厳しい理想と甘い現実 3
「マートル、これが?」
「ええ」
葉に艶があるということ以外に特徴らしき特徴も見当たらない枝に興味を示した橘乃を見て、前島が嬉しそうに微笑んだ。
「これ。花かごを作るときに梅宮さんから入れるように言われたんです。六条さんが喜ぶだろうからって」
「まあ。そうだったんですか」
枝を見つめる橘乃の目が更に大きく見開かれた。
マートルが花の名前であることや、『花嫁の木』とも呼ばれていることを教えてくれたのは、梅宮であった。姉の紫乃の結婚披露宴の時、義兄の控室として使われていた《マートルの間》という小宴会場の名前に、橘乃が興味を示したからだ。
あの時の彼は、ひどく忙しそうだった。トランシーバーのような物を片手に、披露宴会場と義兄の控室の間を行ったり来たりしていた。彼が橘乃と話したのは、そのほんの合間のことでしかない。立ち話というよりも、通りすがりに教えてくれた程度の言葉のやり取りでしかなかった。しかも、一年以上も昔のことだ。
「まさか、覚えていたなんて」
「贈り物の良し悪しは、量でも質でも、ましてや値段でもないと思うんですよ」
驚いている橘乃に、前島が柔らかく微笑みかける。
「一番大事なのは、相手を喜ばせようっていう気持ちだと思うんです。大量のバラの花より、一輪のタンポポや、一枚の桜の花びらが人を感動させることもある。そういう意味では、梅宮さんにも花を贈る気持ちはありましたよ。もっとも、他人名義の花の中に隠れた葉っぱだけの枝でしかありませんけどね」
それ以上は梅宮を庇えないと思ったのか、前島が苦笑いを浮かべた。
ちなみに、このマートルの枝は、茅蜩館ホテルの敷地内に植えられている木から前島が切り取ってきたものなのだそうだ。
「いつもなら市場から仕入れたのが、店にあるはずなんですけど」
だが、今日に限って花嫁のブーケを作るのに使い切ってしまった後だったという。
「切ったばかりのものだから、新鮮です。それに、ここのマートルは、特に香りが強いんですよ」
「香りがするんですか?」
「ええ、こうやってね」
前島は葉の一枚を指でこすると、橘乃の鼻先に枝を近づけた。橘乃も、首を伸ばして枝の匂いを嗅いだ。そして、正直に告白する。
「バラの香りしか、しないです」
「そうですね。部屋中に充満してますものね」
前島は、バラとユリで飾られた部屋を見回し、ついで橘乃を見た。顔を見合わせたふたりは、ほぼ同時に笑い出した。
一度声を合わせて笑った人とならば速やかに打ち解けてしまえるのが、橘乃の特技みたいなものである。橘乃は、自分のことも語りつつ、遠慮も忘れて前島を質問攻めにした。
最初は遠慮がちに話していた前島も、橘乃の気さくな態度に気を許してくれたようだ。素の前島は、見た目通りの飾らない性格をしているようだった。そして、橘乃に劣らないほどの話好きの噂好きであるようだった。花屋という仕事柄、前島は、ホテルの各セクションのスタッフと万遍なく接触する機会に恵まれているらしい。
前島は、橘乃に茅蜩館ホテルという持参金がつけられた経緯を詳しく知っていた。彼女だけでなく、ここ、つまり茅蜩館ホテル東京に務めているほとんど全てのスタッフが知っていることも教えてくれた。そして、その誰もが、橘乃の夫選びに非常に関心を持っていることも話してくれた。一部スタッフの間では、賭けも行われているという。ちなみに本命は隆文であるらしい。
「創業者一族の多くが、隆文さんこそが茅蜩館ホテルの正当な跡取りだって言い張ってますからね。結局のところ隆文さんに落ち着くのが一番無難だろうっていう話です。六条さんに選ぶ権利があると見せかけて、内々では――八重さんと六条さんのお父さまとの間では、隆文さんとの婚約が決まっているに違いないって断言している人もいるんですよ」
「それは、ないんじゃないかしら」
橘乃が否定する。彼女の父親の源一郎ほど、『無難』という言葉が似合わない男はいない。
ちなみに、梅宮は2番人気なのだという。
「神官さん――和式の結婚式場の神職さんですけど、神官さんが、『自分なら、要くんに賭ける』とおっしゃったらしいんですね」
神官本人は賭けには参加していないそうだ。だが、とても勘の鋭い人であるらしい。また、賭け事が絡まない場において東京のホテルスタッフから最も応援されているのも、梅宮であるそうだ。
「人気があるのね。梅宮さん」
他人事のような顔で、橘乃が感心する。
「相続に対する発言権のない庶民にはね。私も……要さんがいいかな。もっとも、私の場合は、かなり個人的な理由によるものですが」
前島が、なぜだか顔を赤らめる。その個人的な理由とやらを問おうとした橘乃の機先を制して、彼女は、「なんといっても、要さんは、ホテルのみんなから頼りにされていますしね。次期オーナーは無理でも、いつかは総支配人になるだろうって、前々からみんなが言ってますから」と続けた。
「総支配人? 梅宮さんが?」
「まだまだ先のことでしょうけど、いずれそうなるのは確実だと思います。貴子総支配人や八重さんは、そのことを念頭に置いて要さんを仕込み始めているみたいです。 要さんを邪魔にしている人たちも、そこは認めるしかないって思っているようですよ。総支配人は、現場の最高責任者ですからね。血筋の正しさとか家柄とか。そういうのだけで決めていいものじゃないってことは、みんなわかってますから」
「ふうん。 そうなんですか」
孤児であることを理由に梅宮が闇雲にいじめられているわけではないとわかって橘乃は、少しホッとした。
「でも、持参金のことをホテルで働く誰もが知っているなんて、思いもよらなかったわ。八重さんとか梅宮さんとか、一部の人だけかと思ってた」
朝方橘乃を迎えてくれたドアマンやベルボーイの普段と変わらない親切さを思い出しながら、橘乃が打ち明けると、「仕事ですからね」と、前島が笑った。
「知っていても知らないふり。話してくださるまでは余計な詮索をしないことが鉄則です。とはいえ、知っているほうが、お客さまにとって良いサービスを提供できるという側面もあります。だから、噂話にも歯止めがかからないんでしょうけど。ちなみに、今日の私は最低でした。余計な気を回し過ぎて、よりによって六条さんの真ん前で大騒ぎし、迷惑をかけてしまいました」
前島が、扱ううちにうっかり首を折ってしまった白いバラのようにうなだれる。
「ホテルのことは、前島さんたちにとっても自分たちの問題ですもの。冷静でいろというのが無理ですよ」
橘乃は前島を慰めた。ついでに、『六条さん』という呼び名はいかにも堅苦しいので、名前で呼んでくれるように頼んだ。前島も、嬉しそうに『自分のことも香織と呼んでほしい』と言った。
「名前といえば、香織さんって、梅宮さんたちのことを名前で呼んでいらっしゃるでしょう? 仲、いいんですね」
「幼馴染なんですよ」
前島改め香織が答えた。
香織の勤める花屋は、ホテル内にあるものの、彼女の父親が経営する独立した店舗であるそうだ。昔は、ホテルのそばに彼女の家があったこともあり、香織は梅宮を兄のように慕い、浩平を弟代わりにして育ったという。 真ん中の隆文とは、同学年であることから腐れ縁に近い間柄なのだという。
「もっとも、私に限らず他の人も、バックヤード――お客さんがいない所では、名前で呼び合うことが多いですよ。そうでないと紛らわしいですからね。梅宮と竹里はともかく、松雪と恵庭って苗字の人は、いっぱいいますから」
松雪は隆文の、恵庭は八重の苗字である。
「なにより、隆文さんが、すごく嫌がるんですよ」
「え?」
「自分だけ名前で呼ばれるのも、他のふたりと苗字が違うのも」
香織が、悲しげに微笑む。「松雪は数が多いから、隆文さんだけ名前で呼ばないと区別がつかない場合が多いんですね。竹里は浩平さんと時々いらっしゃる輝美さんだけだし、梅宮は要さんと総支配人の貴子さんだけ。だから、本当は他のふたりのことを名前で呼ぶ必要はないんですけど、あの人は、それが嫌なんです。名前を呼ばれることで、自分だけ特別扱いされているみたいな気分になるんですって」
実際、そうやって、隆文と他のふたりと区別しようとする人もいるのだそうだ。その度に、隆文は、腹を立てたり悲しい思いをしたりしているらしい。
「つまり、差別とは逆の差別のような、疎外感?」
「そうです! そうです! そんなこと気にすることないって、私、何度も彼に言ったんですけど、どうしても寂しいって思っちゃうみたいなんです。それに、あの人、要さんのことを、お兄さんとしても同業者としてもすごく尊敬しててですね。彼を差し置いて、自分が上に立つことなんてできないって、それで……」
香織の声がふいに途切れた。
「香織さん?」
「いやだ。 ごめんなさい。私、客室に上り込んで、しょうもないことをペラペラと……」
自嘲気味に笑いながら最後の花束を花瓶に放り込んでしまうと、香織が片づけを始めた。
「では、これで失礼します。 ああ、そうだ」
花束の包装に使われていたフィルムや茎の切れ端をまとめたごみ袋を廊下で待機していたワゴンに押し込んでいた香織が思い出したように橘乃を振り返る。
「マートルは、アフロディーテの御神木でもあるんですよ」
「アフロディーテってヴィーナス?」
「ええ。愛と美の女神。 女神が海から生まれた時に裸体を人目にさらさないように隠したのがマートルだと言われていることから純潔の象徴、また、常緑であることから永遠、つまり『持続する愛情』とか繁栄と多産の象徴とも言われてます。だから、ブーケに欠かせない『花嫁の木』なんです」
ブーケのマートルの小枝を持ち帰った花嫁が嫁ぎ先の庭に植える風習もある地方もあるらしいとも香織が教えてくれる。
「だからね。 マートルが橘乃さんを幸せに導いてくれますよ」
神殿の巫女のごとき凛々しく慈悲深い表情を浮かべながら、香織が告げた。「ホテル育ちのそのマートルが、橘乃さんの外見や財産といった上っ面にしか惹かれていない男性を遠ざけて、あなたが一生愛することができ男性と幸せな一生を送ることができるように、あなたを守ってくれますよ。そして、あなたとあなたの伴侶によって、このホテルは更なる発展を遂げるでしょう。なあんてね」
香織が、冗談めかしてペロリと舌を出した。
「そうだといいな」
「大丈夫ですよ。 橘乃さんなら」
香織が笑う。そして、彼女は最後にもう一度「匂いに耐えられなくなったら、絶対に我慢してはダメですよ。すぐにフロントに連絡してくださいね。約束ですよ」と、橘乃に念を押すと、自分の持ち場に帰っていった。
*****
「思い切ってホテルに来て、本当によかった」
独りで部屋に戻った橘乃は、満足げに呟いた。滞在初日から、気が合いそうな女性の友達ができるなんて、大収穫である。 そのうえ部屋は、彼女を歓迎する花でいっぱい。もともと怒ることが苦手な橘乃が、どこを向いても美しく飾り付けられた花ばかりという状況下で怒りを持続させておくことは難しい。
少し前まで梅宮に対して腹を立てていたことなど、橘乃は、とっくに忘れていた。むしろ、香織から、この部屋に花を入れることに反対していた梅宮なりの理由やマートルことを聞かされてからは、彼に感謝さえしていた。
「梅宮さんは、心配性なのね。 きっと」
だが、ホテルマンという彼の仕事を考えたら、むしろ好ましい性格であろう。橘乃のように、なんでも『大丈夫』の一言で片付けていたら、ホテルの中は予期せぬトラブルだらけになってしまうに違いない。
とはいえ、今回のことは、彼と香織の杞憂だと思われる。第一、香織が働いている花屋だって花だらけではないか。そこで一日を過ごしている彼女に健康被害がないのだから、問題があるとは思えない。むしろ、甘い香りに包まれることで心身ともに安らぐことだろう。今日の自分は素敵な夢を見られるに違いない。
……などという幸せな気分に橘乃が酔いしれていられたのは、それから一時間足らずの間のことでしかなかった。
小さな部屋を飾る大量のバラとユリの花の香りは、橘乃の息の根を止めるまでには至らないものの、確実に彼女の神経にストレスを与え続けた。だが、梅宮の心配を無視して花を部屋に入れた以上、すぐに橘乃が音を上げては、彼を呆れさせることにしかならない。それは、花の香りに我慢すること以上に、彼女にとって我慢ならないことであるように思えた。
「そのうち、慣れるわ。匂いって慣れると気にならなくなるっていうじゃない」
橘乃は期待を込めてつぶやいた。だが、匂いは鼻につくばかりだ。試しに窓を開けてみたものの、通路側のドアを開け放すわけにはいかないので、風が抜けきらない。2時間も経つと、確実に濃度を増している甘ったるい香りが、橘乃の癇に障るようになってきた。部屋にあったパンフレットや家からもってきた本や雑誌などで気と紛らわせようともしてみたが、全く集中できなかった。そして、人間というものは、注意力や思考力がなくなってくると、より動物的な、つまり生きるために必要なことしか考えられなくなる生き物であったらしい。
「おなか、すいた」
膝に置いていた雑誌を閉じると橘乃は、大きく息を吐いた。そういえば、夕食を共にするつもりでいた姉たちと別れてから何も食べていなかった。時計を見れば、夜の9時前である。
「館内のレストランって、まだやっているわよね?」
だが、自宅にいる時でさえ、橘乃は独りで食事をしたことがない。一度やってみたいと憧れてはいるものの、独りでレストランに入ることには、やはりためらいがあった。
「お夕食、抜いちゃおうかな」
だが、花の香りと同様に、食欲も、忘れようとすればするほど気にせずにはいられないようである。
彼女はルームサービスを頼むことも考えた。だが、花の香りが充満するこの部屋では、何を食べたところで美味しく感じられないような気がした。 試しに残っていたクッキーをかじってみたが、橘乃の味覚は忙しく働かされている嗅覚の応援に駆り出されているらしく、クッキーは、口の中でモソモソするばかりで、何の味もしなかった。
とうとう匂いに耐えられなくなってきた橘乃は、フロントに助けを求める前に、まずは自分でなんとかしようと足掻いてみた。
「とりあえず、バスルームに全ての花を押し込んでしまえば、香りは和らぐんじゃないかしら?」
だが、花が大量に活けられた大花瓶は重かった。持ち上げようと思っても、橘乃の腕力では持ち上がらない。
「香織さんは、楽々と持ち上げていたようだったのに……」
花屋という職業は、力持ちでなければ務まらない仕事であるようだ。世の中には、橘乃が知らないことが、まだまだ沢山あるらしい。
「花と花瓶を別々に移動させれば、なんとかなるかしら?」
だが、この部屋には、そうやって動かさなければいけない花瓶が幾つもある。 その手間を考えただけで、橘乃は気が遠くなりそうだった。
「それに、バスルームに運ぶといったって、お風呂にも入りたいしねえ」
ホテルのバスルームは広くない。花瓶を運び入れてしまったら、風呂どころかトイレにも入れない。
「う~ん。 どうしよう?」
途方に暮れた橘乃の目が、部屋の中で一番軽そうに見える花かごに向く。一度香織が抜き出して見せてくれたマートルの枝は、元の位置に戻されていた。その枝を、再び、苔のような緑色をした保水材から引っこ抜く。
「『女神さまの木』か……」
橘乃は、鼻先に枝を寄せると大きく強く息を吸いこんだ。穏やかな清涼感のある芳香が鼻腔をくすぐっているような気がするものの、他の香りが邪魔しているのか、それとも彼女の嗅覚が麻痺しているのか、確たる匂いはわからないままだ。
「どんな香りなんだろう?」
橘乃は、今度こそ、彼女の周りを取り囲む花々が邪魔に思えてきた。
「贈ってくださった人にも悪いし、花に罪はないけれども、仕方がないわ」
橘乃はフロントに助けを求めることに決めた。ついでに、ルームサービスに頼んで食物を手に入れようとも決心する。
「でも、その前に梅宮さんに謝らなくてはね」
なによりも、それが大事であるように橘乃には思えた。
そもそも彼の言い分なり忠告なりを橘乃が最後まで聞いてさえいれば、こんな目に合うことはなかったのだ。我を張るのをやめる以上、橘乃のほうから彼に謝りに行くべきだろう。




