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第4話

それからも、澪の中に残ったものは消えなかった。時間が経っても、形を変えながらそこに居続けた。妊婦健診に行くたびに義母に話をしたり、思い出しては也にあの時はどうだったのか、何をしていたのかと問いただしたりした。何度も同じことを繰り返しながら、澪は自分の中に溜まっていくものを外に出し続けるしかなかった。


やがて月日は流れ、出産の時が来た。陣痛の痛みの中で、澪はただ無心で耐えていた。頭の中にあるはずの様々な感情は、不思議なほど浮かんでこなかった。ただ、この時間を越えることだけに集中していた。


そして、子どもが産まれた。確かに、泣いていた。動いていた。けれど、その産声はどこか遠く、かすかにしか聞こえなかった。看護師たちの動きが慌ただしくなる。「体温が少し低いので、念のためNICUへ」と告げられ、そのまま子どもは運ばれていった。


残された澪は、天井を見つめたまま動けなかった。何かがおかしいという感覚だけが、静かに残っていた。やがて主治医から説明を受ける。喉の発達が未熟な可能性がある、と。まだはっきりとは分からないが、経過を見る必要があると言われた。


澪は、ただ頷くだけだった。


その子には、「翠」と名付けられた。小さくて、軽くて、どこか頼りない存在。それでも、確かにそこに生きていた。ガラス越しに見る翠は、静かに呼吸をしていた。


しかし、NICUから出る予定の二日前。状態が急変した。ミルクを飲んでいる最中に誤嚥を起こし、そのまま肺炎へと進行した。連絡を受け、也と澪は急いで病院へ向かった。


処置が施され、機械に囲まれた小さな体。それでも、呼吸は不安定で、状況は重篤だった。医師の説明は、どこか遠くに聞こえた。言葉の意味は理解できるのに、現実として受け取れなかった。


やがて、決断の時が来る。これ以上の処置は行わないという選択。器具が外され、静かな時間だけが残された。


也が翠を抱き上げる。軽すぎるほどの体重、温い体温。その小さな体を、壊れてしまいそうなほど強く抱きしめた。


そのときだった。


翠が、ほんの一瞬だけ笑った。


その笑顔の中に、小さな左のえくぼがあった。


その瞬間、也の体から力が抜けた。膝から崩れ落ちるようにして、その場に座り込む。


「ああ……海……」


かすれた声で、そう呟いた。


「海だ……」


その名前を聞いた瞬間、澪はすべてを理解していた。問いかけるまでもなかった。海とは、也の水子に付けられた名前だった。


翠とは、しばらく離れることができなかった。翠の死亡届を提出し、お葬式をして、小さくなったお骨を骨壷に入れ、タクシーで帰った。何も、話さなかった。


家に帰っても、何も喉が通らなかった。也はずっと部屋にいた。何をする訳でもなく。ただ声を押し殺して泣いていた。澪はそれを、ただ遠くから感じていた。


悲しみという言葉では足りなかった。それが何なのか、うまく言葉にすることもできなかった。ただ一つだけ、確かに残っていたのは——終わっていない、という感覚だった。

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