厳しい理想と甘い現実 2
いくら橘乃がお人好しでも、なんでも良い方に考えたがる性格をしていたとしても、同じ男性から日に2度も「なんで、こんなところにいるのだ?」と質問されるのは、さすがに辛い。
ならば、いっそ自分からここにいる理由を説明してしまおうと橘乃が口を開きかけた時、梅宮の後方から「いたいた! 梅宮さん! 探してたんですよ!」という女性の声がした。
振り返った梅宮の向こうに見えたのは、紺色のエプロンをつけた若い女性だった。橘乃よりも幾分年上に見える。お洒落にはそれほど気を使わない人らしく、化粧は申し訳程度にしかしていなかった。着ている物も実用一点張りの綿のTシャツにくるぶし丈のパンツである。でも、きれいだと橘乃は思った。さっぱりとした飾り気のなさが、そのまま彼女の魅力になっている。
「前島さん?」
梅宮が、見るからに怒っている彼女に呼びかけた。
「また来たんですよ! 花が!」
梅宮の注意が自分に向くなり、彼女は憤懣やるかたない様子で彼に訴えた。
「せっかく梅宮さんが減らしてくれたのに、またですよ! しかも、今度は、こちらで変更できないように現物を送ってきたんです! ユリとバラだけでも全部合わせて500本ぐらいあります。フロントに問い合わせたら、あちらにも、これから花かごが3つばかり届く予定になっているそうです。この場合、どうしたらいいんでしょう? ……って、浩平さん! そのバラ、どうしたの?! これから、どうするつもり?!」
眉を吊り上らせた前島が、浩平と橘乃の間に置かれた花束を指差した。
「これ?」
浩平が、赤いバラの花束を持ち上げてみせた。
「これは、どうするっていうよりも、もう橘乃ちゃんにあげちゃった」
「え? 『橘乃』さん……ってひょっとして……」
前島が、化け物でも見るような目つきで橘乃を見る。
「ええ。彼女が、その『六条橘乃』さんです」
「そう。この子が、本日、大勢の人から大量の花を贈られている人気者の橘乃ちゃん。ちなみに、こっちの白いバラの花束は、隆文からの贈り物」
梅宮の言葉を肯定しながら、浩平が白いバラの花束を持ち上げた。
「隆文さん…… も?」
「500本から、更に200本ほど増えてしまいましたね」
愕然としている前島の隣で、梅宮が『やれやれ』と言わんばかりにため息を吐いた。
「プラス200本じゃなくて、プラス300本だよ。 要が、これから黄色いバラを100本ほど贈ることになっているから」
「要さんまで?!」
さっきまでは『梅宮さん』だった前島の呼び方が、『要さん』になった。
「贈らないよ。浩平、いい加減なこと言うなよ」
梅宮が、仰け反るようにして彼を見上げている前島に即座に訂正を入れ、迷惑そうな顔で浩平を見る。
「あ? 黄色じゃなくて、ピンクのバラだった?」
梅宮を挑発するように、浩平が笑った。
「しつこいぞ。 ピンクだろうが黄色だろうが僕は贈らない」
梅宮が言い切った。そのうえで、浩平を非難する。
「それより、どうして浩平まで花を贈ったりするんだよ? 隆文はともかく、浩平は今朝の状況を知っていたはずだろう?」
「わかっているけど、避けられないことだってあるんだよ。要も、遠慮ばっかしてないで、いい加減に覚悟を決めたらどう?」
「だから、僕は、そんな気はないって」
「どうして、そんなに物分りの良いフリするわけ? 要は、いつだってそうだ」
「フリってなんだよ? 僕はただ……」
「やめてください!」
堪らず橘乃は声をあげた。とはいえ、極端な平和主義者の彼女が目の前で突然始まった兄弟喧嘩に割り込んだのは、仲裁をしようと思ったからではない。聞いているうちに腹が立ってきたからだ。
「どういう状況なのだか、私には、わかりませんけど」
橘乃は、主に梅宮に向かって話している自分の声が、ひどく冷たいのを感じた。「私、厭々贈られた花を、いただく気はありませんから」
「橘乃さん? いえ、そういうことではなくてですね」
「別に言い訳してくださらなくても結構です。八重さん、お話できて楽しかったです」
焦っているように見える梅宮から目を逸らすと、橘乃は、八重に暇乞いをし、浩平と隆文には花束の礼を言って、居間を出た。
「橘乃さん、あの……」
戸惑っているらしい梅宮の横を、彼女は無言ですり抜けた。
「あの、花はどういたしましょう?」
彼の声が、後ろから追いかけてくる。
「全部お部屋に持ってきてください! 梅宮さんから以外のお花だったら、なんだって喜んでいただきますわ!」
振り返らずに橘乃は答えた。
(別に、茅蜩館の男の人が、全員私に結婚を申し込んでくれるなんて期待してないけど、梅宮さんにだって女性を選ぶ権利はあるでしょうけど)
そんなことぐらい、橘乃だってわかっている。
「わかっているけど、なにも本人の前で、力いっぱい拒否することないじゃないのよ~っ!」
部屋に戻ってドアを閉めるなり、橘乃は、腹立ち紛れに叫んだ。
とにかく腹が立って悔しくて、そして、なぜだか無性に悲しかった。
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「あ~あ、怒らせちゃった」
橘乃が去って行った方向に顔を向けたまま呆然としている要を浩平が責めた。
「僕のせいなのか?!」
断じて違うと、要は思う。自分は、橘乃が使う客室を居心地の悪い場所にしたくなかっただけだ。それを浩平が……
「じゃあ、他の誰のせいだっていうんだい?」
心の中で言い訳する間もなく、八重も要を責めた。
「名指しで非難していたからねえ」
隆文も、要の味方をしてくれない。
「でも……」
「でも、さっきの要は、いつもの要らしくなかったね」
八重が、落ち着き払った顔で要の『でも』を受けた。
「目の前で、あんなふうに言われたら、橘乃さんが傷つく。隆文じゃあるまいし、そんなことぐらい、いつもの要ならば考えるまでもなくわかるはずだ。わかっているなら、要は、もっとそつなく振る舞えたはずだね?」
「……」
痛いところを突かれて、要は口を閉じた。黙り込んだ要の代わりに、「お祖母ちゃん。なんで、そこで僕を引き合いに出すの?」と、隆文が憤慨する。
「なんでって…… あんたが引き合いにしたくなるようなことばかりしているからだよ。そうだよねえ? 香織ちゃん?」
「さ、さあ、どうでしょう?」
八重から名前を呼ばれた前島は、強張った笑みを浮かべた顔をカクカクと左右に傾げた。そして、「そうだ。 わ、私、橘乃さんにお花を届けなくちゃ」と調子っぱずれな声で言いながら居間を出て行った。
「まったく、あの子も、もう少し……」
逃げるようにして去っていく前島に不満でもあるのか、八重がため息を吐いた。
「まあ、それはいいとして。要」
八重が、要を見ながら右手を伸ばし自分の向い側にあたる座卓の縁近くを指で叩いた。『ここに座れ』ということらしい。
「まあ、要の気持ちも、わからないでもないけどね」
動こうとしない要を宥めるように八重が微笑む。「外野から、あれこれ言われているようじゃないか。『お前は、橘乃さんに近づく資格はない』とか、逆に『六条さんが味方につくなら、お前が頑張れ』とかさ。それどころか、今日は、橘乃さんを目当てに武里の末っ子までやって来て、橘乃さんとの食事の約束を取り付けていった。そのせいで、『その場に居合わせたくせに、どうして妨害しなかったんだ』とか『なんで、あいつとのデートをセッティングしたんだ?』って叱られるならならまだしも、武里の坊やに奪われるぐらいなら要にやったほうがマシだと言わんばかりに、掌を返したように応援されるとなると、さすがの要も気持ちの折り合いもつけられないかい?」
「……」
「え? 要に、そんなこと言ってきた奴がいるの?」
黙っている要の顔色の悪さを見て、隆文と浩平が驚いた。
「いるんだよ。しかも、ひとりやふたりじゃない。ねえ?」
八重が要に笑いかける。返事の代わりに、要は、うつむき気味だった頭を更に下に向けた。彼が否定したところで、彼女は既に知っているに違いない。おそらく、事務室の誰かが、茶飲み話のついでに彼女に報告していったのだろう。
八重の言うとおり、今日の午前中までの梅宮は、これまでと同じようにほとんどの親族から邪魔者扱いされていた。彼が何もする気がないにもかかわらず、『橘乃に手出しをすることはまかりならん』と忠告してくる者もいた。
だが、竹里冬樹から橘乃が食事に誘われたのを機に、彼を取り巻く人々の意識は大きく変化したようだ。居間に戻ってくるまでの2時間あまりの間、彼は、これまでとは打って変わったような激励の電話の対応に追われることになった。
電話をかけてきた者の中には、以前から要に対して好意的であった人もいた。だが、その多くは、主に隆文派――自分たちが創業者一族であることを誇りにしており、武里はもちろん嫁として嫁いできた八重がオーナーであることさえ苦々しく思っているような態度をとってきた者のほうが多かった。奥手で女性との付き合いがいかにも苦手そうな隆文では、新たに登場した武里グループの女たらし……もとい武里グループの若獅子(だと業界誌が彼を紹介していた)こと竹里冬樹には勝てないと見越しての転身だろうと思われる。
日頃から要が疎んじられていることに憤っている貴子や、彼らに先んじて要の応援についた横浜の副事務長は、『なかなか良い傾向』だと、彼の横で喜んでいるだけだった。
これまで彼を疎んじていた人々が彼への態度を和らげたのだから、要も素直に喜べばいいのかもしれない。だが、喜べと言われても、そんなに簡単に自分の気持ちは変えられない。
「そうだよねえ。変わり身の早い勝手な大人たちから、全く正反対のことをいっぺんに言われたら、まごつくし、腹も立つし……だよねえ」
黙っている要の気持ちを、八重が代弁する。「でも、周りの言うことなんて放っておおき。全部聞き流して、要の好きなようにしたらいいさ。浩平の言うことにも耳を貸す必要はないよ」
「え~!! 他はともかく弟の言葉には耳を傾けるべきじゃないかな?」
「なに言ってんだよ。おまえが一番混ぜっ返してんじゃないか」
不平を言う浩平を叱ると、八重は、その厳しい顔を要にも向けた。
「でもね。自分がイラついているからって橘乃さんを傷つけていいわけじゃない。それは、わかるね?」
「……。 はい。 後で謝りにいきます」
要は、素直にうなずいた。
「よし」
心から反省している孫を見て、八重が満足げにうなずく。
「隆文もね。今日は夜勤じゃないんだろう? 香織ちゃんも、橘乃さんのところに花を運んだら今日はあがりだろうから、コーヒーでも御馳走してあげるといいよ」
「え? どうして?」
「それは…… ああ、もう、じれったい子だねえ。どうしても!」
不思議そうな顔をしている隆文に問答無用で命じると、八重は、浩平と要の顔を交互に見比べつつ、今更の感があるものの、「ところで、花がどうかしたのかい? 香織ちゃんが飛んできたってことは、花屋でトラブルがあったんだね? 午前中?」とたずねた。
「なるほど、そういうことなら、橘乃さんに謝りに行くのは、もう少し待ったほうがいいかもしれないね」
遅まきながら事情を聞かされた八重が、橘乃に謝罪に行こうとしていた要にアドバイスした。
「今頃、香織ちゃんが、その大量の花を手狭な707号室に運び込んでいる頃だろうからね。 あの子なら、要がどうして花を贈りたがらなかったのか、ある程度の事情を橘乃さんに説明してくれるだろうし、それに……」
八重が苦笑を浮かべる。 「実際に、700本以上のバラとユリと一緒に同じ部屋に押しこめられたら、橘乃さんの怒りも少しは和らぐかもしれないだろうからね」
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同じ頃。
部屋でむくれている橘乃のところに電話がかかってきた。相手は、梅宮と親しげに話していた花屋の女性だった。 名前は、前島といったと思う。
「花束のことなんですけど、贈り物ですから、花束のままお届けしたほうがいいですよね? その後は、どうなさいます? 全部バラバラにして活けなおしたほうが見栄えはいいのかもしれませんが……」
橘乃は、もらった花束ごとに花瓶に入れて飾りたいと前島に返事をした。
ひとりひとりが贈ってくれたものを一緒くたにしてしまうのは、贈り主に失礼な気がしたからだ。
茅蜩館ホテルの近くには劇場も多い。泊まりにくる客の中には沢山の花束をもらう俳優もいるから、花瓶の用意は充分にあるということだった。それにも関わらず、なぜ橘乃がもらった花束だけが疎まれるのか。その理由は不明だが、橘乃は、梅宮と一緒になって大量の花束を相当持て余しているらしい前島の手をこれ以上煩わせる気になれなかった。
「活けるのも自分でやりますから、花瓶と花束を持ってきてくださるだけでいいですよ」
我ながら機嫌の悪い声で橘乃は言い添えた。しかしながら、そんな彼女の強がりは、長くは続かなかった。3段式の巨大な台車に乗せて前島が運んできた複数の大きな花束と持ち上げるのも大変そうな10以上の大きな花瓶を目にした途端に、彼女のやる気は砕けた。呆然としている橘乃を見て、前島が手伝いを申し出てくれる。少しばかりの悔しい想いをかみしめながら、橘乃は、ありがたく彼女の好意を受けることにした。
「さっきは、申し訳ありませんでした」
持参した大きなビニールシートの上で慣れた手つきで花束の包装を解きながら、前島が謝る。
「え?」
「だって、この狭い部屋に、これだけの花でしょう?」
前島が、台車いっぱいの花に目をやった。
「『このサイズの部屋に、こんなに入りきらない! それよりも、こんなに入れたら部屋の中の人が窒息死しちゃうかもしれない!』って、その事ばかりに気が行ってしまって、六条さまのお気持ちを考えてみる余裕がなかったです」
「そんな大げさな」
「いいえ。 これが大げさじゃないんです。そういう処刑法が大昔にあったそうですから」
大真面目な顔で、前島が言う。客のひとりが教えてくれたのだそうだ。たぶん、前島はその客にからかわれたのだろうと橘乃は思ったが、言わないでおいた。
「それはさておき。 お花をもらったら、普通は嬉しいものですよね。それなのに、六条さまの目の前で、いかにも邪魔なものみたいに言ってしまって……」
「いいのよ。そんなこと」
橘乃は笑って首を振った。「じゃあ、梅宮さんも?」
「ええ。午前中にも4か所から全部で350本ばかりの依頼がきたんです。その時に、私が大騒ぎしちゃったんです」
その時は、梅宮が依頼人たちと交渉して、贈り物が花ばかりに偏らないように取り計らってくれたそうだ。
「だから、梅宮さんが六条さんを嫌っているとか、そういうことでは決してありません。嫌いだったら、逆に、そのまま花を収めるように私に言ったと思います」
「そういうもの?」
「ええ! だって、そのほうが、梅宮さん的には、絶対に楽ですから」
半信半疑の橘乃に、客向けの言葉づかいを忘れて前島が力説する。「梅宮さんに泣きついた後で、私も『やばい』と思ったんですよ。午前中に花を贈ろうとしてきた人たち、梅宮さんを快く思っていない人ばっかりでしたから」
「そうなの?」
橘乃は今度こそ驚いた。 そして、急に心配になった。
「梅宮さん、その人たちから、嫌なことを言われなかったかしら」
「大丈夫ですよ。梅宮さんは、かなり打たれ強い人ですからね。それに、いつものことですから 気にしちゃいませんよ」
前島が橘乃を慰めるように笑う。だが、彼女は、橘乃の心配そのものを否定することはしなかった。
「そうそう。 お花といえば」
沈んでしまった橘乃の気を引き立てるように、前島が元気よく立ち上がった。
「梅宮さん、贈る気はないって断言してましたけど、六条さんに花を贈る気持ちならば、ちゃんとありましたよ」
「どういうこと?」
「これ!」
怪訝な顔をする橘乃に、前島が、橘乃が最初に入室した時には届いていた花かごから、花のアクセントとして活けられていた一本の枝を引っこ抜いて戻ってくる。
「マートルです」
艶々とした葉をつけた枝を、枝先を横にして橘乃の前に掲げながら、前島が言った。




