第1回:竹林の祠と歪んだ陽炎
都会の喧騒を離れ、私たちが念願の田舎暮らしを始めてから、ちょうど3ヶ月が経った。
「たくみ、こっちの竹林の整理、手伝って!」
私はクワを片手に、裏山に向かって声を張り上げた。私の名前は「みのり」。
都会のマンションのベランダで、プランターいっぱいにミニトマトや小松菜を育てるのが趣味だった、笑顔だけが取り柄の元主婦だ。
子供たちが無事に巣立ったのを機に、歴史の本や映画が三度の飯より好きな夫の「たくみ」と話し合い、「これからは二人で、田舎でのんびり畑でも耕しながら暮らそう」と、古い古民家へ移住してきたのだ。
「今行くよ、みのり。あまり無理をしないでね」
のんびりとした足取りでやってきたたくみは、優しくて頼りになる相棒だ。歴史のことになると急に目が輝くオタク気質だけど、そんな彼のうんちくを聞くのも、これからのスローライフのささやかな楽しみになるはずだった。
私たちが手つかずの鬱蒼とした竹林を開墾していた、その時だった。
生い茂る藪の奥に、ひっそりと佇む古い小さな石の祠を見つけた。
「あれ、こんなところに祠なんてあったかしら……」
不思議に思って近づくと、祠の周辺の空気が、まるで真夏の道路のようにぐにゃりと歪んでいる。奇妙な陽炎がゆらゆらと立ち上り、竹林の緑を不自然に変色させていた。
「おい、みのり、これを見てくれ。空間がバグを起こしているみたいだぞ」
たくみが怪訝そうな顔で、その歪んだ空間に手を伸ばそうとした。
「ちょっと待って、たくみ! 危ないわ!」
私がその手を止めようと一歩踏み出した瞬間、祠の影から、一匹の猫が音もなく飛び出してきた。
それは、薄茶色と白色の2色の毛並みを持った、丸々とした子猫だった。まるできな粉をまぶしたお餅のようなその姿のまま、人間の言葉ではっきりと、私たちの脳内に直接響く可愛い声で鳴いた。
『待つニャ! それ以上近づいちゃダメニャ!』
「えっ……!? 猫が、喋った?」
私とたくみは、言葉を失ってその場に硬直した。子猫はくりくりとした鋭い眼差しで私たちを睨みつけ、さらに言葉を続けた。
『ボクの名前はきなこ。時空の歪みを調停する猫ニャ。世界の気候ストレスが限界を迎えて、歴史に重大なバグが発生してるニャ。今その裂け目に触れたら――』
猫の警告が破られたのは、本当に一瞬の油断だった。祠の奥から凄まじい突風が吹き荒れ、空間の歪みが一気に拡大したのだ。
「きゃあああ!?」
「みのりーーーっ!」
凄まじい吸引力が私たちを襲う。きなこの小さな身体が、光の渦の中に吸い込まれていくのが見えた。そして、私たち夫婦もまた、抗う術なくその未知の輝きの中へと引きずり込まれていった。




