨房スタッフは、そんな粗食を彼らに供することを断固として拒否した。「記念すべき次期オーナーの滞在一日目の夕飯が残飯だなんて、厨房スタッフの名折れだ」と言うのである。
「でも、橘乃さんは、独りで食事をするのを避けたいようだし、軽いものでいいそうだし、僕が彼女と一緒にレストランに行ったり、ルームサービスを頼んだりするわけには……」
「お前のそういうところが、融通が利かないっていうんだよ。だから、愛想も顔も良いのに女にモテないんだ。血が繋がってないくせに、どうして、そういう硬いところまで久志総支配人に似るかなあ?」
残っている中では一番の年長者に見えるコックが、片付けたばかりのまな板の上で超高速でキュウリを薄切りにしながら、甲高い声で梅宮をこき下ろす。表情から察するに、梅宮のプライドは、まな板の上のキュウリ以上に切り刻まれてしまったようだ。
「そこまで言わなくたって、いいじゃないですか」
ふて腐れたように梅宮が抗議したが、コックは聞いていないようだ。「10分待っていろ」と、一方的に梅宮と橘乃に命じると、残りのスタッフに対して矢継ぎ早に指示を飛ばし始めた。
「いや、そこまでしてくれなくても……」という梅宮の言葉は、「うるさい」という一言で封じられた。 橘乃も遠慮を口にしたが、誰も彼も、「いいんですよ。 好きでやっていることですから」と譲らない。
慌ただしく動き始めたスタッフの邪魔にならないように厨房を抜け出したふたりは、フロントに向かった。食事に時間がかかりそうなので、橘乃の部屋を埋め尽くしている花を片付ける段取りを先につけたほうがいいと思ったからだ。フロントで応対してくれたのは、高めの鼻に丸い銀縁の眼鏡を載せた小柄で優しげな年配の男性だった。梅宮が橘乃の代わりに、彼女の要望を伝えてくれた。
「承知いたしました。では、お部屋はそのままで、御不快に感じない程度に花を移動させましょう」
フロントの男性が橘乃に微笑みかける。「六条さまがお食事をなさっている間に、お部屋に入らせていただいてもよろしゅうございますか? 時間は……そうですね、2時間もいただければ充分かと存じます。 作業の間、その梅宮が『しっかりと』お相手いたしますので、どうぞ、ごゆっくりとお食事をお楽しみください」
「2時間……って、増井さん。そんなにかかるわけがないでしょう?」
増井と呼ばれたフロントの男は、梅宮の指摘を悠然と聞き流すと、厳しい顔で彼を叱責した。「先ほどの電話の話の続きになってしまいますが、お客さまが不都合を感じないよう臨機応変に振る舞えることは、素晴らしいことです。でも、お客さまの意向をロクに確認もせずに、自分の判断のみで『良い』と思ったことをするのは、ホテルマンの傲慢でしかありませんし、私は、そんな風に君を指導した覚えはありません。久志総支配人も、今頃、天国で呆れ果てていることでしょう」
どうやら、橘乃が事務所を訪問した時に梅宮が電話で話していた相手は、彼だったらしい。
男性の言葉は厳しかった。だが、その口調や眼差しを見れば、梅宮を思うがゆえの叱責であることは明らかだ。そして、ゆくゆくはこのホテルのオーナーとなるであろう橘乃に向けられた言葉でもあるような気がした。梅宮の傍らで神妙な顔で耳を傾けている橘乃を見て、増井が微笑む。コックと約束した10分後きっかりに、彼の説教は終了した。
迎えにきたウェイターが案内してくれたのは、1階のティーラウンジだった。
「2階の店はもうすぐ閉店で、お客さまが、これからどんどん帰ってしまいますから、かえって落ち着かないでしょう? ラウンジのチーフの許可は取りましたから、大丈夫ですよ」
訝しむふたりに、ウェイターが説明してくれる。
閉店後であるゆえ、ふたりのために用意されたテーブルだけにキャンドルが灯されている。テーブルクロスが二重にかけられ、皿やグラスが並べられているのも、そこだけだ。
セッティングされた食器の数から察するに、これから供されるのはコース料理であるようだ。彼女のために引かれた椅子に腰を下ろすと、キャンドルの炎が、ふたりを歓迎するようにフワリと揺れた。
「暗くありませんか?」という問いかけに、橘乃は笑顔で首を振った。窓から入る外灯の光もあるので、全く不自由は感じない。なにより、これぐらいの明るさのほうがロマンチックだ。 勧められるまま、大人ぶってワインもいただくことにする。
「では、橘乃さんの茅蜩館での滞在が素晴らしいものになることを願って」
梅宮が、橘乃の目を見つめながら、白ワインの入ったグラスを持ち上げた。 橘乃も、グラスを手に、照れくさげに微笑みながら彼と目を合わせた。




