エラーコードM072
馬車が屋敷の門をくぐってから、どれほど時間が経っただろうか。
ロリーナは、見知らぬ部屋の椅子に腰掛けていた。
窓には鉄格子こそなかったが、扉には外側から鍵が掛けられている。壁に飾られた絵画も、磨き上げられた家具も、彼女の目にはただの檻の装飾にしか見えなかった。
手首には、黒紫色の紋様が浮かんでいる。
隷属魔法。
クズオが命令すれば、ロリーナの意思に反して身体を動かすことさえできるという、忌まわしい魔法だった。
「さて、と」
クズオは椅子にふんぞり返り、脂ぎった顔に薄笑いを浮かべた。
「ようやく、こうして二人きりになれたなぁ。メスガキ家のお姫様」
「……その呼び方、やめてくれる?」
「おやおや、ずいぶんと威勢がいいじゃないか。自分の立場が分かっていないのかな?」
「分かってるわよ。あなたみたいな最低の男に、魔法で自由を奪われたってことでしょ」
クズオの頬が引きつった。
「最低だと? 誰のおかげで、お前は今日から屋根のある場所で暮らせると思っているんだ!」
「頼んでないわ」
「お前の母親はもういない! 父親にも守れなかった! 兄貴がどこにいるか知らんが、今のお前を助けられる人間など、この世にいないんだよ!」
ロリーナは唇を噛んだ。
反論できないことが、悔しかった。
だが、彼女は目を伏せなかった。
「……だから、あなたに従えって?」
「そうだ。ようやく理解したか」
クズオは立ち上がり、ロリーナの前に歩み寄った。
「それじゃあ、ご主人様の命令を聞いてもらおうか」
「嫌よ」
「お前に拒否権はない」
クズオは手首の紋様を指差した。
「《スレイブ》は絶対だ。俺が命令すれば、お前は逆らえない。これからは、その生意気な態度も改めてもらうぞ」
「……っ」
ロリーナの手首が、じわりと熱を帯びた。
契約紋が淡く明滅する。
クズオは下卑た笑みを浮かべ、命令を口にした。
「自慰をしろ」
「は?」
ロリーナは困惑の声を漏らす。
クズオは、もう一度、ゆっくりと命令を口にした。
「俺の目の前でマスターベーションしろと言ってるのが聞こえねぇのか!メスガキ!」
そう叫んだ瞬間だった。
『――エラーコードM072』
クズオの脳内に、無機質な音声が響いた。
『18歳未満への性的行動の強制は、天照大法院の倫理規定により禁止されています。命令は受理されません』
「……は?」
クズオは口を開けたまま固まった。
ロリーナも、きょとんとした顔で彼を見上げる。
「何? 今、何か聞こえたけど」
「な、何でもない!」
クズオは慌てて首を振った。
しかし、脳内の警告は容赦なく続いた。
『対象者の生体年齢:17歳』
『当該命令:無効』
『契約魔法による強制執行:禁止』
「ふ、ふざけるな……!」
クズオはこめかみを押さえた。
隷属魔法は、対象の意思を封じる強力な魔法だ。だが、魔法によって実現できることなら何でも許されるわけではない。
この世界の魔法には神々の定めたルールにしたがって発動する。
そして、禁止された命令は、契約者本人がどれほど強く望もうとも実行されない。
クズオは、その存在を知っていた。
知ってはいたが――自分がそれに引っかかるとは、考えていなかったのだ。
「くそっ……! こんなところで、余計な邪魔が!」
「へえ」
ロリーナの顔に、ほんの少しだけ笑みが戻った。
「あなたの魔法って、何でもできるんじゃなかったの?」
「黙れ!」
「ふうん。ご主人様の命令にも、通らないものがあるんだ?」
「黙れと言っている!」
クズオの顔は、耳まで真っ赤になっていた。
彼が腹を立てているのは、魔法が失敗したことだけではない。
自分より弱い相手なら、何をしても許されると思っていた。
自分が命令すれば、相手は従うものだと信じていた。
その絶対的な思い込みを、脳内の事務的な警告音声に否定されたことが、何よりも我慢ならなかったのだ。
クズオはしばらく部屋の中を歩き回っていたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「……そうだ。生体魔法だ」
「え?」
「身体の成長を促進する魔法がある。生体年齢を引き上げれば、規定の判定も変わるはずだ!」
彼は自分の考えに興奮し始めた。
生体魔法は、細胞の代謝や分化を制御する高度な魔法技術である。傷の治療から筋肉の再生まで応用範囲は広い。
理論上は、身体の成長を人為的に促すことも不可能ではなかった。
「そうだ……! 身体を成長させればいい! そうすれば、あの忌々しい規定も――」
『警告。生体魔法による年齢偽装は、天照大法院倫理規定第M072条の回避行為に該当します』
クズオの顔から、再び笑みが消えた。
『成人資格は、生体年齢のみをもって自動的に付与されるものではありません』
『当該行為が確認された場合、契約者の魔法認証資格を停止することがあります』
「…………」
沈黙。
部屋の中に、気まずいほど長い沈黙が流れた。
クズオはゆっくりと天井を見上げた。
「……そこまで対策してあるのかよ」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。
ロリーナは、とうとう吹き出した。
「ぷっ……あはははは!」
「笑うな!」
「だ、だって……! あなた、さっきまで何でもできるみたいな顔してたじゃない!」
「うるさい!」
「それで、魔法にまで怒られてるの? 『規定違反です』って! あははっ!」
「このっ……!」
クズオは拳を握り締めた。
目の前の小娘を怒鳴りつけたい。何か命令して、二度と笑えないようにしてやりたい。
だが、先ほどの警告が脳裏に焼き付いていた。
認証資格の停止。
もし隷属魔法そのものを使えなくなれば、ロリーナを支配するどころか、彼女を連れている正当性まで危うくなる。
クズオは、自分の欲望のために魔法認証を失うほどの覚悟など持ち合わせていなかった。
彼はしばらく歯ぎしりを続けたあと、無理やり笑顔を作った。
「……ふん。今日は、ここまでにしておいてやる」
「へえ。神様に叱られたから?」
「違う!」
「じゃあ、何?」
「俺が寛大だからだ!」
「はいはい。寛大で素晴らしいご主人様ですね」
ロリーナは、わざとらしく頭を下げた。
その仕草には、以前の彼女が持っていた高慢さが戻っていた。
クズオは再び怒鳴りかけたが、言葉を飲み込んだ。
この小娘は、まだ折れていない。
それが、どうしようもなく腹立たしかった。
「……部屋から出るな。食事はあとで持ってこさせる」
「命令?」
「そうだ!」
「それなら、契約魔法が認める範囲でお願いね、ご主人様」
「ロリーナァァァッ!」
怒声が屋敷に響き渡った。
しかし、ロリーナはもう笑っていなかった。
クズオが部屋を出て、扉に鍵を掛ける音を聞き届けると、彼女はそっと手首の契約紋を見つめた。
自由は奪われている。
屋敷から逃げ出すことも、今すぐ父のもとへ戻ることもできない。
それでも、分かったことがある。
この契約魔法には、制約がある。
クズオの命令がすべて絶対というわけではない。
そして、彼自身は、その制約を完全には理解していない。
「……なるほどね」
ロリーナは、小さくつぶやいた。
「力ずくで逆らえないなら、規則の隙間を探せばいいんだ」
彼女は、契約紋を指先でなぞった。
「待ってなさいよ、クズオ」
ロリーナは、静かに顔を上げた。
「あなたの契約、いつか絶対にひっくり返してやるんだから」
その頃、廊下の向こうでは。
「くそっ……! M072って何だよ! もっと簡単に解除できる規定にしろよ!」
クズオが、誰もいない壁に向かって文句を言っていた。
天照大法院の倫理規定は、彼の不満など聞く耳も持たない。
ただ、次の命令が規定に適合するかどうかを、淡々と判定し続けていた。




