おい、ババア! 奴隷女に飯を持っていけ!
キモオジ家の屋敷には、奇妙な習慣があった。
家の主人であるはずのクズオは、自分で何かをするということを極端に嫌っていた。
食事を取りに行くのも嫌。
着替えを用意するのも嫌。
飲み物が欲しくなれば、誰かが持ってくるまで椅子に座って待つ。
それでいて、何かが少しでも気に入らなければ、屋敷中に響き渡る声で怒鳴り散らすのだった。
そして、その役目を押し付けられているのが、彼の母親であるカナエだった。
「……おい、ババア!」
昼下がりの居間に、クズオの怒声が響いた。
カナエは台所で食器を洗っていた手を止めた。
「なんでしょう、クズオ」
「なんでしょう、じゃねえだろ! 腹が減ったんだよ!」
「お昼は先ほど召し上がったでしょう?」
「だから何だよ! 腹が減ったって言ってんだろうが!」
クズオはソファーに寝転がり、腹の上に置いた手をぱんぱんと叩いた。
「それに、あの奴隷女にも飯を食わせてやらなきゃならん。おい、ババア! 奴隷女に食事を運んでこい!」
カナエは、しばらく黙っていた。
息子の命令を聞き間違えたわけではない。
ただ、三十を過ぎた男が、自分の母親を怒鳴りつけながら、食事を運ばせようとしている光景を、改めて頭の中で整理していたのだ。
「……クズオ。あなた、もう少し言い方というものが――」
「はあ?」
クズオは勢いよく上半身を起こした。
「誰に向かって説教してんだ、このババア! 俺はキモオジ家の跡取りだぞ!」
「ですが、食事くらいご自分で――」
「俺に台所まで歩けっていうのか!?」
クズオは信じられないものを見るような顔をした。
「お前、俺を誰だと思ってるんだ! 俺は選ばれた人間なんだぞ! 雑用はお前みたいなババアの仕事だろうが!」
カナエは、静かに目を伏せた。
「……分かりました」
「最初からそう言え!」
クズオは満足げにソファーへ倒れ込んだ。
「まったく、使えねえババアだな。昔からそうだ。俺が何か頼むたびに、いちいち文句を言いやがって」
カナエは返事をしなかった。
台所に戻り、食器棚から皿を取り出す。
パン、スープ、肉料理、野菜の煮込み。
奴隷に与える食事としては、悪くない内容だった。
もっとも、キモオジ家の食卓に並ぶ料理を少し取り分けただけなのだが。
カナエが盆に料理を載せていると、背後からクズオの声が飛んできた。
「おい! 俺の分も持ってこいよ!」
「……今、準備しています」
「あと、飲み物もだ! ぬるい水なんか持ってくるなよ!」
「承知しました」
「それから、俺の部屋の掃除もしておけ。昨日から床にゴミが落ちてんだよ!」
「……はい」
カナエは、ひとつずつ返事をした。
クズオはそれを聞き、鼻を鳴らす。
自分の命令が通る。
誰も逆らわない。
だから、自分は偉い。
彼の頭の中では、そうした理屈が疑いようのない真実になっていた。
*
ロリーナが閉じ込められている部屋の前に、カナエがやってきたのは、それから十分ほど後のことだった。
「ロリーナさん。食事をお持ちしました」
扉の向こうから、警戒した声が返ってきた。
「……誰?」
「カナエです。クズオの母親です」
少し間があった。
「入ってもいいかしら?」
「鍵は外から掛かっていますから、私にはどうすることもできませんよ」
扉を開け、盆を持って部屋に入る。
ロリーナは部屋の隅に座っていた。手首には、隷属魔法の紋様が浮かんでいる。
彼女はカナエを見て、それから盆の上の料理へ視線を移した。
「……あなたが、あいつのお母さん?」
「ええ」
「ずいぶん大変そうね」
カナエの手が、一瞬だけ止まった。
「……そう見えますか?」
「だって、さっき廊下から聞こえたもの。『おい、ババア!』って」
「……聞こえていましたか」
「屋敷中に響く声だったわよ。あれで聞こえないほうがおかしいわ」
ロリーナは呆れたように肩をすくめた。
「自分で食事も取りに行けないの? あの男」
「昔から、あまり自分のことをするのが得意ではありませんでしたから」
「得意じゃない、で済ませるの?」
「……そうですね」
カナエは盆を机に置いた。
「本当は、私が甘やかしすぎたのかもしれません」
ロリーナは、思わずカナエの顔を見つめた。
彼女の声には、息子をかばうような響きがあった。
けれど、その表情には疲労が滲んでいた。
怒りでも、諦めでもない。
長年、同じことを繰り返してきた人間だけが浮かべる、複雑な疲れだった。
「……あなた、あいつが嫌いじゃないの?」
カナエはすぐには答えなかった。
「息子ですから」
「それ、答えになってないわよ」
「そうですね」
カナエは小さく笑った。
ロリーナは黙り込んだ。
自分の母親、ミオナの顔が頭に浮かんだ。
ミオナもまた、家族を大切にしていると信じていた。
けれど、その愛情は、いつしか家族以外の人間を踏みつけることを正当化する理由になっていた。
では、カナエはどうなのだろう。
息子を愛しているから、何をされても我慢するのか。
それとも、逆らうことを諦めてしまったのか。
ロリーナには、まだ分からなかった。
「……まあ、いいわ」
彼女は食事を見下ろした。
「これ、食べてもいいの?」
「もちろんです。食べないと身体に障りますから」
「毒は入ってないでしょうね?」
「えっ?」
「冗談よ」
ロリーナはスプーンを手に取った。
「……半分くらいはね」
カナエは、ほんの少しだけ目を丸くした。
それから、久しぶりに心から笑ったような顔をした。
「ふふ……。クズオには、あなたの半分くらいの警戒心があればよかったのですが」
「それは無理でしょ。あいつ、自分が世界で一番偉いと思ってるもの」
「……そうですね」
カナエは扉のほうへ歩きかけて、ふと立ち止まった。
「ロリーナさん」
「何?」
「何か困ったことがあれば、言ってください。私にできることなら……」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
自分にできることなど、本当にあるのだろうか。
息子の命令ひとつで食事を運び、掃除をし、怒鳴られても頭を下げる。
そんな自分に、誰かを助けることなどできるのだろうか。
「……いえ。今のは忘れてください」
カナエは扉を閉めた。
ロリーナは、しばらくその背中を見つめていた。
そして、食事をひと口食べる。
「……おいしい」
悔しいことに、料理は本当においしかった。
*
カナエが居間に戻ると、クズオは空になった皿を腹の上に載せていた。
「遅いぞ、ババア!」
「申し訳ありません」
「奴隷女には飯を持っていったんだろうな?」
「はい」
「何か文句を言ってなかったか?」
「特には」
「ふん。まあいい」
クズオは満足げに鼻を鳴らした。
「俺の慈悲に感謝してるだろうな。あいつも、ようやく自分の立場が分かったはずだ」
カナエは、息子を見つめた。
自分で命令し、自分で食事を取りに行くことさえできない男。
自分より弱い相手には威張り散らし、母親には何の遠慮もなく雑用を押し付ける男。
それでも、彼は自分を「選ばれた人間」だと信じている。
「……クズオ」
「あ?」
「あなたは、この先どうするつもりなの?」
「何がだよ?」
「ロリーナさんのことです」
クズオは、いやらしい笑みを浮かべた。
「どうするも何も、俺の奴隷なんだから俺の好きにするに決まってるだろ」
「……そう」
「なんだよ、その顔は」
「いえ。何でもありません」
カナエは頭を下げた。
クズオは、もう母親に興味を失っていた。
「おい、ババア。今度は茶を持ってこい。それから、俺の部屋の掃除も忘れるなよ」
「……承知しました」
カナエは盆を片付け、台所へ向かった。
その背中を見送りながら、クズオはソファーの上で大きく伸びをした。
「まったく、俺がいなければこの家は回らねえな」
屋敷の中には、誰も返事をする者はいなかった。
クズオだけが、満足そうに笑っていた。




