05◇夜の扉を叩くのは
鼓動を落ち着けるように深呼吸してから、ドアの向こうに答える。
「いいえ、うたた寝してしまって、ちょうど目が覚めたところです」
その返答に、しばしの沈黙。
「──メイベル様に、お願いがあるのです」
続いたのは店主としての彼とは違う、どこか寂しげで弱々しい声。二十年の経験で私は、それが助けを求めるひとの声だと知っています。
ベッドから降り、内鍵を外してそっとドアを開きました。廊下の暗がりに、思い詰めた余裕のない表情が浮かびます。
「ときどき、眠れなくなるんです。妻のことを思い出して……」
エプロンを外した彼の、少しくたびれたシャツに包まれた胸板が、私の目の前で呼吸に合わせ上下しています。かすかな汗のにおい。二人を隔てていたカウンターは、もうない。
「だから欲しいのです。メイベル様、あなたの……」
えっ、そそそれはもしかして「妻を忘れさせてほしい」的なあれですか!? さささすがに心の準備がまだですし、あとお口もきっとガリーの匂いがするからアレがソレですし、どっどどうしたらいいですか女神さまッ!?
動揺する胸元に、ゆっくりと彼の視線が向けられます。
「あなたの、心臓が」
──はい?
ぽかんと口を開ける私の視界の端で、背に隠されていた彼の右手に、ランプの灯りを反射して短剣の刃がぎらりと光る。
「聖女の心臓を黒女神に捧げれば、妻は生き返る……!」
まるで自分に言い聞かせるような言葉と共に、大きな体で覆いかぶさりながら刃を突き出す。胸に迫る鋭い切っ先、でも彼の目が迷子のこどもみたいに見えたから、私は両腕を広げてそれを迎え入れることにした。
「──とても、哀しく寂しいことですが」
胸の真ん中を突く衝撃ごと、受け止めるように彼を抱きしめる。そして広い肩幅に顔を埋めながら、語りかけます。
「どうしたって、失われた命は戻らない。魂は不滅だとか言うけれど、あんなのは嘘っぱちです。人は死んだらそこまでだと、聖女を二十年続けてよくわかった」
黒女神。それは私を聖女として選んだ白女神と対を成す、表裏一体の双子姉妹神の片割れ。
その信者──黒の使徒たちの扱う禁術のひとつに、聖者の心臓を捧げ死者の肉体を蘇らせる儀式があります。けれど、それは。
「黒女神が作り出すのは、泣きも笑いもしない空っぽの肉人形。見た目が故人と同じだけのまがいものです。あなたは、そんなものが欲しいの……?」
「……まがい……もの……」
彼は呆然として、私の言葉をなぞる。
「でもね、不滅なものも確かにあるの。このお店は、奥様と二人で作り上げたのでしょう? そこには彼女の意思が生きている。お客さんに愛されるお店を見て、奥さまの人柄が思い浮かんできました」
──私はそっと目を閉じる。
「そう、笑顔のまぶしいすてきなひと……名前はたしかエライザでしたね」
マシューが息を呑みます。
「……覚えて、おいでなのですか……?」
「ええ。私に、ンマトゥーマを絶対に食べてほしいと言ってくれたひと。それが彼女の心からの言葉だって思えたから、私は引退して最初の目的をンマトゥーマにしたの」
カラン、と店主の手から短剣が床に転がる。
「わかって、いたんだ。あいつらに、都合よく利用されるだけだってこと。でも……もしかして……あいつが元通りで戻ってきてくれるなら……その考えを、どうしても消せなくて……」
彼の懺悔に私はうなずく。ゆるし難きは、人の哀しみに付け入る黒の使徒たちです。
「ああ……俺はなんてことを……しでかして……」
「いいえ、大丈夫。あなたは何もしていない」
言って私は、足元の短剣に目を向けます。
そこには血の一滴も付いていないし、私の胸元も紅く染まってはいない。首に下げていたペンダントを、胸元から取り出す。それは白く小さな雫型のお守り──私が自ら祈りを込めた聖護符。そう、買い占めた在庫処分品です。中央に短剣の切っ先を受け止めた傷のあるそれは、役目を果たしてさらさら砂になり崩れてゆきました。
「よければ少し、使徒のことをお聞きしたいのですが」
私の言葉に彼がうなずいた、そのときでした。足元でカタカタと音がしたかと思えば、短剣が禍々しい黒色のオーラをまとって、ふわりと浮かび上がったのです。
そして切っ先をまっすぐ私の心臓に向け、高速で飛来する。
「ぐッ……」
苦鳴を漏らしたのは店主。凶刃は、私をかばった彼の背中に深々と突き刺さっていました。
「ご無事ですか……メイベル様……」
口からは言葉と共に鮮血が溢れる。それは明らかな致命傷。
呆然と首を縦に振るしかできない私に、彼は店に迎えてくれた時と同じ柔らかな笑みを浮かべて、膝から床に崩れ落ちるのでした。




