厳しい理想と甘い現実 1
「ねえ、橘乃。いいの?」
茅蜩館ホテルの敷地内を出るなり、心配性の姉のほうが橘乃に問いかけてきた。
「明子姉さま、何が、『いいの』なの?」
「明日、あなたがお食事をすることになっている竹里さんって人よ」
不思議そうに問い返す橘乃に明子が焦れた様子を見せる。「あの人は武里グループの人で、武里グループは茅蜩館を手に入れたがっているのでしょう? そんな人と付き合ったりしたら、茅蜩館が困ったことになるのではないの?」
「そうかもしれないけど」
それよりも、橘乃は、男性から初めて交際の申し込みのようなものを受けたことに興奮していた。
父親が橘乃に茅蜩館ホテルという破格の持参金をつけてから、約一週間。一週間もかかって、ようやく求婚者らしき男性が橘乃に近づいてきた。これまでゼロだったものが、イチになったのである。数量的には、たったひとつの違いでしかないかもしれない。だが、その差には、天と地ほどの違いがある。
しかも、竹里冬樹という男性は、言い方は失礼かもしれないが、『まとも』そうだった。
ホテルを目当てに橘乃に近づいたことは確かなのだろうが、お金に困った人でもなければ、橘乃を宝くじと勘違いしている人でもなさそうだった。番犬に追いかけられたり、橘乃と紅子を取り違えるようなこともなかった。
しかも、彼は橘乃が望んでいたホテル関係者でもあった。遊び慣れているようにも見えたが、きちんと仕事をしているようにも見えた。しかしながら、なによりも重大なことは、彼が、橘乃の好みに合致しそうな人物であるということだ。
汚い手を使って茅蜩館を手に入れようとしている武里グループの人間の誘いになど、乗るべきではなかったのかもしれない。彼の誘いに乗ることなく、代わりに肘鉄を喰らわせてやるべきだったのかもしれない。しかしながら、橘乃は、初めて誘われたハンサムな男性からの誘いを無下にできるほど気が強くもなければ用心深くもなかった。要するに、せっかくの誘いを断るのは、誘ってくれた相手にも悪いし、少しばかりもったいないような気がしたのだ。
「別に、いいんじゃないのかしら」
しばらく考えてから、橘乃は言った。
「梅宮さんは、私の好きにしていいって言ってくれたし、私が目の前であの人にお食事に誘われても、止めなかったもの。それに、八重さんのお孫さんとして、梅宮さんと一緒に育てられたっていう浩平さんだって、武里の手先みたいなものなのでしょう? でも、梅宮さんと浩平さん、仲が悪そうには見えなかったわ」
「自分に都合のいい解釈ばっかりして……」
明子が呆れた様子をみせた。
「梅宮さんは、言わなかったんじゃなくて、言えなかっただけかもしれないじゃない」
「じゃあ、言わなかったほうが悪いのだわ。それより、冬樹さんって人! なかなかハンサムだったと思わない?」
まだまだ続きそうな明子の小言を調子の良い言葉で遮ると、橘乃は、顔を突き出すようにして姉たちに問いかけた。
「専務だって言ってたわよね? ということは仕事もできるってことよね?」
「達也さんだって、専務だったわ」
明子が、ふて腐れたような顔をしながら離婚した元夫の名前を出した。「武里グループも、創業者を頂点とした一族優先の人事を行っているのでしょう? 役職についているからといって仕事ができるとは限らないわよ」
「でも、あの人、いずれ武里のホテルグループを背負うって言ってたわ。それだけの実力があるってことなんじゃない? それに、達也さんだって優秀だったでしょう?」
橘乃は晴れやかに言い返した。明子の元夫の達也は、女性を見る目がなかっただけだ。それで、明子をないがしろにし、橘乃の父親を怒らせて破滅した。
「確かに、俊鷹さんに言わせれば、達也さんは視野の狭さと経験不足が祟っているだけで、もともと頭の良い人だけれども…… でも、あのね」
「無駄よ、明子。この子、すっかり舞い上がってしまっているもの」
橘乃をたしなめようとする明子を、諦め顔で紫乃が止めた。
「さっきの状況を思い出してみなさいよ。自分好みの外見をした男性が、いきなりの目の前にやってきて、この子の手の甲に口づけて帰っていったのよ。いかにも橘乃好みの恋の始まりって感じじゃないこと? ボーっとなって、誘われるまま、彼にホイホイついていかなかっただけでも奇跡だわ」
「これからホイホイついていきそうだから心配なのよ。痛い目にあってからでは、遅いんだから」
明子が、珍しく姉に突っかかる。
「でもね。痛い目にあわなければ得られない幸せもあるって、前に、あなたが言ったのよ。始めから森沢さんと一緒になってたら、あなたは今ほど幸せだったと思う?」
からかうような笑みを明子に向けながら、紫乃が、彼女に彼女の夫との馴れ初めを思い出させた。
「それは、そうかもしれないけど」
明子は否定しない。それでも、彼女は、橘乃には自分が経験したような辛い思いをしてほしくないと思ってくれているようだ。「でも、やっぱり、痛い思いをしないと、絶対に幸せになれないわけではないのだし」と、紫乃に言い返しながら、言い足りないことが沢山あるような目で橘乃を見た。
「そんなに心配しなくても。 梅宮さんがいてくれるのだから、大丈夫よ」
心配性の明子を紫乃が笑う。
「それでも、梅宮さんにだって仕事があるわ。四六時中橘乃を見張っていてもらうわけにはいかないでしょう」
「信用ないのね」
姉たちのやり取りを聞いていた橘乃がむくれる。彼女は、ふたりの姉が、自分が痛い目を見ることを前提にして話をしているのが面白くなかった。面白くないといえば、梅宮ばかりが姉たちの信用を勝ち得ているようなのも、面白くない。自分よりも姉たちのほうが梅宮のことを知っているようなのも、気に入らなかった。
「ふたりとも、『梅宮さん』『梅宮さん』って、彼のことを買いかぶりすぎているんじゃなくて?」
「それは、あなた。梅宮さんには、実績があるもの」
嫌味で言ったつもりなのに、姉たちが真顔で橘乃に応じた。
「実績?」
「あのね。あなたには、今さら言うことでもないけれども、うちの弘晃さんは、体が弱いの。それも、冗談抜きに『致命的』って言えてしまうぐらいに弱いの。でも、『致命的』っていうところだけは、絶対に秘密なの」
「ええ、わかっているわ」
橘乃も、そのことは、紫乃が婚約した頃に知らされている。
中村物産という日本でも有数の大企業の実質的なトップは、極端に体が弱い紫乃の夫である。だけども、この世から突然いなくなってしまいかねない人物が会社を動かしているということが広く世間に知られるようになると、彼の会社への信用が根本から揺らぎかねない。だから、中村家は、一族どころか社員までもが一丸となって、この秘密を守ってきた。
紫乃と見合いをする前の弘晃は、その存在さえ隠されていた。いるのかどうかさえ、わからないようにされていた人物だった。
祖父が傾けかけた会社を立て直し、紫乃と結婚したことで六条家という強力なバックアップを得てからは、以前ほど厳重に弘晃を家の中に隠しておく必要はなくなった。だけども、彼の『体が弱すぎる』という点だけは、依然としてトップシークレットのままである。決して世間に知られてはならない。橘乃も、なにがあっても絶対に人に話すなと厳命されている。
「だから、弘晃さんの秘密を守りつつ、彼と結婚式ひとつ挙げるだけでも大変だったわけよ」
旧財閥の中村家と、今を時めく六条家との婚姻である。同時に、長年隠されていた謎の御曹司のお披露目の会でもあった。結婚披露宴に呼ばれた者の多くは、一言なりの祝辞をもらわないわけにはいかない政財界の重要人物ばかり。当然、披露宴の時間は長くなった。開場からお開きまで8時間ほどかかったと、橘乃は記憶している。
「8時間というか実質6時間強だけど、そんな長い披露宴、健康な人だって、きついでしょう?」
途中で新郎が倒れてしまわないように、大勢いる招待客に彼の秘密を悟られないように、怪しまれないようにと、企画段階から一緒になって考えてくれたのが梅宮だったと紫乃は言う。
彼主導で行われたホテルのサービスが紫乃の期待以上のものであったことは、結婚披露宴を無事に乗り切った弘晃が翌日になっても熱を出さなかったことで証明されている。秘密も、無事に守られた。めったに表舞台に姿を現さない紫乃の夫の存在は、結婚披露宴の後もミステリアスなままだ。
「披露宴を通して弘晃さんの秘密を知ることになったスタッフも多いはずなのにね。もちろんホテルには守秘義務があるのだろうけれども」
「秘密は、漏れる時には洩れる?」
「ホテルのスタッフのレベルは、彼らをまとめている人の意識の高さに左右されると思うの」
橘乃にうなずきながら、紫乃が言う。「その点、茅蜩館は信頼できるわ。『余計なことは詮索しない。共有することになった秘密は、口外しない』が徹底している。もちろん、これは茅蜩館ならば当たり前のことで、誰が私たちの結婚式を担当してくれたとしても、同じように満足のいく結果だったのかもしれない」
だが、紫乃たちの宴席を取り仕切ってくれたのは梅宮だった。だからこそ、紫乃は、梅宮を信頼しているのだろう。
「それに、私たち――というよりも、もっぱらお父さまや中村家の長老の方々なのだけど―― 言葉の行き違いで、あの時、ものすごくホテルに迷惑をかけちゃったのよねえ」
それでも、梅宮は、紫乃たちに対して一言も文句を言うこともなく、しっかりとした対応をしてくれたのだという。
「お食事が美味しいとか、設備が立派だとか、ホテルは、そういうところで評価されがちだけど、それだけで優劣が決まるものでもないのだと、あの時に思ったわ。お父さまや中村の一族の皆さまが、茅蜩館を贔屓にしている理由もわかった気がするの。そうそう! 橘乃も、これから茅蜩館の人間として生きていくつもりなら、その口の軽さを直すようにしなさいね。梅宮さんたちの迷惑になりかねないから」
ついでのように紫乃が注意する。やぶ蛇である。
「私も、お世話になったわ。その…… 達也さんと別れて俊鷹さんとやり直そうとしていた時期にね。梅宮さんって好い人よ。それに、あの人は相手がお父さまだからって、無暗にペコペコしないの。状況によっては、お父さまの我がままを真正面から退けたりするの。しかも、お父さまが、ちゃんと聞き分けてくれるのよ」
「それは、確かにすごいかも」
多くの者は、六条源一郎の名前を聞いただけで萎縮する。サービス業ならば尚更だ。必然的に、父は我がままになる。それを面と向かって咎めてくれる人は――それも父が我がままを引っ込めるだけの話し方ができる人は、希少だ。源一郎とは昔からの知り合いであるという点を差し引いても、橘乃は梅宮を見直した。
だが、それはそれとして、橘乃としては、せっかく巡り会えた新しい求婚者のことのほうが気になった。ふたりは、彼に対して、どういう印象を持ったのだろう?
「私は…… ごめんなさい。ああいう人は苦手だわ」
明子の返答は、橘乃の予想どおりだった。万事に控えめな彼女は、見るからに押しの強そうな自信家が苦手なのだ。
「でも、森沢さんだって、タイプ的に似ているような気もするんだけど……」
明子の夫は、布地や化粧品を主に扱っている喜多嶋紡績グループの総領である。商売柄だろうが、彼はいつ見ても様子が良い。そして、これまた商売柄、モデルやデザイナーといった華やかな職業に就く女性たちとの交流がある。けっこう遊んでいたという噂もある。
「見た目はね。でも、俊鷹さんは、外見と中身のギャップが大きいから。それに、さっきの人みたいに野心的な感じもしないし、というよりも、野心がなさすぎて、おじさまたちが困っていらっしゃるぐらいだもの」
橘乃の指摘に明子が苦笑する。それから、「そういえば、梅宮さんもそうね」と、またしても梅宮に話を戻した。
「見た目と中身のギャップ? 確かに」
紫乃も嬉々として話に乗ってくる。「梅宮さんって、そつがなさすぎるところが欠点というか、私も最初は、愛想が良過ぎて調子のよいだけの人かと誤解していたの」
第一印象で人を見誤ることの珍しい紫乃が、恥ずかしげに打ち明ける。「でも、実は、かなり真面目な人よね。むしろ杓子定規なぐらい? もっとも、ああいう仕事の人は、それぐらいキッチリしているほうが、こちらとしても安心できるのだけれも。あなただって、そうでしょう?」
「え? 私?」
「さっきも、ずいぶんと頼りにしていたじゃない。 武里リゾートの専務さんから食事に誘われた時よ」
キョトンとしている橘乃に、紫乃が思い出させる。「私たちが横にいるのに、あなたは梅宮さんにばかり相談していたわ」
「そうそう。私たち、すっかり無視されちゃっていたわね」
明子も笑う。「今だって、『梅宮さんが好きにしていいって言ったから、いいんだ』とか、『梅宮さんが止めなかったから』とか? 実は、あなたが一番、『梅宮さん』『梅宮さん』って言っているじゃないの」
「それは、だって……」
後が続かずに、橘乃は押し黙った。
言われてみれば、自分でも不思議だ。竹里冬樹に誘われた時、どうして、自分は姉たちの意見を訊いてみようとしなかったのだろう?
「まあ、ともかく明日は、竹里冬樹さんという方と、お食事しながら、おしゃべりしてみればいいのではないの? 気に入らなかったら、それきりにすればよいのだし」
「紫乃姉さまは、あの人を…… 竹里さんを、どう思う?」
「それは、自分で見極めなさい」
不安げな橘乃を励ますように、紫乃が微笑んだ。
「あなたは、自由に外に出歩くことができない弘晃さんではないのだから、わたくしの感想なんてアテにすることないの。それに、わたくしは、明子の時にでしゃばりすぎてしまったことを、今さらながら反省しているのよ。だから、あなたは自分の目で見て、直接相手と話して、自分で判断なさい。橘乃なら、大丈夫。人の好い所も悪いとこも、わたくしよりもずっと上手に見つけられるのだから、きっと最良のパートナーを見つけ出せるはずよ」
「頑張ってね。私も時々様子を見にいくから」
話をしているうちにたどり着いてしまった東京駅の入り口に向かいながら、明子が手を振る。
「え? お夕食を一緒にしてくれないの?」
「ええ。夕方には帰るって、弘晃さんに言って出てきたから」「俊鷹さんが、今日こそ早めに仕事を切り上げられそうなのですって」
ふたりの人妻が、幸せそうな表情を浮かべて夫の元に帰って行く。
お婿さん募集中の橘乃だけが、ひとり、夕方の東京駅前に取り残された。
「お姉さまたちの意地悪~! 薄情者~~!」
改札口に向かって、橘乃は叫んだ。
☆ ★ ☆ ★ ☆
「ふん。姉妹なんて、姉妹なんて…… 結婚前は、どんなに仲が良くたって、結婚しちゃえば旦那様が一番になっちゃうんだから。悩める妹のことなんて、どうでもいいんだから」
姉たちに聞かれたら、『悩めるではなく、浮かれるの間違いだろう』と突っ込まれそうなことを愚痴りながら、まだ明るいうちに橘乃がホテルに戻ってきてみると、梅宮は、すでにロビーから姿を消していた。彼の弟分である隆文もフロントのカウンターにいない。
鍵をもらって部屋に向かう。ドアを開けると、ほのかに花の香りがした。橘乃を歓迎するために贈られた花かごからのものだ。
「お礼を言わなくちゃね」
橘乃は、花びらの縁が紅色に染まったクリーム色のバラの花の陰に隠れたカードを引っ張り出した。そこに綴られている名前は4人。連絡先が書いてあるものの、いずれも橘乃の知らない人物である。
「茅蜩館と、どういう繋がりのある人なのかしら?」
カードの隅を唇に当てつつ、橘乃は呟いた。
電話をするなら、それを確認してからのほうがいいだろう。 梅宮に相談すれば、どうしたらよいのか教えてくれるに違いない。だが、橘乃は、『梅宮ばかりを頼りにして』と、姉たちから、からかわれた直後だった。彼に訊きにいくのは、なんとなく癪である。
「そうだ。 八重さんに訊けばいいのよ」
先の訪問時には、橘乃も八重も逃げ出そうとしていた花嫁に夢中で、ちゃんとした挨拶もできなかった。できることならば、今日中に、もう一度彼女にも会っておきたい。
相手の都合も訊かずに突然訪ねるのは失礼かもしれないと心配したものの、八重は、「さっきは、いきなりゴタゴタに巻き込んでしまって、すみませんでしたね」と笑いながら、橘乃を居間に上げてくれた。
「それよりも、このたびは、私が妙なお願いを六条さまにしてしまったばっかりに橘乃さんをとんだこと巻き込んでしまって、本当に申し訳ございません」
八重が挨拶のために下げた頭を畳になすりつけた。
「謝らないでくださいな。 妙なことにはなっちゃっていますけど、私、大好きな茅蜩館と一生関われることになって、実は嬉しいんですよ」
橘乃は、肩を抱くようにして八重の頭を上げさせた。すると、「実は私もね」と、彼女と目を合わせた八重も笑う。
「六条さんにホテルの行く末を預けてしまった以上、どうされたって仕方がないと覚悟しておりましたんですよ。それなのに、まさか、あの人が自分の一等大事な娘さんたちのひとりをホテルにつけて返してくださろうなんてね。本当に、ありがたいことですよ」
「あの、でも」
「ええ、もちろん。まだ、そうと決まったわけではないですね」
たぶん橘乃が困った顔をしていたのだろう。 八重が慌てて言葉を足した。
八重のアドバイスを受け、時には電話を代わってもらいながら、橘乃が花の送り主への感謝の言葉を伝え終える頃になると、広くもない室内を金色に染めていた西日は、夜の闇の向こうへ追いやられようとしていた。
「それで、早速、武里の一番下の坊やが、やってきたんですってね? 竹里……、確か、冬樹さんっていいましたか?」
電灯からぶら下がっているスイッチを引っ張って灯りをつけ、茶箪笥の上から菓子鉢を持ってくると、八重が茶を入れ直してくれた。
「ええ」
「なかなかの色男さんだそうですね。橘乃さんが良いっていうのなら、もちろん、その方を旦那さんに選んでくださってかまいませんよ」
橘乃の心配に先回りするように八重が言った。
「それが六条さんとの約束ですからね。それに、相続のことでいがみ合っているっていっても、茅蜩館は、結局のところ、武里と一番近しい関係にあるんですよ。仕事で協力し合っているところもあるし、うちの浩平にしたって、半分は武里の人間ですしね。でも……」
八重が抜け目のない笑顔を橘乃に向ける。「祖母の私が言うのもなんですが、うちの孫どもも武里の冬樹さんには負けない魅力がたんとございますよ。試しに付き合ってみないと、後悔なさるかもしれない。本当に素直で優しい良い子たちばっかりですからね」
「まあ」
橘乃は笑った。 彼女には、素直に孫の自慢をする八重が、とても好ましく思えた。
「しかしまあ」
ため息をつきながら八重が腕を組む。「親族どころか外部の人間にまで先を越されるとは情けない。うちの孫どもは、いったい何をやっているんだか」
「すみませんね。トロくって」
聞えよがしな八重のため息に応じるように、居間の外から声が聞こえた。
橘乃が身を斜めにして出入り口のように目を向けると、浩平が立っていた。
「やあ。橘乃ちゃん。また会ったね。というわけで、これ、もらっておいて」
浩平が、肩に担ぐようにして持ってきた赤いバラの花束を、無造作に橘乃に渡す。
「なんだよ、『というわけで』ってのは?」
「輝美が、『もってけ』『渡せ』って、うるさくてさあ」
居間の上り口に腰を下ろすと、呆れている八重に向かって、浩平が愚痴った。どうやら、この花束は浩平が購入したものではないようだ。
「ええと、輝美さんというと……」
「この間の集まりで六条さんに食って掛かっていた被害妄想気味のオバサンがいただろう? あの人が僕の戸籍上の養母の竹里輝美。茅蜩館ホテルが欲しくて欲しくてしょうがないセレスティアル・ホテルグループ社長竹里秋彦にだまされて玉の輿に乗ったと評判の女」
「こら、浩平」
「だって、本当のことじゃん」
厳しい顔で祖母が咎めても、浩平は平気な顔をしていた。「あの人は、今日も今日とて、大好きな秋彦さんのために必死だよ。なにせ、冬樹は秋彦の最大のライバルだからね」
「そうなのかい? でも、冬樹さんっていうのは、秋彦さんの弟さんなんだろう?」
八重が意外そうな顔をする。
「そうだよ。親子ほど歳が離れているけどね。秋彦が先妻の3男坊で、冬樹が後添えの末っ子。だからこそ、仲が悪い」
創業者の糟糠の妻の息子である秋彦と、有力者の娘であるがゆえに望まれた女の息子である冬樹。先に生まれた者のほうが有利かもしれないが、後から生まれた者には強い後ろ盾があると、浩平が説明する。
「竹里の家は子沢山だからね。上に行けば行くほど、ポストが足りない。下の者が上位につくためには、誰かを蹴落とす必要がある。竹里リゾートは、竹里の看板ホテルであるセレスティアルの下部組織みたいなものだから、冬樹的にしてみれば、セレスティアルの長である秋彦が一番追い落とし易い標的だろうね。だから、輝美は、冬樹を敵だとみなしている」
「どこも複雑なんですねえ」
「そうだよ。複雑だからこそ、割り切れない思いが積もりやすいし、揉める原因になる」
思わず感心する橘乃に、浩平が苦笑する。「……と、そんなわけだから、僕も、冬樹の野望を阻止するために、橘乃さんの婿選びに参戦いたします。よろしく」
「浩平。その、いかにもやっつけ仕事みたいな態度は、なんなんだい。もっと女の子が喜びそうなやりようはないのかい?」
「冬樹の真似をして、一週間前に知り合ったばかりの女の子を、いきなり口説けっていうの? それこそ不誠実だよ。祖母ちゃんは、僕たちを、そんなふうに育ててない」
呆れる八重に、浩平が呆れる。「それもそうだね」と、八重も認めた。
「『はじめまして』から始めて、これから仲良くしてみればいいじゃん。好きになるかどうかは、その後のことだよ。祖母ちゃんも、孫がひとり増えたぐらいの気持ちでいればいいんだ。橘乃ちゃんも、それでいいよね?」
「はい」
人懐っこい笑顔を向ける浩平に、橘乃も笑顔でうなずいた。そのほうが、橘乃としても気が楽だ。
「それなら、僕も。初めまして、橘乃さん。よろしくお願いします」
浩平の言葉を受けながら 黒縁眼鏡をかけたいかにも真面目そうな青年も入ってくる。フロントで見た隆文だ。
「それで、これなんですけど」
隆文が後ろ手に持っていた花束を、おずおずと橘乃に差し出した。今度は白いバラだった。
「その花束、隆文が自前で持ってきたの?」
ニヤニヤしながら浩平が隆文にたずねる。
隆文は、顔を赤らめると、「その…… すみません」と、橘乃に対して申し訳なさそうに頭を下げた。こちらの花束も、人から持たされたものであるようだ。
「横浜の伯父さんたちから?」
「うん。 あっちでは、『武里リゾートの若造が早くも橘乃さん目当てに寄ってきた』って大騒ぎしているみたいだよ。『お前も、負けるな』って発破をかけられた。もう、やんなっちゃうよ。あ、ごめん! 橘乃さんが嫌だという意味では決してないから!」
隆文が、慌てて橘乃に釈明する。「むしろ、僕たちでいいのかなっていうのが本音かな。最高の男にしか娘はやれないって、僕たちは聞いてきたから」
「うちの父が?」
橘乃の父親が、亡くなった彼の友人に線香を手向けるためにここにやってきていたことは、数時間前に梅宮から聞いている。
「酔いが回ってくると、必ずそういう話になるんですよ」
八重が微笑む。『くだらん男に娘はやらん! 俺が最高の男に嫁がせて幸せにする。おい、こら、久志! ちゃんと聞いてるか?』と、六条源一郎は、ここで酔っ払うたびに、仏壇の久志の写真に向かってくだを巻いているのだそうだ。
「六条さんのいうところの最高だからね。彼の娘さんたちは全員、僕たちの足元に及ばないような男性と結婚するんだろうなって、僕たちは思っていたんだ」
事実として、彼の長女は旧財閥の本家の御曹司に嫁ぎ、次女は、かの喜多嶋紡績の次期総帥に嫁いだ。
「だから、橘乃さんに求婚しろと言われても、どうしたらいいかわからないというか、『他所の星の運動会に参加しろ』と言われているみたいな気がするんだ。要も、そうだと思う」
「ああ、要は、完全に他人事だろうな。あいつは、自分の家の相続問題でさえ、他人事で済まそうとしているぐらいだから」
浩平が肩をすくめる。「ずるいんだよ」
「梅宮さんは、ずるくはないですよ」
「わかっているよ。あいつは、ただ要領が悪いだけ」
梅宮を庇おうとした橘乃に、浩平が苦笑しながらうなずいた。「いってみれば、身の程知らずの逆バージョンだね。 茅蜩館ホテルを欲しがっている2つの派閥から邪魔にされるままに自分が身を引きさえすれば、万事上手くいくと思っている。確かに、今まではそれで上手く行ってたし、逆説的だけど、やられっぱなしの要が2つの派閥の間にクッションみたいに挟まってくれていたおかげで、茅蜩館がバラバラにならなかったという側面もある。本人は全く気が付いてないみたいだけね。だがしかし、六条さんが愛する娘を犠牲にしてまで現状をかき回していった今。要も引っ込んでばかりはいられない。なぜなら、あいつは、竹里冬樹が大っ嫌いだから」
「え? そうなんですか?」
「本人に訊いたことはないけど、確実」
浩平は、目を見張る橘乃に人を食ったような笑顔を向けると、居間の外に向かって、「そうだよね? 要?」と大声で呼びかけた。
「え? 何の話? あれ? 橘乃さん?」
不思議そうな顔で居間に顔を見せた梅宮が、橘乃を見つけて驚いた顔をした。




