第8回:生・曹操の衝撃と、実家のリビング
圧倒的な覇気に気圧され、劉大発や周囲の無頼漢たちが文字通り蛇に睨まれた蛙のように硬直する中、みのりだけは完全に実家のリビングにいる母親の調子であった。
「ほらほら、曹操さんも兵隊さんも、突っ立ってないで中に上がりなさいな。ちょうど今、厨房に温かい猪骨と野蒜のクズ雑炊の残りが、大鍋にいっぱいあるんだから。お腹が空いてちゃ、良い仕事もできないでしょ?」
天下を狙う若き武官に対し、あまりにも緊張感のない、というより一歩間違えれば不敬罪で即座に首が飛ぶ水準の応対である。
案の定、曹操孟徳の鋭い眉が不機嫌そうに跳ね上がった。周囲の空気が一瞬で氷点下へと凍りつく。その一触即発の気配を察知し、隣にいたたくみの脳内ハードディスクは瞬時に警告を発した。
(あかん、みのりさん! 相手はのちの乱世の奸雄だよ!? 令和のオバチャンのノリで『上がってきなさい』は、マジで即死ルート突入だって――!)
たくみは青ざめながらも、精神年齢五十代の社会人経験値をフル回転させ、すぐさま平伏しながら絶妙な「大人のフォロー」を差し挟んだ。しかし、あまりの恐ろしさに完全にパニックを起こした彼の口からは、この時代には存在しない現代語が勢い余って飛び出してしまった。
「お許しください、曹操様。我らは世俗の礼儀に疎き山野の民にございます。しかし、妻の申します通り、この華北を襲う未曾有の寒冷化に対抗するには、まずは将兵の皆様の胃の腑を温めることこそが、戦を制する最初の地政学的アプローチかと存じます!」
言ってから、たくみは血の気が引いた。地政学的アプローチなどという怪しげな単語、不審がられて余計に怪しまれるのではないか。
ところが、史実における曹操は、既存の形式よりも実利を重んじる並外れたリアリストであり、同時に言語感覚にも優れた天才であった。彼は一瞬だけ目を細めると、たくみの発した未知の言葉を、その恐るべき直感力によって「土地の利と人の営みを大局的に見据えた兵法の一種」と好意的に脳内変換したらしい。
さらに、厨房から漂ってくる圧倒的に芳醇な醤の香りが、曹操の足を完全に止めさせた。目の前の少女の無礼さよりも、地元の有力者である劉大発がなぜか大人しくお椀を持って縮こまっている奇妙な光景と、粗末なクズ食材から漂う尋常ならざる濃厚な肉の旨味。そこに、曹操の知的好奇心が勝った。
「……フッ、面白い。『ちせいがく』とやら、天下の乱を鎮める我が軍の兵站を、雑炊の残りで掌握しようという訳か。ならばその奇跡とやら、実限めさせてもらおう」
曹操は不敵に笑うと、大股で屋敷へと上がり込み、どっかりと席に着いた。
みのりが熱いから気をつけるようにと言いながら、まるで物怖じせずに差し出した土器の雑炊を、曹操は木匙でゆっくりと口に運んだ。次の瞬間、若き覇王の眼光が、驚愕で見開かれた。
「――美味い。いや、これはただの美味ではないな。五臓六腑の芯から、凍えた身体が生き返るようだ」
猪骨の強烈な出汁を、野生の山椒と野蒜の爽やかな辛みが絶妙に引き締めている。大豆の醤と蟻の卵がもたらす絶妙な塩気とコクが、冷え切った身体に染み渡っていく。一口すするごとに、飢餓と寒冷化という環境ストレスに晒されていた曹操の心身に、心地よい血の巡りが戻っていく。
美味しいに決まっていると、みのりの膝の上で茶白子猫のきなこが得意げに喉を鳴らし、黒猫の玄もまた、我が認めた美味だからなと偉そうに尻尾を振っていた。
「素晴らしい。この冷涼の極みの中、これほどの兵站の知恵を持つ者が民間に隠れていたとはな。お前たち二人、我が陣営に――」
ついに恐れていた登用の言葉が飛び出した。たくみは「地政学」が変に刺さってしまったことに内心で大いに戦慄しながら、戦乱の渦へ引きずり込まれないための、次なる必死の弁明を繰り出す準備を始めるのだった。




