1年生 その11 ミーナの子
11 ミーナの子
公爵夫人エリスは、国内随一の美貌だけでなく、武功を持った女性で、イシュア国において、彼女を超える女性はいなかった。公爵夫妻以外がそう考えるのは当然であったが、女神自身は別の女神が存在する事を良く知っていた。
震えた手で鏡台の鍵付き引き出しに手を伸ばした。鍵がかかった暗室の中で守られていた宝物は、外からの光に青く輝き出す。両目のように光る2つの輝きに謝罪した。
「ごめんなさい。ミーナ。」
生きてこの場にいたとしても、赤髪の女神がそれを望まないと分かっていても、公爵夫人はそれしかできなかった。
今から15年前に発生した暗闇の暴走。
公爵邸の西に広がる台地に存在する大中小の3つの地下構造物から出現する魔獣達の大量出現は25年に1度発生する。普段から4つ足の魔獣が出現している巣の中に、膨大な数の魔獣が発生する事は大陸中の問題ではあるが、公爵が管理する3つの巣には特殊な問題点がある。
4つ足の魔獣とは比べ物にならない強さを持った中型と大型の魔獣が、公爵家が管理する魔獣の巣だけから出現する。公爵家の人間が、他の騎士達と隔絶した、とてつもない強さを求めて訓練を続けるのは、この中型と大型の魔獣を打ち倒すためであり、もし倒す事ができなければ、王都の半分は魔獣が闊歩する死都へと変わってしまい、中型や大型の魔獣を倒す勇者が再び現れるまでは死都の看板を外すはできない。
365年間、生者の都である事を守ってきた公爵家が一番衰退したのは15年前の暴走の時だった。公爵家の人間で無傷でいたのは、2歳になろうとしていた赤子のレイティアだけで、生き残ったギルバードは1か月間、エリスは3か月間、辛うじて生きているような状態に陥った。
この瀕死状態の公爵家を心身ともに支えていたのが、公爵夫人エリスの2歳上の侍女であるミーナだった。公爵邸のもう一本の柱である家令セバスチャンは、公爵家の弱体化を好機と見た先代ケネット侯爵に対抗するために王都を駆けずり回らなければならず、公爵邸の人間は、公爵自身以外は全てミーナに頼っていた。特に、深く傷ついた公爵夫人を支えて、命を預かる事ができたのは、侍女ミーナだけだった。
暴走から半年間が過ぎた。
心身ともに回復したギルバードと体だけは回復しつつあったエリスの前から、公爵家を救っていたミーナが消えた。今になれば、ギルバードとの一度の関係で妊娠した事を知ったミーナが、エリスのボロボロの心に止めを刺す事はできないと考えて、姿を消す事を選んだのが分かるが、その当時は誰も正しい理由に辿り着くことはできなかった。
「あの時・・・。」
過ぎたことを悔やんでも仕方がないが、悔やまずにはいられなかった。ミーナを探すのを諦めてしまった事を悔やまずにはいられなかった。
ミーナの置かれた状況を正しく理解していなかったエリスは、居なくなったミーナを探すように夫や使用人に懇願した。何か事件に巻き込まれたのではないかと言う不安に一睡もできなかったエリスは、翌日になってミーナの部屋に入って、彼女の貴金属が持ち出されている事を確認した。
ミーナが自分の意志で出奔した事を知った時、見捨てられたショックもあったが、ミーナを開放するべき時が来たのだと納得してしまった夫人も存在していた。
8歳の時から14年間支えてくれたミーナが自分の幸せを後回しにしている事を誰よりも知っていた。それに甘えながら生きていた公爵夫人は、ミーナ自身が幸せを手に入れるためには、公爵夫人の侍女を辞めるしかない事もよく分かっていた。そして、甘えるだけ甘えて、ミーナの幸せのために何1つできなかった自分を、彼女が見捨てたとしても、それは仕方がないと納得するしかなかった。
エリスの美しさに比べられてしまうと霞んでしまうかもしれないが、ミーナは十分な美しさを持っていた上に、数多くの好かれる要因も持っていた。公爵邸の使用人だけでなく、出入りの業者や騎士からも好かれていて、愛の告白を受ける事が多かっただけでなく、正式な婚姻を求めて、公爵邸の以前の主である女公爵の前に立つ貴族もいた。
そういった告白にミーナは、暗闇の暴走を乗り越えるまでは、エリスお嬢様を支え続ける事しか考えられないと言って、拒否し続けた。そんな中、伯爵家の跡取りが求婚する事もあった。しかも、暗闇の暴走が終わってからの結婚で構わないし、結婚後も公爵邸でエリスの侍女として働くことも認めるという条件を飲んでの事だったため、ミーナはこの男性が生きていれば、伯爵夫人の地位を手にする事ができた。だが、この男性は、公爵夫人の命を守る盾として戦い、多くの人間が予測したように中型魔獣の攻撃を受けて死んでいった。
過ぎ去った事だけでなく、あの時からの未来において、ミーナが自分の幸せのためだけに生きて行く事ができていれば、彼女が素敵な結婚をして、幸せな家庭を気付くのは間違いなかった。だが、結果は違った。彼女が幸せな結婚をしていない原因は、エリスと言う美の女神、女英雄と称賛されている、ミーナにとっての疫病神がいたからである。
そう考えたエリスは、ミーナの幸せのために、公爵邸を出て行った彼女を連れ戻す事はできないと判断して、捜索を止めさせた。そして、他の誰も探し続けようとの提案がなかったのは、ミーナが1人でいる方が彼女自身の幸せを手に入れやすいはずだと全員が考えていたからだった。
しかし、実態は身重になったこと侍女を公爵邸は見捨てただけだった。
暗闇の暴走から10年後、夫は妻に告白した。妻を裏切り、妻のもっとも信頼する侍女を汚した事を告白した。それは断罪される事を覚悟した告白であり、次の暗闇の暴走までは生き延びさせてもらいたいと懇願するための告白でもあった。
その告白を聞いた時、エリスは自分が裏切られたとは感じなかった。アランを生み、エリックを生み、順調な家庭を作り上げた今、それらの事を受け入れられるだけの余裕があった。そして、あの時に事実を知っていれば、自分が破滅の未来を選んでいただろうとも思っていた。敬愛する義母を目の前で失い、数多くの騎士達の犠牲の上で生き残った自分の存在価値を見失っていた時、ミーナとギルバードの不貞の情報は、全てを破壊する邪神に変えるだけの衝撃を与えただろうことは疑いなかった。
だから、その事を10年間隠してくれた事を感謝する気持ちさえ、エリスの中にはあった。この10年間でエリスを取り巻く環境である公爵邸は好転していた。さらに、ミーナが自分を捨てたのではなく、屋敷を出っていく理由が自分以外の所にある事を、喜ぶ自分がいる事をエリスはその時感じていた。
冷静さが残っている頭脳で、2人の関係が薬物の後遺症による仕方がない事である事を理解すると、その時の状況を詳しく聞いた中で、公爵夫人の中に1つの疑問が発生した。ミーナが公爵邸を出たのは、事件があってからしばらく後の事で、その間に、ミーナから変わった様子を感じる事は何1つ無かった。ミーナは、あの事件を隠したまま、自分に仕えようとしていたと考えるのが自然だと思うと、なぜ、発覚していないのに屋敷を出て行ったのかという理由を考えた。
そして、ミーナが黙っていても、事件が発覚してしまう問題が発生した事に気付いた。2人が黙っていても、それが分かってしまう変化が、ミーナの体に起こっていたとしか考えられなかった。
その考えに至ったエリスは、夫を責める事はしなかった。責める言葉を考える前に、ミーナを探さなければならないとしか考えなかった。謝罪の言葉を伝えるにしても、償いに何かをするにしても、居場所を見つけなければならなかった。たった一度の事で生を得た公爵家の子供を母と共に公爵家で迎え入れなければならないとだけ、その時のエリスは考えていた。
手掛かりはミーナが所有している高価な首飾りだった。
エリスが12歳で公爵邸に入る時に両親から贈られたイヤリングは、伯爵家にとっての最初で最後の贅沢であり、世界に2つしかない揃いの青い宝石を使って作られていた。
そして、この両親からの贈り物を、2つの首飾りに作り直して、1つをミーナに譲るというのが伯爵家においてのたった一つのエリスの我儘で、両親は受け入れて、ミーナも最後には受け入れた。
この2人の絆を証明する首飾りだけがミーナ本人以外で、彼女を探す手がかりだった。だが、この手掛かりが使えるのは、それが売却されて、一度でも市場に出回っている場合に限った。捜索を依頼されたセバスチャンは、見つからないのであれば、ミーナが困窮していない証でもあり、公爵邸以外の場所で幸せを掴んでいる可能性が高くと考えた。見つけたいと思うと同時に、見つからなければいいという願望を持ちながら捜索していたセバスチャンのもとに情報が入ってきたのは3年後だった。
一報と共に直接動き出したセバスチャンが、手紙で第2報をエリスに知らせた時、手紙を読んだ後の公爵夫人は、様々な事を考えていただろうが、何を考えていたのかは今になっては覚えていなかった。
ミーナには11歳の娘セーラがいた。2人は北の国境の町でずっと生活していたが、ミーナは1年前に流行病で他界した。母子が働いていた食堂で、今もセーラは働いていて、経営者夫妻に守られながらも自宅で1人で暮らしていた。首飾りはミーナが病を患った時に、高価な薬草を購入するためにセーラが売却した。薬草を購入できたが、治療には間に合わなかった。購入した薬は世話になっていた人の子供のために使う事になり、セーラが首飾りを買い戻す事ができなかった。
セーラは、ミーナにそっくりな、赤髪赤目の可愛らしい少女だった。
報告を受けたエリスは、3人の子供達にも事情を告白してから、家族としてセーラを受け入れて欲しいと頭を下げた。許可が必要な事ではなく、当然の事であると言い切った3人はすぐに迎えに行く話になったが、父親であるギルバードが迎えに行くことはできなかった。
戦公爵には、緊急時に軍を自由に動かす権限がある。その引き換えとして、軍事以外に王都から出る事は王家から特別な命令がある場合だけだった。今回は交渉と調整に時間がかかる事から、セーラを迎えに行くのは、エリスとレイティアの2人となり、セバスチャンと合流してから、セーラの前に現れた。
少女の頃のミーナが目の前に現れたと錯覚するほどに、娘は母親に似ていて。その少女を見た瞬間、エリスは涙を堪える事ができずに、ずっと泣いていた。交渉はレイティアが行う事になった。
最初にしなければならなかったのは、セーラが公爵の娘であることを本人に納得してもらう事であったが、簡単な事ではなかった。ミーナは父親の事を誰にも話していなかったため、セーラが確信できる要因が何1つなかった。公爵家が買い戻した首飾りとエリスの首飾りだけが、物的なつながりを示す証ではあるが、それはミーナとエリスの絆を示すものであって、セーラが公爵家の娘である直接的な証拠にならなかった。
話の中で、ミーナが公爵家にとって大切な人間であると説明されても、セーラは自分が公爵家の娘であると納得する事はなかった。そもそも、公爵夫人が、自分を公爵の娘として迎え入れようとしている事を望んでいるのが理解できなかった。
セーラが公爵の娘であると言うのであれば、公爵と侍女は、公爵夫人を裏切った事になり、その裏切りの結果がセーラであって、公爵夫人がその婚外子を公爵邸に迎え入れようとする気持ちが理解できなかった。
一緒に暮らした事も無ければ、その存在について考える事も無かった人たちを家族だとは思えなかった上、本当に親子であるのなら、父親が迎えに来ないのは間違っていると考えたセーラは、公爵が迎えに来てくれない事を理由に、公爵邸に行く事を拒絶した。
説得する言葉を持たなかったエリスは、今回は諦めて王都に戻ると決めた時、これまでの、そして、これからの養育費として、金銭を渡そうとして、金貨袋を差し出した。それは悪意のある者ではなかったが、酷くセーラを傷つけた。
ミーナへの思いや絆をずっと訴えてきたのに、最後は金銭で解決するようにしか見えない行為をした事に、エリスは深く後悔したが、一度してしまった事は無かった事にはできなかった。
ミーナの持ち物であった首飾りだけでも、セーラの手元に返したいと願っているが、それをできない状態にしたのは、他ならぬエリスの言動であった。
あの失態の後、セーラに公爵邸での生活を受け入れてもらう許諾を得るまで1年の時間がかかった。国境の町に1年間滞在したセバスチャンとの交流と、食堂の経営者夫婦が流行病にかかった時に公爵家が支援した事の2つが決め手となった。
ようやく、同じ屋敷で暮らせるようになって、セーラに対して、直接何かができるようになったのに、今日、同じような事をエリスはしてしまった。それが再びセーラを傷つけてしまったのではないかと考えると、内側から溢れてくる感情を飲み込みながら、この決意だけは捨ててはいけないとも自分に言い聞かせた。
ミーナの形見をセーラが受け取り、ミーナから奪ってしまった幸せな結婚をセーラに手にしてもらう事だけは、実現しなければならない使命だった。




