そうだ、王都に行こう。
翌朝。
「……そうだ、王都に行こう」
キモオジ家の屋敷、その居間。
朝食を食べ終えたクズオは、ソファーに寝転がりながら、突然そうつぶやいた。
もちろん、自分で食器を片付けるつもりはない。
空になった皿はテーブルの上に放置され、飲みかけの茶は冷めきっている。足元には昨日から脱ぎっぱなしの靴下が転がっていた。
それでも、本人は気にしていなかった。
「そうだ……王都だ。王都に行けばいいんだ!」
クズオは勢いよく上半身を起こした。
彼の頭の中に、ひとりの男の顔が浮かんでいた。
王都に住む悪友。
魔術師としては一流の腕を持ち、貴族社会の裏事情にも通じている男だった。
そして何より、クズオのくだらない自慢話を適当に聞き流しながらも、魔術の研究や抜け道探しとなると、面白がって協力してくれる人物だった。
「そうだよ! あいつなら何とかしてくれる!」
クズオは膝を叩いた。
「天照大法院の倫理規定だか何だか知らねえが、あんな面倒な仕組み、魔術師なら抜け道のひとつくらい知ってるはずだ!」
昨日、脳内に響いた無機質な警告音声がよみがえる。
『エラーコードM072』
『18歳未満への性的行動の強制は、天照大法院の倫理規定により禁止されています』
思い出すだけで腹が立った。
「この俺が、邪魔されるなんて……!」
クズオは歯ぎしりした。
「あいつに頼めば、こんな規定、どうにでもなるはずだ!」
クズオは立ち上がった。
立ち上がっただけで、すぐに疲れた顔をした。
「……いや、待てよ」
そして、再びソファーに沈み込んだ。
「王都まで馬車で何時間かかるんだ?」
しばらく考え込む。
「……面倒くせえな」
そのまま十秒ほど動かなかった。
やがて、彼は大声で叫んだ。
「おい、ババア! 準備しろ!」
*
「王都へ、ですか?」
カナエは、息子の部屋で荷物をまとめながら、確認するように尋ねた。
「そうだよ! 聞こえなかったのか?」
「いえ……ですが、急なお出かけですね」
「俺には大事な用事があるんだよ!」
クズオは偉そうに胸を張った。
「王都には俺の親友がいる。そいつは魔術の天才なんだ。天照大法院の規定だろうが、契約魔法の制限だろうが、そいつにかかれば何とかなる!」
「……その方に、何をお願いするおつもりなのですか?」
「お前が知る必要はねえ!」
クズオは一喝した。
「とにかく、馬車を用意しろ。服も用意しろ。食料もだ! 王都に着くまで俺が腹を空かせたらどうするんだ!」
「承知しました」
「あの奴隷女の分の準備もしろ」
カナエは一瞬だけ表情を曇らせた。
「ロリーナさんも、王都へ連れていくのですか?」
「当たり前だろ!」
クズオは鼻を鳴らした。
「逃げられたら困るからな。あいつには俺のそばにいてもらう」
「……そうですか」
「何だ、その顔は?」
「何でもありません」
「ふん。まったく、いちいち気に入らねえ顔をしやがって」
クズオは背を向けた。
「とっとと準備しろ!」
カナエは黙って頭を下げた。
*
その頃、ロリーナは自室で窓の外を眺めていた。
昨日、カナエが運んできた食事の皿は、すでに部屋の外へ返してある。
手首には、隷属魔法の紋様。
彼女はそれを見つめながら、昨日の出来事を思い返していた。
クズオの命令は、すべてが通るわけではない。
天照大法院の倫理規定が、禁止された命令を阻止した。
しかも、クズオはその仕組みを十分に理解していないらしい。
「……王都、か」
廊下の向こうから、カナエとクズオの声が聞こえてきた。
どうやら、二人は遠出の準備をしているらしい。
王都に何があるのか、ロリーナにはまだ分からない。
だが、あの男が何かを企んでいることだけは確かだった。
「面倒なことにならなきゃいいけど……」
そう言いながらも、彼女の頭の中では、別の考えが動き始めていた。
母の失脚以来、消息が分からなくなっている兄――ライルが王都にいるはずだった。
ロリーナは、まだ兄が自分を助けられるかどうか知らない。
それでも、わずかな可能性があるなら、捨てるわけにはいかなかった。
「……お兄様」
小さくつぶやく。
「どうか、無事でいて」
*
王都。
大陸の政治と魔術研究の中心であり、数多くの貴族や魔術師、商人が集まる巨大都市。
王城を中心に広がる街並みには、豪奢な邸宅や商業施設、魔術学校が立ち並び、夜になっても魔導灯が街路を照らしていた。
しかし、その華やかな表通りの裏側には、別の世界が広がっていた。
表向きは存在しないことになっている情報屋。
貴族の不祥事を処理する仲介人。
金さえ払えば、法の網をすり抜ける方法を探す魔術師。
そして、依頼人の名前さえ知らずに暗殺を実行する者たち。
王都は、あらゆる人間の欲望が集まる場所だった。
その一角に、ライル・メスガキは住んでいた。
かつてメスガキ家の長男でありながら、男であるという理由で家督を継ぐ権利を与えられなかった青年。
現在は騎士として王都に身を置いているが、母ミオナの失脚によって、その立場も決して安泰ではない。
彼はまだ知らなかった。
妹のロリーナが、クズオ・キモオジに連れ去られたことを。
また、王都の裏社会では、もうひとりの人物が静かに活動していた。
メアリー。
キモオジ家の長女として生まれながら、父と兄によって魔力を奪われ、マナレベル0に落とされた上、他の貴族に奴隷として売られた。
現在は闇ギルドの一員として、裏社会に身を置いている。
彼女はすでに、キモオジ家という名前を聞くだけで、胸の奥に冷たい怒りが湧き上がるようになっていた。
父親。
兄。
あの家にいた頃の記憶。
そして、自分から奪われたもの。
「……クソ兄貴」
メアリーは、刃物の手入れをしながらつぶやいた。
「いつか、必ず借りは返してやる」
その時、彼女はまだ知らなかった。
復讐の相手である兄が、まさに自分のいる王都へ向かおうとしていることを。
*
数時間後。
キモオジ家の屋敷の前には、一台の馬車が停まっていた。
クズオは、玄関先で偉そうに腕を組んでいた。
「よし。準備はできたな!」
「はい。お荷物はすべて積み込みました」
カナエが答えた。
「奴隷女は?」
「こちらにおります」
ロリーナは、少し離れたところに立っていた。
クズオは彼女を見て、満足そうに笑った。
「いいか、ロリーナ。王都に着いても、勝手な真似はするなよ。俺の命令には絶対服従だ。分かったな?」
「……はいはい」
「返事は一回だ!」
「はい」
「よし!」
クズオは得意げにうなずいた。
彼はまだ、自分が王都で何に遭遇することになるのか、まるで理解していなかった。
悪友の魔術師に規定の抜け道を探させる。
それだけのつもりだった。
だが、王都には、彼が忘れたはずの過去が待ち受けている。
自分を恨む妹。
かつて自分が屈辱を味わわせた家の長男。
そして、自分の身勝手な行動によって、これから運命を狂わされる少女。
「さあ、出発だ!」
クズオが叫ぶ。
御者が手綱を引き、馬車がゆっくりと動き始めた。
目指すは王都。
クズオにとっては、問題を解決するための旅。
ロリーナにとっては、自由を取り戻すための新たな機会。
あるいは、王都の裏側で待ち受ける者たちにとっては――。




