新婚旅行
今日から慌ただしい一日が始まる。
いや、正確には慌ただしい一週間が始まる。なぜなら、明日から新婚旅行なのだ。
行き先はイタリア。ローマ、フィレンツェ、ベネチアと、歴史と文化と美食の宝庫を巡る、一週間にわたる豪華ツアー。パンフレットには「一生に一度の旅」と書いてあったが、誠にとっては「25回目の一生に一度」である。
心躍るはずなのに、誠の頭の中には過去24回の結婚で培った「旅行の恐怖」がちらついて離れない。
第8回目の結婚では、機内食の「ビーフかチキンか」で意見が割れ、3日間口をきいてもらえなかった。しかも二人とも魚派だったと判明したのは、帰国後である。
第15回目では、旅行中にスマホを見ながら「疲れた?」と聞いただけで“気遣いが雑”と判断され、帰国後に家庭裁判所行き。調停委員に「スマホは見ながらでも気遣いはできるでしょう」と擁護してもらえるかと思いきや、「見ながらは、ちょっと」と普通に引かれた。
旅行は、地雷原だ。
日が登るよりも先にベッドから起き上がると、誠は静かにクローゼットを開ける。物音を立てないのは、隣で眠る美咲を起こさないためではない。「寝起きの機嫌」という不確定要素を、今から刺激したくないからだ。
慎重に旅行に持っていく服を整理しつつ、ポケットの中のパスポート、財布、現金、クレジットカードを何度も手に取り確認する。確認しては戻し、戻しては確認する。もはや儀式だった。
「よし、パスポートよし。航空券よし。現金よし。クレジットカードよし。予備のクレジットカードよし。非常用現金封筒よし。隠しポケットの緊急資金よし……隠しポケットの隠し場所をメモした紙もよし……」
さらに胸ポケットから小さなメモ帳を取り出す。表紙には几帳面な字でこう書かれている。
『想定問答集・新婚旅行編』
・美咲が「どっちでもいい」と言った場合 → A案提示後、必ず再確認
・「なんでもいい」は罠。具体案を3つ出す
・「疲れてない?」は1日2回まで
・「疲れてない?」を2回使い切った後に本当に疲れていそうな場合 → 要検討(※重要)
最後の項目だけ、やけに筆圧が高い。
そんな確認作業を何度も繰り返していると、背後から軽やかな声がした。
「誠さん、そんなに確認しなくても大丈夫ですよー」
振り向くと、美咲がソファに座り、片手にアイスクリーム、片手にリモコンを持ちながら、テレビの電源をつけ、ヨーロッパの旅行系の動画を流す。
寝起きのはずなのに、アイスのスプーンには一切の迷いがない。
「大丈夫じゃない! 旅行は夫婦喧嘩の温床なんだぞ!」
誠は振り返り、真顔で言い放つ。
「空港でパスポート忘れて離婚危機、レストランで“写真と違う”って言われて離婚危機、ホテルの枕が硬い柔らかい論争で離婚危機! イタリアはロマンの国だが、同時に修羅の国だ!」
「そんな言い方したらイタリアかわいそう」
美咲は笑いながらアイスを一口。画面の中では、レポーターが石畳の広場で楽しそうにジェラートを食べている。イタリアは今のところ、何も悪くない。
誠はさらに畳みかける。
「そして最大の罠は“まあいいか”だ! “まあいいか”は離婚の前兆だ!」
「へぇ~」
「聞いているのか!?」
「はい。誠さん、旅行ガイドより詳しいですね」
その言葉に、誠は一瞬だけ誇らしげな顔をし、すぐに我に返る。
「違う。俺はガイドじゃない。危機管理責任者だ」
「肩書きがあるんですね」
美咲はくすっと笑う。
「そんなに気にしなくても、私は誠さんと一緒ならどこでも大丈夫ですよ」
その無邪気な一言に、誠は言葉を詰まらせる。
「その“大丈夫”が一番大丈夫じゃないんだよ……」
そう呟きながらも、胸の奥が少し温かくなるのを感じる。感じてしまったことが、また少し怖い。温かくなった次に何が来るかを、誠は24回分知っているからだ。
「成田までは電車が止まる可能性を考慮して6時半に家を出るぞ」
「えっ、フライト11時ですよ?」
「何が起きるか分からない」
「ゾンビとか?」
「そんなことあるわけないだろ!……空港シャトルバス遅延だ」
「そこは現実的なんですね」
美咲は声をあげて笑う。
誠は最後にもう一度、パスポートを確認する。
そして深呼吸を一つ。
さらにもう一度、パスポートを確認する。
明日から戦いが始まる。
いや――新婚旅行が始まるのだ。
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成田空港。
結局、家を出たのは6時27分だった。3分の余裕を残したことを、誠は密かに誇っている。
空港に足を踏み入れると、どこからともなく香るコーヒーと焼き立てパンの匂いが漂い、人々のざわめきが耳に入る。キャリーケースの車輪が床を転がる音が、あちこちから重なって聞こえる。
誠は手に握ったチケットとパスポートをぎゅっと握りしめ、美咲の手をそっと取りながら進む。握りしめすぎて、チケットにはすでに軽くシワが寄っていた。
「誠さん、トイレ行ってきていいですか?」
その一言で、誠の思考は一瞬でフル回転する。
トイレ → 列を離脱 → 再合流失敗 → 手荷物検査遅延 → 搭乗口変更 → すれ違い →国際線ロビーで大喧嘩 → イタリア行きキャンセル → 帰宅 → 沈黙 → 離婚
ここまでの思考、わずか2秒。
「だめだ!」
即答だった。
「列から外れると時間ロスになる! 飛行機に乗り遅れた夫婦が、そのまま離婚した例を俺は知っている!」
「え、実在するんですかその夫婦」
「第12回目の結婚だ!」
「実体験!?」
近くを通りかかった旅行客が、ちらりとこちらを振り返った。誠は咳払いをして声量を落とす。
美咲は楽しそうに肩をすくめる。
「じゃあ、今のうちに行ってきますね~」
「今のうち!? 今が一番危険だ!」
しかし美咲は軽やかに去っていく。止める間もなかった。人は、笑顔で去る相手を引き止められないようにできている。
誠はその背中を見送りながら、スマホで時刻を確認する。
搭乗まで2時間47分。
トイレ所要時間平均6分。
混雑時+4分。
万が一迷子+8分。
「……想定内だ」
そう言いながら、誠はトイレの入口から目を離さない。通り過ぎる女性が全員美咲に見えてくる。違う。これも違う。いや、今のは少し似ていた。
美咲のトイレを待っている間、誠の頭の中では次から次へと「チェックリスト」が回転し続ける。
飛行機に乗れば、隣の座席の人との距離感、飲み物や食事、トイレのタイミングまで、すべてが「夫婦の平和」を保つための細かいルールになってしまう。
水は飲むな、トイレは慎重に、寝るときは窓側に頭を向けろ、隣の人に迷惑をかけると夫婦の空気が悪くなる――そんな細かい注意事項を心の中で繰り返す。
水を飲むなと言いながら、トイレのタイミングにも気をつけろという。ルールの時点で、すでに矛盾している。誠はそのことに、まだ気づいていない。
やがて飛行機は離陸し、上空から雲の絨毯が広がるのを窓越しに眺める。
結局、美咲は6分ちょうどで戻ってきた。平均値ぴったりだ。誠は心の中で小さく拍手した。もちろん、本人には言っていない。
美咲は静かに、しかし楽しそうに窓の外を見ながら、手元の雑誌をめくっている。
「誠さんって、旅行ガイドより頼りになるね!」
その言葉に、誠は口元に微笑を浮かべつつも心の中では「いや、これは褒めているのか、嫌味なのか……」と分析していた。
分析の結果は「判定不能」。ただし、念のため「ありがとう」と返しておいた。これは安全策である。
到着後の行動予定、ホテルへの移動、初日の夕食、そしてトラブル時の対応まで、すべてが頭の中で整理され、ひとつひとつ順序立てて確認される。確認が終わると、もう一周する。誠の頭の中では、すでに三周目に入っていた。
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イタリア到着。初日の夕食は本場のパスタだ。
石畳の道は夕暮れ色に染まり、街灯がやわらかく灯る。
どこかの店からアコーディオンの音が流れ、ワインを片手に笑い合う人々の声が夜風に混ざっている。
トマトソースとオリーブオイルの香りが、通り全体を包み込んでいた。
石畳の道を歩きながら、誠は美咲の手をしっかりと握る。ヒールが石畳の隙間にはまって転ぶ可能性を、すでに三回シミュレーション済みだ。
レストランに到着後。
「誠さん、どれにします? 私はトマトのやつ!」
美咲の目は興奮で輝き、笑顔が弾けている。メニューを見る前から、もう決めていたらしい。
「いや、同じものを頼むのは危険だ。
味が合わなかったときに口論になる。
違う種類を注文してシェアしよう」
経験に基づく冷静な判断を下す誠。
美咲はうなずき、「なるほど~! さすが経験者!」と笑う。
その「経験者」という響きが、微妙に傷つくところだと誠は思ったが、的確すぎて反論できなかった。
料理が運ばれる。
湯気が立ち上り、粉チーズがふわりと溶け、バジルの緑が鮮やかに光り、香りは食欲をそそる。
フォークを入れると、もちっとした麺が絡みつく。
「わあ! おいしい!」
美咲はフォークを器用に回し、楽しそうに食べる。
誠もひと口食べる。
確かに美味しい。しかしそれは俺の味覚に合っているだけ。美咲はどうかは分からない。
「……ほんとに? 酸味が強すぎないか? 塩分は? 油分は? 後味は?」
思わず美咲に質問責めをしてしまった。取り調べである。美咲の目の前のパスタが、少し冷めはじめていた。
「幸せの味です!」
美咲は笑顔で即答した。
「誠さんと一緒だから、尚更美味しいです」
その笑顔に、誠の分析装置が一瞬停止する。
画面に「エラー」と表示される幻が見えた。再起動には、少し時間がかかりそうだ。
店の外では、観光客が写真を撮り、店員が陽気に声をかける。
遠くで教会の鐘が鳴った。
誠はふと気づく。
(……俺以外みんな笑顔だな……)
そう思うと少し肩の力が抜けた。ほんの少しだけ。パスタが、さっきより美味しく感じた。
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三日目、フィレンツェ。
朝の光が街を淡く照らしている。
赤茶色の屋根が連なり、遠くには大聖堂のドームが堂々とそびえる。
路地には革製品の店や小さなカフェが並び、エスプレッソの香りが漂う。
ちなみに、二日目のことは誠の記憶にない。正確には、トラブルが何も起きなかったので、記憶に残るほどの出来事がなかったのである。異常事態だった。
「えっと……ここからどう行けばいいんですかね?」
美咲は地図アプリを開いたスマホを手に、くるくる回っている。本人が回ると、地図の向きも一緒に回るらしい。
誠は落ち着いた声で、「任せろ。地図は俺が読む。
道に迷って喧嘩した夫婦は数知れない。
ナビ役は一人に絞るべきだ」と宣言する。
「は~い」と美咲が返事をする。
誠はスマホを取り出し、拡大、縮小、回転。
(北は上だ。いや待て、この地図は南が上?)
今、自分がどちらを向いているのかが分からない。画面の青い点が、さっきから一歩ごとに違う方向を指す。
しかし、五分後には「誠さん、逆方向に歩いてません?」と鋭く指摘される。
「……え?」
誠は驚き、気が付くと完全に迷子になっていた。大聖堂のドームは、さっきまで正面にあったはずなのに、いつの間にか背後に回っている。
美咲は笑いながら、「誠さんが迷うなんて珍しい!」と声を上げる。
「ちょ、ちょっと休憩しよう。アイスでも食べよう」
と誠が提案し、二人は偶然見つけた小さなジェラート屋に入り、冷たく甘いアイスを味わう。
「休憩」という名の作戦会議である。そう自分に言い聞かせたが、スプーンを口に運んだ瞬間、作戦のことはどこかへ消えた。
ひんやりとした甘さが口に広がる。
迷子の焦りが、すっと溶けていく。
美咲は笑う。
「迷子も楽しいですね」
誠は少し考えてから、答える。
「……計画外の楽しさは、想定していなかった」
メモ帳に書き足すべきか、一瞬迷った。やめた。ペンを出すより、ジェラートを食べるほうが先だった。
この偶然の迷子が旅で最も楽しい思い出になることを、二人はまだ知らない。
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六日目、ベネチア。
ゴンドラに乗り、運河を静かに進む。
サンマルコ広場の鐘の音が遠くから響く中、誠は周囲の景色を楽しむ余裕もなく、警戒を緩められない。
「カバンは前に抱えろ。スリが多い。カメラは落とすな。スマホは防水ケースに……」
ゴンドラの揺れに合わせて、誠の呟きも小刻みに揺れる。カバンは前に抱えすぎて、もはや抱き枕だ。
美咲が静かに、「誠さん」と声をかける。
「ん?」と誠。
「楽しいですか?」と微笑む美咲の言葉に、誠は思わず言葉を詰まらせる。
答えようとして、口を開けて、閉じた。「周囲の安全確認で忙しい」と答えるのは、さすがにまずい。それくらいは、24回分の経験が教えてくれた。
これまで注意すべきことばかりに気を取られ、純粋に旅行を楽しむことを忘れていたことに気づく。
「私はね、どこで何をしても、何を食べても……誠さんと一緒なら幸せなんですよ」
美咲の瞳の奥には、真っ直ぐな愛情が宿っている。胸にじんわり温かさが広がり、誠は思わず深く息を吸った。
今度は、温かさの次に何が来るかを、考えなかった。
「……そうか。なら、次は俺も全力で楽しむよ」
「はいっ!」
ゴンドラはゆっくりと水面を進み、夕日の赤い光に照らされた二人の笑顔が水面に映え、輝いていた。
過去の結婚で培った不安や警戒心が、目の前の穏やかな時間に溶けていくようだった。
胸ポケットのメモ帳は、旅が終わるまで、一度も開かれなかった。




