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25回目の結婚生活  作者: 東の雲


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2/16

新婚旅行

今日から慌ただしい一日が始まる。


いや、正確には慌ただしい一週間が始まる。なぜなら、明日から新婚旅行なのだ。


行き先はイタリア。ローマ、フィレンツェ、ベネチアと、歴史と文化と美食の宝庫を巡る、一週間にわたる豪華ツアー。パンフレットには「一生に一度の旅」と書いてあったが、誠にとっては「25回目の一生に一度」である。


心躍るはずなのに、誠の頭の中には過去24回の結婚で培った「旅行の恐怖」がちらついて離れない。


第8回目の結婚では、機内食の「ビーフかチキンか」で意見が割れ、3日間口をきいてもらえなかった。しかも二人とも魚派だったと判明したのは、帰国後である。


第15回目では、旅行中にスマホを見ながら「疲れた?」と聞いただけで“気遣いが雑”と判断され、帰国後に家庭裁判所行き。調停委員に「スマホは見ながらでも気遣いはできるでしょう」と擁護してもらえるかと思いきや、「見ながらは、ちょっと」と普通に引かれた。


旅行は、地雷原だ。


日が登るよりも先にベッドから起き上がると、誠は静かにクローゼットを開ける。物音を立てないのは、隣で眠る美咲を起こさないためではない。「寝起きの機嫌」という不確定要素を、今から刺激したくないからだ。


慎重に旅行に持っていく服を整理しつつ、ポケットの中のパスポート、財布、現金、クレジットカードを何度も手に取り確認する。確認しては戻し、戻しては確認する。もはや儀式だった。


「よし、パスポートよし。航空券よし。現金よし。クレジットカードよし。予備のクレジットカードよし。非常用現金封筒よし。隠しポケットの緊急資金よし……隠しポケットの隠し場所をメモした紙もよし……」


さらに胸ポケットから小さなメモ帳を取り出す。表紙には几帳面な字でこう書かれている。


『想定問答集・新婚旅行編』


・美咲が「どっちでもいい」と言った場合 → A案提示後、必ず再確認

・「なんでもいい」は罠。具体案を3つ出す

・「疲れてない?」は1日2回まで

・「疲れてない?」を2回使い切った後に本当に疲れていそうな場合 → 要検討(※重要)


最後の項目だけ、やけに筆圧が高い。


そんな確認作業を何度も繰り返していると、背後から軽やかな声がした。


「誠さん、そんなに確認しなくても大丈夫ですよー」


振り向くと、美咲がソファに座り、片手にアイスクリーム、片手にリモコンを持ちながら、テレビの電源をつけ、ヨーロッパの旅行系の動画を流す。

寝起きのはずなのに、アイスのスプーンには一切の迷いがない。


「大丈夫じゃない! 旅行は夫婦喧嘩の温床なんだぞ!」


誠は振り返り、真顔で言い放つ。


「空港でパスポート忘れて離婚危機、レストランで“写真と違う”って言われて離婚危機、ホテルの枕が硬い柔らかい論争で離婚危機! イタリアはロマンの国だが、同時に修羅の国だ!」


「そんな言い方したらイタリアかわいそう」


美咲は笑いながらアイスを一口。画面の中では、レポーターが石畳の広場で楽しそうにジェラートを食べている。イタリアは今のところ、何も悪くない。


誠はさらに畳みかける。


「そして最大の罠は“まあいいか”だ! “まあいいか”は離婚の前兆だ!」


「へぇ~」


「聞いているのか!?」


「はい。誠さん、旅行ガイドより詳しいですね」


その言葉に、誠は一瞬だけ誇らしげな顔をし、すぐに我に返る。


「違う。俺はガイドじゃない。危機管理責任者だ」


「肩書きがあるんですね」


美咲はくすっと笑う。


「そんなに気にしなくても、私は誠さんと一緒ならどこでも大丈夫ですよ」


その無邪気な一言に、誠は言葉を詰まらせる。


「その“大丈夫”が一番大丈夫じゃないんだよ……」


そう呟きながらも、胸の奥が少し温かくなるのを感じる。感じてしまったことが、また少し怖い。温かくなった次に何が来るかを、誠は24回分知っているからだ。


「成田までは電車が止まる可能性を考慮して6時半に家を出るぞ」


「えっ、フライト11時ですよ?」


「何が起きるか分からない」


「ゾンビとか?」


「そんなことあるわけないだろ!……空港シャトルバス遅延だ」


「そこは現実的なんですね」


美咲は声をあげて笑う。


誠は最後にもう一度、パスポートを確認する。

そして深呼吸を一つ。

さらにもう一度、パスポートを確認する。


明日から戦いが始まる。

いや――新婚旅行が始まるのだ。


---


成田空港。


結局、家を出たのは6時27分だった。3分の余裕を残したことを、誠は密かに誇っている。


空港に足を踏み入れると、どこからともなく香るコーヒーと焼き立てパンの匂いが漂い、人々のざわめきが耳に入る。キャリーケースの車輪が床を転がる音が、あちこちから重なって聞こえる。


誠は手に握ったチケットとパスポートをぎゅっと握りしめ、美咲の手をそっと取りながら進む。握りしめすぎて、チケットにはすでに軽くシワが寄っていた。


「誠さん、トイレ行ってきていいですか?」


その一言で、誠の思考は一瞬でフル回転する。


トイレ → 列を離脱 → 再合流失敗 → 手荷物検査遅延 → 搭乗口変更 → すれ違い →国際線ロビーで大喧嘩 → イタリア行きキャンセル → 帰宅 → 沈黙 → 離婚


ここまでの思考、わずか2秒。


「だめだ!」


即答だった。


「列から外れると時間ロスになる! 飛行機に乗り遅れた夫婦が、そのまま離婚した例を俺は知っている!」


「え、実在するんですかその夫婦」


「第12回目の結婚だ!」


「実体験!?」


近くを通りかかった旅行客が、ちらりとこちらを振り返った。誠は咳払いをして声量を落とす。


美咲は楽しそうに肩をすくめる。


「じゃあ、今のうちに行ってきますね~」


「今のうち!? 今が一番危険だ!」


しかし美咲は軽やかに去っていく。止める間もなかった。人は、笑顔で去る相手を引き止められないようにできている。


誠はその背中を見送りながら、スマホで時刻を確認する。


搭乗まで2時間47分。

トイレ所要時間平均6分。

混雑時+4分。

万が一迷子+8分。


「……想定内だ」


そう言いながら、誠はトイレの入口から目を離さない。通り過ぎる女性が全員美咲に見えてくる。違う。これも違う。いや、今のは少し似ていた。


美咲のトイレを待っている間、誠の頭の中では次から次へと「チェックリスト」が回転し続ける。


飛行機に乗れば、隣の座席の人との距離感、飲み物や食事、トイレのタイミングまで、すべてが「夫婦の平和」を保つための細かいルールになってしまう。


水は飲むな、トイレは慎重に、寝るときは窓側に頭を向けろ、隣の人に迷惑をかけると夫婦の空気が悪くなる――そんな細かい注意事項を心の中で繰り返す。


水を飲むなと言いながら、トイレのタイミングにも気をつけろという。ルールの時点で、すでに矛盾している。誠はそのことに、まだ気づいていない。


やがて飛行機は離陸し、上空から雲の絨毯が広がるのを窓越しに眺める。


結局、美咲は6分ちょうどで戻ってきた。平均値ぴったりだ。誠は心の中で小さく拍手した。もちろん、本人には言っていない。


美咲は静かに、しかし楽しそうに窓の外を見ながら、手元の雑誌をめくっている。


「誠さんって、旅行ガイドより頼りになるね!」


その言葉に、誠は口元に微笑を浮かべつつも心の中では「いや、これは褒めているのか、嫌味なのか……」と分析していた。


分析の結果は「判定不能」。ただし、念のため「ありがとう」と返しておいた。これは安全策である。


到着後の行動予定、ホテルへの移動、初日の夕食、そしてトラブル時の対応まで、すべてが頭の中で整理され、ひとつひとつ順序立てて確認される。確認が終わると、もう一周する。誠の頭の中では、すでに三周目に入っていた。


---


イタリア到着。初日の夕食は本場のパスタだ。


石畳の道は夕暮れ色に染まり、街灯がやわらかく灯る。

どこかの店からアコーディオンの音が流れ、ワインを片手に笑い合う人々の声が夜風に混ざっている。

トマトソースとオリーブオイルの香りが、通り全体を包み込んでいた。


石畳の道を歩きながら、誠は美咲の手をしっかりと握る。ヒールが石畳の隙間にはまって転ぶ可能性を、すでに三回シミュレーション済みだ。


レストランに到着後。


「誠さん、どれにします? 私はトマトのやつ!」


美咲の目は興奮で輝き、笑顔が弾けている。メニューを見る前から、もう決めていたらしい。


「いや、同じものを頼むのは危険だ。

味が合わなかったときに口論になる。

違う種類を注文してシェアしよう」


経験に基づく冷静な判断を下す誠。

美咲はうなずき、「なるほど~! さすが経験者!」と笑う。


その「経験者」という響きが、微妙に傷つくところだと誠は思ったが、的確すぎて反論できなかった。


料理が運ばれる。


湯気が立ち上り、粉チーズがふわりと溶け、バジルの緑が鮮やかに光り、香りは食欲をそそる。

フォークを入れると、もちっとした麺が絡みつく。


「わあ! おいしい!」


美咲はフォークを器用に回し、楽しそうに食べる。


誠もひと口食べる。

確かに美味しい。しかしそれは俺の味覚に合っているだけ。美咲はどうかは分からない。


「……ほんとに? 酸味が強すぎないか? 塩分は? 油分は? 後味は?」


思わず美咲に質問責めをしてしまった。取り調べである。美咲の目の前のパスタが、少し冷めはじめていた。


「幸せの味です!」


美咲は笑顔で即答した。


「誠さんと一緒だから、尚更美味しいです」


その笑顔に、誠の分析装置が一瞬停止する。


画面に「エラー」と表示される幻が見えた。再起動には、少し時間がかかりそうだ。


店の外では、観光客が写真を撮り、店員が陽気に声をかける。

遠くで教会の鐘が鳴った。


誠はふと気づく。


(……俺以外みんな笑顔だな……)


そう思うと少し肩の力が抜けた。ほんの少しだけ。パスタが、さっきより美味しく感じた。


---


三日目、フィレンツェ。


朝の光が街を淡く照らしている。

赤茶色の屋根が連なり、遠くには大聖堂のドームが堂々とそびえる。

路地には革製品の店や小さなカフェが並び、エスプレッソの香りが漂う。


ちなみに、二日目のことは誠の記憶にない。正確には、トラブルが何も起きなかったので、記憶に残るほどの出来事がなかったのである。異常事態だった。


「えっと……ここからどう行けばいいんですかね?」


美咲は地図アプリを開いたスマホを手に、くるくる回っている。本人が回ると、地図の向きも一緒に回るらしい。


誠は落ち着いた声で、「任せろ。地図は俺が読む。

道に迷って喧嘩した夫婦は数知れない。

ナビ役は一人に絞るべきだ」と宣言する。


「は~い」と美咲が返事をする。


誠はスマホを取り出し、拡大、縮小、回転。

(北は上だ。いや待て、この地図は南が上?)


今、自分がどちらを向いているのかが分からない。画面の青い点が、さっきから一歩ごとに違う方向を指す。


しかし、五分後には「誠さん、逆方向に歩いてません?」と鋭く指摘される。


「……え?」


誠は驚き、気が付くと完全に迷子になっていた。大聖堂のドームは、さっきまで正面にあったはずなのに、いつの間にか背後に回っている。


美咲は笑いながら、「誠さんが迷うなんて珍しい!」と声を上げる。


「ちょ、ちょっと休憩しよう。アイスでも食べよう」


と誠が提案し、二人は偶然見つけた小さなジェラート屋に入り、冷たく甘いアイスを味わう。


「休憩」という名の作戦会議である。そう自分に言い聞かせたが、スプーンを口に運んだ瞬間、作戦のことはどこかへ消えた。


ひんやりとした甘さが口に広がる。

迷子の焦りが、すっと溶けていく。


美咲は笑う。


「迷子も楽しいですね」


誠は少し考えてから、答える。


「……計画外の楽しさは、想定していなかった」


メモ帳に書き足すべきか、一瞬迷った。やめた。ペンを出すより、ジェラートを食べるほうが先だった。


この偶然の迷子が旅で最も楽しい思い出になることを、二人はまだ知らない。


---


六日目、ベネチア。


ゴンドラに乗り、運河を静かに進む。

サンマルコ広場の鐘の音が遠くから響く中、誠は周囲の景色を楽しむ余裕もなく、警戒を緩められない。


「カバンは前に抱えろ。スリが多い。カメラは落とすな。スマホは防水ケースに……」


ゴンドラの揺れに合わせて、誠の呟きも小刻みに揺れる。カバンは前に抱えすぎて、もはや抱き枕だ。


美咲が静かに、「誠さん」と声をかける。


「ん?」と誠。

「楽しいですか?」と微笑む美咲の言葉に、誠は思わず言葉を詰まらせる。


答えようとして、口を開けて、閉じた。「周囲の安全確認で忙しい」と答えるのは、さすがにまずい。それくらいは、24回分の経験が教えてくれた。


これまで注意すべきことばかりに気を取られ、純粋に旅行を楽しむことを忘れていたことに気づく。


「私はね、どこで何をしても、何を食べても……誠さんと一緒なら幸せなんですよ」


美咲の瞳の奥には、真っ直ぐな愛情が宿っている。胸にじんわり温かさが広がり、誠は思わず深く息を吸った。


今度は、温かさの次に何が来るかを、考えなかった。


「……そうか。なら、次は俺も全力で楽しむよ」

「はいっ!」


ゴンドラはゆっくりと水面を進み、夕日の赤い光に照らされた二人の笑顔が水面に映え、輝いていた。


過去の結婚で培った不安や警戒心が、目の前の穏やかな時間に溶けていくようだった。


胸ポケットのメモ帳は、旅が終わるまで、一度も開かれなかった。


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