第2回:猫の消失と世界の反転
激しい落下の感覚の後、全身を強い衝撃が襲った。
「う、うう……。たくみ、生きてる?」
みのりは泥まみれになった顔を上げ、辺りを見回した。さっきまでいたはずの、のどかな埼玉の古民家や裏山の竹林はどこにもない。肌を刺すのは、強烈な焦げた土の匂いと、まるで冬に逆戻りしたかのような凍てつく、乾燥した空気だった。
「ゲホッ、ゲホッ……。ああ、なんとか無事だ。みのり、ここは……一体どこなんだ?」
たくみも体を起こし、愕然とした表情で周囲の景色に目を奪われていた。
そこは、見渡す限りの荒野だった。地面はカサカサに干からび、植えられている作物の苗は、冷害にやられたように黒ずんで萎びている。
「それより、たくみ……。私の声、なんか妙に高くなってない?」
「みのりこそ、俺の顔を見てくれ。シワが全部消えて、髪がフサフサだ……!」
お互いの姿を見て、私たちは驚愕した。子供を育て上げ、50代を迎えて人生の酸いも甘いも噛み分けたはずの私たち。なのに、みのりの手足はみずみずしく細くなり、たくみの顔立ちから渋みが消えて精悍な少年になっている。心は50代の熟年夫婦のまま、みのりは15歳前後の少女に、たくみは18歳前後の少年の姿に若返ってしまっていたのだ。
『うにゃあ……やっちゃったニャ。時空の檻が完全に壊れちゃったニャ……』
足元から情けない声がした。見ると、あの薄茶と白の2色模様の子猫――きなこが、前脚を奇妙な光の鎖で地面に縛り付けられた状態で、ぐったりと横たわっていた。
「きなこ! 大丈夫!?」
みのりが慌てて駆け寄り、きなこの傍らに膝をついて鎖に触れようとすると、パチリと青い火花が弾けた。
『触っちゃダメニャ! これは冷害とか飢餓とか、この時代を覆う「環境ストレス」が形になった鎖ニャ。この時代の気候クライシスを解決して、みんなの飢えを取り除かないと、ボクの鎖は解けないし、ふたりも現代に帰れないニャ!』
「それって、どういうこと?」
みのりがパニックになりかけていると、背後でたくみが息を呑む音が聞こえた。
「みのり、前を見てくれ。……嘘だろ」
たくみが指さす方向、地平線の向こうから、無数の土煙が上がっていた。そこにいたのは、ボロボロの麻布を身にまとい、頭に「黄色い布」を巻いた、飢えに狂った形相の男たちの群れだった。男たちは錆びたクワや槍を掲げ、こちらに向かって突撃してきている。
「あの黄色い頭巾、飢餓に苦しむ農民たちの武装蜂起……。間違いない、西暦184年、後漢末期の中国大陸――『黄巾の乱』の真っ只中だ!」
たくみの歴史オタクのセンサーが、恐怖とともに稼働した。
「そんな、嘘でしょう!? スローライフを夢見て移住しただけなのに、いきなり三国志の始まりの戦場だなんて!」
『泣いてる暇はないニャ! あいつらは飢えてるニャ。まずは生き残るための基盤を確保するニャ!』
みのりの傍らで、捕らわれた子猫が悲痛に叫んだ。
現代から遠く離れた冷たい凍土で、みのりの「農業ハック」と、たくみの「地政学ハック」を武器にした、夫婦ふたりきりの過酷なサバイバルが、今幕を開けた。




