クズオ・キモオジの復讐
メスガキ家が没落してから、数日が過ぎた。
かつて王都でも指折りの名家として知られた屋敷は、すでに債権者の管理下に置かれていた。
庭園は荒れ始め、玄関の装飾品は取り外され、廊下からは使用人たちの姿が消えていた。
残された家族も、もはや以前と同じ暮らしを送ることはできなかった。
そして、その日。
ロリーナ・メスガキは、自分の人生が完全に変わってしまったことを知らされる。
◇
「……マナレベル、ゼロ?」
突如、彼女の脳内に響く無機質な音声。
それは、メスガキ家が長年にわたって見下してきた人々と同じ階級だった。
「そんなはずないわ」
彼女は自身に解析魔法をかける。
「再判定を要求するわ。何かの間違いよ。わたしが誰だか分かっているの?」
再び脳内に無機質な音声が響く。
『再判定の申請を受け付けました』
『審査結果が確定するまで、現在のマナレベルに基づく措置が適用されます』
「だから、その判定が間違っていると言っているのよ!」
ロリーナは机を叩いた。
彼女は唇を噛んだ。
母の事業が失敗し、メスガキ家の魔力が差し押さえられた。
母は隔離居住地域へ移送され、父のハルトも魔力の大半を失った。
兄のライルは王都の騎士団に所属しているが、今すぐ助けに来られる状況ではない。
それでも、ロリーナは自分だけは大丈夫だと思っていた。
自分には、メスガキ家の娘としての誇りがある。
母から受け継いだ知識もある。
たとえ家が没落しても、自分まで価値を失うわけではない。
そう信じていた。
だが、この世界は、彼女の考えを認めなかった。
「……ふざけないで」
ロリーナは、手が震えていた。
母が他人に告げてきた言葉が、頭の中によみがえる。
社会の役に立たない無能。
自分たちは、そんな人間ではない。
そんな人間であってはならない。
そう思うほど、胸の奥が苦しくなった。
◇
その日の午後。
屋敷の門前に、一台の馬車が止まった。
馬車から降りてきたのは、クズオ・キモオジだった。
肥えた身体を窮屈そうな上等の服に押し込み、顔には不気味な笑みを浮かべている。
彼は屋敷を見上げた。
「へえ……」
以前は、ここを訪れるたびに腹立たしさを覚えたものだった。
豪華な門構え。
磨き上げられた石畳。
使用人たちの丁重な出迎え。
そして、いつも自分を見下してきたメスガキ家の人間たち。
特に、ミオナとロリーナ。
彼女たちは、クズオがどれほど大きな夢を語っても、まともに取り合おうとしなかった。
あの笑顔。
あの目つき。
あの、こちらを取るに足らない存在だと決めつける態度。
何度も何度も、彼の自尊心を傷つけてきた。
だが、今は違う。
メスガキ家は没落した。
ミオナは隔離居住地域へ送られ、ロリーナはマナレベル0に転落した。
もう、彼女たちに自分を見下す資格はない。
「……やっとだ」
クズオは笑った。
「やっと、俺の番が来たんだ」
彼は門へ向かって歩き出した。
◇
「お引き取りください」
屋敷の玄関で、ハルトがクズオの前に立ちはだかった。
「ここは、あなたが来るような場所ではない」
「おやおや。これはこれは、ハルト殿」
クズオは、わざとらしく頭を下げた。
「お久しぶりです。ずいぶんとお疲れのようですねえ」
「用件を言え」
「用件? 決まっているでしょう」
クズオは、屋敷の奥へ視線を向けた。
「ロリーナに会いに来たんですよ」
「娘には会わせない」
「おや? どうしてです?」
「帰れと言っている」
ハルトは一歩も動かなかった。
クズオは、しばらく彼の顔を眺めていた。
やがて、口元を歪める。
「……なるほど。まだ、自分がメスガキ家の当主であるつもりですか?」
「私は、あの子の父親だ」
「父親?」
クズオは吹き出した。
「ははっ! それが何だというんです?」
彼は、ハルトの胸元を指さした。
「あなたは、もう何も持っていない。魔力も、屋敷も、権力も。そんな人間に、いったい何ができるんです?」
「……」
「以前は、ずいぶん偉そうにしていましたねえ。メスガキ家の人間だというだけで、俺たちを見下していた」
「私は、お前を見下した覚えはない」
「嘘をつくな!」
クズオの声が、玄関に響いた。
「お前たちは、いつも俺たちを笑っていた! 俺の父を笑い、俺の家を笑い、俺のことを笑っていた!」
ハルトは、黙って彼を見つめていた。
「だが、今は違う!」
クズオは両腕を広げた。
「見てくださいよ、この有様を! あれほど偉そうだったメスガキ家が、今ではマナレベル0だ! 社会の役に立たない無能だ!」
ハルトの表情が険しくなった。
「……その言葉を、娘の前で口にするな」
「娘?」
クズオは、にたりと笑った。
「ええ。だからこそ、来たんですよ」
彼は、懐から一枚の書類を取り出した。
「ロリーナ・メスガキ。マナレベル0。現在、生活維持基準の再審査中。保護者による生活維持能力の証明が必要……」
書類をひらひらと振る。
「そして、こちらが俺の申請書です」
「何の申請だ」
「マナレベル0対象者の引き受けですよ」
ハルトは目を見開いた。
「……何だと?」
「俺がロリーナを引き取る。生活に必要な魔力も、住居も、全部用意してあげるんです」
「ふざけるな!」
ハルトが怒鳴った。
「お前が、あの子をどうするつもりなのか分かっている! ロリーナは物じゃない!」
「物じゃない?」
クズオは首を傾げた。
「では、聞きますがね。あなたに、あの子を養う力があるんですか?」
「……!」
「魔力は残っているんですか? 生活できる住居は? マナレベル0の人間が受ける制限を解除する手段は?」
クズオは一つずつ、指を折った。
「何もないでしょう?」
ハルトは言い返せなかった。
それが、クズオをさらに喜ばせた。
「そういうことですよ。俺なら、ロリーナを引き受けられる。あなたにはできない。なら、どちらが彼女にとって有益な人間か、答えは明らかでしょう?」
「……お前に、あの子は渡さん」
「では、どうするんです?」
クズオは、笑みを深めた。
「力ずくで止めますか?」
◇
「お父様?」
廊下の奥から、ロリーナが姿を現した。
騒ぎを聞きつけて、様子を見に来たのだ。
彼女はクズオを見るなり、露骨に顔をしかめた。
「……何しに来たのよ、キモオジ」
その声には、以前と変わらぬ棘があった。
クズオの顔がぴくりと動いた。
だが、すぐに笑顔を取り戻す。
「おやおや。久しぶりですねえ、ロリーナお嬢様」
「誰がお嬢様よ。帰ってちょうだい。今のメスガキ家には、あなたの相手をしている暇なんてないの」
「相変わらず、口だけは達者ですねえ」
「あなたに褒められても、ちっともうれしくないわ」
ロリーナは父の隣に立った。
「お父様、この人を追い返して」
「ああ。分かっている」
ハルトは娘を背にかばった。
「クズオ。最後に言う。帰れ」
クズオは、二人を交互に見た。
そして、ため息をついた。
「……残念ですねえ」
彼は書類をしまった。
「せっかく、穏便に済ませようと思ったのに」
「何をするつもりだ?」
「簡単なことですよ」
クズオの身体から、魔力が立ち上った。
「あなたには、少しの間、黙っていてもらうだけです」
「お父様、下がって!」
ロリーナが叫んだ。
だが、遅かった。
「支配魔法――《縛鎖》!」
クズオの声とともに、空間が歪んだ。
目に見えない力が、ハルトの身体を包み込む。
「ぐっ……!」
ハルトの足が床に縫い止められた。
腕を動かそうとしても、指一本すら動かせない。
「な……何だ、これは……!」
「動かないでしょう?」
クズオは、楽しそうに笑った。
「支配魔法です。相手の身体を一時的に拘束する、便利な魔法でしてね。マナレベルが低い相手には、特によく効くんですよ」
「卑怯者……!」
ハルトは歯を食いしばった。
「卑怯? 何を言っているんです?」
クズオは、肩をすくめた。
「使える魔法を使っただけですよ。あなたも、契約の大切さはご存じでしょう? この世界では、使える力を使い、得られる利益を得る。それだけの話です」
「ロリーナに手を出すな!」
「お父様!」
ロリーナが父のもとへ駆け寄ろうとした。
しかし、クズオがその前に立ちはだかった。
「さて、ロリーナお嬢様」
彼は、彼女を見下ろした。
「あなたには、俺と一緒に来てもらいます」
「嫌よ!」
「拒否権はありません」
「誰が、あんたなんかに!」
ロリーナは後ずさった。
その目には、怒りだけでなく、初めて見る恐怖が浮かんでいた。
彼女は、マナレベルが高いことの意味を知っている。
自分より高位の者が使う魔法は、低位の者には抵抗できないことがある。
それでも、今までは自分が支配される側になるなど、考えたこともなかった。
クズオは、ゆっくりと手を伸ばした。
「隷属魔法――《スレイブ》」
淡い光が、ロリーナの身体を包み込んだ。
「……っ!」
彼女は抵抗しようとした。
だが、マナレベル0にまで落ちた彼女の魔力では、魔法を打ち消すことができない。
光が手首に集まり、細い紋様となって刻まれていく。
それは、隷属契約が成立したことを示す印だった。
「これで、契約成立ですねえ」
クズオは、満足そうにうなずいた。
「な……何を、したの……?」
ロリーナの声が震えた。
「あなたを、俺の奴隷にしたんですよ」
「……嘘」
「嘘ではありません」
クズオは、彼女の手首を指さした。
「その印がある限り、あなたは俺の命令に逆らえない。少なくとも、今のあなたにはね」
「……っ!」
ロリーナは、印を見つめた。
信じたくなかった。
認めたくなかった。
自分が、誰かの所有物になったなど。
「お父様……!」
彼女は父を振り返った。
ハルトは、必死に身体を動かそうとしていた。
額に汗が浮かび、筋肉が震えている。
しかし、支配魔法は解除されなかった。
「ロリーナ……逃げろ……!」
「お父様!」
「クズオ……! 頼む、あの子だけは……!」
ハルトは、声を絞り出した。
「俺をどうしたっていい! 屋敷を奪いたければ奪え! だが、ロリーナは関係ないだろう!」
クズオは、しばらくハルトを眺めていた。
そして、笑った。
「関係ない?」
彼は、ロリーナの肩に手を置いた。
「この娘こそが、俺の目的なんですよ」
「……!」
「あなたたちが、俺をどれほど笑ってきたか。俺が、どれほど屈辱を味わってきたか。分かりますか?」
クズオは、ハルトに顔を近づけた。
「俺は、ずっと待っていたんです。この日が来るのを」
その目には、長年積み重ねてきた怨念が宿っていた。
「お前たちが、俺を見下せなくなる日を」
ハルトは、歯を食いしばった。
「……それで、気が済むのか」
「ええ?」
「娘を奴隷にして、何が変わる? お前が受けた屈辱が、それで消えるのか!」
クズオの笑顔が消えた。
一瞬、何かを言い返そうとしたようだった。
しかし、すぐにいつもの笑みに戻った。
「……負け惜しみは、そのくらいにしてくださいよ」
彼はロリーナの腕をつかんだ。
「行きますよ、ロリーナ」
「離して!」
「ご主人様に対する口の利き方ではありませんねえ」
「誰がご主人様よ!」
「そのうち、分かりますよ」
クズオは、ロリーナを引き寄せた。
彼女は必死に抵抗したが、隷属魔法の紋様が淡く光ると、身体から力が抜けた。
「……いや……」
ロリーナの声が小さくなった。
「嫌よ……お父様……」
ハルトは、全身の力を振り絞った。
だが、支配魔法はびくともしない。
「ロリーナァッ!」
父親の叫びが、屋敷に響いた。
ロリーナは振り返った。
父の顔が見えた。
助けようと必死になっているのに、何もできない父の姿が。
彼女は、唇を震わせた。
いつも自分を守ってくれた父。
母のように厳しくはなく、兄のように頼もしいわけでもない。
それでも、彼女にとっては大切な家族だった。
「お父様……!」
クズオが、彼女の腕を引いた。
「さあ、行きましょう」
ロリーナの身体が、玄関へ向かって動き出す。
彼女は抵抗しようとした。
けれど、足が思うように動かなかった。
隷属魔法が、彼女の行動を制限していた。
「いや……! 離して……!」
クズオは答えなかった。
ただ、勝ち誇った笑みを浮かべていた。
◇
玄関の扉が閉じる。
馬車の扉が開き、ロリーナは中へと連れていかれた。
「……お父様……!」
彼女の声は、最後までハルトの耳に届いていた。
馬車が動き出す。
車輪の音が、石畳の上を遠ざかっていく。
ハルトは、まだ動けなかった。
支配魔法が解除されたのは、馬車が門を出てから、しばらくたった後だった。
自由になった腕が、床に落ちた。
ハルトはその場に膝をついた。
自分には、何もない。
魔力も、権力も、娘を守るための力も。
そして今、最後に残っていた家族まで奪われた。
ハルトは、誰もいなくなった玄関でつぶやいた。
「ロリーナ……すまない……」
返事はなかった。
ただ、静まり返った屋敷の中に、彼の声だけが響いていた。
◇
馬車の中。
クズオは、向かいに座るロリーナを眺めていた。
彼女は窓際に身を寄せ、手首に刻まれた紋様を見つめている。
「……覚えておきなさいよ」
ロリーナが、低い声で言った。
「絶対に許さない。必ず、あんたを後悔させてやる」
クズオはしばらく黙っていた。
やがて口元を歪めた。
「いいですねえ。その目ですよ」
「……何ですって?」
「あなたが俺を見下していたときと同じ目だ」
クズオは、楽しそうに笑った。
「ですが、今は立場が違う」
彼は、自分の手首を指で叩いた。
「あなたは俺の奴隷。俺はあなたの主人。もう、あなたが俺を見下すことはできないんですよ」
ロリーナは、彼を睨みつけた。
「……あんた、最低ね」
「ええ。そうかもしれません」
クズオは、少しも気にしていなかった。
「ですが、最低の人間に負けたのは、あなたですよ」
馬車は、王都の街並みを抜けていく。
ロリーナが生まれ育った世界が、窓の外を遠ざかっていった。
彼女は、もう一度、手首の紋様を見た。
そこには、逃れられない支配の印が刻まれていた。
だが、彼女の青い瞳から、光は消えていなかった。
必ず、抜け道を見つける。
必ず、自由を取り戻す。
そして、必ず――。
この男に、報いを受けさせる。
ロリーナは、心の中で誓った。
馬車の向かい側で、クズオが笑っていた。




