第9回:地政学の誤算と、干し菜の贈り物
ついに飛び出してしまった。若き曹操孟徳の口から発せられたのは、紛れもない「我が陣営に――」という、恐れていた登用の言葉である。
これに最も戦慄したのは、18歳の少年として佇む歴史オタクのたくみであった。脳内ハードディスクが瞬時に弾き出したのは、曹操軍に組み込まれ、これからの凄惨な乱世の最前線でこき使われる最悪の未来予想図である。
「お、お待ちください、曹操様!」
たくみは青ざめながらも、精神年齢五十代の社会人経験値をフル回転させ、再び曹操の前へと割り込んだ。
「ありがたきお言葉にございますが、我らは一介の農民に過ぎず、軍略の才など微塵もございません。先ほど口にいたしました『ちせいがく』なる言葉も、山奥の古老から聞き及んだ怪しげな呪文のようなものに過ぎず……!」
必死の弁明であった。しかし、先ほどたくみが焦りのあまり口走った地政学的アプローチという現代語は、曹操という並外れたリアリストの天才の脳内で、すでに都合よく変換され、深く刺さってしまっていた。曹操は木匙を置き、面白そうに目を細める。
「ふむ。己を無才と偽るか。だが、この寒冷化のただ中で、捨てられるはずの猪骨や醤を使い、将兵の凍えた身体をこれほど迅速に蘇生させる兵站を構築してみせた。その実践こそが、何よりの証左。お前たちの言う『ちせいがく』とは、土地の寒暖と民の胃の腑を繋ぐ、新たなる兵法と見たが、違うか?」
(違う、全然違うけど、ものすごい説得力で誤解されてる!)
たくみは内心で頭を抱えた。天才の勘の鋭さが、完全に裏目に出ている。このままでは連行されかねない。たくみは冷や汗を流しながら、この場を切り抜けるための立ち回りとして、さらなるお天気データの切り出しを試みた。
「い、滅相もございません! 曹操様、もし我らの知恵をお認めいただけるのであれば、陣営に加わる代わりに、現在の華北を襲うこの『冷がめ』を乗り切るための、ささやかな進言をさせてください」
「ほう? 申してみよ」
「……この寒さは、今年限りのものではございません。これから数十年、あるいは百年以上にわたり、この世界の理として、波のように押し寄せる構造的なものです。ゆえに、目先の略奪や兵糧の徴収だけで軍を維持しようとすれば、必ず民もろとも自滅いたします。これからの戦を制するのは、武力ではなく、寒冷地でも育つ耐寒野菜の強制栽培や、軍自らが未開の地を開墾して食糧を自給自足する、いわば朝廷の枠組みを超えた、官民一体の農利の仕組みにございます。それさえ行えば、戦わずして民が集まり、天下の覇権は自ずと定まりましょう」
それは、たくみの脳内データにある、曹操がのちに実施する国家兵糧インフラ「屯田制」の核心であった。史実より数年早くその概念をぶつけられた曹操は、雷に打たれたように凝視し、顎に手を当てて沈黙した。
「……軍自らが耕し、自給する、だと? 略奪ではなく、仕組みで飢えを封じるというのか……」
曹操がたくみの言葉の重みに深く没入し、鋭い眼光を宙に彷徨わせたその瞬間、緊迫した空気の広間に、みのりののんきな声が響き渡った。
「はいはい、難しいお話はそこまで。曹操さん、これからまた遠くまでお仕事に行くんでしょ? これ、お土産に持っていきなさいな」
みのりが差し出したのは、麻の袋に詰められた大量の「干し菜」と、カチカチに乾燥させた醤の塊であった。都会のマンションの狭いベランダで、日照不足や環境ストレスと戦いながら野菜を育て、保存食作りに命を懸けてきた主婦の知恵の結晶である。
「これね、お天気が悪くてお野菜が採れない時のために、あそこの荒れ地で間引いた野生の冬菜の葉っぱとかをカラカラに干しておいたの。お湯を沸かしてこれと醤の塊を放り込めば、戦場のどこでも、さっきの雑炊みたいに温かくて元気が出る即席スープができるから。兵の皆さんにも、ちゃんと分けてあげるのよ?」
完全に実家でお裾分けを持たせる母親のノリである。
膝の上で茶白子猫のきなこが「これを持っていけば飢えないニャ!」と誇らしげに鳴き、黒猫の玄もまた「我が手伝って干した一級品だぞ」と言いたげに前脚を舐めた。
曹操はその麻袋を受け取り、中身をじっと見つめた。そこには、ただの乾燥した草ではなく、過酷な寒冷期を生き抜くための、圧倒的に合理的で、かつ温かい庶民の工夫が詰まっていた。
「……驚いたな。天下の奇才とは、これほどまでに底が知れぬものか」
曹操はふっと息を漏らすと、立ち上がった。たくみの出した驚異的な地政学的ヒントと、みのりが持たせた実戦的な保存食。この二つがあれば、無理に二人を連れて行かずとも、己の軍でこの寒冷化の時代を征する絵図が描けると確信したのだ。
「気に入った。たくみと言ったな。お前たちの言う通り、我は我が軍でこの『ちせいがく』とやらを実践してみせよう。だが、いずれ我が大いなる農の仕組みを築き上げた暁には、再びその知恵を求めに来るぞ」
若き覇王は、そう言い残すと、満足げに麻袋を抱えて屋敷を去っていった。
軍靴の音が遠ざかり、完全に毒気を抜かれて疲れ果てた劉大発がその場にへたり込む中、たくみは大きく息を吐き出した。
「危なかった……マジで即死ルートかと思ったよ、みのりさん……」
「あら、何言ってるのよたくみ。ちゃんとスープの素も渡したんだから、あの曹操さんって子も、これからは真面目に畑仕事でも始めてくれるといいわねえ」
みのりはクワを肩に担ぎ直すと、すでに次の「目の前の庶民を救うための温床づくり」へと意識を向けていた。良い人同士の奇妙な地続きの答えが、こうして歴史の裏側で、静かに芽吹き始めていた。




