第9話 Eが目の前に?
鼻の中の切り傷から血が止まらず流れ出す。今は体育館の外の屋外手洗い場で隣に美女を備えながらハンカチで鼻を抑えていた。
「ほんとにごめんなさい華徒くん」
美咲がスマッシュをしようとした時に同じチームにいた女子生徒と軽くぶつかり、ボールの軌道がずれ、斜め奥の方で見ていた俺の顔面に直撃してしまった。美咲にはケガもなく、負傷者は俺だけだった。
「大丈夫。鼻血だけだし、それよりハンカチ汚してごめん。弁償するよ」
「そんなの気にしないでください。お金なんて大丈夫ですから。」
「そうか。ほんとごめん。」
横目に焦りと悲しみを感じるのはなぜか。涙こそ出てはいないが、下を向く美咲に少し言葉にできない感情がこみ上げてくる。
「では、鼻血が止まったら先生の所に行きましょう。」
「そうだな。ありがとう。」
「いえ、当然のことをしたまでです。」
照らされる日光の中、俺たちは弾む会話もないまま鼻血が止まるのを待っていた。
五分が経過した頃だろうか。俺たちはすのこに座っていた。ハンカチの半分以上が血で滲んでしまったときにようやく鼻血が止まった。
「止まりましたか・・・?」
少し気まずそうに、だけど心配するその姿は見上げた時にゼロ距離で目に映る。
「あ、あぁもう大丈夫。止まったから。」
あまりにもいきなりの距離感だったので少し心臓がうるさくなる。頬は明るんでいないだろうか。変な目つきはしていないだろうか。
「目と耳が赤いですけど、本当に大丈夫ですか?」
「あぁこれは、別の原因だから、その。」
「その、なんですか?」
言えなかった。考えたくなかった。ゼロ距離の美人顔にも俺の心臓はドクドクしていた。それですら栄養過多だったのに。
「汗で。下着が透けてる。」
その言いづらかった究極の主人公台詞を俺はついに口にしてしまった。汗で体操服が透けてブラが見えてしまっていたのだ。そのまま眺めとけよーという悪魔たちが脳内《妄想》に現れ、何かと誘惑してきた。
『ほらー興奮してんだろ?俺さんよ~?』
『ここは男として、欲求に従がえよ!』
そんな心の奥底に眠ってそうな下種な思考がポヨポヨと浮かび上がってくる。しかし、決してそんな邪気には騙されず、何とか現実に戻る。
前かがみでしゃがみ、俺の顔を見つめていた美咲には先ほどから日光が直当たりで汗をかいていたらしい。そのせいか自身の手で寄せられた胸にはほかの部位よりも多量に汗を蓄えてしまっていたのである。
ピンク色のブラジャーが今にも透けて見えそうだ。
「あっ、ごめんなさい。ほんとごめんなさい。」
自分のみだらな姿を見せて謝罪する美女がここにいた。
しかし、悪魔を妄想パンチで撃退した後はさっきの卓也の言葉が脳裏に浮かぶ。
『ほら、噂のEカップさんがお出ましだぞ?』
ここで揉んでしまえばどうなるのか。想像することすら許されない禁忌が一瞬頭に過ったが幸い水を被る選択だけできた。
ビシャー!!!蛇口を捻って大量の水を頭にかける。理性を保つためだった。
「華徒くん!?何してるんですか!」
怒ってはいないが異様な行動にすこし声を荒げる。両手を俺の方へ伸ばして、その行為を止めるかのように。
「いや、暑かったから。ごめん。」
「急に水かぶりだしたら私だってびっくりするんですから。ほら、頭出してください。」
その予想もしていなかった発言に俺の頭にはてなが浮かぶ。
クラスメイトの下着を見てしまって理性を保とうとした結果、頭を冷やしたのだ。その果てに濡れた髪をタオルでワシャワシャと拭かれる状況になるとは水を被った意味がない。
気がつけばさっきのブラジャーがすぐ目の前にあった。十、いや五センチ先。揺れるたびにEカップが俺の前を踊るように揺れている。一瞬タオルで隠れたり、見えてしまったり。「はぁい大丈夫ですよ~」という母性溢れるような声もかすかに聞こえてきた。
しかし、至福のような夢の時間は一分足らずで終わりを迎える。
「これで良し!」
自慢気にやり遂げた彼女は今の油断にも気づいていないらしい。さすがの俺も二度も胸に関して言及はできなかったのでそっとしておく。
「ありがとう」
満足げな彼女にかける言葉もなくなる。両手を組み、やり切った感を出しているこの美女に、異議申し立てすることなんてできやしない。
「いや、俺の方こそ暑い中待たせてごめん。これ、暑いかもだけど中に戻る前に俺の長袖着た方がいい」
これは俺から唯一できる気遣いだった。俺は長袖で美咲は半袖の体操服だったのだ。幸い鼻血は長袖についていない。こんな姿を世間に晒してしまえば、いったいどれだけの変態男子がよってくるやら。
素早く服を脱ぎ、美咲に手渡す。
「ごめん。ありがとう。」
詰まるような美声が小さく返ってきた。
「華徒くんってやさしいですよね」
「なんだって急に?」
「だって、私が完全に悪いのになんでそんなに私を守って、どうして自分が悪いみたいに言えるんですか。」
それは。
「そもそも悪意があったってわけじゃないし、何も気にしてない。でも、もしそんなときがあっても俺には人を悪だと言える資格がないんだよ。」
「それは、どうして?」
何かのぎこちなさが、俺ののどの奥を埋め尽くす。まだ、勇気が出ない。自分を最大の悪ととらえていた時期が原因で、俺は自分を卑下することを続けてきた。そんな過去を晒すには関係が浅すぎる。
「そろそろ行くか。」
答える隙も無いように言い出した。
「ごめんなさい。そう、ですね。先生の所行きましょうか。」
慌てているのか何なのか、美咲は顔を伏せていた。俺よりも少し前を小走りで駆けていく。
先生の所に着いたや否や美咲は少々早口で説明する。
「先生?時臣くんの鼻血が止まって大丈夫なようで授業に参加させてもらいます。」
まとめて、端的と。先生のイエスをもらうだけで会話が終わってもいいように。そうして美咲は自分のコートへと戻っていった。
「すいません」
それだけ先生に伝えてから俺も卓也の所へ戻る。
「よっす時臣生きてたか~」
「生きてたかってなんだ。死んでたあら喜んだのか?」
「そりゃ『バレーボールが顔面にあたって死んだ男子高校生!』って記事のタイトルを楽しみにしない思春期男子はいないだろ!」
ガハハハハと笑う卓也に一発ぶち込むところだった。
「ところで時臣。おまえ長袖は・・・はぁ~ん。なるほどね。」
さっきと異なる俺の半袖姿に疑問に思った瞬間美咲の方を見つめ、ずば抜けた観察力で直ちに疑問を解決させた。にやけた表情でからかってくるイケメンを俺はどうすればよいのだろうか。
「髪も濡れてんじゃん何で拭いたんだ?・・・はぁ~ん。なるほどね。」
美咲の肩にかかったタオルに目をやった。
はっきりと言う。勘が鋭い男は嫌いだ。
結局そのまま俺は終わるのチャイムが鳴るまで壁にもたれかかって座っていただけだった。




