第10回:ぬくぬく温床の奇跡と、緩む鎖
曹操孟徳の軍勢が去り、静けさを取り戻した劉大発の屋敷の前に、懐かしい大男が姿を現した。かつてみのりとたくみが魂の和解を果たした、難民のリーダーである張大である。しかし、今日の彼は暴徒の首領としてではなく、困惑と義務感の入り混じった顔で、見知らぬ見窄らしい農民たちを大勢引き連れていた。
「神童の旦那、それに実りの聖女様……。曹操様の軍が去ったと聞き、どうしてもお引き合わせしたい奴らがいて戻ってめえりました。オラたちの村は旦那がたのおかげで食い繋げておりますが、この冷がめのせいで、山の向こうの村々は畑が全滅し、行き場を失っておるのです。どうか、この哀れな奴らにも知恵を授けてはくださらねえか」
すがりつくような隣村の民の悲痛な姿に、みのりは迷うことなく、頼れるベテラン主婦の笑顔を浮かべた。
「よく連れてきてくれたわね、張大さん。みんな寒かったでしょ。でも、もう大丈夫。お天気が悪いなら、お天気に負けない畑をここから作ればいいのよ!」
みのりの視線の先にあるのは、かつては死にかけていた劉大発の庭園である。十日前に冬菜を実らせたばかりのこの土地を、みのりは周辺の庶民を広く救うための、一大農業拠点へ拡張する決意を固めていた。
彼女はすぐさまクワを握り直すと、職人のような鋭い目で周囲の民にテキパキと指示を出し始めた。
「ほら、たくみも劉大発さんも突っ立ってないで、みんなで動くわよ! 庭の土を深く掘り起こして! それから、屋敷にある藁と、馬小屋にある馬糞、それから草木灰を山ほど集めてちょうだい!」
みのりがやろうとしていること――それこそが、都会の過酷なベランダ菜園で培った知恵の結晶である、即席のぬくぬく温床であった。
たくみは精神年齢五十代の地政学ハードディスクを回転させ、怯える農民たちにその仕組みを現代知識からわかりやすく噛み砕いて解説し、心理的なパニックを沈めていく。
「皆さん、怯えることはありません。この寒さは天の気まぐれですが、土の中に藁や馬糞を敷き詰めて水を混ぜると、目に見えない小さな生き物たちがそれを食べて、土が自らお熱を出すようになるんです。つまり、土の中に天然のこたつを作るんですよ」
民は最初、たくみの言う土のこたつという言葉が理解できず首を傾げた。しかし、みのりの指揮のもと、掘り起こした溝に藁と馬糞を交互に重ね、踏み固めて水を撒き、最後に草木灰を混ぜた土を被せると、奇跡が起きた。
極寒の華北の地であるにもかかわらず、埋め立てたばかりの畝から、ぽっぽと白い湯気が立ち上り始めたのである。
「う、畝が温かい……! 本当に土が生きているみてえだ!」
農民たちが土に手を触れ、驚愕の声を上げる。馬糞と藁が微生物の力で発酵し、内部が五十度近くまで発熱する醸熱温床が、見事にこの時代に再現された瞬間であった。
さらに、地産の草木灰が酸性化していた土壌を絶妙に中和し、耐寒性のある野生の冬菜の種があっという間に芽ブキを誘うための完璧な揺り籠が完成した。
「すごいわ、たくみ。これなら、この寒さでも爆速で冬菜が育つわ。劉大発さんの隠し備蓄の穀物とこの冬菜を合わせれば、この地域の飢餓は完全に封じ込められるわね」
「ああ、みのり。これぞまさに、仕組みによる飢えの掌握だ。悪代官の備蓄を民に放出させる一時的な協業も、これで綺麗に回り出す」
仕組みが完成し、この一帯の未来に確かな希望が灯ったその時、集まった農民たちと張大、外部から逃れてきた民たちが一斉に二人に向かって深く頭を下げた。
「聖女様、神童の旦那、オラたちの命の恩人だ! 決してこの恩は忘れねえ!」
「曹操様の軍に持たせた干し菜の知恵、この劉大発、必ずやこの地で広めてみせまする!」
現地の人々との温かい別れの言葉が響き渡る中、みのりの足元から甲高い鳴き声が響いた。
見ると、みのりの足元にピトッと懐いていた茶白子猫のきなこの前脚を縛っていた、光の鎖がかすかに音を立てて緩み、一本の鎖が光の粒子となって霧散していくのが見えた。この華北一帯の気候ストレスと飢餓リスクが、二人のハックによって大幅に軽減された証であった。
「あ、きなこの鎖が解けた!」
たくみが目を見張る。すると、眩い光が周囲を包み込み、耳を突き抜けるような時空の駆動音が響いた。さらに、檻から完全に解放されていた黒猫の玄が「ふん、我も連れていくが良いぞ」と言わんばかりに二人の影へと飛び込んできた。
次の瞬間、光が収まると、二人は自分たちが農業スローライフを始めたばかりの「現代の古民家」のリビングに立っていた。元の五十代の手、使い慣れた家具。華北での飢饉を解決したことで、時空のゲートが一時的に開いたのだ。
たくみは我に返るなり、大急ぎで居間のテレビをつけ、スマートフォンを手にとって検索を開始した。歴史ギークとしての血が騒ぎ、自分たちが残した知恵のせいで歴史が大きく改変され、現代が消滅していないかという恐怖に駆られたのである。
「……よかった、三国志のタイムラインは壊れてない。曹操が後年、屯田制を実施したという史実そのままだ。僕たちのハックは歴史の裏側にちゃんと収まって、帳尻が合ってる」
たくみが安堵の胸をなでおろしていると、足元で茶白子猫のきなこが「当たり前ニャ! でも、まだクエストは終わってないニャ!」と、その前脚に残る別の光の鎖を見せながら語尾を跳ね上げた。
「華北はこれで安心ニャ……でも、海の向こうが呼んでいるニャ!」
きなこの言葉に頷きつつ、ふとリビングの座布団を見ると、そこにはなぜか、華北に置いてきたはずの黒猫の玄が我が物顔で腰を落ち着けていた。
「ふん、なかなか快適な寝床だな。あの時代と違って、ここは寒くないのが良いぞ」
なんと玄は、現代に戻ってもそのまま人間の言葉を喋り続けた。それを見たきなこが「あーーっ! 玄お兄ちゃんも一緒で嬉しいニャ! これでもう寂しくないニャ!」と大喜びで飛びつき、玄も「やれやれ、相変わらず甘えん坊だな、きなこ」と喉を鳴らして、もともと兄弟であった二匹は愛らしくじゃれ合い始めた。
「あらあら、玄さんも来ちゃったのねえ。きなこのお兄ちゃんだけあって、やっぱりそっくり。じゃあ、これからは我が家の大事な家族として、きなこと仲良くするのよ」
みのりは優しく微笑み、二匹の猫を愛おしそうに抱き上げた。たくみは玄の頭を撫でながら、スマートフォンの地図アプリを開く。
「……玄、お前が言いたいのは、東の海の果てにある島国――つまり、あの時代の日本列島のことだな。あの『冷がめ』のせいで、弥生時代の日本は泥の海と化し、水利を巡る血みどろの内戦『倭国大乱』が始まろうとしている」
玄はみのりの腕の中から、知性的な瞳でたくみを射抜いた。
「その通りだな、たくみ。そこには、天の声を聴くと恐れられ、孤独に怯える一人の少女がいるはずだ……。お前たちの知恵で、その地の争いを仕組みから封じてみせよ」
玄の言葉が終わると同時に、きなこの前脚が再び強く発光し、リビングの床に巨大な時空の陣が広がり始める。
お天気バラエティの次なる舞台――孤独に怯える少女・卑弥呼が待つ弥生時代の日本へと、時代と世界の理が、二人と二匹を乗せて静かに動き出そうとしていた。




