最5話
それからしばらくの間、時間の感覚は曖昧だった。何をして過ごしていたのか、はっきりとは思い出せない。ただ、日々が過ぎていくのをなぞるように生きていた。やがて澪は少しずつ体調を整え、家の外に出るようになった。何かを変えなければ、このまま止まってしまう気がした。過去を忘れることはできないと分かっていた。それでも、考え続けることから離れる時間が必要だった。
仕事を探し、働き始めた。決して楽しいわけではなかったが、決まった時間に起きて、外に出て、人と関わることで、少しだけ現実に戻れる気がした。也との会話は多くはなかった。必要最低限の言葉だけを交わし、それ以上は踏み込まなかった。それでも、同じ空間で生活を続けていた。完全に壊れたわけでもなく、元に戻ったわけでもない、曖昧な関係のまま時間だけが流れていった。
数年後、澪の妊娠が分かった。検査薬の線を見たとき、すぐには感情が追いつかなかった。嬉しいとも、不安とも言えない、ただ静かな感覚だった。しばらくの間、その事実を誰にも言わなかった。言葉にした瞬間に、何かが壊れてしまいそうな気がしたからだ。
やがて病院での検査を重ねる中で、それが双子であることが分かった。医師の口から告げられたその言葉を聞いても、澪はただ頷くだけだった。二つの命が同時に宿っているという現実が、どこか遠くのことのように感じられた。
六月の初夏、澪は帝王切開で出産を迎えた。手術室の明るい光の中で、すべてが機械的に進んでいく。やがて、一人目の産声が響いた。はっきりとした、強い声だった。続いて、もう一人の産声も聞こえる。今度は、確かに耳に届いた。あのときのように遠くはなかった。
胸の奥で、わずかに何かがほどけた気がした。
しかし、その安心は長くは続かなかった。後日、主治医に呼ばれる。「双子のうち、女の子は問題ありません。ただ、男の子の方に少し気になる点があります」そう告げられたとき、澪は驚くほど冷静だった。恐怖や不安がないわけではなかったが、それ以上に「やはり」という感覚が先に来ていた。
検査の結果、男の子は視力が著しく低く、ほとんど目が見えていない状態であることが分かった。それでも、命に関わるような問題はなかった。生きている。それだけで、十分だとどこかで思っていた。
その子はよく笑い、よく泣き、よく手を伸ばした。目が見えていないはずなのに、澪や也の気配を正確に感じ取るように、まっすぐこちらに手を伸ばしてくる。抱き上げると、安心したように体を預けてくる。その姿に、言葉にできない感情が湧いた。
ふとした瞬間、その子が笑った。口元がゆるみ、小さく頬が上がる。そのとき、右側にえくぼができていた。
それを見た瞬間、也の表情が崩れた。泣きそうな顔のまま、けれど確かに笑っていた。安堵と、何かを受け入れたような、複雑な表情だった。
澪は、その光景を静かに見ていた。そして理解する。この子にも、あのときと同じような感覚があることを。翠のときに感じたものと、どこか似ている。それでも、もう恐れではなかった。ただ、そこに“いる”というだけの感覚だった。
それが何なのか、言葉にする必要はなかった。分かってしまったからだ。この子は、あのときもう一つ残っていた存在なのだと。元カノのもとにあった、片割れのようなもの。ただ、也のそばにいたかっただけなのかもしれない。育ててほしかったのかもしれない。愛されたかったのかもしれない。
澪は、それ以上考えるのをやめた。ただ目の前にいる子どもを見つめた。




