第3話
のぼりたての朝日が、部屋を静かに照らしていた。隣では也が、何も知らないように気持ちよさそうに眠っている。いつものように、寝ながら手を伸ばしてくる。その手を、澪はそっと払い除けた。触れられなかった。触れたくなかった。視線は窓の外に向けたまま、ただ時間だけが過ぎていく。
数時間、ほとんど同じ姿勢のまま過ごしていると、也がゆっくりと目を覚ました。「おはよう……早いね……どうした?」その声を聞いても、澪は振り向かなかった。そのまま、静かに言った。「ねえ、水子いるよね」
その言葉を聞いた瞬間、也の表情が変わった。何も言わずに起き上がり、電子タバコに手を伸ばす。慣れた動作で電源を入れ、火をつける。その一連の動きのあと、短く答えた。「……うん」
澪は続ける。「知ってるよね。聞いたんだ、元カノに」少しの沈黙のあと、也は小さく言った。「知ってる」
部屋の空気が重くなる。澪はゆっくりと息を吸い、「教えてほしい。詳しく」と言った。答え合わせのように、聞いたことをなぞるように。
也はしばらく黙っていたが、やがて話し始めた。「俺、何も知らないで会ってたんだ。あいつ、生理きたから調子悪いって言ってたし。何度か会って、身体も重ねたよ。でも、変化とか全然分からなかった」
言葉は妙にスムーズだった。止まらない。「ある時、親父のところに警察から連絡が来てさ。交際相手が自宅で出産して倒れたって。子どもは亡くなったから、話を聞きたいって呼ばれて」
澪は、何も言えなかった。ただ聞いていた。
「子ども、臍の緒切られてて、トイレに頭入ったまま亡くなってたって。妹がハサミ持ってきて切ったらしい。そのあと、あいつ精神錯乱で倒れて、そのまま入院。だから俺は捕まってない」
言葉は淡々としていた。あまりにも淡々としていた。
「DNA検査はした。でも結果は相手の親にしか伝えられてなくて、俺は知らない。後日謝罪に行って、その時にこれからどうするのかって聞かれて……逃げるわけにもいかないから、一緒にいますって答えた」
電子タバコを持つ手に、わずかに力が入る。「葬儀代と火葬代、20万。ばあちゃんが出してくれた」
話し終えたあと、部屋は静まり返った。
澪は気づいていた。也の癖を。今の話し方は、嘘ではなかった。滑らかすぎるほどに、すべてが繋がっていた。それが逆に、怖かった。絶望しかなかった。信じたくなかった。それでも、どこかで分かってしまう自分がいた。
そのときだった。
ふと、視界の端に違和感が走る。也の隣に、何かが“重なって”見えた。さっきまで何もなかったはずの場所に、もう一つの気配がある。
それは、泣いているように見えた。声はないのに、ただ静かに揺れている。
也は、まったく気づいていなかった。
澪は一度、目を逸らそうとした。見てはいけない気がした。見なかったことにできるなら、その方がいいと思った。それでも、視線は離れなかった。
気づいてしまう。
それが、ただの違和感ではないことに。ずっと也に重なるように存在していた“何か”。その正体が、ゆっくりと形を持ちはじめる。
——水子。
その言葉が、澪の中で静かに確定した。
これまで見えていたものは、愛していたからではなかった。別の何かが、そこにあった。
澪は、也の言葉をほとんど受け取れていなかった。耳には入っているのに、意味として繋がらない。言葉が途中でほどけていく。もう、受け取れない状態だった。何が本当で何が嘘かを考えることすらできない。ただ、流れていく音を見ているだけだった。
澪は、すでに子を宿していた。結婚もしていた。だから、離れるという選択は現実的ではなかった。受け入れるしかなかった。
けれど、その代わりに決めたことがあった。愛することを、やめてしまおうと。
爪が腕に食い込み、じわりと血が滲む。
「隠してて、ごめん。本当に、ごめん」也が言う。「だけど俺は、澪と離婚したくない。あいつとは4年一緒にいたけど、結婚したいと思ったことは一度もなかった。澪と出会って分かったんだ。時間じゃない、密度なんだって」
言葉は続く。「澪はさ……したいんだろ。こんな話聞いて、もう無理だって思うんだろ」
澪は、それをほとんど聞いていなかった。受け取れなかった。
「お願い、離れないでくれ……」
その声のあと、どこからか赤子の泣き声のようなものが聞こえ始めた。最初は気のせいだと思った。けれど、それは徐々に大きくなる。現実なのか、幻なのか、もう分からなかった。
澪はただ、目の前にいる也の頭に手を添えることしかできなかった。
それからも、その感覚は残り続けた。義母に話し、也に問いただし、何度も過去を引きずり出した。そうしなければ、内側に溜まった黒いものが溢れてしまいそうだった。




