11◇ここから先は治癒じゃなく
とてつもなく不服そうなザックを大陸一の美女ことセフィア嬢に預け、私は屋敷の奥まった場所まで来ていました。少し気になることはあるけれど、彼ならきっと大丈夫でしょう。
「こちらが我が主、シャンドラ公の寝室です」
案内してくれた執事エリックが示す先には、立派な扉が待ち受けています。
ちなみに彼の「お持ちいたします」を頑なに断って、カバンくんは胸の前にがっちりホールドしています。だって御屋敷の通路のそこここに、高価そうな壺やら何やらの骨董品が鎮座しているのだもの……。
それはそれとして。扉の周囲は、熟れすぎた果実のような甘い匂いが漂っていました。そして扉の下の隙間から、薄っすらと漏れ出る黒い靄のような瘴気が見える。
どうやら、眠り姫ならぬ眠り公を叩き起こすだけで済むお話ではなさそうです。
「エリックさん、ちょっとお聞きしても?」
「はい、私でお答えできることなら……」
振り向いた端正なお顔のなかで、凛々しく整った眉の根が、ぎゅっと寄せられ苦悩の表情を作っている。きっと彼は自分の意に反して私をここに連れてきた。何か、弱みを握られているのか。
「この状況になる前、何か変わったことはありませんでした? 治療の手掛かりになるかも知れません」
私の質問に、彼は黙って顎に手を当てる。どこまで話しても良いのか考えているのでしょう。その間にも、漏れ出す瘴気はどんどん濃くなっていく。はやく扉を開けろと急かすかのように。
「あれは、この状況になる前日のことです」
大きく息を吸ってから、意を決したようにエリックは話し始めました。
「旅の女性がひとり、小さな黒水晶を持ち込まれたのです。路銀に困っているので、買い取ってほしいと」
黒水晶。純度の高いものほど深い闇のような黒色になって、価値も跳ね上がると聞きます。高純度品の実物は、見たこともないけど。
「公はそれを稀少なものだと喜ばれ、更にその女性を屋敷にお泊めすることになったのです」
「泊める? そういうことはよくあるのですか?」
「そうですね、遠方の取引先のお客様に宿を提供すること自体は、珍しくはありません。そのための部屋もたくさんございます。ただ」
彼の眉根がさらに深く溝を刻む。それは後悔の深さのようにも思えた。
「あのとき、珍しくセフィア様はご反対されたのです。私がそれをご支持していたら、あるいは……」
「あるいは?」
「……! いえ、ただその夜、ご客人が旦那様の寝室を訪ねる足音を聞いて。万が一を考えお部屋の前に控えていたのですが、その、どうも仲睦まじいご様子だったのでそのまま……」
ふうん。シャンドラ公は奥様を亡くされお独りらしいので特に問題はない、けれど。
「翌朝早く彼女は、先を急ぐからと出立してゆきました。それから、昼過ぎになっても起きてこられない公の寝室を尋ねたのですが、お返事が全くなかった」
そこで彼は、深く重い息を吐き出す。
「セフィア様のご許可を得てお部屋に入ってみると、床には砕けた黒水晶の破片が散乱していて、公は寝台に眠っておられました」
「──それからシャンドラ公はずっと眠ったまま、ということですね」
無言でうなずエリック。何それ、露骨にその女が元凶じゃない。
おそらくは、黒水晶に封じられていた何らかのよくないものを、寝室内で解き放ったのでしょうね。
「じゃあ、あともうひとつ教えて」
「はい、何なりと」
「セフィア様も同時期にあの状態になったのですか?」
彼は切れ長の目を見開いて、息を呑む。その表情が、そのまま答えのようなもの。
「わかりました。大丈夫、後は任せて」
私がそう言い切ったのと、ほぼ同時でした。痺れを切らしたかのように、目の前の扉がものすごい勢いで開いて、部屋の内側からたくさんの黒い瘴気の手が私に向かって伸びたのです。
──引きずり込まれる!?
そう思った瞬間に何が起きたのか、そのときはよく把握できなかったのだけど。
胸の前に抱えていたカバンくんの前面から、ワインレッドの大きな翼のようなものが生え、黒い手の群れを一閃で全てかき消して、すぐに縮んで消えていった──ように見えた。
自分の目を疑ったけど、どう考えてもそうとしか見えませんでした。
『こいつの素材は皇炎龍の翼皮膜なんだぜ』
カバンくんを贈ってくれた、王都一の革職人さんの言葉が思い浮かぶ。たしかにそれはドラゴンの翼と呼ぶのが相応しい見た目のものだった、気がする。
けれど今は、何より目の前の状況が優先です。
足元に置いたカバンくんが、黒い靄の漂う室内を短い脚で先導してくれる。その歩みを避けるように靄が晴れできた道を、靴音を響かせ真っすぐ進む。
視線をめぐらせると、黒く染まった壁に人の姿が見えます。さきほど私を襲ったのと同様の黒い手で両手両足を拘束され、磔にされている。治癒士姿の女性や、司祭の法衣をまとった男性、あわせて五人。一様に生気のない真っ白な顔で、急がないと危険な状態です。
そして部屋の中央には豪華な寝台が鎮座し、シャンドラ公と思しき壮年の男性が目を閉じて横たわっていました。
掛け布団のかわりのように、黒い瘴気がその全身を包み込んで、もぞもぞと蠢いている。そこからとてつもなく濃密な、よくない気配がしています。
私は寝台の前に立ち、袖まくりをしてから、胸の前で両手を組み合わる。そして己を鼓舞する意味を込め、ニヤリと不敵に笑います。
──さあ、ここから先は治癒じゃなく、悪魔祓いのお時間です。




