てめぇの部屋じゃねえ
鉛の壁に囲まれた実験室。
薄暗い橙色の魔導灯の下で、クズオはロリーナを見つめながら、下卑た笑みを浮かべていた。
「へへへ……。見たか、ヤロウ! どうだ、俺の命令は絶対だろ!」
「はいはい。分かったから、少し落ち着けよ」
ヤロウ・ザーコは、タバコをくわえたまま片手を振った。
その顔には、すでに飽き飽きしたような表情が浮かんでいる。
ところが、クズオは一向に落ち着かなかった。
昨日まで自分を阻んでいた倫理規定が、今は機能していない。
その事実が、彼の中にあった最後の遠慮を吹き飛ばしていた。
「今度は、俺の■■■■■を■■■■てもらおうかな」
「……っ!」
ロリーナの身体が強張った。
自分の意思では拒絶できない。
その現実を、彼女は嫌というほど思い知らされていた。
「おいおい、クズオ。調子に乗るのもほどほどにしとけよ」
ヤロウが忠告する。
「うるせえ! お前は黙って見てろ!」
クズオは振り返り、怒鳴りつけた。
「俺は今、最高に気分がいいんだ!」
「そりゃよかったな。人生で数少ない成功体験だもんな」
「なっ……!」
「冗談だよ、冗談」
ヤロウは、まったく反省していない顔で笑った。
ロリーナは、二人のやり取りを聞きながら、唇を強く噛み締めていた。
この男たちは、自分をひとりの人間として見ていない。
クズオにとっては、自分の力を誇示するための道具。
ヤロウにとっては、興味深い魔法現象を観察するための実験対象。
どちらも、彼女の恐怖や屈辱には関心がなかった。
「……最低」
ロリーナが小さくつぶやいた。
「ああ?」
「最低だって言ったのよ。あんた、自分が何をしてるのか分かってる?」
「何だと、メスガキ!」
クズオの顔が赤くなった。
「まだそんな口が利けるのか! 誰のおかげで――」
「はい、そこまで」
ヤロウが、ぱん、と手を叩いた。
「クズオ。お前の目的は何だった?」
「はあ? そんなもん、俺の命令をきかせることに決まってるだろ!」
「じゃあ、もう十分だろ。命令が通ることは確認できた。これ以上、俺の実験室で騒がれても困るんだよ」
「おい、まだいいだろ! もっと楽しませろよ!」
クズオは不満げに口を尖らせた。
ヤロウは、心底呆れた顔で首を振った。
「悪いが、ここは、てめぇの部屋じゃなくて俺の実験室だ。お前の遊びに付き合うために、わざわざ設備を整えたわけじゃねえ」
「ちっ……」
ヤロウは、灰皿にタバコの灰を落とした。
それから、机の上の測定器に目を向けた。
先ほどまで安定していた針が、かすかに揺れている。
小さな警告灯が、一定の間隔で点滅していた。
「……おや?」
ヤロウの表情が変わった。
「どうした?」
「いや、ちょっと待て」
彼は測定器を持ち上げ、側面の調整つまみを回した。
針が大きく振れる。
次の瞬間、乾いた電子音が鳴った。
『警告。対象者の生体マナに異常な通信反応を検出』
クズオの顔から笑みが消えた。
「……今、何て言った?」
ヤロウは測定器を見つめたまま、舌打ちした。
「ちっ。やっぱりか」
「おい、ヤロウ!」
「声を張り上げるな。聞こえてる」
ヤロウは、ロリーナの手首に刻まれた契約紋を確認した。
その黒紫色の紋様は、先ほどよりも強く明滅していた。
「どうやら、契約魔法の監視干渉を完全に遮断できたわけじゃなかったらしい」
「どういうことだよ!?」
「部屋の中では、イビルマナの干渉によって外部の認証信号が撹乱されていた。だが、対象者の生体マナそのものに、情報を送る仕組みが組み込まれている可能性がある」
「……つまり?」
「この部屋から出たあと、ロリーナの体内にあるマナが外部へ信号を送るかもしれねえってことさ」
クズオは、口を半開きにしたまま固まった。
「……は?」
「信号の内容によっては、規定違反の検知が送られる可能性もある」
「お、おい!」
クズオはヤロウにつかみかからんばかりの勢いで迫った。
「お前、どうしてくれるんだよ! そんな話、聞いてねえぞ!」
「だから、今分かったんだよ」
「ふざけんな! お前なら何とかできるって言ったじゃねえか!」
「俺は、まだ何とかできるなんて言ってねえよ」
ヤロウは冷静に言い返した。
「実験してみなきゃ分からないって、最初に説明したはずだぜ?」
「ぐっ……!」
クズオは言葉に詰まった。
確かに、ヤロウはそう言っていた。
それでも、自分に都合の悪い結果が出るとは考えていなかったのだ。
「くそっ……! 何で俺ばっかり、こんな目に遭うんだ!」
「お前が自分から首を突っ込んだからだろ」
「黙れ!」
「はいはい」
ヤロウは、再び測定器を机に置いた。
「まあ、過ぎたことは仕方ねえ。俺も手伝ってやるからよ」
「ほ、本当か!?」
「ただし、俺の指示には従え。余計なことをされると、こっちまで巻き添えを食うからな」
ヤロウは、ロリーナのほうへ視線を向けた。
「それより、お前」
「……何よ」
「そんなに緊張すんじゃねぇ。少なくとも、今ここでお前に何かするつもりはねえよ」
ロリーナは、警戒を解かなかった。
「……信じられると思う?」
「思わねえな」
ヤロウはあっさり答えた。
その返答に、ロリーナはかえって困惑した。
クズオのように自分を正当化するわけでもない。
善人ぶって安心させようとするわけでもない。
ただ、自分が信用に値しない人間だと、平然と認めている。
それが、この男の不気味さだった。
「おい、ヤロウ! そんなことはどうでもいい! とにかく、俺が捕まらないようにしてくれ!」
「分かってるって」
ヤロウは、実験室の棚から分厚い本を取り出した。
「まずは、どんな信号が送られているのか調べる。それから対策を考える。今の段階じゃ、下手に魔法を追加するほうが危険だ」
「……頼むぞ。本当に頼むぞ!」
「分かった、分かった」
ヤロウは面倒くさそうに手を振った。
「お前は少し黙って座ってろ。俺が調べる」
クズオは、不安そうに椅子へ腰を下ろした。
数分前まで、彼は自分の力が絶対だと信じていた。
だが今は、ひとつ間違えれば魔法資格を失うかもしれないという恐怖に怯えている。
ロリーナは、その様子を黙って見つめていた。
そして、ふと気づいた。
クズオは、ヤロウに助けを求めている。
あれほど偉そうに振る舞っていた男が、自分より強い相手の前では、簡単に態度を変えている。
母のミオナも、権力や契約を利用して他人を支配していた。
けれど、その力が失われた途端、彼女自身もまた、契約の犠牲者になった。
強い者に従い、弱い者を支配する。
この世界では、それが当たり前になっている。
だが、本当にそうするしかないのだろうか。
ロリーナは、静かに手首を握り締めた。
契約紋は、まだ消えていない。
自由は、まだ遠い。
それでも、彼女は諦めなかった。
――いつか必ず、この鎖を断ち切る。
その決意だけは、誰にも監視させない。
実験室の片隅で、測定器の警告灯が再び点滅した。
ヤロウはそれを見て、口元を歪めた。
「……さて。自称神々どもは、どこまで気づいてるのかねえ」
紫煙が、鉛の壁に囲まれた部屋をゆっくりと漂っていた。




